団形之空







寝惚け眼と頭のまま、ホテルのラウンジで朝食を摂っていると、
朝早くからすみません…と、山口からメールが入った。

ラウンジに居る旨を伝えると、程なく見慣れた長身二人組が現れ、
清々しい表情でおはようございます!と、正面に座った。


「修羅場やら何やら、イロイロとお疲れの所…すみません。」
「いや、お前さん方もお疲れさん。」

追加注文したコーヒーが2つ、テーブルに並んだのを確認すると、
黒尾は正面に並ぶ二人の顔を眺め…頬を柔らかく緩めた。
「その顔を見ると…二家族会議は上手くいったみてぇだな。」

「予想通りの『大騒ぎ』でしたが…お陰様で。」
「黒尾さんの所で働く件も、一緒に暮らす件も…
   ちょっとした条件付きですが、両家の了解を得られました。」

そうか…それは本当に良かった。
安堵のため息をつく黒尾に、月島はわざとらしい咳払いをしながら、
鞄から取り出した封筒を、そそくさと黒尾に手渡した。

「その、『ちょっとした条件』についてなんですが、
   黒尾さんには、最後にもう1つだけ、集めて頂きたい『署名』が…」

封筒から出した薄い紙…その正体に気付くと、
まだモヤモヤしていた眠気が、一瞬で消し飛んでしまった。


「おぃ、これって…っ!?」

緑色で印字された方は、黒尾にとって『超お馴染み』だったが、
茶色の方を手に取ったのは…これが人生初だった。
震える手で紙を封筒にしまいながら、更に震える声で状況説明を求めた。

「実は…これの提出が、両家の条件で…」

頬を染め俯く月島に代わり、山口はごく事務的に、二家族会議の決議内容を伝えた。


「…というわけで、俺達の『けじめ』として、両家に婚姻届提出を求められました。
   つきましては、黒尾さんと赤葦さんのお二人に、証人欄にご署名頂けたらと…」

あ、正式に役場に届け出るわけじゃないんで、そこまで身構えないで…
印鑑も認印で十分ですし、欄外に捨印とかも不要ですから!
月島家と山口家、それに俺達用…合計3通お願いします。

「大変お疲れのところ、ホント~に申し訳ないですけど…」
「お休み中の赤葦さんを起こして、大至急ご署名及び押印をお願いします。」

ちなみに、今晩が提出期限ですから、できれば今すぐ頂けると助かります。

深々と頭を下げる二人。
話の内容にも心底驚いたが、それよりも申し訳なさが勝り、黒尾は頭を下げ返した。

「俺が署名すんのは全然構わねぇ…むしろ喜んで引き受けるんだが、
   赤葦の方は…『今すぐ署名』は、ちょっと難しいんだ。」

黒尾の言葉に、二人はキョトンと目を丸くし…共にゲンナリした表情を見せた。

「修羅場明けて、さぞや開放的な気分だったでしょうが…
   署名もできない程に『消耗』させるのは、いかがなものかと思いますよ?」
「明光君に邪魔された鬱憤はあると思うけど…
   まだ『日が浅い』赤葦さんには…『いい具合』に手加減してあげて下さい!」

まるっきり『ケダモノ』扱い…
文句を言うかと思いきや、黒尾は深くため息をついた。

「それなら、どんなに良かったことか…」
あいつは今、ここにはいねぇんだ。だから…署名は無理だ。

予想外の返答に、月島と山口は驚嘆した。
どういうことだ?…という、二人からの詰るような視線を避け、
黒尾は天を仰ぎながら呟いた。
「実家に帰らせて頂きます…だとよ。」


「…はぁ?」
「な、なんで…?」

そんなの、こっちが聞きてぇよ…
黒尾はそう言いながら、昨夜の出来事を二人に語った。

「2年後…俺が無事に『自分の事務所』を持つことができたら…
   その時は、俺の所へ来てくれって、頼んだけど…断られちまった。」


話を聞き終えた月島達は、しばらく呆然とし…
信じられないようなものを見る目で、黒尾を凝視した。

「もし仮に、今の話が『本当』だとすると、黒尾さん…サイテーですね。」
「ちょっとツッキー、さすがにそれは失礼だよ!
   こんなのが…『本当の話』なわけ、ないじゃんか!」

それで?冗談はいいとして…実際はどうなんです?
ニコニコと笑いながら、仕切り直そうとする山口だったが、
「いや、全部『本当のこと』なんだが…何か俺、マズったか?」
…という黒尾のマジな答えに、言葉を失って固まった。

「…ほらね、サイテーだったでしょ?」
「黒尾さん…『人タラシ』というよりは、『人デナシ』だったんですね。」

月島だけでなく、山口にまで『侮蔑の視線』を注がれ、
黒尾はムッとしながら反論した。


「ちょっと待て。ツッキーだってほぼ変わんねぇセリフ…山口に言ったんだろ?
   何でお前は良くて、俺はダメなんだ…」
「僕達と黒尾さん達とでは、状況がまるで違います。一緒にしないで下さい。」

ぴしゃりと撥ね付ける月島に、黒尾は「何でだよ…」と、頭を抱えた。
「俺としては、数年来の夢を叶える見込みが立って…
   ようやく、あいつを迎え入れる『スタート地点』に立てたんだぞ?
   誠心誠意…それこそ『求婚』するぐらいの勢いで、懇願したはずなのに…」

あいつだって、自分を雇って欲しい…俺のとこに来たいって、言ってたんだ。
それなのに…何でダメなんだよ…

掠れた声を絞り出し、項垂れる黒尾。
その悲痛な姿に、月島と山口は顔を見合せ…大きくため息を付いた。


「もし俺が赤葦さんだったとして、そんなことを黒尾さんに言われたら…
   それは『求婚』じゃなくて、『拒絶』だと感じちゃいます。」
静かな山口の声。そのセリフに、黒尾は驚いて顔を上げた。

「あなたが赤葦さんに言ったのは、つまりこういうことなんですよ。
   『独立開業する2年後まで、お前は要らない』…と。」

「なっ…!?」
全く予想だにしなかった月島の言葉に、黒尾は目を剥いた。

「俺は、そんなつもりで言ったんじゃ…」
「でも、赤葦さんはそう受け取った。俺にもツッキーにも、そう聞こえました。
   現に赤葦さんは…実家に帰っちゃったじゃないですか。」

運よく開業のチャンスを得ることができたとはいえ、実態はただの『見習い』…
赤葦に断言された通り、実務も何もかも、全てが『役立たず』なのだ。
こんな現状で、「今すぐ俺の所に…」など、口が裂けても言えないではないか。

それどころか、2年後確実に上手く行っているという見込みもない中、
昨夜『2年後に…』と言ってしまったことも、相当なフライングだと思っていた。
黒尾としては、今の自分に言える精一杯の…誠意を見せたつもりだった。


「こっ、これから2年…物凄い苦労をすることになるんだぞ!?
   今回みたいに、明光さんや月島・山口両家に振り回され続ける2年間…
   士業の仕事には無関係の赤葦に、こんな苦労をさせ続けるわけには…」
「赤葦さんは無関係…ですが、今回も自ら『喜んで』巻き込まれた…
   そういう一面も、間違いなくあったでしょう?」

確かに、当初は乗り気ではなかった黒尾だったが、
赤葦の方が率先して(餌に釣られて)巻き込まれてしまったため、
やむを得ず手伝うことになった…それも、事実だ。

だが、そうだとしても…
なおも引き下がる黒尾に、月島達は強い視線で射抜いた。

「黒尾さんが『独立開業したい』と思った『元々の』理由…思い出して下さい。」
「赤葦さんが『元々』どういう人なのか…まさか、忘れたわけじゃないですよね?」

黒尾さんにとって、何が一番大切なことか…よく考えて下さい。

怒りに任せて、仙台に突撃してきた月島と赤葦を、静かに諭した黒尾。
その時黒尾が言ったのと同じ言葉を、月島は投げ返した。

「あなたは、『元々』何のために…『酒屋談義』を始めたんですか?」


「俺が、『酒屋談義』を始めた、『元々』の理由…
   赤葦が、『元々』どういう奴か…」

月島達の言葉を反芻しながら、黒尾はその答えに気付き…愕然とした。
「俺は…俺はあいつに、絶対言っちゃいけねぇことを…」

    『元』は何だったか…物事を考察する時には、忘れちゃならない点だな。

…仙台に来る際、明光と共に語った言葉。
これは考察だけでなく、何かを判断したり、決定する際にも言えることだ。
次々と襲い来る事態に翻弄されても、『元々』を…『本質』を見失わなければ、
自ずと道は見えてくる…その逆は、言わずもがなである。


「自分ではツッキー達に偉そうなコトを言っておきながら…
   俺は本当に、サイテーな男だよ…」

弱々しく、こうべを垂れる黒尾。
いつも泰然とし、周りを引っ張って行く…
そんな姿をよく目にしていたせいか、『強いリーダー』というイメージを抱き、
実際にイメージ通りの、大器を持った男だった。

だが、その黒尾が見せた意外な一面に、月島と山口は心底驚くと共に、
ちゃんと普通の『人ラシイ』部分があることに、何だか妙な安堵を覚えた。


未だ重いため息をつき、肩を落とす黒尾に、二人は慈愛溢れる声を掛けた。

「黒尾さんは、いつも『格好イイ』王子様を…理想を希求しすぎです。」
「『格好つけ』が決まらなかったら、ただの『エェ格好しい』ですよ?」

2年後に無事独立開業したら…って、『完璧な舞台設定』を整えてから、
大事な大事な『お姫様』を迎えに行く…どこの『王子様』気取りですか。
完璧な王子様じゃあ物語は進まないって、僕は以前も忠告したはずですが?

それ以前に、俺達3人だけで仕事なんて…寝言は寝て言って下さいよ。
こないだの夏キャンプ予行演習…赤葦さんが『いばら姫』になった時、
俺達が『てんでばらばら』だったの…もう忘れたんですか?
赤葦さん抜きだと、2年どころか、2週間持ちませんよ。


突如始まった、『愛情溢れる』叱咤激励。
怒濤のように押し寄せる、二人からの容赦ない言葉に、
黒尾はぐうの音も出ず…ただ押し黙るしかできなかった。

「そもそも、黒尾さんこそ赤葦さんを『待たせすぎ』なんですよ。」
「高校時代からでしょ?ツッキーといい勝負…どころか、より悪いかもですね。」

僕達のメンタルを案じて『酒屋談義』した…とか言ってましたけど、
要は僕達をダシにして、赤葦さんを誘いたかっただけでしょ?
堂々と『他所の参謀』に手を出す勇気がないからって…
思わせ振りなことばっかりして、つい最近まで誤魔化し続けたんですよね?

じわじわと火を付けて、煽るだけ煽って…そこまでしておいて、
『2年後に』ってシャットアウト…キル・ブロックしちゃうんですか?
それは酷すぎというか…黒尾さんのプレースタイルそのままでしたね。
こんなとこまで、黒尾さん『らしさ』を出す必要、ないと思うんですけど。


全てを洗いざらいにする、『熱い言葉』の雨あられ。
逃げ場のない黒尾は、全身を余すところなく打たれ…撃沈した。

「返す言葉も…ございません。」
無駄に格好付けて…すみませんでした。

小さな声で『完敗』を宣言した黒尾に、今度は本当に『温かい声』が掛けられた。

「謝る相手…違うでしょ?」
「こんな所でのんびりしてるヒマ…ないですよね?」
ガックリ落とされた肩に、月島と山口は両サイドから優しく触れた。

「不格好でも何でも、とにかく平謝りして赦しを請う…
   今の黒尾さんにできることは、それだけです。」
「赤葦さんは、もう…待ってくれませんよ?
   今すぐに…赤葦さんを迎えに行ってあげて下さい。」
黒尾を勇気づけるように、二人は力強く肩を叩いた。

「お前ら…サンキューな。」
ようやく顔を上げた黒尾は、二人の過激な励ましに、感謝の言葉を…


「わかったなら、さっさと行って…署名貰ってきて下さい。
   今すぐ出たら、昼前には赤葦さんとこに行けますよね?
   無事に貰えたら、夕方までにここに戻って来て下さい。迅速にね。」
「ちなみに、この『最後の署名』を集めることができなかったら…
   黒尾さんの開業も、俺達の同居も、全てパーですから。
   絶対に『失敗』は…あり得ませんからね?」

穏やかな笑顔で、「いってらっしゃ~い♪」と黒尾に手を振る二人。

冷たい汗が滝のように流れる背を、シャキっと伸ばしながら、
黒尾は「ソッコーで戻ります!」と敬礼し…全力疾走でホテルを飛び出した。




***************





「おや…意外と早くいらっしゃいましたね。」
「お前、絶対待たないって…言ってたしな。」


昼前にも関わらず、分厚い遮光カーテンが引かれた室内は暗く、
ガンガンに冷房が効いた部屋で、赤葦は布団を頭から被っていた。

ベッドの横…赤葦が芋虫のように丸まっている傍に、
黒尾はベッドを背にして、床に座り込んだ。

「あらかじめ言っておきますが…弁解は受け付けません。」
「言い訳するつもりは…ねぇよ。ただ、謝罪させてくれ。」

「『とりあえず謝っとけ』ってのは…論外ですからね。」
「『俺の何が悪かったか』は…理解しているつもりだ。」

それなら…聞いてあげなくもないです。俺もオトナですから。
それに俺も、『怒りに任せて…』は、自重することにしました。

寄りかかったベッド。黒尾の背中のすぐ後ろ。
布団から頭だけを出したのか、先程よりクリアな声で、赤葦の『許可』が出た。
謝罪の機会が与えられたことに、黒尾は内心ホッとしたが、
すぐに気を引き締め…後ろの赤葦に語りかけるように、ゆっくりと口を開いた。


「『自分は必要じゃないかもしれない』…これがどんなに恐ろしいか。
   それがわかっていながら…俺はお前に、その恐怖を与えてしまった。」

日本屈指の『大エースの参謀』…そんな自分に強い自尊心を抱き、
その大エースを陰から支えることこそが、自分の存在意義である…
そう自負し、その名に相応しい働きをしていた、高校時代の赤葦。

だが、それは長い一生の中では、『ほんの一瞬』のこと…
すぐに訪れる『引退』…存在が大きければ大きい程、その喪失感は膨れ上がる。
『大エースの参謀』という存在意義を失い、『自分は必要とされている』という、
承認欲求が満たされなくなった時…赤葦は簡単に『深み』に堕ちる危険性があった。

自身もほんの少し前に、『手が掛かる幼馴染』がアッサリ自立し、
俺は必要不可欠な存在じゃなかったと…絶望を感じていた黒尾は、
似たような立場の赤葦を案じ、『大エースの参謀』以外の自分で居られる場所…
『参謀以外の赤葦』を認めてくれる場として始めたのが、『酒屋談義』だった。


そんな黒尾自身が、『2年後に来てくれ』と、赤葦に言ったのだ。
今後の人生を左右する『重要な2年間』…その間、赤葦には『待ってくれ』と…
一番大事な時期に、『お前は必要ない』と言ったのも同然だった。

人一倍『誰かの支えになりたい』という思いが強い、『参謀』の赤葦にとって、
最も『頼られたい相手』からのこの言葉は、拒絶以外の何物でもなかった。

「お前に手を差し伸べたはずだったのに…俺は、俺だけは、
   絶対にお前の『存在意義』を失わせるようなことは…言っちゃいけなかった。」

そんなつもりはなかったとは言え、お前を傷付けてしまったのは事実だ。
赤葦の『承認欲求』を、満たしてやれなかった…

「だから…俺が悪かった。」


自分の非をちゃんと認め、真摯に向き合い、赤葦に謝罪した黒尾。
黙って聞いていた赤葦は、黒尾の背に額を付け…声を振り絞って訊いた。

「俺のことを、そこまでわかっていながら…何で、あんなこと言ったんですか?
   あなたは一体、何にこだわって…『2年後』だなんて…っ!」

赤葦の悲痛な慟哭が、黒尾の背を震わせる。
ここで、自分の『腹の中』を全て曝け出さなければ、赤葦は納得しない。
黒尾は赤葦の問いに、本心も何もかも、包み隠さず答えなければ…

「今回の開業準備だけじゃなく、独立のための準備も…これから大変になるんだ。」
「お祭り『本番』よりも『準備』…俺はこっちの方が好きだと、知ってますよね?」

「できれば、お前には余計な苦労は掛けず、完璧に場を整えて迎えたいと…」
「俺は『お姫様』じゃありません。王子様よりも狼がいいと…言いました。」

ここに至っても、まだ格好つけるおつもりですか?
あなたが『こだわったもの』を教えろと…俺はそう言ってるんです。

額を付けた黒尾のYシャツを、赤葦はギュっと握り締めた。
黒尾は観念したように大きくため息を付くと、ポソリと呟いた。


「黒尾法務事務所…」
「な、何ですか…?」
「俺の事務所の名前…『黒尾法務事務所』にこだわったんだ。」

カラオケで話した時、俺が自分で持ちたかった『事務所』…覚えてんだろ?
ぼそぼそと、バツの悪そうな声で、黒尾は赤葦に問うた。

確か黒尾は、大好きな本格ミステリに憧れて…
「名探偵に憧れて…黒尾『探偵』事務所を、持ちたかったと…」

呆然と呟く赤葦に、黒尾は真剣な声で「そうだ。」と答えた。
「ずっと心に秘めていた夢を、お前が嬉々として聞いてくれて…
   しかも『探偵助手』になりたいと…俺が、どんなに嬉しかったか、わかるか?」

だから俺は、絶対にこの夢を叶えようと、探偵に一番近そうな法学部を選び、
探偵に必要なスキルを得られそうな講義を、片っ端から受講していった。

だが、プロファイリングを学ぼうと心理学を受講したら、『目撃証言』の話ばかり。
法医学の講義は、毎回壮絶な遺体写真を、昼食前のコマで見せられ続け…
実際に探偵事務所でバイトしたら、メインは浮気調査…ラブホに張り付く日々だ。

「『探偵』事務所は現実的じゃねぇ…そう悟った俺は、食っていくために、
   行政書士試験を受け…『法務』事務所を開業する道に、切り替えたんだ。」

でも、これだけじゃあ…足りなかった。
俺以外に少なくとももう一人、法務をやれる人間がいないと…ダメだったんだ。
そんな中、今回のゴタゴタ…俺は幸運にも、実務法務に長けた山口を得られた。
山口が居れば…二人以上の『法務』が居れば、夢が『大体』叶うんだ。

「『法務』が二人以上…複数形の『法務s』で…『ホームズ』だ。
   『黒尾ホーム(ズ)事務所』…どうしても『探偵っぽい事務所』にしたかった。
   その上で、『探偵助手』として、お前を雇おうと…考えてたんだ。」

これが、俺がこだわった『カタチ』…嘘偽りのない答えだ。


長年、自分だけの『秘密の目標』として、胸に抱いていた夢…
それを全てぶちまけ、黒尾はいっそ清々しい気分にすらなっていた。

だが、真後ろから体内に直接響く低い声と、力いっぱい握り絞められた腕の痛みで、
その『爽快な気分』は押し潰されてしまった。

「あ…あなたという人は、そんなしょーもない『親父ギャグ』のために…!!?」
「探偵事務所は…『男のロマン』だっ!お前だって、探偵助手になりてぇって…」

「誰が『名称』にこだわれと言いました!?もっと『本質』を見て下さいよっ!」
「『依頼人の事件を解決』っていう『本質』は、サムライも探偵も同じだろっ!」

「ソレじゃありません!俺が本当になりたかったもの…その『本質』です!!」

何で、わからないんですか…っ!!

赤葦は後ろから黒尾を羽交い絞めにし…その肩口に顔を埋め、
堪りに堪ったものを、黒尾の体内に向け、盛大にぶちまけた。


「今回、俺は最初から最後まで…とにかく気に入らないことだらけなんです!」

山口君が『補助者』…まるっきり『助手』っぽい名前なのも、気に入らないです。
新居の同居者として、『一番最初』に…月島君に声を掛けたのも、気に入りません。
何よりも、明光さんの乱入に対して、黒尾さんがそこまで怒ってないこととか、
アッサリ『開業』って餌に釣られて、手玉に取られたのも…全部気に入りません!!

「どんな『名称』や『カタチ』であれ、俺はあなたの『一番』が良いだけなのに…っ!
   あの人さえ…明光さんさえ乱入してこなければ、俺の『夢』も叶っていたのに…っ!」

赤ずきんの『おつかい』に行った日の晩。
翌日の人魚姫…『酒屋談義』した日の晩。
あと一晩で…『三日夜餅』を食べるっていう『男のロマン』が、叶ったのに…


平安中期頃迄、男が相手の所に三夜通うと成立する『通い婚』が、普通の婚姻だった。
それを達成すると、三日目に相手側の親族に紹介される『結婚披露の儀』があり、
その際に、『三日夜(みかよ)餅』が振る舞われるのだ。
源氏物語や、日本版シンデレラ・落窪物語にも、この様子が描かれている。

この『三日夜餅』が…『付き合って三日連続夜を共にする』ことが、
赤葦が密かにこだわっていた『カタチ』…ということなんだろう。

これを無残にも明光にぶち壊されてしまったから、赤葦は激怒し、
全てを焼き尽くさんばかりの劫火を抱え、仙台に乗り込んで行った…
意外と可愛らしい『男のロマン』により、とても可愛いとは言えない結果を、
広範囲に与える恐れがあった…それを再確認した黒尾は、
上手くその火を抑えることができて、本当によかったと…改めて肝を冷やした。


…それはともかく。
赤葦がぶちまけた本心に、黒尾は頬の緩みを止められなかった。
名称はどうあれ、赤葦は黒尾の『一番』になりたかった…そう断言したのだ。
数年越しの計画と努力の末に、惚れ込んだ相手にそんなことを言われ、
狂喜乱舞しない奴が…一体どこに居るというのだろうか。

黒尾は、首元を締め付ける赤葦の腕に手を添え、優しく撫でた。
徐々に力が抜け…軽く圧し掛かるような形になったところで、
黒尾は静かに…だがはっきりと赤葦に告げた。


「山口が『補助者』なのは、一時的なものだ。すぐに本物のサムライになる。
   俺の参謀…ブレーンたる『助手』は、唯一赤葦だけだ。
   新居への入居日は、ツッキー達よりも早く…絶対に俺らが『一番乗り』する。
   引越した暁には、最初から『三日夜餅』をやり直して…必ずやり遂げる。」

お前の望みは、全部叶える。だから…

「だから、今すぐ…俺の所に来てくれないか?」


緩んでいた赤葦の腕が、再び強く黒尾を抱き締めた。
先程までと違う、熱く震える声が、黒尾の体内に響き渡る。


「喜んで…お受け致します…っ」





***************





体を捩じり、後ろを振り向いた黒尾。
後ろから圧し掛かるように抱き着いていた赤葦と、肩越しに視線を合わせた。

込み上げてくる嗚咽を必死に噛み殺そうと、赤葦は縋る様に黒尾に抱き着く。
昨夜、絶望の淵に落とされた虚無感が、今頃になって喉を突き、唇を震わせる。

お前がいねぇと、俺は使い物になんねぇのに…
本当に、悪かった。

謝罪の言葉を繰り返す黒尾に、赤葦は何も言わず…
言う代わりに、震える唇を黒尾に押し当て、思いの丈を饒舌に伝えた。

お前は要らないと言われ、どんなに怖かったか。
そして今、それが誤りだったと…自分が必要だと求められ。

恐怖と歓喜が入り混じった激情が、雨雫となって零れ落ちる。
それら全てを受け止めようと、黒尾は赤葦を強く抱き締め、
未だ喉で止まる熱情を、その唇で吸い出していった。


赤葦の呼吸が落ち着くのを待って、黒尾は静かに唇を離し、
未だしがみ付く赤葦の背を撫で…そしてその身も引き剥がした。

「な、んで…?」
「そんな目で、見んなって…」

熱に浮かされた、トロリとした瞳。
そんな目のまま、どうして…?と、眉間に皺を寄せ、見上げてくる。
グラリと傾きそうな欲望を必死に抑え、黒尾は赤葦の頭を撫でた。


「このまま…ってわけには、いかねぇんだ。下にお前の家族だって居るし…
   それに、実はまだ…『最後の仕事』が残ってんだ。」

不思議そうに首を傾げる赤葦に、黒尾は苦笑いして答えた。
「お前の署名を貰うこと…これが、今回の『最後の仕事』だ。」

鞄から取り出した封筒…その中身を見せると、赤葦は一瞬で表情を変えた。

「こ、これに、署名…ですか…っ!?」

驚く赤葦に、今朝月島達から聞いた話…二家族会議が上手くいったこと、
同居の条件として、婚姻届を今日中に両家に提出しなければいけないこと、
そしてこれを達成しないと、開業も同居も全て『水の泡』になることを説明した。

「今日中って…今から急いで行けば、夕方には…ギリギリ間に合いますね。」

赤葦はベッドから跳ね起き、カーテンを開けて部屋の電気を点けると、
黒尾から婚姻届を受け取り、ボールペンで早速自署し始め…


「あ、おい!そこじゃねぇよ…っ!!お前の署名は、右ページ!!」
「え?…あっ、そうでしたっ!!す、すみません…っ」

勢い余ってメインの左ページ…証人欄ではなく、『妻となる人』の氏名欄に、
思いっきり名前を書いてしまった赤葦…頬を染めて、俯いた。
いや、これはこれで嬉しいんだが…と、黒尾はミスしたものを脇によけると、
山口から『予備』として多めに渡された、まっさらな用紙を、再度置いた。

「右ページの、証人欄…この右側に、お前の名前と…印鑑を押してくれ。
   本籍地は…わかるのか?」
「ちょっと下で、母に確認してきます。印鑑も…借りてきますね。」
「ゴム印以外なら、認印で十分だからな。」

了解です、と駆け下りて行く赤葦。
待っている間に、黒尾はできるだけ丁寧な字で、自分の分を署名押印した。

「緑色…離婚届の証人欄には、何回も署名したが…こっちは緊張するな。」

サムライ必須アイテム…深緑の捺印マットと、大きめの朱肉を取り出し、
慣れた手つきで、正確に『まっすぐ』…3通分押印した。

不要とは言われていたが、ついクセで欄外に捨印を押したところで、
赤葦が部屋に入って来て…入口扉から、赤葦母がひょこりと顔を出した。

慌てて居住まいを正し、頭を下げた黒尾。
赤葦母は、心配そうな声で…黒尾に尋ねた。

「あの、黒尾さん…京治が『本籍地』と『印鑑』が必要だと…」

黒尾さんだから、連帯保証人だとか、妙な権利書にサインさせたりとか…
それはないと思うんだけど、その…大丈夫、ですよね?

赤葦母の心配は、至極当然のものだ。
どんな書類であれ、軽々しく署名などしてはならない…非常に大切な心構えだ。
さすがは赤葦母…相変わらず俺の好みダイレクト…ではなく。

黒尾は輝くような笑顔で赤葦母に向き直り、力強く断言した。

「ご心配いりません。これは非常に…おめでたい『書類』ですから。」
「ただ単なる、婚姻届だから…大丈夫。」

テーブルに置いてあった紙を一枚取ると、赤葦はピラピラと母の目の前に翳した。

「これから、これ出しに行って来るから、晩御飯はいらないし…多分、外泊。
   今日はイロイロと忙しいから…説明は、また後日。」
「えっ、わ、わかった…わ…」

「近日中に必ず、ご挨拶に伺いますね。本日はお騒がせして…申し訳ありません。」
「は、はい…っ!くくく黒尾さんっ、京治を…息子をよろしくお願いします…っ!」

えぇ、僕に全てお任せください。

黒尾の笑顔を呆けた様に見つめたまま、それでも綺麗にお辞儀をした赤葦母。
慌てて階段を降りて行く音…それが終わらない内に、赤葦は扉を閉めた。


「それでは、約束通り帰京次第、我が家に改めて『ご挨拶』…お願いしますね。」
赤葦は母親に見せた紙を黒尾に渡すと、テーブルで『3通分』の署名を始めた。

「っ!!?ま、まさか、お前…っ!!」
手渡された紙を黒尾が慌てて開くと、それは赤葦が最初に『書き損じ』たもの…
メインとなる左ページの『妻となる人』欄に、自著してある婚姻届だった。

「お前…謀ったな…」
「最高の褒め言葉ですね。」

さぁ、それでは…仙台再び、ですね。当然、俺もご一緒しますよ。

軽やかに鼻歌を歌いながら、スーツに着替える赤葦。
黒尾はそっとため息を付くと、『書き損じ』を丁寧に折り畳み、鞄の隅に入れた。



その日の夕方、仙台に到着した黒尾と赤葦を、月島と山口は駅で待ち構えていた。

黒尾の尻を叩き、東京に送り出した時には見せなかった、不安で一杯の顔…
黒尾と赤葦が揃って来た姿を見て、その場に崩れ落ちる程…安堵のため息を付いた。

そのまま4人で両家に挨拶…息子達からは予想だにできない両家の『姿』に、
黒尾と赤葦は度肝を抜かれるとともに、脱力してしまったのだが…
結果としては、両家から快諾を得ることに成功した。


こうして、今回の一連の事件は、『一件落着』となった。





***************





「えっと…二人分で200gだから…面倒だ、6人分作っちまうか。」
「そうですね。じゃあ、レシピの3倍の分量で…」
「料理の際、いつも思うんですが…『適量』ほど僕を悩ませる言葉はありません。」
「この、『割合はお好みで』なんていう言葉も、大変難解ですね。」


あれから3週間後。
翌日に引越を控え、4人は段ボールが詰まれた月島宅に集まり、
大騒ぎしながら『調理実習』を行っていた。

「誰ですか?『引越と言やぁ、そばだろ。』なんて言ったのは…」
「まぁいいじゃないですか…ちょうど『そば粉』が残ってたし。」

赤ずきんにちなんで、そば粉を使ったお菓子・ガレットを作ろうと、
以前黒尾と赤葦が『おつかい』してきていた…例の『そば粉』である。
だが、折角の『引越』だから…という、ごく単純な理由で、そば打ちに変更された。

「っつーか、『引越そば』は…『引越先』で食うもんだったっけ?」
「それ、実は間違いだそうですよ。本来は『引越先のご近所に配るもの』です。」

これからお世話になります…と、引越先のご近所さんに、タオルや洗剤を配る。
江戸中期頃、それらの代わりに二八蕎麦を配っていたそうだ。
『おそばに末永く』『細く長くお付き合いを宜しく』という江戸っ子の洒落っ気…
というよりは、『そばが安かったから』というのが、一番の理由らしい。


「ちなみに、お寺の前にやたらおそば屋さんが多いのは…
   僧侶の修行『五穀断ち』に、そばが入ってないからなんだって。」

穀物を摂らないっていう厳しい修行中も、おそばはオッケーだったんだよ~
ソバはタデ科の一年草だから、『野菜』って扱いにしてたんだって。
こういうちょっとした『気になる疑問』って、調べると面白いよね♪

「ちょっとした疑問と言えば…何で明光さんが、ここにいるんですか?」

お湯を沸かす鍋に水を注ぎながら、手伝おうともせず足を伸ばす明光に、
赤葦は冷たい声を浴びせかけた。


「だって、今回は『五大』がテーマだったし…俺も含めてちょうど5人だし?」
「『元々』は地・水・火の『三大』…それを統合する『風』を入れて『四大』…
   これが、宇宙の基本要素だったはずです。
   四大にオマケの『空』が追加されて『五大』になったのは、後世のことですよね?」
「そう言えば、『元々』は『四大シャトー』で、後世オマケでもう1本…
   『五大シャトー』になったんだったよね?」
「明光さん、もう少々お待ちくださいね。あなたの分も、勿論ご用意してますから。」

赤葦は目映い笑顔で、明光に熱~~いお茶を入れて、丁寧に差し出した。

「それに俺、『五大』の『空』にピッタリなんだよ。」
「『空』の性質は『虚座』…明光君は何もせずに、ボ~っと座って待ってるから?」

忠も年々、俺に厳しいこと言うようになってきたよね…
明光は苦笑しながら、慣れない手つきでそば粉と奮闘する4人の背に、
これは古代中国の神話だけど…と、『昔々』を語り始めた。


    古の時、天を支える4本の柱が傾いて、世界が裂けてしまいました。
    天は上空からズレてしまい、地や全てを上に乗せていられなくなりました。
    そして、洪水や火災、猛獣が人々を襲う、破滅的な世界となってしまいました。

    そこで、人間を作った創造神の『女媧(じょか)』は、五色の石を使って、
    天に開いた穴を補修し、世界を救いました。


「この神話は、『補天石奇説余話』っていう話なんだけど、
   天の補修時に『余った石』が見た、夢の話が…有名な『紅楼夢』って小説だよ。」

紅楼夢は、三國志演義・水滸伝・西遊記に並ぶ中国四大名著の一つである。
男女の情愛を描いた小説としては、金瓶梅と双璧をなす長編小説だが、
プラトニックに徹している点で、紅楼夢は金瓶梅とは対照的な存在だ。

「確か、『じょか』は蛇身人首…『空』蛇ってことになるな。
   『空』蛇が落とした石は、道端で過ぎ行く人を『見てるだけ』…か。」
「兄ちゃんは何もせずに夢を見てるだけ…それもピッタリだけど、
   『お願いだから、黙って見ててよ』…っていう意味でも、ピッタリだね。」

4人から散々な言われ様だが、明光はまるで堪えた様子もなく、
この『神の力』を持った石…黒尾君と話した『石神』に似てない?と尋ねた。

「っ!!?石神…『ミシャグチ神』…諏訪神社の主祭神…『元々』いた地祇だ!」
…空蛇が落とした石が、地の蛇に繋がった。


黒尾と明光が、他の3人に『地』蛇の話をしているうちに、
少々粉っぽいものの、何となく『そばらしきもの』が茹で上がり…
5人は段ボールを並べ、そこにとぐろを巻く山盛りのそばを乗せた。

「味は…まずまずかな?初めてにしては…上出来だね。」
「お腹壊すようなものでもないし、大丈夫じゃない?」
「そう言えば、落語の『そば清』に、消化薬?として…『蛇含草』が出てくるよ。」

そばの大食い自慢が、消化を促進させる胃腸薬?として、蛇含草を飲むのだが…
この蛇含草の別名が、『ウワバミ草』…そばと蛇も、繋がった。

「ウワバミ草は、生薬名で『シャクシャシシャ』…漢字で書くと、『赤色使者』…」
ウワバミ共が喜びそうなものを出す使者…赤色のバーテンさんに…ほら、どうぞ。

明光はリュックから一升瓶を取り出し、よっこいしょと手渡した。
引越前に荷物増やすなよ…というツッコミは、赤葦の歓喜で隠れてしまった。

「これは…お見事です、明光さん!」
「こっちの『ぐい呑み5個セット』も、俺から皆への『引越祝』ね~」

酒を受け取った赤葦だけでなく、木箱を受け取った黒尾も、驚きの声を上げた。

「麦焼酎…『地水火風』です!!」
「ぐい飲みは『宝珠焼』…宝珠は、五大の『空』だ!」

『引越祝』で見事に『五大』を表現してみせた明光に、4人は賞賛の拍手を贈った。


「ま、そんなわけで、ここで最後の『酒屋談義』は…
   今回の事件の解決編…『ちょっとした疑問』を片付けていこうよ。」

明光の提案に、4人は大賛成!と…杯をぶつけ合った。


それじゃあ…俺が最初に質問してもいい?と、山口はおずおずと手を上げた。

「どうして明光君は…黒尾さんが『サムライ』だって知ってたの?」
「今回の策…黒尾さんがサムライでなければ、そもそも成立しなかったはず…
   山口が兄ちゃんに言ってたんじゃないの?」
「俺も、今回初めて知ったんだ。ツッキーがもし事前に知ってても、
   明光君に言うはずないから…すごい不思議だなぁって。」

山口から明光へ、というルートがないのであれば、没交渉の弟は勿論、
面識がなかった黒尾と赤葦からも、知りようがないはずである。
それに、月島と赤葦も、黒尾がサムライであることは知らなかった。

「実は、これこそが今回の『元々』の発端…だったりするんだよね。
   黒尾君、今のバイト先で…個人事業主の退職制度について、最近調べたよね?」

個人事業主の退職制度とは、人魚姫の酒屋談義の際、黒尾が提示していた、
『小規模企業共済』…個人事業主達のための、年金・退職金制度である。

「た、確かに、現雇主の先生に言われて、調べたばっかりだが…何で、それを…?」
「その先生が、現在のウチの…東京の『提携先』なんだよ。
   先生、結構なご高齢だろ?近々引退をお考え…で、退職制度を利用しようって。」

事務所を畳むにあたり、仙台の提携先に連絡が来た。
廃業のお知らせと、提携解消…新たな提携先を探して欲しい旨。そして…

「ウチに有望な若手がいるから、使ってやってもらえないか…ってね。」
いやぁ~、世間って狭いよね。まさかその『若手有望株』が、蛍と忠の知人とは!

「そういうことでしたか…おかしいと思ってたんですよ。
   黒尾さんみたいな『ペーペーの見習い』に、いきなり提携&開業の話なんて…」
「『資格』で『仕事』が来る…『バッヂ』で『飯』が食えるなんて、大間違いだし!」
「お世話になってた先生に、兄ちゃんは『面倒』を押し付けられた…ってことだね。」

だから、俺は以前から一方的に黒尾君のことは知ってた…ってわけ。
あれ、黒尾君…泣いてんの?『運命の巡り合わせ』に感激しちゃった?

これで、忠の疑問は…アッサリ解決だね!
次は…はい、蛍どうぞ!!


指名を受けた月島は、「僕は、そのペーペーの黒尾さんに質問です。」と、
肩を落としてそばを啜る黒尾に、質問を投げ掛けた。

「運よく開業できることになった黒尾さんですが、実績も能力も未知数…
   それなのに、どうやって赤葦さんを…赤葦家を説得できたんですか?」
「伝家の宝刀・『人タラシ』でも…ちょっとした難題ですよね~?」
「まさか、正直に『俺達同棲しちゃいます!』って…言っちゃった!!?」

ムフムフとイヤらしい含み笑いを見せる、月島兄弟&山口に、
黒尾と赤葦は苦笑いして答えた。

「あのなぁ…お前らんとこみたいなのは、例外中の例外だぞ。むしろ異常だ。」
「出会った瞬間から、黒尾さんの『人タラシ』にヤられた母は別として…
   ウチは『普通』の家庭ですから、ある程度の『策』が必要ですよ。」

とりあえず、赤葦が母親にチラつかせた紙は、『友人用』の書き損じであり、
ただの誤解だということを、懇切丁寧に説明した上で…

正式な独立開業は2年後だが、その準備として事務所を任されること。
資格は既に取得済、所定の単位も取得済で、卒業も確定していること。
2年弱ではあるが現在も別の事務所で修行中で、実務経験もあること。
バックには大きな事務所がついており、仕事も立場も安泰であること。

その上で、優秀なスタッフとして、赤葦を雇いたいこと。
赤葦は、学生が『本分』であり、空いた時間を利用するだけであること。
その事務所は、偶然にも赤葦の自宅よりも大学に近いため、
いずれ来る『自立の予行演習』として、他のスタッフと共に事務所上階…
当事務所の『社員寮』に、赤葦も入寮を考えていること。

「作戦名『嘘はつかねぇ。誠意を見せます。』…という、真っ当な策だ。」
「おや、『まずは外堀を。あとは既成事実。』…じゃなかったんですか?」

正式な作戦名はともかく、嘘偽りなく、状況をきちんと述べた上で、
徐々に事実という名の実績を積み上げる…2年計画の『誠実な策』だった。

「そういう正々堂々とした所は…さすがの黒尾さんですね。」
「普通にやってれば、やっぱり黒尾さん…カッコイイです!」


では、次に…俺から月島君に、質問してもいいですか?
赤葦から指名された月島は、ビクリと肩を震わせ…景気付けに焼酎をあおった。

「俺の疑問は…『なぜ、熊野神社に行ったのか?』です。」





***************





山口が帰省し、明光が突撃…山口を追って黒尾と明光が仙台へ行った翌日。
残された月島と赤葦の二人は、散歩がてら新宿中央公園へ…
その中にある熊野神社へ行っていた。

「月島君は、『行きたいところがある』と、わざわざ電車に乗って新宿まで…
   どうして熊野神社でなければならなかったのか、気になってました。」

仙台・山口対策班がバタバタしていた頃に、東京・月島対策班はそんな所で?
その行動について全く知らなかった黒尾に、赤葦は熊野の『水』蛇の話、
山口は熊野の『火』祭の理由と『安珍・清姫伝説』について、ざっと説明した。

だが、月島は口籠り…なかなか質問に答えようとしない。

「あの時は否定してましたけど、やっぱり月島君は、熊野神社での神前式を…?」
「おいおい、ツッキーは思い余って結婚式の下見か?やるなぁ~!」
「えっ!!?つつつつ、ツッキー、そんなっ、ちょっと気が早い…」
「待って!蛍はそこに…『ヨソの奥さん(旦那は出張中)』と一緒に行ったの!?
   さすがの兄ちゃんも、そんな『不適切な交際』は、フォローできないんだけど…」

「ちっ、違いますよっ!!あれは本当に偶然、出くわしただけですから…!」
そ、それに、そんな『ヤマシイ気持ち』も、なかったし…
山口も黒尾さんも、睨まないで!兄ちゃんは黙って…赤葦さんはフォロー下さいっ!

このままだと、この人達から好き放題言われてしまう…
そう悟った月島は、「わかりましたよ…」とため息を付き、鞄から紙を取り出した。

「僕は、これを頂きに…熊野神社に行ったんです。」
月島が広げたのは、黒い鳥の印がたくさん押してある、B4ぐらいの和紙だった。

「これは…『熊野牛王符』だね。」



熊野三山で配布される牛王符は、烏印…『八咫烏』の配列で、文字が書かれている。
一般的な護符…かまど等の火元の上に貼る『火伏せのお守り』としても使えるが、
裏側に起請文…約束を破らないことを神仏に誓う旨を書いて、
『誓約書』として利用する方が、より有名である。

「牛王符に誓うということは、熊野の神々に誓う…ってことか。」
「もし誓約を破ったら、八咫烏も三羽死ぬ…すっごい『重たい』誓約書だよね。」

高校時代に月島と山口は、『三羽烏』の由来について考察した際に、
この熊野牛王符について…これが赤穂浪士の討ち入り時や、
遊女の擬似結婚に使われていたことを、語り合っていた。


「僕が思い付く限り、この牛王符が一番『誓約』には相応しい…
   僕の『けじめ』を『カタチ』にするには、これが一番だと思って…」

でも、『熊野神社』と名前が付けば、どこでもあるわけじゃないんですね。
新宿にはなかったので…先日、横浜の師岡熊野神社で、頂いてきました。

「なるほどな。山口のこだわった『カタチ』が『遺言公正証書』で、
   ツッキーがこだわったのが、『熊野牛王符』ってわけか。」
「神様は、自分が叶えられなかった願いを、叶えてくれる存在…
   熊野牛王符は、これ以上ないくらい『誓約書』に相応しいですね。」

山口だけでなく、月島の方も、真剣に二人のことを考え、
それを『カタチ』にしようとしていた…それが判明し、黒尾達は柔らかく微笑んだ。


「皆は、日本史で貞永式目…『御成敗式目』について習ったよね?」

御成敗式目は、鎌倉幕府が制定した、武士の為の法令である。
この『武家の憲法』ともいうべきものにも、起請文が書かれている。
「そこには、『誓うべき神々』の名前が列挙されてるんだけど…」

梵天・帝釈・四大天王、伊豆・箱根両所権現、三嶋大明神・八幡大菩薩・
天満大自在天神の部類眷属等…これらの神々に、この御成敗式目を誓う、と。

「明光君、どうしてその中に居ないの?
   日本最高神と言われる…『天照大神(アマテラス)』が。」

話には聞いてたけど、酒が入った忠の慧眼…恐れ入るね。
ほとんど原液のまま焼酎をあおり続ける山口に、明光は瞠目した。

「御成敗式目に関する、室町時代に著された注釈書には、こうあるんだ。
   アマテラスは『虚言を仰らるゝ神』…嘘をつく神だから、
   誓約破りを監視する神々になる資格はない…ってね。」

あの伊達政宗も、神々リストにアマテラスの名がある起請文の受領を拒んだし、
織田信長はアマテラスに約束を『破られた側』の、『第六天魔王』を自称していた。

「そうか…熊野の神々は、アマテラスに国を『譲った』神々…」
「つまり、騙されて国を『奪われた』神々…ってことなんだ。」

だからこそ、アマテラスの子孫である朝廷と対立する武家政権は、
持統天皇・藤原不比等コンビによって、国を簒奪された『元々いた神』を支持し、
その象徴である熊野牛王符を、起請文として利用してきたのだろう。


「その、『元々いた神』についてが…俺の疑問だ。」
神妙な顔つきで牛王符を眺めていた面々に、黒尾が口を開いた。

「なぜ、『元々いた神』は…『蛇』なんだ?」


天照大神(アマテラス)以前にいた『元々の神』は、饒速日尊・瀬織津姫。
ニギハヤヒは本来の天照大神(アマテル)で、出雲の大国主…三輪山の大蛇だ。
瀬織津姫は弁才天と習合…こちらも白蛇である。
熊野神社の神々は地水火風の蛇、諏訪神社のソソウ神とミシャグチ神も大蛇。

明光は黒尾の問いに対し、先程の古代中国神話を例示した。
「さっきの『女媧』…旦那さんの『伏義(ふくぎ)』も、同じ蛇身人頭。
   この夫婦はのちに、別の種族によって追いやられているんだ。」

そう言えば…と、赤葦は目を閉じながら記憶を辿り、別の『蛇』を示した。
「古代エジプトの『王権の象徴』はコブラですが、コブラ以外の蛇は、
   アポピス…『原初より存在する恐ろしきもの』と言われ、畏怖の対象です。
   この蛇…必ず縄で縛られていたり、調伏された姿で描かれているんですよ。」

さらには月島も、「これは赤葦さんと話した『水』蛇ですが…」と、言葉を続ける。
「ギリシャ神話に登場するヒュドラは、八岐大蛇ソックリの大蛇ですが、
   このヒュドラの一族…怪物王テューポーン率いる大蛇一家は、
   後に登場する新しい神々…ゼウス達に倒されてしまうんです。」

これらに代表される、世界各地の神話に共通することは…
澄み切った目をした大蛇・山口が、静かに口を開く。

「色んな国の『昔話』や『物語』を読んでいて、ずっと不思議だったんだ。
   どうして『西洋』のドラゴン…蛇は、退治される悪者ばっかりなんだろうって。
   きっとそれは、『西洋』が一神教の国で、『それ以外の神』は存在できないから。」

「なるほど…だから西洋では、ドラゴンは『神』に敵対する『悪』なんだね。」
「対する東洋は多神教…それで、『元々いた神』として、蛇も存在しえたのか。」

山口はコクリと頷くと、このことから推測できるのは…と、目を閉じて言った。

「世界には『元々』、『蛇』と呼ばれる神々が居て…そしてその地位を奪われた。
   俺はそう考えたんだけど…どうしてそれが『蛇』なのかは…」

山口は助けを求めるように、明光の顔を見た。
他の3人も、同じように明光を注視する。

「その答えは…俺にもまだ、わかんないよ。」


いい線まで考察できてると思うんだけど…まだまだデータが足りないし、
別の角度からの考察も、今後は必要になってくるんじゃないかな。

…って皆、そんな『ガッカリ』した目で睨まないでくれる?
いくら俺でも、全ての疑問に答えられるわけないでしょ。
疑問があるなら、ちゃんと自分で調べて、自分で考えなきゃダメだよ。

「それにさ、『お楽しみ』は取っておいた方がいいでしょ?
   これからは『地水火風』…4匹の蛇が一堂に会することになるんだから…」

4人でじっくり、『酒屋談義』しながら…考えていけばいいじゃん!


明光の言葉に、4匹の蛇は顔を見合わせ…満面の笑みを見せた。

「明光君からの『課題』…今度のは相当難しそうだね~!」
「ま、4人での『暇つぶし』には…ちょうどいいかもね。」
「これはまた…新たな『お酒』が必要ってコトですよね?」
「お前らなぁ…『酒屋談義』がメインの同居じゃねぇぞ?」

口では好き放題言いながらも、4人は『これからの生活』に想いを馳せると、
期待で胸が躍るのを抑えることができなかった。


そんな4人に、明光は静かに語り掛けた。

「五大の『空』…『虚座』とは即ち、一切…『あるがままを受け入れる』こと。
   君達がどんな未来を切り開くか…俺は楽しみに見守ってるし、
   どんな未来であれ、俺は…俺達家族は、それをあるがまま受け入れるよ。」

月島・山口両家だけでなく、きっと黒尾君と赤葦君の家族も…同じ想いだと思う。
だから、思うがまま…4人で精一杯頑張ってね。

「それから、五輪塔で『空』は…『宝珠』だったよね?」
ずっと一緒に居たい。共に暮らしたい。開業して、それを傍で支えたい…
そんな君達の願いを、『如意宝珠』で叶えた…

「やっぱり俺…五大の『空』がピッタリでしょ?」

片目を瞑り、おどけながら明光は言った。
4匹の蛇はそんな明光に対し、輝く笑顔を返した。


「本当に…ありがとうございましたっ!!!」



- 完 -



**************************************************


※赤葦の存在意義と承認欲求について →『朔月有無
※探偵事務所の夢 →『事後同伴
※熊野牛王符について →『抵抗溶接


※キューピッドは語る5題『5.ようやくこの日が』




2016/08/07(P)  :  2016/09/25 加筆修正

 

NOVELS