環状隘路







学校から帰宅すると、既に黒尾さんは仕事を終え、居間で寛いでいた。

只今帰りました…と挨拶すると、
おぅ、お帰り…お疲れさん!と労いの言葉。
ごく当たり前な『定型文』のやり取り…
それでも、未だに少々くすぐったい気分になる。

夕方の残暑と、頬の火照りを静めようと、冷蔵庫から麦茶を出す。
黒尾さんもいかがですか?…と視線を送ると、
冷凍庫にアイスあるから、よかったら食えよ…という、嬉しい応え。
早速冷凍庫を確認すると、2本セットの吸飲系アイスが、1本残っていた。

もともと『そういう構造』だとわかっていつつも、
『半分こ』に…またちょっと、頬が緩んでしまった。


いるかどうかの返答はなかったが、2個のグラスに麦茶を入れ、座卓に置いた。
その座卓の上には、見慣れない小箱があり、
黒尾さんはその中身を真剣な表情で見ていた。

「それ…何ですか?」
小さな銀色の金属らしきものが、整然と並んでいる。
多分、大きさを示す数字の下に、細い棒…?

黒尾さんがその内の一つを引き抜くと、棒ではなく環状のものが現れた。

「もしかして、指環…ですか?」

何となく、声が上擦ってしまった。
きっとアイスが冷たかったせい…ということにして、
いつも通りの冷静さで尋ねた。


「あぁ。そろそろ買っとこうかな、と思ったのはいいんだけど…」

今まで指環なんかしたことねぇし、サイズとか全然わかんねぇだろ?
店頭で選ぶのも、アウェー感がハンパねぇし…

「とりあえずネットで、サイズのサンプルを送ってもらったんだ。」

サンプルと共に送られてきたカタログ。
アクセサリーには全く興味のない『超体育会系』だが、
シンプルながらも、センスのあるデザインのものが多く…意外と悪くない。

「これなんて、黒尾さんに似合いそうですよ?
   緩やかなカーブ…ひねくれ具合が特に。」
「わざわざ言い直すなよ…
   でも確かに、この繊細な『一捻り』は…なかなか面白いな。」



…じゃあ、コレにするか。

アッサリと決定してしまった黒尾さんに、俺は慌てて待ったをかけた。

「そんな簡単に決めていいんですか?それに…
   そもそも何で、ゆっ、指環なんか…」

俺の『もっともな質問』に、黒尾さんは苦笑いと共に説明を始めた。


「スーツや眼鏡と同じ、商売道具…だな。」

法律家にとって、『きちんとした身なり』は、信頼性を表す一面がある。
この『身なり』の中には、『ある程度の経験を持っている雰囲気』も含まれる。

「『先生』と呼ばれる職業にとって、『若さ』はむしろ、ハンデなんだよな。」
「確かに、こんな若造に相談して大丈夫か…?って、
   不安に思われるかもしれませんね。」

不安感を抱かれるのは、まだいい方だ。
中には、馬鹿にしてんのか!?と、激怒する人もいたりする。
…小柄で童顔など、致命傷になりかねないのだ。

「特に俺の扱う離婚の場合、
   『結婚したこともない奴に、夫婦間の問題なんかわかるのか!?』って…
   ま、仰る通りなんだけどな。」

「なるほど…だから、指環をすることで、『既婚者』と思わせ、
   それなりの人生経験があると…誤認させるんですね。」

騙すつもりはねぇが…ちょっとした『知恵』だな。


実に賢い知恵だろう。
指環という『道具』ひとつで、無駄な揉め事や懸案材料がなくなるのだ。

「無駄な揉め事回避…実はそれ、すっげぇ重要なんだ。」

黒尾は真剣な表情で、指環を触りながら説明を始めた。


「前に、『不安定なときによろめく危険が高い』って話…しただろ?」

精神的に弱っている時に、魅力的に見える誘惑があると、
人はいとも簡単に、『深み』に堕ちてしまうことがある。
夫婦間に問題がある場合等には、それが『不倫』というカタチで現れたりする。

「法律家に頼るって状況は、いわば『どん詰まり』だ。」
「そんな時に、親身になって話を聞いてくれ、力になってくれる…
   法律家が『頼もしく』て、非常に『魅力的』に見えるかもしれませんね。」

こっちは『職務』なんだが…話はそう簡単じゃねぇからな。
黒尾はそう嘆息すると、天を仰いで言った。

「『職務』とスッパリ線引きしすぎると、親身に依頼者に寄り添う…
   『人間味のある』相談ができなくなる。」
「かと言って、線引きできないと…こちらまで引き摺られるおそれがある、と。」

こちらも感情のある『人間』なのだ。
依頼人の置かれた状況に、心から涙することもあれば、
相手方に怒りを抑えきれないこともある。

「依頼人に寄り添いすぎて、それらに引き摺られ続けたら…
   今度はこっちの精神が持たねぇんだよな。」

だから、どうしても感情的に引き摺られやすい、
『身内』や『近しい人間』の案件は、できるだけ扱わないようにしている。

「きっとこれ、医療関係者も同じだと思うんだ。」
「医者も法律家も、人の『辛い・苦しい』を解決する仕事…ですよね。」

群れを成す『社会的動物』であるがゆえに、
人間は『辛い・苦しい』といった感情に、引き付けられやすい。
だからこそ、『公(仕事)』と『私(自分)』の区別をきっちりとつけなければ、
相談される側にとって、非常に『危険』な仕事となってしまうのだ。

「この俺でさえ、『絶対に結婚だけは御免だ!』って…
   ハタチそこそこで悟っちまってたしな。」

ま…今はそうとも言い切れねぇけどな?

黒尾の呟きを、赤葦はあえて無視し、話を続けた。


「成程…そういう『危険』を事前に防止するという意味でも、
   『指環』は役に立つ…ということですね?」

「あぁ。これをしとけば、『俺は誰かのモンです!』っていう印になる。
   たったこれだけで、揉め事の抑止力になるなら…安いもんだろ?」

結婚指環って…すげぇ『利用価値』が高い装備品だよ。
もしかしたら、『防御力』はトップクラスかもな。


黒尾は笑いながらサンプルを指に嵌め、頭上に翳して眺めた。

「勿論、『自分のトコ』…自分自身と家庭が安定してて、
   多少の誘惑には揺らがねぇ…ってのが、一番大事なんだがな。」

意味ありげな黒尾の視線を赤葦は再び無視し、
こちらも『意味深な視線』で黒尾に問い掛けた。

「今まで黒尾さん…職務中に『ヤバいな』って思ったこと…おありですか?」

「それはないが…『絶対にこの人の案件はやらねえ』って、
   強く『自制』してる人はいるな。」

もしその人に引き摺られたら…俺は多分、『堕ちる』だろうからな。


赤葦は、本当に軽い気持ちで…冗談半分に訊いただけだった。
それなのに、『堕ちそうなヤバい人がいる』と…黒尾はきっぱり断言した。

アイスは食べ終わったはずなのに、体の奥がキンキンに冷えた。
自分で訊いておきながら…なんたる大失態だ。


赤葦が黙っていると、黒尾は真面目腐った顔で…
だが、妙に明るい声で、楽しそうに言い始めた。


「俺の好みドンピシャで、しかも溢れんばかりの色気の人妻…
   万が一その人と結ばれたら、『1コ歳下』の義理の息子ができるとしても、
   俺は…マジで悩むかもしんねぇな。」

だけど、その息子…絶対に俺を『お父さん』と呼んでくれそうにねぇんだ。
とんでもなく厄介で狡猾な『はねっ返り』だからな。
そいつと『親子関係』を構築する自信が、俺にはこれっぽっちも…ない。

まぁ、一番の問題は…その『息子』の方がより『俺好み』で、
現在『親子』以外のカンケーを築いてる真っ最中ってことだろうな。

「…試しに呼んでみるか?」

ニヤニヤと笑いながら、両手広げる黒尾。


赤葦はその手を…ギュと握り締め、
『その人』譲りの色気たっぷりな表情で魅せた。

「もしそうなったら…『パパ♪』とお呼びしますね。」


「…そうならねぇようにしようと、俺は今…決意を新たにしたとこだ。」
「それはよかったです。
   これから『成長』が期待できる…『息子』の方で我慢して下さい。」

あの人…ウチの母も、『息子の幸せ』の方が嬉しいでしょうしね。
赤葦はホッとしたような表情で微笑み、黒尾のグラスに麦茶を注ぎ入れた。




***************





「ところで黒尾さん。
   この指環…『単品』では購入不可のようですよ。」
「そうなのか?…って、普通はそうだよな。」


黒尾が取り寄せたのは、『婚約』指環ではなく、
『結婚』指環のサンプルとパンフレット…『セット』注文が普通である。

二つもいらねぇし…どうしたもんかな。
首を捻り、困り顔で唸る黒尾…

やや緊張気味に赤葦が黙っていると、
「あ、そうだ!」と、黒尾はポンと手を叩いた。

「片方…山口にやればいいか。」

あいつは俺の補助者…仕事上の『危険』は同じだしな。
山口も既婚者のフリしといた方が、何かと都合が良い…

「そうと決まれば、早速『下』に行って、サイズ決めてくるか…」

まさに名案!善は急げ!
…とばかりに立ち上がる黒尾の肩を赤葦はグッと掴み、
本日二度目の『待った!』をかけた。


「ちょっ、ちょっと黒尾さん…まさかとは思いますが、
   本気じゃないですよね…?」
「いや…すげぇ合理的な案だと思うんだが…」

一つ無駄にもなんねぇし、結婚指環の利益は多い…って、さっき考察しただろ?
山口は優しい奴だし、強引に来られたら断れねぇかもしんねぇ…
アイツらんとこに『余計な揉め事』が起こったら、やっぱ可哀想だし、
それ以前に…上司の俺が、ツッキーに怒られてしまう。

これらを一気に解決できるんだ。一石五鳥ぐらい…コスパも最高だ。
これなら、ツッキーも納得して…『経費』で落としてくれるかもな。

…と、自分の思い付いた『策』を、満足気に語る黒尾。
この顔は…間違いなく『本気』だ。

赤葦は遠くなりそうな意識を何とか留め、厳しい目で黒尾に向き直った。


「これは100%自信がありますが…月島君は絶対に『経費』とは認めないでしょう。」
「スーツも靴も、全部経費で落としてくれたぜ?」

これだって…同じじゃねぇか。
税務処理って…ホントにわかんねぇよな。


    わかんねぇのは、あなたのアタマの方です!


…という絶叫を飲み込み、赤葦は努めて冷静に解説した。

「もし今の話を月島君に提案したら、確実に激怒しますよ。
   山口君でさえ、『黒尾さん…人デナシ。』と…冷た~い目をするでしょう。」
「何かそのセリフ…前にも言われた気がするんだが。」

ちなみにですが…
赤葦は『全くの他人事』のように、さらなる例示を出した。

「黒尾さんが大~好きな、色っぽい人妻…あの人にもし言ったとしたら…」
「ど…どうなる…?」

「気が付いた時には、病院の天井が見えてるかもしれませんね。」
あの人、意外とロマンチストで、見た目以上に激情家なんです。
大人しそうに見えて、火がつくと一瞬で…『ドンッ』…です。
病院の天井ならまだマシな方…『お花畑』の可能性も捨て切れません。

「…息子、ソックリだな。」
「えぇ…よく言われます。」

黒尾は、かつて本気で赤葦を怒らせた時のことを思い出し…
無意識のうちに後頭部を押さえていた。


赤葦は母親激似の『妖艶な微笑み』を顔に貼り付けたまま、
黒尾に『本日の業務』等について、テキパキと指示した。

「指環が一つ余るのはやはり勿体無いので…それは俺が頂きます。
   俺も黒尾さんと『同じ仕事』をしてますから…利用価値は同じです。」
「確かに…赤葦も一緒に依頼主と面談することが多々あるな。」

えぇ。俺も『指環の有効利用』…使わない手はないですからね。

「そういうわけですから、黒尾さんはまず洗濯物を取り込み、
   ご飯を仕込んでから…風呂掃除をお願いします。
   晩御飯の後にでも、ゆっくり…一緒に指環を選びましょう。」
「あぁ、わかった。味噌汁は…豆腐とわかめでいいか?」

ぜひそれでお願いします。小口葱は…冷凍庫にありますから。
赤葦は頷きながら立ち上がると、財布をポケットに入れた。

「俺はこれから、月島君とスーパーに行ってきます。
   …今日は16時から、玉子が98円なんです。」


カウンターから『お買い物メモ』を破り取り、玄関に向かう。
黒尾もわざわざ立上り、見送りに出てくれた。


「さっき帰ってきたばっかりなのに…悪いな。」

優しい労りの声。
こんな気配りができる優しい人が、どうして…

玄関先で、暫しの別れを惜しむかのようなキス。
いつもはその温もりと柔らかさに、熱い何かが込み上げてくるのだが、
今日は別の何かで息が止まりそうになり…赤葦はグっとそれを抑え込んだ。


「行ってきます…」

おぅ、気を付けてな。

…という黒尾の言葉を聞く前に、
赤葦は玄関から飛び出し、階段を駆け降りた。





***************





「あ、赤葦さん、お疲れさまです…ってうわぁっ!!?」
「どっ、どうしたっ…えっ!!?」


赤葦さんと『夕方のお買い物』に行ってくる…
そう言う月島に「いってらっしゃい~」と、山口が玄関扉を開けていると、
上階からバタバタと階段を駆け降りてくる音…

ちょうどいいタイミングで赤葦さんが来たよ~と視線を送り、
挨拶しようと振り向いたところ…いきなり猛烈な勢いで抱擁された。

…抱擁というよりは、アメフトのタックルだ。
山口はそれをまともに喰らい、赤葦を抱えたまま玄関に倒れ込み…
傍にいた月島は、咄嗟に受け止めようとしたものの、
あまりの勢いと、180超の大男二人を支えられるはずもなく、
そのまま三人一緒に、玄関にダイブした。


「痛っ…つ、ツッキー大丈夫!?赤葦さんも…」
「僕は…な、なんとか、大丈夫…かな。」

月島は何とか二人の下から這い出し、山口も起き上がろうとしたのだが、
飛び込んできた赤葦は、山口の腰にしがみ付いたまま、離れようとしない。

「赤葦さん…?」
「…?」

いつもと全然違う…様子のおかしい赤葦に、
月島と山口は突撃された衝撃を忘れ、困惑顔を見合わせた。

月島は静かに玄関を閉め、赤葦の靴を脱がせた。
山口は赤葦を抱きながら立たせ、頭を優しく撫でた。

「とりあえず…こっち行きましょう?」



リビングに向かい、壁を背にしてラグに座ると、
赤葦はラグに這うような体勢で、再び山口の腰付近にしがみ付いた。

山口は頭を、隣に座った月島がその背をゆっくり撫で続けていると、
ようやく赤葦は大きく深呼吸をし…ホールドする力を緩めた。
それを確認してから、撫でる手をそのままに、二人は静かに問い掛けた。

「一体どうしたんですか…?」
「あの人…一体ナニやらかしたんです?」

赤葦がこんな状態になった元凶は…『同居人』しか考えられない。
月島の『断定』に、赤葦は山口の腰に頭を埋めたまま、静かに口を開いた。

「先程、上で…」




「…ということがあったんです。」

さすがの俺も、ちょっと抑えが効かなくなってしまって…
タックルかましてしまい、山口君達には大変申し訳なかったです。

…こうして誰かにぶちまけたおかげで、俺も大分落ち着きました。
重ね重ね、お二人にはご迷惑を…

腹の中に溜めたものを吐き出した赤葦は、すっかり落ち着きを取り戻し、
突撃を詫びながら起き上がろうとしたのだが…
今度は山口と月島双方から、ガッチリ抱擁されてしまった。


「ホンットーにっ、あの『人デナシ』は…っ!!」
「この僕でさえ…その場にいたら、ぶん殴ってるとこですよっ!!」

何すっかり落ち着いちゃってるんですか!
赤葦さん…ここはもっと、激怒してもいいとこです。

本人の代わりに怒りを迸らせる、山口と月島。
キョトンとした顔をした『本人』の手を引き、ダイニングの椅子に座らせると、
二人は大マジな顔で宣言した。

「赤葦さん…今日の『玉子』は、諦めましょう。」
「その代わりに…『黒尾鉄朗に関する考察』です!」

は、はぁ…。
二人の勢いに圧され、赤葦は呆然と頷いて了承した。


ダイニングテーブルを三人で囲む。
冷静さを取り戻すため、あえてホットコーヒーを入れた山口は、
チョコレートがコーティングされたナッツの缶を開けた。

「『考察』の第一声としてコレはどうかとは思うんですが、
   この『はぁっ!?』という、怒りと呆れミックスな感想を抱くの…」
「ものすごい…デジャブるよね。
   しかも、割と最近…同居開始直前に、似たようなこと…あったよね。」

甘い甘いチョコを、苦々しげにバリバリと噛み砕きながら、
月島と山口は、たった一月半程前の『五輪騒動』を思い出していた。

同居生活を認めるかわりに、月島・山口両家の親達が出した条件は…
『黒尾・赤葦が証人欄に署名した婚姻届』の提出だった。
勿論、役所に出すわけではなく、二人の覚悟を示す『けじめ』として、
親達に対して提出を求められたものだ。

元々の騒動が全て片付き、後はこの署名だけ…
二人は「あと一息だね~」と、安心しきって黒尾・赤葦の宿泊先に向かったのだが、
予想に反し、そこには意気消沈した黒尾だけ…赤葦は姿を消していた。

騒動の流れ…当然の帰結として、黒尾と赤葦も上手いコトいって、
自分達と同じように同居し、4人で開業するものだと、全く疑っていなかった。
それなのに、赤葦は黒尾の申し出を断り、単身帰京…

そこで詳しい『コトの経緯』を黒尾から聞いた月島達だったが、
その時に抱いた『感想』が、今回とほとんど同じ『はぁっ!?』だったのだ。


「あの状況で『2年後まで待て』と言われた…
   赤葦さんの絶望を考えると、今でも俺は泣きそうなんですけど。」
「散々山口を待たせた僕が言うのもアレですけど…
   『この人、ナニ言って…っ!?』って、自分の耳を疑ったぐらいでした。」

「そう言って頂けて…俺は今、ちょっと胸がスっとしました。」

勢い余って帰京してしまって…『狭量』だったかな?と、反省してたんです。
お二人にも迷惑を掛けてしまったし…

「いえ、赤葦さんは全然悪くないですよ!」
「よくその後、黒尾さんのことを赦したなぁと…感心しきりです。」

愛しさ余って憎さ百倍…僕だったら、全ての感情が殺意に置き換わってます。
『思い出し激怒』する月島達に、赤葦は苦笑いして答えた。

「あの人…『誠意』だけは有り余る程持ってますからね。」
心から誠実に謝罪されてしまうと…さすがの俺も、『赦す』以外の道がありませんよ。


「俺…そこがすごい不思議というか、納得いかないんですよ。」

山口は『お口直し』の塩煎餅を頬張りながら、首を傾げた。

「黒尾さんって、物凄く気配りができて、周りを良く見てて…
   惜しみなく手を差し伸べてくれる、本当に優しい人じゃないですか?」

悪く言えば『腹黒策士』だが、良く言えば『深謀遠慮』…
冗談抜きで、理想的な『王子様』である。
責任感も強く、誰もが頼ってしまう…そんな大器を持つ男なのに。

「何でその黒尾さんに限って…こんなに『鈍感』なんだろうって。」

誰かが困っていたりすると、本人がそのサインを出す前に、
率先して手助けし、一言掛けてくれるような…他人の心の機微に敏い『主将』だ。
その黒尾が何故、最も『身近な存在』のことに関し、ここまで鈍感なのか…?
山口はそれが、不思議でしょうがなかった。


月島はチョコの付いた指を舐めながら、虚空に『鈍い』と書いた。

「この『鈍い』…どう読む?」

「え?それは勿論…『鈍(にぶ)い』、かな?」
「同じ字を書いて…『鈍(のろ)い』、とも読みますね。」
「そしてもう一つ…『鈍(おぞ)い』、というのもあります。」

『にぶい』は、刃物の切れ味が悪い、動きが機敏ではない、感覚が鋭敏でない、
反応が遅いことを表す。
『のろい』は、動作や頭の働きが悪い・遅い、色事に溺れやすいこと。
『おぞい』は、頭の働きが遅い、気が利かない、愚かだという意味である。


「どれも似たような意味だけど…ちょっとニュアンスの違いある?」
「読み方の違いから、『何に対して』『どう鈍感なのか』が区別されますね。」

つまり、『鈍感な人』というのは、次の3つに分類されるのではないだろうか。

    ・感覚の鈍い人
    ・感情の鈍い人
    ・頭の回転が鈍い人


「黒尾さんには、3つ目の『頭の回転が鈍い人』は当てはまらないでしょう。」
「味覚や触覚、運動神経等の感覚器も…むしろ機敏ですよね。」
「だとすると、残るは『感情が鈍い人』ですけど…
   それだって、実に鋭敏で…『頼れる主将』でしたよね?」

黒尾が『鈍感』なのは間違いないのだが、
この3つの分類には、単純には当てはまらないようだ。

その理由は、さほど深く考えることもなく…3人同時に理解できた。

「『何に対して』鈍感なのか…その対象が、限定的なんだ!」
「感情が鈍い人…その感情の対象は…『自分自身』ですね。」
「あの人は、自分及び自分と同一化できる程近しい人間の感情に対してのみ、
   恐ろしいぐらい『鈍感』…ということですね。」


ぬるくなったコーヒーを飲み干し、今度は3人同時にため息を付いた。

「黒尾さんが、自分の感情に鈍感になってしまった理由…」
「何となく、わかるかもしれない…」

自分自身の感情に対し、鈍感になってしまうのは、どんな時だろうか。
いや、言い換えれば…鈍感にならざるを得ないのは、どんなケースだろうか。

まず考えられるのは、『そこまで気が回らない』状況だ。

「誰もが頼ってしまう程の、『主将』の器を持つ男…」
「周囲の人のことを慮るのが忙しくて、自分まで手が回らない…」
「面倒見が良すぎる…『自分は二の次』なんですね。」

これは、自分に回す程の『器』がない、という言い方もできるが、
ハタチそこそこの若者に、そこまで要求するのは酷である。
それよりも、自らの感情を強引に封印してきた…というのが実態だ。

「そう言えば、夏合宿中にも…よく言ってましたよね?
   『役職付』の人間は、気を抜く間など存在しない…って。」

だからこそ、無理矢理でも『役職』から解放される時間として、
合宿中日に『強制休養日』が設けられ、指導者達の『息抜き』に充てられていた。
指導者達までとはいかずとも、主将や副主将等も、状況としては同じだ。

「性格と立場上、どうしても『参謀』から抜けられなかった俺のために…
   黒尾さんは、『酒屋談義』の場を設けてくれたんです。」

だが、『酒屋談義』の主催者の黒尾自身は…どうたっただろうか。
結局の所、集団生活でストレスを抱える月島や山口、そして赤葦に気を回し、
自分のことは…『更にその次』だったのではないのか?

「役職から解放された瞬間に、自分の欲を自覚してしまう…
   だから、『多忙』を口実にして、出て来ないようにする…」
「俺も『副主将』として割と多忙な方でしたが、黒尾さんはその比ではない…
   マネージャーさんのいなかった音駒では、そういったサブ業務の統括も、
   必然的に『主将の管轄』になっていたはずですから。」
「想像するだけで…ゾっとするような状況だよ…」

体育館裏で、『バーテンと常連客ごっこ』をした時のことを思い出す。
不可抗力とも言える『ドキドキ』や『ムラムラ』をいかにして抑えるか…
その際も黒尾は、部員達や月島・山口、そして赤葦のことを心配し、
『自分がどうするのか』については…結局答えなかった。


黒尾が鈍感になった理由…次に考えられるのは、
『自分を守るためにそうせざるを得ない』状況だった、というものだ。

「これについては…先程黒尾さん自身が仰ってました。」

他人の『辛い・苦しい』を受け止め続ける、サムライという仕事…
黒尾の適正には完璧に合う職種と言えるのだが、
黒尾だって人の子…そのメンタルには当然『限界』がある。

相談する依頼者の側からすると、黒尾ほど優しく、親身になってくれ…
まさに『王子様』のような『先生』は、最高の相談相手である。

だが、それを受け止める黒尾の方は…?

「優しいからこそ…その分、『引き摺られ』やすくなってしまう…」
「あの人は、自分を犠牲にすることに…慣れてしまってます。」
「だからこそ、無意識のうちに…いわば防衛本能で、
   自分の感情を封印し続け、鈍感になることで、自分を守っていた…」

他人を惹き付けてやまない『人タラシ』。
その実態は…人魚姫も驚く程の『自己犠牲』だったのだ。


導き出された推論…だが、かなり蓋然性の高い結論に、
3人は当初の怒りを忘れ、重い重い溜め息をついた。



「黒尾さんは…我慢しすぎです。」
「もっと、ワガママ言ってもいいのに…」
「本当にあの人は…不器用ですよね。」





***************





「黒尾さんが度を越して『自分』の感情に対して鈍感な理由は、
   以上の考察によって明らかになりましたね。ですが…」
「同情すべきトコは多々あるけど…
   その鈍感が許されるかどうかは、全く別の話だよ。」


月島は苦笑いしながらコーヒーを入れ直し、山口は赤葦にそれを手渡した。

「このままの状態が続けば…赤葦さんがツラい思いをしちゃいます。
   俺達でできる範囲内で、何か対策を練った方がいいと思います!」
「そうですか…それはありがたいですけど、具体的にはどうしたら…?」

せいぜい俺達ができることと言えば、
余計な『人タラシ』が発動しないように、傍で制御したり、
黒尾さんの鬱憤を晴らすお手伝いをする程度しか…ありませんよね。

深刻な表情で悩む赤葦に、月島と山口は互いにだけ伝わるよう、視線を交わした。


「『忙しいから』…というのは、実は全然言い訳にならないんですよね。
   まだ半分学生の僕達は、人生で一番『時間的余裕』のある時期なんですから。」
「黒尾さんはこれからもずっとずっと『忙しい人生』…個人事業主なんだから、
   もうそれは『確定』です。『忙しい』を口実にしちゃダメですよ。」

子どもだった高校時代であれば、『職務で忙しい』という言い訳は、まだ赦された。
だが、今後はオトナ…社会人として、さらに忙しくなっていく。
このままの状況で『自分』に鈍感で居続けるわけにはいかないのだ。

「上手く息抜きをして、心を休める場を設ける…
   自分の素直な感情と、現実との折り合いをどうつけるかが、最重要課題です。」
「きっと…それが『オトナになる』ということなんですね。」
「自分を抑え込み続けることなんて、不可能なんだもん。
   事実それで…大切な人を傷付けてしまってるし。」

これは、黒尾だけの話ではない。
子どもからオトナへの過渡期…自分達も、同じ課題を克服しなければならない。
仕事に慣れ、自立し、そして『自分』を大事にして、人生を歩んでいく素地を作る…
これが、『20代・30代』のテーマとも言えるのではないか。


「ウチの父が、この間言っていたコト…
   『一番身近な人を幸せにできないような奴は、他人の幸せなど導けない。』
   これの意味が、僕にもちょっとだけわかりました。」
「一番身近な人…まずは『自分』を幸せにしなきゃダメ、だよね。」


「まずは、『自分』を、大切に…?」

遠くを見つめるように呟く赤葦。
その背を山口はポンポンと叩き、ニッコリと笑った。

「まぁ、そういうわけですから…俺達は精一杯『息抜きの場』を作りましょうよ!」
「今晩はウチで一緒に、晩御飯しませんか?
   冷凍庫に買い置きがある…イカの『リング』フライなど、いかがですか?」
「それは最高の提案です。ご飯とおみそ汁は、黒尾さんが仕込んで下さってるので…
   俺は『リング』にちなんで、『時の環』という日本酒をお持ちしますね。」

少年から青年へ時を渡る…今日の俺達の考察にはピッタリですよ。
ただこのお酒、ただの少年じゃなくて…『美少年』なのがネックなんですけどね。

それでは、『上』に一度戻って、準備してきますね。


すっかり元気を取り戻した赤葦は、足取り軽やかに階段を駆け上がって行った。




「ねぇツッキー…」
「山口の言いたいこと…僕と同じだと思うよ。」

リビングに残った月島と山口は、ふぅ~~~とため息を付き、眉間に皺を寄せた。


「『自分』を抑えすぎて、自分の感情に鈍感な人…黒尾さんだけじゃないよね?」
「全く、どうしてあんなに『似た者同士』なんだろうね…」

多忙すぎて自分を抑え続け、つい最近まで自分の感情に気付けなかった…
いや、強引に『気付かないフリ』を続けていたのは、赤葦も全く同じだ。
今日だって、その場で激怒すればいいものを、グっと堪えて笑顔を貼り付け、
耐えきれなくなって…ココに突撃してきたんじゃないか。

「ココ…俺達っていう『吐き出し口』があっただけ、まだマシ…?」
「少しずつではあるけど、あの二人も変化してきてるんじゃない?」

ごく最近、ようやく互いの気持ち…自分の気持ちを知り、やっと結ばれた。
そしてその直後にゴタゴタに巻き込まれ、あれよあれよという間に…同居。
お互いのことを知るのも、自分のことを知るのも…始めたばかりなのだ。

自分と、自分の最も近しい人間…つまり赤葦の感情に関して、
黒尾が鈍感になってしまった理由には、もう一つあると思われる。
お互いに、自他ともに認める『腹黒』という点だ。

「似た者同士、腹の底を探り合い…バレてたまるかと、隠し合ってきた…」
「相手を騙し、自分を騙し…結果、両方とも読み切れなくなったんだね…」

まさに『策士策に溺れる』といった状態だろう。
敵を欺くにはまず味方から…その成れの果てが、『鈍感×2』である。
これが、やっと最近、『相互理解』を開始できた理由…でもあるのだ。


「僕達を『酒屋談義』に引き込んだ、夏合宿の頃…
   その時には、既にあの二人は『完成形』だと、当初僕達は思ってたんだけど。」
「あんなにあからさまにお互いを『特別扱い』してるのに、ただの友人って…
   何かおかしいな…?とは、ずっと思ってたよね。」

はっきりと聞いたわけではないが、4人で『酒屋談義』をした後、
黒尾と赤葦だけで『二次会』をしていたらしいことも、薄々感付いていた。

超多忙な二人が、激務の合間を縫って逢引…
自分達が『お邪魔』しちゃ悪いかな~?と、若干申し訳なく感じていたが、
どうやらそういうわけでもない…?と途中で気付いた時には、
月島と山口でさえ、「それ…何か変じゃない?」と困惑していたのだ。

…まぁ、イロイロとイタしておきながら、『ただの幼馴染』と言っていた自分達が、
エラそうなことを言えた立場ではないのだが…それにしても、だ。

「本当につい最近まで、『友人』を貫いてたなんて、信じられないよね。」
「もっともっと、二人とも自分に素直に…なれればいいよね…」

黒尾と赤葦のおかげで、自分達はこうして『ちょっとだけお先』に進めた。
自分達でできることがあれば、何とか黒尾達の手助けをしたいのだが…



「あの二人が、この『難所』から抜け出して、前に進む…
   もうちょっと『自分』に気付くには、何か強烈な『きっかけ』が必要かもね。」



- 完 -



**************************************************

※不安定な時によろめく →『朔月有無
※五輪騒動『2年後に…』→『半月之風』『団形之空
※体育館裏で『バーテンと常連客ごっこ』 →『不可抗力』『隣席接客

※熱く甘いキスを5題『3.息も止まるくらいに』


2016/09/29

 

NOVELS