寝惚け眼と頭のまま、ホテルのラウンジで朝食を摂っていると、
朝早くからすみません…と、山口からメールが入った。
ラウンジに居る旨を伝えると、程なく見慣れた長身二人組が現れ、
清々しい表情でおはようございます!と、正面に座った。
「修羅場やら何やら、イロイロとお疲れの所…すみません。」
「いや、お前さん方もお疲れさん。」
追加注文したコーヒーが2つ、テーブルに並んだのを確認すると、
黒尾は正面に並ぶ二人の顔を眺め…頬を柔らかく緩めた。
「その顔を見ると…二家族会議は上手くいったみてぇだな。」
「予想通りの『大騒ぎ』でしたが…お陰様で。」
「黒尾さんの所で働く件も、一緒に暮らす件も…
ちょっとした条件付きですが、両家の了解を得られました。」
そうか…それは本当に良かった。
安堵のため息をつく黒尾に、月島はわざとらしい咳払いをしながら、
鞄から取り出した封筒を、そそくさと黒尾に手渡した。
「その、『ちょっとした条件』についてなんですが、
黒尾さんには、最後にもう1つだけ、集めて頂きたい『署名』が…」
封筒から出した薄い紙…その正体に気付くと、
まだモヤモヤしていた眠気が、一瞬で消し飛んでしまった。
「おぃ、これって…っ!?」
緑色で印字された方は、黒尾にとって『超お馴染み』だったが、
茶色の方を手に取ったのは…これが人生初だった。
震える手で紙を封筒にしまいながら、更に震える声で状況説明を求めた。
「実は…これの提出が、両家の条件で…」
頬を染め俯く月島に代わり、山口はごく事務的に、二家族会議の決議内容を伝えた。
「…というわけで、俺達の『けじめ』として、両家に婚姻届提出を求められました。
つきましては、黒尾さんと赤葦さんのお二人に、証人欄にご署名頂けたらと…」
あ、正式に役場に届け出るわけじゃないんで、そこまで身構えないで…
印鑑も認印で十分ですし、欄外に捨印とかも不要ですから!
月島家と山口家、それに俺達用…合計3通お願いします。
「大変お疲れのところ、ホント~に申し訳ないですけど…」
「お休み中の赤葦さんを起こして、大至急ご署名及び押印をお願いします。」
ちなみに、今晩が提出期限ですから、できれば今すぐ頂けると助かります。
深々と頭を下げる二人。
話の内容にも心底驚いたが、それよりも申し訳なさが勝り、黒尾は頭を下げ返した。
「俺が署名すんのは全然構わねぇ…むしろ喜んで引き受けるんだが、
赤葦の方は…『今すぐ署名』は、ちょっと難しいんだ。」
黒尾の言葉に、二人はキョトンと目を丸くし…共にゲンナリした表情を見せた。
「修羅場明けて、さぞや開放的な気分だったでしょうが…
署名もできない程に『消耗』させるのは、いかがなものかと思いますよ?」
「明光君に邪魔された鬱憤はあると思うけど…
まだ『日が浅い』赤葦さんには…『いい具合』に手加減してあげて下さい!」
まるっきり『ケダモノ』扱い…
文句を言うかと思いきや、黒尾は深くため息をついた。
「それなら、どんなに良かったことか…」
あいつは今、ここにはいねぇんだ。だから…署名は無理だ。
予想外の返答に、月島と山口は驚嘆した。
どういうことだ?…という、二人からの詰るような視線を避け、
黒尾は天を仰ぎながら呟いた。
「実家に帰らせて頂きます…だとよ。」
「…はぁ?」
「な、なんで…?」
そんなの、こっちが聞きてぇよ…
黒尾はそう言いながら、昨夜の出来事を二人に語った。
「2年後…俺が無事に『自分の事務所』を持つことができたら…
その時は、俺の所へ来てくれって、頼んだけど…断られちまった。」
話を聞き終えた月島達は、しばらく呆然とし…
信じられないようなものを見る目で、黒尾を凝視した。
「もし仮に、今の話が『本当』だとすると、黒尾さん…サイテーですね。」
「ちょっとツッキー、さすがにそれは失礼だよ!
こんなのが…『本当の話』なわけ、ないじゃんか!」
それで?冗談はいいとして…実際はどうなんです?
ニコニコと笑いながら、仕切り直そうとする山口だったが、
「いや、全部『本当のこと』なんだが…何か俺、マズったか?」
…という黒尾のマジな答えに、言葉を失って固まった。
「…ほらね、サイテーだったでしょ?」
「黒尾さん…『人タラシ』というよりは、『人デナシ』だったんですね。」
月島だけでなく、山口にまで『侮蔑の視線』を注がれ、
黒尾はムッとしながら反論した。
「ちょっと待て。ツッキーだってほぼ変わんねぇセリフ…山口に言ったんだろ?
何でお前は良くて、俺はダメなんだ…」
「僕達と黒尾さん達とでは、状況がまるで違います。一緒にしないで下さい。」
ぴしゃりと撥ね付ける月島に、黒尾は「何でだよ…」と、頭を抱えた。
「俺としては、数年来の夢を叶える見込みが立って…
ようやく、あいつを迎え入れる『スタート地点』に立てたんだぞ?
誠心誠意…それこそ『求婚』するぐらいの勢いで、懇願したはずなのに…」
あいつだって、自分を雇って欲しい…俺のとこに来たいって、言ってたんだ。
それなのに…何でダメなんだよ…
掠れた声を絞り出し、項垂れる黒尾。
その悲痛な姿に、月島と山口は顔を見合せ…大きくため息を付いた。
「もし俺が赤葦さんだったとして、そんなことを黒尾さんに言われたら…
それは『求婚』じゃなくて、『拒絶』だと感じちゃいます。」
静かな山口の声。そのセリフに、黒尾は驚いて顔を上げた。
「あなたが赤葦さんに言ったのは、つまりこういうことなんですよ。
『独立開業する2年後まで、お前は要らない』…と。」
「なっ…!?」
全く予想だにしなかった月島の言葉に、黒尾は目を剥いた。
「俺は、そんなつもりで言ったんじゃ…」
「でも、赤葦さんはそう受け取った。俺にもツッキーにも、そう聞こえました。
現に赤葦さんは…実家に帰っちゃったじゃないですか。」
運よく開業のチャンスを得ることができたとはいえ、実態はただの『見習い』…
赤葦に断言された通り、実務も何もかも、全てが『役立たず』なのだ。
こんな現状で、「今すぐ俺の所に…」など、口が裂けても言えないではないか。
それどころか、2年後確実に上手く行っているという見込みもない中、
昨夜『2年後に…』と言ってしまったことも、相当なフライングだと思っていた。
黒尾としては、今の自分に言える精一杯の…誠意を見せたつもりだった。
「こっ、これから2年…物凄い苦労をすることになるんだぞ!?
今回みたいに、明光さんや月島・山口両家に振り回され続ける2年間…
士業の仕事には無関係の赤葦に、こんな苦労をさせ続けるわけには…」
「赤葦さんは無関係…ですが、今回も自ら『喜んで』巻き込まれた…
そういう一面も、間違いなくあったでしょう?」
確かに、当初は乗り気ではなかった黒尾だったが、
赤葦の方が率先して(餌に釣られて)巻き込まれてしまったため、
やむを得ず手伝うことになった…それも、事実だ。
だが、そうだとしても…
なおも引き下がる黒尾に、月島達は強い視線で射抜いた。
「黒尾さんが『独立開業したい』と思った『元々の』理由…思い出して下さい。」
「赤葦さんが『元々』どういう人なのか…まさか、忘れたわけじゃないですよね?」
黒尾さんにとって、何が一番大切なことか…よく考えて下さい。
怒りに任せて、仙台に突撃してきた月島と赤葦を、静かに諭した黒尾。
その時黒尾が言ったのと同じ言葉を、月島は投げ返した。
「あなたは、『元々』何のために…『酒屋談義』を始めたんですか?」
「俺が、『酒屋談義』を始めた、『元々』の理由…
赤葦が、『元々』どういう奴か…」
月島達の言葉を反芻しながら、黒尾はその答えに気付き…愕然とした。
「俺は…俺はあいつに、絶対言っちゃいけねぇことを…」
『元』は何だったか…物事を考察する時には、忘れちゃならない点だな。
…仙台に来る際、明光と共に語った言葉。
これは考察だけでなく、何かを判断したり、決定する際にも言えることだ。
次々と襲い来る事態に翻弄されても、『元々』を…『本質』を見失わなければ、
自ずと道は見えてくる…その逆は、言わずもがなである。
「自分ではツッキー達に偉そうなコトを言っておきながら…
俺は本当に、サイテーな男だよ…」
弱々しく、こうべを垂れる黒尾。
いつも泰然とし、周りを引っ張って行く…
そんな姿をよく目にしていたせいか、『強いリーダー』というイメージを抱き、
実際にイメージ通りの、大器を持った男だった。
だが、その黒尾が見せた意外な一面に、月島と山口は心底驚くと共に、
ちゃんと普通の『人ラシイ』部分があることに、何だか妙な安堵を覚えた。
未だ重いため息をつき、肩を落とす黒尾に、二人は慈愛溢れる声を掛けた。
「黒尾さんは、いつも『格好イイ』王子様を…理想を希求しすぎです。」
「『格好つけ』が決まらなかったら、ただの『エェ格好しい』ですよ?」
2年後に無事独立開業したら…って、『完璧な舞台設定』を整えてから、
大事な大事な『お姫様』を迎えに行く…どこの『王子様』気取りですか。
完璧な王子様じゃあ物語は進まないって、僕は以前も忠告したはずですが?
それ以前に、俺達3人だけで仕事なんて…寝言は寝て言って下さいよ。
こないだの夏キャンプ予行演習…赤葦さんが『いばら姫』になった時、
俺達が『てんでばらばら』だったの…もう忘れたんですか?
赤葦さん抜きだと、2年どころか、2週間持ちませんよ。
突如始まった、『愛情溢れる』叱咤激励。
怒濤のように押し寄せる、二人からの容赦ない言葉に、
黒尾はぐうの音も出ず…ただ押し黙るしかできなかった。
「そもそも、黒尾さんこそ赤葦さんを『待たせすぎ』なんですよ。」
「高校時代からでしょ?ツッキーといい勝負…どころか、より悪いかもですね。」
僕達のメンタルを案じて『酒屋談義』した…とか言ってましたけど、
要は僕達をダシにして、赤葦さんを誘いたかっただけでしょ?
堂々と『他所の参謀』に手を出す勇気がないからって…
思わせ振りなことばっかりして、つい最近まで誤魔化し続けたんですよね?
じわじわと火を付けて、煽るだけ煽って…そこまでしておいて、
『2年後に』ってシャットアウト…キル・ブロックしちゃうんですか?
それは酷すぎというか…黒尾さんのプレースタイルそのままでしたね。
こんなとこまで、黒尾さん『らしさ』を出す必要、ないと思うんですけど。
全てを洗いざらいにする、『熱い言葉』の雨あられ。
逃げ場のない黒尾は、全身を余すところなく打たれ…撃沈した。
「返す言葉も…ございません。」
無駄に格好付けて…すみませんでした。
小さな声で『完敗』を宣言した黒尾に、今度は本当に『温かい声』が掛けられた。
「謝る相手…違うでしょ?」
「こんな所でのんびりしてるヒマ…ないですよね?」
ガックリ落とされた肩に、月島と山口は両サイドから優しく触れた。
「不格好でも何でも、とにかく平謝りして赦しを請う…
今の黒尾さんにできることは、それだけです。」
「赤葦さんは、もう…待ってくれませんよ?
今すぐに…赤葦さんを迎えに行ってあげて下さい。」
黒尾を勇気づけるように、二人は力強く肩を叩いた。
「お前ら…サンキューな。」
ようやく顔を上げた黒尾は、二人の過激な励ましに、感謝の言葉を…
「わかったなら、さっさと行って…署名貰ってきて下さい。
今すぐ出たら、昼前には赤葦さんとこに行けますよね?
無事に貰えたら、夕方までにここに戻って来て下さい。迅速にね。」
「ちなみに、この『最後の署名』を集めることができなかったら…
黒尾さんの開業も、俺達の同居も、全てパーですから。
絶対に『失敗』は…あり得ませんからね?」
穏やかな笑顔で、「いってらっしゃ~い♪」と黒尾に手を振る二人。
冷たい汗が滝のように流れる背を、シャキっと伸ばしながら、
黒尾は「ソッコーで戻ります!」と敬礼し…全力疾走でホテルを飛び出した。
***************
「おや…意外と早くいらっしゃいましたね。」
「お前、絶対待たないって…言ってたしな。」
昼前にも関わらず、分厚い遮光カーテンが引かれた室内は暗く、
ガンガンに冷房が効いた部屋で、赤葦は布団を頭から被っていた。
ベッドの横…赤葦が芋虫のように丸まっている傍に、
黒尾はベッドを背にして、床に座り込んだ。
「あらかじめ言っておきますが…弁解は受け付けません。」
「言い訳するつもりは…ねぇよ。ただ、謝罪させてくれ。」
「『とりあえず謝っとけ』ってのは…論外ですからね。」
「『俺の何が悪かったか』は…理解しているつもりだ。」
それなら…聞いてあげなくもないです。俺もオトナですから。
それに俺も、『怒りに任せて…』は、自重することにしました。
寄りかかったベッド。黒尾の背中のすぐ後ろ。
布団から頭だけを出したのか、先程よりクリアな声で、赤葦の『許可』が出た。
謝罪の機会が与えられたことに、黒尾は内心ホッとしたが、
すぐに気を引き締め…後ろの赤葦に語りかけるように、ゆっくりと口を開いた。
「『自分は必要じゃないかもしれない』…これがどんなに恐ろしいか。
それがわかっていながら…俺はお前に、その恐怖を与えてしまった。」
日本屈指の『大エースの参謀』…そんな自分に強い自尊心を抱き、
その大エースを陰から支えることこそが、自分の存在意義である…
そう自負し、その名に相応しい働きをしていた、高校時代の赤葦。
だが、それは長い一生の中では、『ほんの一瞬』のこと…
すぐに訪れる『引退』…存在が大きければ大きい程、その喪失感は膨れ上がる。
『大エースの参謀』という存在意義を失い、『自分は必要とされている』という、
承認欲求が満たされなくなった時…赤葦は簡単に『深み』に堕ちる危険性があった。
自身もほんの少し前に、『手が掛かる幼馴染』がアッサリ自立し、
俺は必要不可欠な存在じゃなかったと…絶望を感じていた黒尾は、
似たような立場の赤葦を案じ、『大エースの参謀』以外の自分で居られる場所…
『参謀以外の赤葦』を認めてくれる場として始めたのが、『酒屋談義』だった。
そんな黒尾自身が、『2年後に来てくれ』と、赤葦に言ったのだ。
今後の人生を左右する『重要な2年間』…その間、赤葦には『待ってくれ』と…
一番大事な時期に、『お前は必要ない』と言ったのも同然だった。
人一倍『誰かの支えになりたい』という思いが強い、『参謀』の赤葦にとって、
最も『頼られたい相手』からのこの言葉は、拒絶以外の何物でもなかった。
「お前に手を差し伸べたはずだったのに…俺は、俺だけは、
絶対にお前の『存在意義』を失わせるようなことは…言っちゃいけなかった。」
そんなつもりはなかったとは言え、お前を傷付けてしまったのは事実だ。
赤葦の『承認欲求』を、満たしてやれなかった…
「だから…俺が悪かった。」
自分の非をちゃんと認め、真摯に向き合い、赤葦に謝罪した黒尾。
黙って聞いていた赤葦は、黒尾の背に額を付け…声を振り絞って訊いた。
「俺のことを、そこまでわかっていながら…何で、あんなこと言ったんですか?
あなたは一体、何にこだわって…『2年後』だなんて…っ!」
赤葦の悲痛な慟哭が、黒尾の背を震わせる。
ここで、自分の『腹の中』を全て曝け出さなければ、赤葦は納得しない。
黒尾は赤葦の問いに、本心も何もかも、包み隠さず答えなければ…
「今回の開業準備だけじゃなく、独立のための準備も…これから大変になるんだ。」
「お祭り『本番』よりも『準備』…俺はこっちの方が好きだと、知ってますよね?」
「できれば、お前には余計な苦労は掛けず、完璧に場を整えて迎えたいと…」
「俺は『お姫様』じゃありません。王子様よりも狼がいいと…言いました。」
ここに至っても、まだ格好つけるおつもりですか?
あなたが『こだわったもの』を教えろと…俺はそう言ってるんです。
額を付けた黒尾のYシャツを、赤葦はギュっと握り締めた。
黒尾は観念したように大きくため息を付くと、ポソリと呟いた。
「黒尾法務事務所…」
「な、何ですか…?」
「俺の事務所の名前…『黒尾法務事務所』にこだわったんだ。」
カラオケで話した時、俺が自分で持ちたかった『事務所』…覚えてんだろ?
ぼそぼそと、バツの悪そうな声で、黒尾は赤葦に問うた。
確か黒尾は、大好きな本格ミステリに憧れて…
「名探偵に憧れて…黒尾『探偵』事務所を、持ちたかったと…」
呆然と呟く赤葦に、黒尾は真剣な声で「そうだ。」と答えた。
「ずっと心に秘めていた夢を、お前が嬉々として聞いてくれて…
しかも『探偵助手』になりたいと…俺が、どんなに嬉しかったか、わかるか?」
だから俺は、絶対にこの夢を叶えようと、探偵に一番近そうな法学部を選び、
探偵に必要なスキルを得られそうな講義を、片っ端から受講していった。
だが、プロファイリングを学ぼうと心理学を受講したら、『目撃証言』の話ばかり。
法医学の講義は、毎回壮絶な遺体写真を、昼食前のコマで見せられ続け…
実際に探偵事務所でバイトしたら、メインは浮気調査…ラブホに張り付く日々だ。
「『探偵』事務所は現実的じゃねぇ…そう悟った俺は、食っていくために、
行政書士試験を受け…『法務』事務所を開業する道に、切り替えたんだ。」
でも、これだけじゃあ…足りなかった。
俺以外に少なくとももう一人、法務をやれる人間がいないと…ダメだったんだ。
そんな中、今回のゴタゴタ…俺は幸運にも、実務法務に長けた山口を得られた。
山口が居れば…二人以上の『法務』が居れば、夢が『大体』叶うんだ。
「『法務』が二人以上…複数形の『法務s』で…『ホームズ』だ。
『黒尾ホーム(ズ)事務所』…どうしても『探偵っぽい事務所』にしたかった。
その上で、『探偵助手』として、お前を雇おうと…考えてたんだ。」
これが、俺がこだわった『カタチ』…嘘偽りのない答えだ。
長年、自分だけの『秘密の目標』として、胸に抱いていた夢…
それを全てぶちまけ、黒尾はいっそ清々しい気分にすらなっていた。
だが、真後ろから体内に直接響く低い声と、力いっぱい握り絞められた腕の痛みで、
その『爽快な気分』は押し潰されてしまった。
「あ…あなたという人は、そんなしょーもない『親父ギャグ』のために…!!?」
「探偵事務所は…『男のロマン』だっ!お前だって、探偵助手になりてぇって…」
「誰が『名称』にこだわれと言いました!?もっと『本質』を見て下さいよっ!」
「『依頼人の事件を解決』っていう『本質』は、サムライも探偵も同じだろっ!」
「ソレじゃありません!俺が本当になりたかったもの…その『本質』です!!」
何で、わからないんですか…っ!!
赤葦は後ろから黒尾を羽交い絞めにし…その肩口に顔を埋め、
堪りに堪ったものを、黒尾の体内に向け、盛大にぶちまけた。
「今回、俺は最初から最後まで…とにかく気に入らないことだらけなんです!」
山口君が『補助者』…まるっきり『助手』っぽい名前なのも、気に入らないです。
新居の同居者として、『一番最初』に…月島君に声を掛けたのも、気に入りません。
何よりも、明光さんの乱入に対して、黒尾さんがそこまで怒ってないこととか、
アッサリ『開業』って餌に釣られて、手玉に取られたのも…全部気に入りません!!
「どんな『名称』や『カタチ』であれ、俺はあなたの『一番』が良いだけなのに…っ!
あの人さえ…明光さんさえ乱入してこなければ、俺の『夢』も叶っていたのに…っ!」
赤ずきんの『おつかい』に行った日の晩。
翌日の人魚姫…『酒屋談義』した日の晩。
あと一晩で…『三日夜餅』を食べるっていう『男のロマン』が、叶ったのに…
平安中期頃迄、男が相手の所に三夜通うと成立する『通い婚』が、普通の婚姻だった。
それを達成すると、三日目に相手側の親族に紹介される『結婚披露の儀』があり、
その際に、『三日夜(みかよ)餅』が振る舞われるのだ。
源氏物語や、日本版シンデレラ・落窪物語にも、この様子が描かれている。
この『三日夜餅』が…『付き合って三日連続夜を共にする』ことが、
赤葦が密かにこだわっていた『カタチ』…ということなんだろう。
これを無残にも明光にぶち壊されてしまったから、赤葦は激怒し、
全てを焼き尽くさんばかりの劫火を抱え、仙台に乗り込んで行った…
意外と可愛らしい『男のロマン』により、とても可愛いとは言えない結果を、
広範囲に与える恐れがあった…それを再確認した黒尾は、
上手くその火を抑えることができて、本当によかったと…改めて肝を冷やした。
…それはともかく。
赤葦がぶちまけた本心に、黒尾は頬の緩みを止められなかった。
名称はどうあれ、赤葦は黒尾の『一番』になりたかった…そう断言したのだ。
数年越しの計画と努力の末に、惚れ込んだ相手にそんなことを言われ、
狂喜乱舞しない奴が…一体どこに居るというのだろうか。
黒尾は、首元を締め付ける赤葦の腕に手を添え、優しく撫でた。
徐々に力が抜け…軽く圧し掛かるような形になったところで、
黒尾は静かに…だがはっきりと赤葦に告げた。
「山口が『補助者』なのは、一時的なものだ。すぐに本物のサムライになる。
俺の参謀…ブレーンたる『助手』は、唯一赤葦だけだ。
新居への入居日は、ツッキー達よりも早く…絶対に俺らが『一番乗り』する。
引越した暁には、最初から『三日夜餅』をやり直して…必ずやり遂げる。」
お前の望みは、全部叶える。だから…
「だから、今すぐ…俺の所に来てくれないか?」
緩んでいた赤葦の腕が、再び強く黒尾を抱き締めた。
先程までと違う、熱く震える声が、黒尾の体内に響き渡る。
「喜んで…お受け致します…っ」
***************
体を捩じり、後ろを振り向いた黒尾。
後ろから圧し掛かるように抱き着いていた赤葦と、肩越しに視線を合わせた。
込み上げてくる嗚咽を必死に噛み殺そうと、赤葦は縋る様に黒尾に抱き着く。
昨夜、絶望の淵に落とされた虚無感が、今頃になって喉を突き、唇を震わせる。
お前がいねぇと、俺は使い物になんねぇのに…
本当に、悪かった。
謝罪の言葉を繰り返す黒尾に、赤葦は何も言わず…
言う代わりに、震える唇を黒尾に押し当て、思いの丈を饒舌に伝えた。
お前は要らないと言われ、どんなに怖かったか。
そして今、それが誤りだったと…自分が必要だと求められ。
恐怖と歓喜が入り混じった激情が、雨雫となって零れ落ちる。
それら全てを受け止めようと、黒尾は赤葦を強く抱き締め、
未だ喉で止まる熱情を、その唇で吸い出していった。
赤葦の呼吸が落ち着くのを待って、黒尾は静かに唇を離し、
未だしがみ付く赤葦の背を撫で…そしてその身も引き剥がした。
「な、んで…?」
「そんな目で、見んなって…」
熱に浮かされた、トロリとした瞳。
そんな目のまま、どうして…?と、眉間に皺を寄せ、見上げてくる。
グラリと傾きそうな欲望を必死に抑え、黒尾は赤葦の頭を撫でた。
「このまま…ってわけには、いかねぇんだ。下にお前の家族だって居るし…
それに、実はまだ…『最後の仕事』が残ってんだ。」
不思議そうに首を傾げる赤葦に、黒尾は苦笑いして答えた。
「お前の署名を貰うこと…これが、今回の『最後の仕事』だ。」
鞄から取り出した封筒…その中身を見せると、赤葦は一瞬で表情を変えた。
「こ、これに、署名…ですか…っ!?」
驚く赤葦に、今朝月島達から聞いた話…二家族会議が上手くいったこと、
同居の条件として、婚姻届を今日中に両家に提出しなければいけないこと、
そしてこれを達成しないと、開業も同居も全て『水の泡』になることを説明した。
「今日中って…今から急いで行けば、夕方には…ギリギリ間に合いますね。」
赤葦はベッドから跳ね起き、カーテンを開けて部屋の電気を点けると、
黒尾から婚姻届を受け取り、ボールペンで早速自署し始め…
「あ、おい!そこじゃねぇよ…っ!!お前の署名は、右ページ!!」
「え?…あっ、そうでしたっ!!す、すみません…っ」
勢い余ってメインの左ページ…証人欄ではなく、『妻となる人』の氏名欄に、
思いっきり名前を書いてしまった赤葦…頬を染めて、俯いた。
いや、これはこれで嬉しいんだが…と、黒尾はミスしたものを脇によけると、
山口から『予備』として多めに渡された、まっさらな用紙を、再度置いた。
「右ページの、証人欄…この右側に、お前の名前と…印鑑を押してくれ。
本籍地は…わかるのか?」
「ちょっと下で、母に確認してきます。印鑑も…借りてきますね。」
「ゴム印以外なら、認印で十分だからな。」
了解です、と駆け下りて行く赤葦。
待っている間に、黒尾はできるだけ丁寧な字で、自分の分を署名押印した。
「緑色…離婚届の証人欄には、何回も署名したが…こっちは緊張するな。」
サムライ必須アイテム…深緑の捺印マットと、大きめの朱肉を取り出し、
慣れた手つきで、正確に『まっすぐ』…3通分押印した。
不要とは言われていたが、ついクセで欄外に捨印を押したところで、
赤葦が部屋に入って来て…入口扉から、赤葦母がひょこりと顔を出した。
慌てて居住まいを正し、頭を下げた黒尾。
赤葦母は、心配そうな声で…黒尾に尋ねた。
「あの、黒尾さん…京治が『本籍地』と『印鑑』が必要だと…」
黒尾さんだから、連帯保証人だとか、妙な権利書にサインさせたりとか…
それはないと思うんだけど、その…大丈夫、ですよね?
赤葦母の心配は、至極当然のものだ。
どんな書類であれ、軽々しく署名などしてはならない…非常に大切な心構えだ。
さすがは赤葦母…相変わらず俺の好みダイレクト…ではなく。
黒尾は輝くような笑顔で赤葦母に向き直り、力強く断言した。
「ご心配いりません。これは非常に…おめでたい『書類』ですから。」
「ただ単なる、婚姻届だから…大丈夫。」
テーブルに置いてあった紙を一枚取ると、赤葦はピラピラと母の目の前に翳した。
「これから、これ出しに行って来るから、晩御飯はいらないし…多分、外泊。
今日はイロイロと忙しいから…説明は、また後日。」
「えっ、わ、わかった…わ…」
「近日中に必ず、ご挨拶に伺いますね。本日はお騒がせして…申し訳ありません。」
「は、はい…っ!くくく黒尾さんっ、京治を…息子をよろしくお願いします…っ!」
えぇ、僕に全てお任せください。
黒尾の笑顔を呆けた様に見つめたまま、それでも綺麗にお辞儀をした赤葦母。
慌てて階段を降りて行く音…それが終わらない内に、赤葦は扉を閉めた。
「それでは、約束通り帰京次第、我が家に改めて『ご挨拶』…お願いしますね。」
赤葦は母親に見せた紙を黒尾に渡すと、テーブルで『3通分』の署名を始めた。
「っ!!?ま、まさか、お前…っ!!」
手渡された紙を黒尾が慌てて開くと、それは赤葦が最初に『書き損じ』たもの…
メインとなる左ページの『妻となる人』欄に、自著してある婚姻届だった。
「お前…謀ったな…」
「最高の褒め言葉ですね。」
さぁ、それでは…仙台再び、ですね。当然、俺もご一緒しますよ。
軽やかに鼻歌を歌いながら、スーツに着替える赤葦。
黒尾はそっとため息を付くと、『書き損じ』を丁寧に折り畳み、鞄の隅に入れた。
その日の夕方、仙台に到着した黒尾と赤葦を、月島と山口は駅で待ち構えていた。
黒尾の尻を叩き、東京に送り出した時には見せなかった、不安で一杯の顔…
黒尾と赤葦が揃って来た姿を見て、その場に崩れ落ちる程…安堵のため息を付いた。
そのまま4人で両家に挨拶…息子達からは予想だにできない両家の『姿』に、
黒尾と赤葦は度肝を抜かれるとともに、脱力してしまったのだが…
結果としては、両家から快諾を得ることに成功した。
こうして、今回の一連の事件は、『一件落着』となった。
***************
「えっと…二人分で200gだから…面倒だ、6人分作っちまうか。」
「そうですね。じゃあ、レシピの3倍の分量で…」
「料理の際、いつも思うんですが…『適量』ほど僕を悩ませる言葉はありません。」
「この、『割合はお好みで』なんていう言葉も、大変難解ですね。」
あれから3週間後。
翌日に引越を控え、4人は段ボールが詰まれた月島宅に集まり、
大騒ぎしながら『調理実習』を行っていた。
「誰ですか?『引越と言やぁ、そばだろ。』なんて言ったのは…」
「まぁいいじゃないですか…ちょうど『そば粉』が残ってたし。」
赤ずきんにちなんで、そば粉を使ったお菓子・ガレットを作ろうと、
以前黒尾と赤葦が『おつかい』してきていた…例の『そば粉』である。
だが、折角の『引越』だから…という、ごく単純な理由で、そば打ちに変更された。
「っつーか、『引越そば』は…『引越先』で食うもんだったっけ?」
「それ、実は間違いだそうですよ。本来は『引越先のご近所に配るもの』です。」
これからお世話になります…と、引越先のご近所さんに、タオルや洗剤を配る。
江戸中期頃、それらの代わりに二八蕎麦を配っていたそうだ。
『おそばに末永く』『細く長くお付き合いを宜しく』という江戸っ子の洒落っ気…
というよりは、『そばが安かったから』というのが、一番の理由らしい。
「ちなみに、お寺の前にやたらおそば屋さんが多いのは…
僧侶の修行『五穀断ち』に、そばが入ってないからなんだって。」
穀物を摂らないっていう厳しい修行中も、おそばはオッケーだったんだよ~
ソバはタデ科の一年草だから、『野菜』って扱いにしてたんだって。
こういうちょっとした『気になる疑問』って、調べると面白いよね♪
「ちょっとした疑問と言えば…何で明光さんが、ここにいるんですか?」
お湯を沸かす鍋に水を注ぎながら、手伝おうともせず足を伸ばす明光に、
赤葦は冷たい声を浴びせかけた。
「だって、今回は『五大』がテーマだったし…俺も含めてちょうど5人だし?」
「『元々』は地・水・火の『三大』…それを統合する『風』を入れて『四大』…
これが、宇宙の基本要素だったはずです。
四大にオマケの『空』が追加されて『五大』になったのは、後世のことですよね?」
「そう言えば、『元々』は『四大シャトー』で、後世オマケでもう1本…
『五大シャトー』になったんだったよね?」
「明光さん、もう少々お待ちくださいね。あなたの分も、勿論ご用意してますから。」
赤葦は目映い笑顔で、明光に熱~~いお茶を入れて、丁寧に差し出した。
「それに俺、『五大』の『空』にピッタリなんだよ。」
「『空』の性質は『虚座』…明光君は何もせずに、ボ~っと座って待ってるから?」
忠も年々、俺に厳しいこと言うようになってきたよね…
明光は苦笑しながら、慣れない手つきでそば粉と奮闘する4人の背に、
これは古代中国の神話だけど…と、『昔々』を語り始めた。
古の時、天を支える4本の柱が傾いて、世界が裂けてしまいました。
天は上空からズレてしまい、地や全てを上に乗せていられなくなりました。
そして、洪水や火災、猛獣が人々を襲う、破滅的な世界となってしまいました。
そこで、人間を作った創造神の『女媧(じょか)』は、五色の石を使って、
天に開いた穴を補修し、世界を救いました。
「この神話は、『補天石奇説余話』っていう話なんだけど、
天の補修時に『余った石』が見た、夢の話が…有名な『紅楼夢』って小説だよ。」
紅楼夢は、三國志演義・水滸伝・西遊記に並ぶ中国四大名著の一つである。
男女の情愛を描いた小説としては、金瓶梅と双璧をなす長編小説だが、
プラトニックに徹している点で、紅楼夢は金瓶梅とは対照的な存在だ。
「確か、『じょか』は蛇身人首…『空』蛇ってことになるな。
『空』蛇が落とした石は、道端で過ぎ行く人を『見てるだけ』…か。」
「兄ちゃんは何もせずに夢を見てるだけ…それもピッタリだけど、
『お願いだから、黙って見ててよ』…っていう意味でも、ピッタリだね。」
4人から散々な言われ様だが、明光はまるで堪えた様子もなく、
この『神の力』を持った石…黒尾君と話した『石神』に似てない?と尋ねた。
「っ!!?石神…『ミシャグチ神』…諏訪神社の主祭神…『元々』いた地祇だ!」
…空蛇が落とした石が、地の蛇に繋がった。
黒尾と明光が、他の3人に『地』蛇の話をしているうちに、
少々粉っぽいものの、何となく『そばらしきもの』が茹で上がり…
5人は段ボールを並べ、そこにとぐろを巻く山盛りのそばを乗せた。
「味は…まずまずかな?初めてにしては…上出来だね。」
「お腹壊すようなものでもないし、大丈夫じゃない?」
「そう言えば、落語の『そば清』に、消化薬?として…『蛇含草』が出てくるよ。」
そばの大食い自慢が、消化を促進させる胃腸薬?として、蛇含草を飲むのだが…
この蛇含草の別名が、『ウワバミ草』…そばと蛇も、繋がった。
「ウワバミ草は、生薬名で『シャクシャシシャ』…漢字で書くと、『赤色使者』…」
ウワバミ共が喜びそうなものを出す使者…赤色のバーテンさんに…ほら、どうぞ。
明光はリュックから一升瓶を取り出し、よっこいしょと手渡した。
引越前に荷物増やすなよ…というツッコミは、赤葦の歓喜で隠れてしまった。
「これは…お見事です、明光さん!」
「こっちの『ぐい呑み5個セット』も、俺から皆への『引越祝』ね~」
酒を受け取った赤葦だけでなく、木箱を受け取った黒尾も、驚きの声を上げた。
「麦焼酎…『地水火風』です!!」
「ぐい飲みは『宝珠焼』…宝珠は、五大の『空』だ!」
『引越祝』で見事に『五大』を表現してみせた明光に、4人は賞賛の拍手を贈った。
「ま、そんなわけで、ここで最後の『酒屋談義』は…
今回の事件の解決編…『ちょっとした疑問』を片付けていこうよ。」
明光の提案に、4人は大賛成!と…杯をぶつけ合った。
それじゃあ…俺が最初に質問してもいい?と、山口はおずおずと手を上げた。
「どうして明光君は…黒尾さんが『サムライ』だって知ってたの?」
「今回の策…黒尾さんがサムライでなければ、そもそも成立しなかったはず…
山口が兄ちゃんに言ってたんじゃないの?」
「俺も、今回初めて知ったんだ。ツッキーがもし事前に知ってても、
明光君に言うはずないから…すごい不思議だなぁって。」
山口から明光へ、というルートがないのであれば、没交渉の弟は勿論、
面識がなかった黒尾と赤葦からも、知りようがないはずである。
それに、月島と赤葦も、黒尾がサムライであることは知らなかった。
「実は、これこそが今回の『元々』の発端…だったりするんだよね。
黒尾君、今のバイト先で…個人事業主の退職制度について、最近調べたよね?」
個人事業主の退職制度とは、人魚姫の酒屋談義の際、黒尾が提示していた、
『小規模企業共済』…個人事業主達のための、年金・退職金制度である。
「た、確かに、現雇主の先生に言われて、調べたばっかりだが…何で、それを…?」
「その先生が、現在のウチの…東京の『提携先』なんだよ。
先生、結構なご高齢だろ?近々引退をお考え…で、退職制度を利用しようって。」
事務所を畳むにあたり、仙台の提携先に連絡が来た。
廃業のお知らせと、提携解消…新たな提携先を探して欲しい旨。そして…
「ウチに有望な若手がいるから、使ってやってもらえないか…ってね。」
いやぁ~、世間って狭いよね。まさかその『若手有望株』が、蛍と忠の知人とは!
「そういうことでしたか…おかしいと思ってたんですよ。
黒尾さんみたいな『ペーペーの見習い』に、いきなり提携&開業の話なんて…」
「『資格』で『仕事』が来る…『バッヂ』で『飯』が食えるなんて、大間違いだし!」
「お世話になってた先生に、兄ちゃんは『面倒』を押し付けられた…ってことだね。」
だから、俺は以前から一方的に黒尾君のことは知ってた…ってわけ。
あれ、黒尾君…泣いてんの?『運命の巡り合わせ』に感激しちゃった?
これで、忠の疑問は…アッサリ解決だね!
次は…はい、蛍どうぞ!!
指名を受けた月島は、「僕は、そのペーペーの黒尾さんに質問です。」と、
肩を落としてそばを啜る黒尾に、質問を投げ掛けた。
「運よく開業できることになった黒尾さんですが、実績も能力も未知数…
それなのに、どうやって赤葦さんを…赤葦家を説得できたんですか?」
「伝家の宝刀・『人タラシ』でも…ちょっとした難題ですよね~?」
「まさか、正直に『俺達同棲しちゃいます!』って…言っちゃった!!?」
ムフムフとイヤらしい含み笑いを見せる、月島兄弟&山口に、
黒尾と赤葦は苦笑いして答えた。
「あのなぁ…お前らんとこみたいなのは、例外中の例外だぞ。むしろ異常だ。」
「出会った瞬間から、黒尾さんの『人タラシ』にヤられた母は別として…
ウチは『普通』の家庭ですから、ある程度の『策』が必要ですよ。」
とりあえず、赤葦が母親にチラつかせた紙は、『友人用』の書き損じであり、
ただの誤解だということを、懇切丁寧に説明した上で…
正式な独立開業は2年後だが、その準備として事務所を任されること。
資格は既に取得済、所定の単位も取得済で、卒業も確定していること。
2年弱ではあるが現在も別の事務所で修行中で、実務経験もあること。
バックには大きな事務所がついており、仕事も立場も安泰であること。
その上で、優秀なスタッフとして、赤葦を雇いたいこと。
赤葦は、学生が『本分』であり、空いた時間を利用するだけであること。
その事務所は、偶然にも赤葦の自宅よりも大学に近いため、
いずれ来る『自立の予行演習』として、他のスタッフと共に事務所上階…
当事務所の『社員寮』に、赤葦も入寮を考えていること。
「作戦名『嘘はつかねぇ。誠意を見せます。』…という、真っ当な策だ。」
「おや、『まずは外堀を。あとは既成事実。』…じゃなかったんですか?」
正式な作戦名はともかく、嘘偽りなく、状況をきちんと述べた上で、
徐々に事実という名の実績を積み上げる…2年計画の『誠実な策』だった。
「そういう正々堂々とした所は…さすがの黒尾さんですね。」
「普通にやってれば、やっぱり黒尾さん…カッコイイです!」
では、次に…俺から月島君に、質問してもいいですか?
赤葦から指名された月島は、ビクリと肩を震わせ…景気付けに焼酎をあおった。
「俺の疑問は…『なぜ、熊野神社に行ったのか?』です。」
***************
山口が帰省し、明光が突撃…山口を追って黒尾と明光が仙台へ行った翌日。
残された月島と赤葦の二人は、散歩がてら新宿中央公園へ…
その中にある熊野神社へ行っていた。
「月島君は、『行きたいところがある』と、わざわざ電車に乗って新宿まで…
どうして熊野神社でなければならなかったのか、気になってました。」
仙台・山口対策班がバタバタしていた頃に、東京・月島対策班はそんな所で?
その行動について全く知らなかった黒尾に、赤葦は熊野の『水』蛇の話、
山口は熊野の『火』祭の理由と『安珍・清姫伝説』について、ざっと説明した。
だが、月島は口籠り…なかなか質問に答えようとしない。
「あの時は否定してましたけど、やっぱり月島君は、熊野神社での神前式を…?」
「おいおい、ツッキーは思い余って結婚式の下見か?やるなぁ~!」
「えっ!!?つつつつ、ツッキー、そんなっ、ちょっと気が早い…」
「待って!蛍はそこに…『ヨソの奥さん(旦那は出張中)』と一緒に行ったの!?
さすがの兄ちゃんも、そんな『不適切な交際』は、フォローできないんだけど…」
「ちっ、違いますよっ!!あれは本当に偶然、出くわしただけですから…!」
そ、それに、そんな『ヤマシイ気持ち』も、なかったし…
山口も黒尾さんも、睨まないで!兄ちゃんは黙って…赤葦さんはフォロー下さいっ!
このままだと、この人達から好き放題言われてしまう…
そう悟った月島は、「わかりましたよ…」とため息を付き、鞄から紙を取り出した。
「僕は、これを頂きに…熊野神社に行ったんです。」
月島が広げたのは、黒い鳥の印がたくさん押してある、B4ぐらいの和紙だった。
「これは…『熊野牛王符』だね。」
熊野三山で配布される牛王符は、烏印…『八咫烏』の配列で、文字が書かれている。
一般的な護符…かまど等の火元の上に貼る『火伏せのお守り』としても使えるが、
裏側に起請文…約束を破らないことを神仏に誓う旨を書いて、
『誓約書』として利用する方が、より有名である。
「牛王符に誓うということは、熊野の神々に誓う…ってことか。」
「もし誓約を破ったら、八咫烏も三羽死ぬ…すっごい『重たい』誓約書だよね。」
高校時代に月島と山口は、『三羽烏』の由来について考察した際に、
この熊野牛王符について…これが赤穂浪士の討ち入り時や、
遊女の擬似結婚に使われていたことを、語り合っていた。
「僕が思い付く限り、この牛王符が一番『誓約』には相応しい…
僕の『けじめ』を『カタチ』にするには、これが一番だと思って…」
でも、『熊野神社』と名前が付けば、どこでもあるわけじゃないんですね。
新宿にはなかったので…先日、横浜の師岡熊野神社で、頂いてきました。
「なるほどな。山口のこだわった『カタチ』が『遺言公正証書』で、
ツッキーがこだわったのが、『熊野牛王符』ってわけか。」
「神様は、自分が叶えられなかった願いを、叶えてくれる存在…
熊野牛王符は、これ以上ないくらい『誓約書』に相応しいですね。」
山口だけでなく、月島の方も、真剣に二人のことを考え、
それを『カタチ』にしようとしていた…それが判明し、黒尾達は柔らかく微笑んだ。
「皆は、日本史で貞永式目…『御成敗式目』について習ったよね?」
御成敗式目は、鎌倉幕府が制定した、武士の為の法令である。
この『武家の憲法』ともいうべきものにも、起請文が書かれている。
「そこには、『誓うべき神々』の名前が列挙されてるんだけど…」
梵天・帝釈・四大天王、伊豆・箱根両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・
天満大自在天神の部類眷属等…これらの神々に、この御成敗式目を誓う、と。
「明光君、どうしてその中に居ないの?
日本最高神と言われる…『天照大神(アマテラス)』が。」
話には聞いてたけど、酒が入った忠の慧眼…恐れ入るね。
ほとんど原液のまま焼酎をあおり続ける山口に、明光は瞠目した。
「御成敗式目に関する、室町時代に著された注釈書には、こうあるんだ。
アマテラスは『虚言を仰らるゝ神』…嘘をつく神だから、
誓約破りを監視する神々になる資格はない…ってね。」
あの伊達政宗も、神々リストにアマテラスの名がある起請文の受領を拒んだし、
織田信長はアマテラスに約束を『破られた側』の、『第六天魔王』を自称していた。
「そうか…熊野の神々は、アマテラスに国を『譲った』神々…」
「つまり、騙されて国を『奪われた』神々…ってことなんだ。」
だからこそ、アマテラスの子孫である朝廷と対立する武家政権は、
持統天皇・藤原不比等コンビによって、国を簒奪された『元々いた神』を支持し、
その象徴である熊野牛王符を、起請文として利用してきたのだろう。
「その、『元々いた神』についてが…俺の疑問だ。」
神妙な顔つきで牛王符を眺めていた面々に、黒尾が口を開いた。
「なぜ、『元々いた神』は…『蛇』なんだ?」
天照大神(アマテラス)以前にいた『元々の神』は、饒速日尊・瀬織津姫。
ニギハヤヒは本来の天照大神(アマテル)で、出雲の大国主…三輪山の大蛇だ。
瀬織津姫は弁才天と習合…こちらも白蛇である。
熊野神社の神々は地水火風の蛇、諏訪神社のソソウ神とミシャグチ神も大蛇。
明光は黒尾の問いに対し、先程の古代中国神話を例示した。
「さっきの『女媧』…旦那さんの『伏義(ふくぎ)』も、同じ蛇身人頭。
この夫婦はのちに、別の種族によって追いやられているんだ。」
そう言えば…と、赤葦は目を閉じながら記憶を辿り、別の『蛇』を示した。
「古代エジプトの『王権の象徴』はコブラですが、コブラ以外の蛇は、
アポピス…『原初より存在する恐ろしきもの』と言われ、畏怖の対象です。
この蛇…必ず縄で縛られていたり、調伏された姿で描かれているんですよ。」
さらには月島も、「これは赤葦さんと話した『水』蛇ですが…」と、言葉を続ける。
「ギリシャ神話に登場するヒュドラは、八岐大蛇ソックリの大蛇ですが、
このヒュドラの一族…怪物王テューポーン率いる大蛇一家は、
後に登場する新しい神々…ゼウス達に倒されてしまうんです。」
これらに代表される、世界各地の神話に共通することは…
澄み切った目をした大蛇・山口が、静かに口を開く。
「色んな国の『昔話』や『物語』を読んでいて、ずっと不思議だったんだ。
どうして『西洋』のドラゴン…蛇は、退治される悪者ばっかりなんだろうって。
きっとそれは、『西洋』が一神教の国で、『それ以外の神』は存在できないから。」
「なるほど…だから西洋では、ドラゴンは『神』に敵対する『悪』なんだね。」
「対する東洋は多神教…それで、『元々いた神』として、蛇も存在しえたのか。」
山口はコクリと頷くと、このことから推測できるのは…と、目を閉じて言った。
「世界には『元々』、『蛇』と呼ばれる神々が居て…そしてその地位を奪われた。
俺はそう考えたんだけど…どうしてそれが『蛇』なのかは…」
山口は助けを求めるように、明光の顔を見た。
他の3人も、同じように明光を注視する。
「その答えは…俺にもまだ、わかんないよ。」
いい線まで考察できてると思うんだけど…まだまだデータが足りないし、
別の角度からの考察も、今後は必要になってくるんじゃないかな。
…って皆、そんな『ガッカリ』した目で睨まないでくれる?
いくら俺でも、全ての疑問に答えられるわけないでしょ。
疑問があるなら、ちゃんと自分で調べて、自分で考えなきゃダメだよ。
「それにさ、『お楽しみ』は取っておいた方がいいでしょ?
これからは『地水火風』…4匹の蛇が一堂に会することになるんだから…」
4人でじっくり、『酒屋談義』しながら…考えていけばいいじゃん!
明光の言葉に、4匹の蛇は顔を見合わせ…満面の笑みを見せた。
「明光君からの『課題』…今度のは相当難しそうだね~!」
「ま、4人での『暇つぶし』には…ちょうどいいかもね。」
「これはまた…新たな『お酒』が必要ってコトですよね?」
「お前らなぁ…『酒屋談義』がメインの同居じゃねぇぞ?」
口では好き放題言いながらも、4人は『これからの生活』に想いを馳せると、
期待で胸が躍るのを抑えることができなかった。
そんな4人に、明光は静かに語り掛けた。
「五大の『空』…『虚座』とは即ち、一切…『あるがままを受け入れる』こと。
君達がどんな未来を切り開くか…俺は楽しみに見守ってるし、
どんな未来であれ、俺は…俺達家族は、それをあるがまま受け入れるよ。」
月島・山口両家だけでなく、きっと黒尾君と赤葦君の家族も…同じ想いだと思う。
だから、思うがまま…4人で精一杯頑張ってね。
「それから、五輪塔で『空』は…『宝珠』だったよね?」
ずっと一緒に居たい。共に暮らしたい。開業して、それを傍で支えたい…
そんな君達の願いを、『如意宝珠』で叶えた…
「やっぱり俺…五大の『空』がピッタリでしょ?」
片目を瞑り、おどけながら明光は言った。
4匹の蛇はそんな明光に対し、輝く笑顔を返した。
「本当に…ありがとうございましたっ!!!」
- 完 -
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※赤葦の存在意義と承認欲求について →『朔月有無』
※探偵事務所の夢 →『事後同伴』
※熊野牛王符について →『抵抗溶接』
※キューピッドは語る5題『5.ようやくこの日が』
2016/08/07(P) : 2016/09/25 加筆修正