※『不可抗力』直後のクロ赤。



    隣席接客







(よし、そのまま…イっちまえよ…っ)
(ちょ、ちょっと黒尾さん、痛っ!!)


体育館裏での『バーテンと常連客ごっこ』の後。
気を利かせた常連客・黒尾と、マスター・赤葦は、
初来店の客…月島と山口を置いて、店を出た。

そして、足音を殺して猛然とダッシュ…ぐるりと体育館を4分の3周回ると、
退店した店の扉とは反対方向から、こっそりと『店内』を窺っていた。


(他人の情事をのぞき見なんて…イイ趣味してますね。)
(とかいいつつ、赤葦だってガン見してんじゃねぇか。)

体育館の角…風雨に朽ち果てそうなスチール物置の裏に、
押すな押すなと張り付き、コッソリ隠れながら、
座り込んだままポツポツと話をする、月島達を凝視する。
確かに、イイ趣味とは言えないが…

(さっきのアレですよ。『かほはゆし(顔映ゆし)』ですから。)
(『正視できないけど、放っとけない』…まさに『可愛い』な。)

折角『お膳立て』してやったというのに、二人は一向に動こうとせず、
のんびりと『ロール・プレイング』による心理療法…とか言って、
本の内容や、赤葦のバーテン姿が見たいだの、
本当に『どうでもいい考察』をしている。

(あぁ~もう、じれったいな。さっさと『ガーーーっ!』っと…)
(無理矢理は御法度ですが…あの状態で、よく耐えられますね。)


後ろから山口を抱きしめたまま、硬直する月島。
山口はそこから逃げようとしたが、囚われて身動きできず、
身を縮こまらせて…襲い来る情動を、何とかやり過ごそうとしていた。

今は合宿中。突き動かされるまま、『渇き』を癒すわけにはいかない。
体と心の奥底から湧き上がる『欲』に、必死に抵抗し続ける…
『生殺し地獄』の苦しさが、見ているこちらにも、痛い程伝わって来た。

(な…なんて健気で、不憫な…っ)
(本当の意味で…可愛い、けど…)

ごく軽い気持ちで、『月が満ちる』という話をし、
二人をからかって楽しんだ…つもりだった。
だが、『欲しくても得られない渇き』を『現実的に痛感』することが、
どれだけ辛いことなのか…黒尾達には、全く実感がなかったのだ。

ふてぶてしくて生意気な月島。おどおどしつつも穏やかな山口。
その二人が、ここまで悲痛な表情を見せるなんて…
赤葦は胸が張り裂けそうになり、二人から目を逸らした。


(ツッキー達には…すっげぇ悪いことしちまった、な。)
(えぇ…本当に、可愛そうなことをしてしまいました…)

部員達の心身を共に制御…締めるのも緩めるのも、自分達の仕事であり、
自分達なりに、それを上手くやっているつもりだった。
しかし、『蜜の味』を知らない自分達に…何がわかるというのだろうか。

(ちょっと俺…驕ってたな。)
(同じく…反省しきりです。)

遠のく足音。月島達も、『バー』から退店したようだ。
黒尾と赤葦は、足音が完全に消え去ってから、
ふぅ、っと大きくため息をつき、その場にズルズルと座り込んだ。


「少し…飲み直します?」
「あぁ…それがいいな。」




***************





先程まで『バーテンと常連客ごっこ』をしていた場所は、
青みがかった月光に照らされ、まだ明るい方だった。
だが、今いる場所は、校舎から一番遠い山際の、物置の傍…
隣にいるはずのお互いの顔すら、ほとんど見えなかった。

…見えなくて、正直有り難かった。


「赤葦は、ツッキー達のこと…何で気付いた?」
「あの二人の異常な『距離感』…でしょうか。」

人はそれぞれ、『個人の空間』…パーソナルスペースを持っている。
他人が近くにいると落ち着かなくなったり、遠くにいると安心する…
動物で言えば、『縄張り意識』に近いものである。

自分のパーソナルスペースが保たれていると、快適さを感じ、
その中に他人が入ってくると、不快に思う空間…
空いている電車で、等間隔にスペースを保って座っていたり、
男子トイレでは、入口から一番遠い場所が人気なのも、同じ理由である。

「パーソナルスペースの大きさは、状況や性格、
   性別や文化によっても随分違うが…」
「相手との『距離感』で、人間関係の親密さが、
   ある程度は読み取れるんですよね。」

相手との距離が45cmまでを密接距離、45~120cmを個体距離(友人)、
120~360cmが社会距離(仕事関係)、360cm~を公衆距離(演説等)といい、
さらにその中を、近接相と遠方相の二つに分類する考え方だ。


(クリックで拡大)

「密接距離の近接相は、0~15cm…愛撫・格闘・慰め・保護の距離だ。
   言葉を交わすよりも、視線を合わせたり、体に触れ合う距離…」
「家族や、恋人同士の距離…ですね。
   密接距離の遠方相…15~45cmは、頭や肘が触れることはないけれど、
   手で相手をさわれる距離です。」

個体距離の近接相は、45~75cm。一方が手足を伸ばせば、
相手に触れられる限界の距離で、相手の表情を正しく見分けられる。

そして個体距離の遠方相は、75~120cm。
互いに手を伸ばせば、指先が触れ合う距離である。
相手の表情を細かく見分けられるため、個人的な関心事を話すのに、
よく使われる距離でもある。

「部活の仲間や、友人関係、我らが『酒屋談義』の場なんかは、
   一番『個体距離の遠方相』が多いですし、相応しい距離感ですよね。」

今の俺らは…と、黒尾は腕を伸ばし、赤葦の頭をポンポンと撫でた。
「『ただの友人』よりは、ちょっとだけ近い…50cmぐらいか?」
「逆に、どんなに親しくとも、『友人』は…ここが限界です。」

たとえ腐れ縁の幼馴染でも、尊敬するチームメイトでも、
これより近づくことは、不快とまではいかずとも、違和感を覚える。

「ですが、月島君と山口君の距離は…密接距離の遠方相です。」
「俺達4人で居ても、あの二人の距離だけは…近ぇんだよな。」

4人だったからこそわかる、あの二人だけの『近さ』…
ただの幼馴染や親しい友人よりも、一歩『中』に入った関係なのだろう。

人と人との関係は、案外こうした本能的な部分で、
ごくアッサリと感づいてしまうもの…かもしれない。


「そう言えば、この『50cm』という距離なんですが…」

赤葦は黒尾にグラスを持たせる振りをすると、
トトト…と、そこにボトルからお酒を注ぎ入れてみせた。





***************





どうやら、今宵の2軒目は…スナックか、高級クラブらしい。
1軒目のバーとは違い、赤葦…ホステスが、真横で酌をしてくれる。

「50cm…確かに、『バーテンと常連客』っていうよりは、
   『ホステスと馴染客』の距離感…だよな。」
「相手を説得する際に、一番効果的な距離…だそうですよ。
   もしくは…『相手を掌中に捉える距離』。」

ふふふ…と含み笑いをするホステスに、黒尾は笑って答えた。
「おー怖い怖い。食いモノにされちまうかな。」
「食われるのは、こっちかもしれませんけど?」

グラスに氷を追加し、小指を立てつつマドラーでかき混ぜる…
恐ろしい程の『ハマりっぷり』に、黒尾は声を上げて笑った。


「距離もそうだが、座る『位置』でも、相手との関係性がわかるってな。」
「『対面』は『意見を言うポジション』…酒屋談義には合ってますよね。」

また、一方的に話を聞いて貰う…『バーテンと常連客』の立ち位置も、
この『対面』…相手とは『距離』があるポジションである。

「そして、相手に『同意しやすいポジション』が…『横』か斜め前。」
「だから、お酌を求めるクラブは、真横かL字の席が多いんだよな。」

つまり、相手と好意的な関係であり、近くで会話を楽しみたい場合や、
相手との距離を縮めたい場合には、横か斜め前に座るのがお勧めである。

「2軒目に、二人だけで飲み直したい時なんかは…こっちがいいよな。」
「まぁ…試合中は『対面』ばかりですから、それ以外は…同意見です。」

こっちはほら、お客さんとは…『仕事以上の関係』ですから。
チラリと流し目を送る赤葦に、「もう一杯、貰おうか」と、黒尾は答えた。

「お前…冗談抜きでホステス向きだな。」
「フルーツ盛り合わせも、いかがです?」
上手いねぇ~と、黒尾は苦笑いしつつ、赤葦の分のグラスも注文した。


「そう言えば、さっき飲んだ『ブルー・ムーン』…」
「リキュールの『パルフェ・タムール』…ですか?」
フランス語で『完璧な愛』という意味を持つリキュールだ。
それを使って作るカクテルが、『ブルー・ムーン』だった。

「主成分のニオイスミレに、媚薬効果があるらしいが…どうなんだ?」
「媚薬…狭義には催淫剤と呼ばれる、勃起不全の治療薬、ですよね。」

広義には、性欲を高める薬、もしくは恋愛感情を惹起させる惚れ薬だが、
その歴史は古く、『精力のつく食べ物』の総称とも言える。
相手の精神を左右するほどの効果のある薬は、未だ実用化されていないが…

「もし本当に効き目があるならば…とっくにお前に惚れてるかもな。」
「それは大変嬉しいですね。ぜひ通い詰めて…ご指名お願いします。」

酒の媚薬効果を、固定客確保に繋げるとは…まさにホステス的発想だ。
将来、こいつと酒を飲んだり、飲ませる機会があるならば…
ちょっと、イロイロと気を付けた方がいいかもしれない。


「媚薬が効くかどうかは、それを飲んだ状況や、一緒に飲んだ相手…」
「『これは媚薬だ!』という認識…プラセボ効果も、重要ですよね。」

憎からず想っている相手と、ムード満点の場所で、酒を酌み交わす。
ほろ酔い気分で、いつもより少しだけ近づく距離…


「実は、このお酒…『媚薬』が入ってるんですよ。」
「どおりで、今日はお前が…綺麗に見えるわけだ。」





***************





ロール・プレイングによる心理療法…超リアルおままごと。
あまりにハマりすぎると、『ごっこあそび』の域を超え…
お酒や媚薬よりも、遥かに対象者へ『効果』をもたらす場合がある。

これ以上は、危険かもしれない…そうわかっていつつも、
この妙な雰囲気に、二人は抗うことができなくなっていた。


「先程は聞きそびれましたが…
   黒尾さんはどうやって、『渇き』を癒すんですか?」

そろそろ月が満ちる頃…それは、役職付の人間も同じだ。
むしろ、様々な重圧に耐えている分、内部では凝縮された『欲』が、
暴発寸前の状態…それを、騙し騙し抑え込んでいる状況なのだ。

自分達は、まだ月島や山口のように、『生殺し地獄』ではない分、
職務にどっぷり浸かることで、あと数日はやり過ごせるだろう。
だとしても、やはり…生理現象に抗うのは、かなり精神的にキツい。

黒尾はグラスを飲み干し、おかわりを催促しながら、呟いた。

「このまま『恋人ごっこ』でもして…『渇き』を癒し合おうか?」
「その問いの答えこそ…『ブルー・ムーン』かもしれませんね。」

赤葦はカクテルグラスを月夜にかざし、黒尾に手渡した。


「ブルー・ムーン…大気中の塵等の影響で、
   月が青く見える自然現象…だったよな。」
火山噴火や隕石落下で発生するガスや塵によって、
月が本当に青く見える、極めて稀な気象・天文現象だ。

そして、『ブルー・ムーン』のもう一つの意味は…
「1年を二分二至…春分・夏至・秋分・冬至の4つに分ける農暦で、
   その区切られた1つの季節の中で、4回満月がある場合…
   その季節の3番目の月を、ブルー・ムーンと呼んだそうです。」

一つの季節の長さは3カ月。だが、平均朔望月(月の満ち欠けの周期)は、
1カ月の平均日数より、少しだけ少ない。
そのため、1年に13回の満月がある年が、数年おきにやってくるのだ。

「英語で『once in a blue moon』は、『極めて稀なこと』や、
   『決してあり得ないこと』…っていう喩えだったな。」
「昔は、『青い月』は不吉の象徴とも言われていましたが、
   今は、そのレア感からか、『見ると幸せになる』そうですよ。」

これらの由来や、使用するパルフェ・タムールの『完璧な愛』から、
カクテル『ブルー・ムーン』には、『めったに遭遇しない出来事』や、
『幸福な瞬間』という意味があるのだ。


「ということは…赤葦は『幸福な瞬間』を、期待していると?」
「カクテル『ブルー・ムーン』にも…二つの意味があります。」

『密接距離』に侵入しかけた黒尾の腕に軽く手を添え、
赤葦は『ストップ』をかけた。

「『完璧な愛』とは正反対…『できない相談』ですよ。」
「つまりは…『お断り』、『叶わぬ恋』ってことだな。」

意中の相手と飲みに行き、その相手が『ブルー・ムーン』を注文したら…
『幸福な瞬間』なのか、『できない相談』なのか、
込められた正反対の意味を読み取るのに、相当悩んでしまいそうだ。

まさに『ブルー・ムーン』は、
恋愛の『かけ引き』を楽しむお酒である。


「二つの意味、ねぇ…」
黒尾はグラスをクイっと傾けると、実に楽しそうに微笑んだ。

「『お断り』なのは、『恋人』の方か、『ごっこ』の方か…?」
「さぁ…それは、『今後のお客さん次第』かもしれませんよ?」

さすが、商売上手だなぁと、馴染客は「参ったよ」のポーズをした。

「そんなに俺を飲ませたら、本当に…恋に落ちるかもしれないぜ?」
「もし恋に落ちたら…それは、『不可抗力』って言うんですよね?」

絡み合う視線。探り合う腹心。
見えそうで見えない底意を、50cmの距離から、隠しつつ窺う。


この関係が、『ごっこ』ではないものに変わる可能性は、
『極めて稀なこと』かもしれないが、『決してあり得ないこと』…ではない。

こうして二人で『かけ引き』を楽しむ『ごっこあそび』の時間が、
紛れもなく自分にとって『癒し』になっているという『事実』こそ、
その可能性を、雄弁に物語っているのではないだろうか。



そろそろ…『店じまい』しましょうか。
赤葦は立ち上がり、黒尾に手を差し出した。

「実はカクテル『ブルー・ムーン』には…もう一つ意味があるんです。」

赤葦に手を引いて貰いながら立ち上がる黒尾に、
ごくごく小さな声で、赤葦が呟いた。

「『恋の予感』…なんですよ。」


さあ、本来の『お勤め』に戻りましょう。
触れた手をスっと離すと、赤葦は瞬時に『副主将』の顔に戻り、
少し早歩きで、校舎の方へと足を進めた。


「それこそが、お前が『だから、ここに居る』理由…だったりしてな?」

黒尾の呟いた小さな言葉には、赤葦は『聞こえない振り』で返した。



- 完 -



**************************************************

※『一月のうちに2回満月がある場合の、2つ目の満月』をブルームーンと呼ぶ…
   という説もありますが、これはこの説を載せた天文雑誌の誤解だそうです。

※微妙な距離のふたりに5題『1.隣同士がいちばん自然』

2016/06/17(P)  :  2016/09/11 加筆修正

 

NOVELS