「そろそろ…だな。」
「そろそろ…ですね。」
「…?」
東京遠征合宿も、もう何度目になるだろうか。
烏野高校排球部の面々も、梟谷グループにすっかり馴染み、
いつの間にか、チームを跨いでの『自主練メンツ』…
『気の合う仲間』の輪が、随所にできつつあった。
当初は半ば強引に巻き込まれた、『第三体育館の会』だったが、
毎日の全体練習後、自然とそのメンツの中に入っている…
そんな自分に、月島は今更ながら驚いていた。
色んな意味で『底なし』の連中は、
ハードな自主練が終わるや否や、すぐに別動隊の所へ…
『二次会』的なノリで、闇の中に消えていく。
残されるのは、いつも決まったメンバー…
音駒の黒尾、梟谷の赤葦、そして烏野の月島だった。
「主将に『お片付け』を押し付けて行くとは…
音駒サンとこの教育、一体どうなってるんですか?」
「梟谷サンのとこは、主将を甘やかし過ぎだろうが。
あの『フリーダム』が許されるって、下の奴らが誤解するぞ。」
「どうでもいいですから、さっさと片付けを手伝って下さい。」
早く『第三体育館』の電気を消してしまわないと、
「まだアソコで遊べる!」と勘違いした、鬱陶しい常夏の虫達が、
再びここに集まって来てしまうではないか。
良くも悪くも、本人達の意思に関わらず、
他人を惹きつけてしまう…それだけの魅力がある人達なのだ。
できるだけ早く、月島はこの『蠅取り紙』のような二人から…
「ツッキーよ。今…めちゃくちゃ失礼なコト、考えてるだろ?」
「月島君だって、十分『ここのメンツ』だからね。
せめて…『誘蛾灯』ぐらいにしておいた方が良いよ。」
…まだ当分、解放しては貰えないらしい。
月島は心底『厭そうな顔』をしながら、早々に片付けを終えた。
そういう顔を隠さなくて良いぐらい…気心知れた間柄になっていた。
体育館の扉の鍵を閉めた黒尾は、虫たちを集める常夜灯を避け、
虫からも喧騒からも遠い、体育館の裏側へと足を運んだ。
学校の敷地と、山林との境界にあるその場所は、
陽が落ちると山風が吹き降りて来て、涼しい風が通り抜ける。
静かな場所で、一日の疲れと暑さをしのぐ…
これこそが、『省エネ派』の3人が大事にしている、
のんびりまったり癒しの時間…『二次会』だった。
誰もこれといって喋ることもなく、静かに虫の声を聴く。
薄い青みがかった月の光が、辺りを白く照らす。
熱が籠っていた体を、涼風が優しく慰めてくれる。
そうやってしばらく月光浴に浸っていると、
黒尾と赤葦が、「そろそろだ…」と呟いた。
その声が何故か、哀愁と緊張を帯びていたことに疑問を覚え、
月島は無言で、「何が…ですか?」と、二人に問うた。
「そろそろ…月が、満ちる頃だ。」
「今日の月は、月齢で言うと…12ぐらいですか?
満月まであと2日ぐらいでしょうかね。」
月島の「見たまんま」の答えに、黒尾たちは顔を見合わせ、
「それは…ちょっと違う」と苦笑した。
「今回の合宿は、1週間の長丁場…今日が5日目。
今夜あたりから、『ピーク』がくるんですよ。」
赤葦の、重いため息。随分…疲れているようだった。
体力的にも精神的にも、疲れが溜まってくる頃合いだ。
合宿の中日だった昨日は、自主練も『強制休養日』であり、
指導者たちを含め、各々『リフレッシュ』したはずだが…
「『メンタル』じゃどうにもならねぇもん、あるだろ?
『物理的』な方法でしかヌけないような…」
「そろそろみんな、『ガマンの限界』が近い…ってコトです。」
体力も精力も有り余る、健康優良なる高校生男児達。
合宿という集団生活の中で、普段のように『発散』できない…
元気が良ければ良い程、ソレは『溜まる』一方なのだ。
いつもなら笑ってスルーする『下世話な話題』だったが、
赤葦だけでなく、黒尾までもが深刻な表情を見せたため、
月島は茶化すことを止め、二人の愚痴を聞いてやることにした。
「実際問題として、音駒サンや梟谷サンは…どうしてるんです?」
「どうもこうもねぇよ。」
「一言で言えば…『だから、ここに居る』ですかね。」
月を眺めながら、二人は淡々と答えた。
「…あぁ、鈍感で申し訳ありませんでした。
僕はこの辺でお暇致しますので、どうぞお二人はごゆっくり…」
棒読みのセリフとともに立ち上がった月島を、
両脇から黒尾と赤葦が抑え込んで、再び座らせた。
「馬鹿、違ぇよ。」
「もしそうなら、今頃月島君も『無事』じゃないでしょうね。」
「…赤葦、ソレも違うだろ。」
何だか、妙なコントが始まりつつあった。
月島は気を取り直して、「それで?」と促した。
「生理現象は、恋愛と同じで『不可抗力』…抗うことなど、到底できやしねぇ。」
「まぁ、恋に落ちるのも、災害といって差し支えないですよね。」
赤葦は、傍に落ちていた木の枝を拾うと、足元にやや大きく字を書いた。
「不可抗力…『抗』という漢字は、手偏…5本の指がある手と、
『亢』…中空に盛り上がった『のどぼとけ』という構成です。
これで、『手を高く上げる』から…『拒否する、断る』という、
意味を持つ漢字になったそうですよ。」
「抗菌薬、抗加齢…『抑え込む』とか『しまい込む』って意味も、
この『抗』には含まれてるんだな。」
高校生男児にとって、最も身近な不可抗力…
無理に抵抗したり、抑え込んだりできないものの代表が、
『ムラムラ』と『ドキドキ』になるのだろう。
余談ですが…と、赤葦はもう一文字書いた。
「恋愛の『恋』は、旧字で『戀』になります。
これは…『誓いの糸を引き合っている』という漢字です。」
「いとし(糸)、いとしと、言う心…ってか。
まさに不可抗力…『運命の赤い糸』な漢字だな。」
つい最近、某所で話題になった『赤い糸』が出てきたことに、
月島は抗うかのように、その文字から視線を逸らした。
「ま、結局の所、俺らが採り得る選択肢は…『抗わない』だ。
無理に抑えつけて、メンタルに悪影響を及ぼしちまったら、
折角の貴重な合宿が、台無しになっちまうからな。」
「つまりは『フリーダム』…というわけですか?」
月に照らされ、跳ねまわる『兎』が、脳内を横切る。
「さすがにあそこまでの『自由』は論外ですよ。
ここには可愛いマネージャーさん達もたくさん居ますからね。
彼女達と許されるのは、『ドキドキ』までです。」
実際、マネージャー達は、先生方に完全防御されている。
ということは、『ムラムラ』の方だけが『フリーダム』なのだ。
「かと言って、ソコら辺で好き放題サカって良し!じゃねぇぞ?
それぞれが個人的に、こっそり『ムラムラ』を解消する時間…
『一人』になれるよう、入浴時間をちょっとずつずらしたり、
『少人数』かつ体育会系な『発散』時間を設けてやるんだ。」
「どの学校にもいるでしょう?こういう時に張り切って猥談したり、
こっそりと『お気に入り』の雑誌を持ち込んでいたり、
スマホに保存した『特選動画集』を披露する人が…」
心当たりは…大いにある。
そういう体育会系な『発散の会』は、少々荷が重いから、
できるだけ遅くまで、宿泊部屋には戻らないようにしている。
「そういう『会』って、『役職』が付いてる人間がいると、ヤり辛ぇもんなんだよな。
立場上、制限しなきゃいけねぇから…奴らも遠慮しちまうんだ。
それじゃあ、全く『フリーダム』の意味がねぇんだよ。」
「だから、そういう『立場』である俺達は、
皆からは『目の届かない場所』で、時間を潰すわけです。」
ウチの『重役』である『主将』は、『お目付役』ではないから、
部活以上に先陣を切って、その『会』を主宰してますけどね。
赤葦のさっきの言葉…『だから、ここに居る』の理由。
個性豊かな(アクの強い)面々の、心身を共に制御していく…
締めるだけでなく、緩める方も、彼らの仕事なのだ。
「『上』も『下』も世話してやらなきゃいけぇね…
『お目付役』ってのは、結構大変な仕事なんだぜ?」
普段の姿からはあまり想像できないが、
黒尾はやはり、『主将の器』を持っているのだろう。
飄々として感情の読めない赤葦でさえ、
心労を隠しきれない程…『大変な仕事』ということだ。
二人に対する評価を『上方向』に修正したことを悟られないよう、
月島はゲンナリした声で呟いた。
「全く…『青春』やってる人は、厄介ですね。」
月島のセリフに、黒尾と赤葦は顔を見合わせた。
そして同時に、両サイドから肩をポンと叩いた。
「恋に恋して『ドキドキ』や、自由に妄想して『ムラムラ』…
これらは、全然『厄介』なうちに入りませんよ。」
「『ドキドキ』はもう卒業。でも、『ムラムラ』の方…
これが『妄想』じゃなくて、『現実的に痛感』の場合が、
一番『厄介』なタイプなんだよ…」
現実的に痛感とは…生理現象というだけではなく、
心身共にそれを現実的に渇望し、且つそれが得られていな状況だ。
「知らぬが仏。『蜜の味』を知ってる奴が、
それが欲しくても得られない『渇き』…こっちのが『地獄』だ。」
「しかも、その『蜜』が目の前にあろうもんなら…
まさに『生殺し』状態ってことです。」
ゴクリ…と、唾を飲み込もうとした。
だが、乾いた喉では、上手く飲み込めず、
それが更に『渇き』を…自覚させてしまった。
「そう言えば…自主練後から、水分取ってなかったですね。
僕、何か飲み物を買って来ましょう…」
この話題からも逃れようと、月島は腰を上げた。
しかし、みたび両肩を掴まれ、囚われてしまった。
「まぁ、そう焦りなさんな。」
「丁度良く、『渇き』を潤すものが…やってきますよ。」
***************
「あ、皆さんやっぱりここでしたか…今日もお疲れさまです!」
カチャカチャした音と共に現れたのは、山口だった。
丁寧に頭を下げ、雑多なものが詰め込まれたカゴを、
3人の前…赤葦が書いた字の横に置いた。
「先生方からの差し入れです。お好きなのをどうぞ。」
カゴから取り出したのは、4本のペットボトル…
オレンジ、パイナップル、グレープフルーツと、カシスのジュースだった。
「さっすが、気が利くねぇ~」
「丁度喉が渇いてたんです…ありがとう。」
例によって、黒尾と赤葦は山口の頭を撫でた。
山口ははにかみながら、今度はビニール袋を取り出し、
こちらもどうぞと、冷えたおしぼりを3人に配った。
「…いやホント、気が利くね。」
「烏野の第三マネージャー…優秀ですね。」
「いやそんなっ、俺なんてまだ『見習い』ですから。」
少々的外れな謙遜をしながら、山口は腰にぶら提げていた蚊取り線香を、
4人の真ん中に置いた。
いつから山口は、『選手兼任マネージャー』になったんだろうか…
月島はその疑問を口に出すことなく、黙ってグレープフルーツジュースを飲んだ。
「それから、黒尾さんには猫又監督から…明日の予定表です。
赤葦さんには、森然の主将さんから伝言で、
『第三体育館の鍵係、明日朝も頼む』だそうです。」
テキパキと業務をこなす山口。
他校の雑用まで仰せつかって来るのは…今回が初めてではなかった。
『第三(体育館専属)マネージャー』…梟谷グループにおける、
山口に対する共通認識…『二次会』の姿だった。
「毎度ながら思うけど、お前さん、ホントに可愛いね。」
うんうんと首肯し、赤葦も黒尾に同調する。
「それ、『可愛い』じゃなくて、『可愛そう』じゃないんですか。」
面倒なお遣いと、『お目付役』の『お目付』まで押し付けられる…
そんな山口が、若干不憫であり、気の毒な気もする。
月島の厳しい指摘に、黒尾が首を縦に振った。
「ツッキー、それ…正解なんだよな。
『かわいい』は元々、『不憫だ』とか『気の毒だ』って意味だ。」
「古語の『かほはゆし(顔映ゆし)』が短縮されて『かはゆし』。
口語で『かはゆい』から『かわいい』になったそうですよ。」
「映ゆしは…目映い、っていう意味ですか?」
「相手の地位などが、まばゆいほどに優れていて、顔向けしにくい…」
「つまり、『正視できないけど、放っておけない』感覚…かな?
それが転じて、不憫だとか気の毒だとか、『見ていられない』って意味になった…?」
「小動物とか子供だとかを『かわいい』って思う感覚…
『助けてあげたい』『守ってあげたい』に近いんだろうな。」
この『かわいい』は、理解できる。
だが、『愛らしい』という、一般的な『かわいい』…
『かわいそう』とは逆の意味に転じた理由が、いまいちわからない。
「その点については、はっきりわかってないそうです。
『可愛い』という漢字も、当て字だそうですから。」
「『可』の字は、『不可抗力』の『~できる』じゃなくて、
『~するのが良い』っていう意味だろうしな。」
「『愛でるが良し』『大切にするが良し』…
そういう存在が、『可愛い』ってこと…なんでしょうか。」
普段よく使う言葉…特に女性は広範かつ高頻度で使用する言葉だが、
その語源や由来を深く考えたことはなかった。
体育会系の行き過ぎたシゴキを『可愛がる』と言ってみたり、
『ブサ可愛い』だとか『エロ可愛い』になると…混乱の極みだ。
「『可愛い』が含む範囲と、その表現の幅が広すぎですね。
結局、山口がどう『可愛い』のか…全く不明です。」
憮然とした月島の言葉に、山口は複雑な顔をした。
「『可愛い』の表現と言えば、フランス語でしょうね。」
「さすがに『愛を紡ぐ言語』と言われるだけあって、
ありとあらゆる種類の『可愛い』が存在するんだよな。」
月島が醸した『可愛くない』雰囲気を払拭すべく、
黒尾と赤葦は強引に『可愛い』話へと戻しに掛かった。
「俺、英語もギリギリだから、フランス語なんて…
テレビで時々聞くぐらいだけど、確かに『甘い』感じはするよね。」
意味はわからない。単語も知らない。
でも何故か、『甘い声』に感じてしまう…フランス語。
「それはきっと、フランス語の『鼻母音』が原因かもしれません。
鼻母音は、簡単に言うと、鼻に抜ける『あいうえお+ん』…
発音し終わった後に、舌が口の上に付かないものです。」
「無理矢理文字で書くとすれば、『ァン~』『ゥン~』…
単純明快言葉で言うとすれば、鼻に抜ける『喘ぎ声』に近い。」
これもまた、某所で出て来たのに『近い』話題だ。
月島と山口は、それぞれ驚きの表情を見せた。
「『鼻に抜ける音』がほとんどないのが…広島弁だ。
瀬戸内出身の、俺の親戚の奥さん…大学のフランス語の授業で、
どうしても鼻母音が発音できず、相当苦労したらしいぜ。」
「喘ぎたいのに喘げない…それはそれで『可愛い』ですね。」
随分とオトナな赤葦の感想に、山口は頬を染めて俯いた。
「で、フランス語の『可愛い』だが、子どもや小動物に使うのが…
『Petit(プティ)』っていう愛情表現だ。」
「あ、小さいものを『プチ~』っていう…!」
「『美しい』というニュアンスを含むと、『Belle(ベル)』です。」
「湘南を拠点とするサッカーチーム…『美しい海』ですね。」
「あと、俺たちでも知ってるのが…『Chouchou(シュシュ)』だな。」
「あ…女性が髪を束ねる、あのくしゅくしゅした髪飾り!!」
「『Favori(ファヴォリ)』は、英語の『Favorite(フェイヴァリット)』…
『大好き』という意味も含む『可愛い』です。」
「色っぽい女性を『コケティッシュ』と言うのは、
フランス語の『Coquette(コケット)』…『オシャレな可愛さ』だな。」
「そして、『完璧な可愛さ』を表すのが『Parfait(パルフェ)』です。」
「英語で…『Perfect(パーフェクト)』ですね。」
こうしてみると、あまり馴染みのないフランス語でも、
日常的に使っているものもあり、英語にすると理解できるものもある。
外国語を『単語』として覚えようとすると、苦痛でしかないが、
身の回りから広げていくと、案外すんなりと入ってくる。
「この『完璧』の名を持つフランスのリキュールが、
『Parfait Amour(パルフェ・タムール)』…『完璧な愛』だ。」
「『パルフェ・タムール』を使った有名なカクテルが…」
赤葦は、スっと右腕を伸ばし、頭上を指示した。
「『ブルー・ムーン』…です。」
***************
「今宵の貴方には…こちらを。」
シェイカーを静かに傾けた赤葦は、
淡く輝くグラスを、黒尾の前に差し出した。
「これは…『ブルー・ムーン』か。
さすがマスター、良くわかってるねぇ。」
スロージャズが流れる店内。
明るさを抑えたダウンライトに、薄青いグラスをかざすと、
黒尾は軽く口を付け、満足そうに微笑んだ。
「…美味い。」
「恐れ入ります。」
「…とか言うシチュエーションが、しっくりくるんだけどな。」
「残念ながら、俺達にはほんのちょっとだけ、早いですね。」
突然始まった、赤葦と黒尾による『バーテンと常連客』ごっこ。
月島と山口は茫然と見ていることしかできなかった。
ツッコミを忘れる程の…ハマりっぷりだったのだ。
「媚薬効果もあると言われるリキュール…
『パルフェ・タムール』と、カクテルにまつわる酒談義は、
お前らが成人したお祝いの席まで…オアズケな?」
「た…楽しみに待ってます!!」
グラスをぶつけ合う振りをする、黒尾と山口。
まさか、その時まで…このメンツで集まり続けるつもりなのか。
「現実的には『渇き』を癒せない現状では、
ごっこ遊び…『妄想』でもツラいですからねぇ?」
意味ありげな目配せをしつつ、バーテン・赤葦はシェイカーを振るった。
「お客さんには、こちらの『ブザム・カレッサー』を…どうぞ。」
マスターから渡された、黄金色のカクテルグラスを、
月島は思わず受け取ってしまった。
この人は意外と、ノリがいいのかもしれない。
いや、人をノセるのが…巧いのか。
グラスに口を付けると…何だかほんのりと、酔ったような気分になってきた。
半分ほど空けたグラス越しに、美味しいです…と、視線を送った。
「マスターは、客の『渇き』を『癒す』のが仕事ですが、
マスター自身の『渇き』は…どうするんです?」
常連の黒尾が連れてきた客…月島は、
先程は訊き難かった事を、酔いに任せて聞いてみた。
「そうですね…一番の方法は、『渇き』を自覚しないですむ様に、
『多忙』にどっぷり浸ってしまう…でしょうか。」
自らに課せられた『役職』を勤め上げることで、
自己を消し去り…『渇き』に抵抗し抑え込む、ということだ。
「…で、『職務』から解放された瞬間に、
『浴びるように』貪り尽くすんだよな?」
「そこは…ご想像にお任せ致します。」
何とも蠱惑的な、マスターの微笑み。
この人にこそ、本当は『適度なヌき』が必要なのかもしれない…
「『職務』からの解放も、メンタルには必要。
でもな、『職務』があることで、抗えるものもある…」
強制休養日が設けられていた意義を、月島と山口は思い出す。
重い責任を負う『役職』付の人間にこそ、
そこから解放される時間が必要だった。
だが、解放されたら、今度は抑圧されていた自己…
『欲』が、顔を出してくるのだ。
どちらにしても…苦しいのだ。
「マスターは、真面目過ぎるんだよ。
俺みたいに…こいつら弄って遊んで、気分転換しろよ?」
「そう…ですね。お客さん達と話してると、気が楽になります。
宜しければ…また、当店にいらして下さいね?」
紛れもない赤葦の本心に触れ、月島と山口はコクリと頷いた。
「ところで、こちらの可愛らしいお客さんは…
どうやって『渇き』を癒すおつもりですか?」
マスターの言葉に、山口は困ったような表情をした。
『月が満ちる』話をしているときに、山口はいなかった。
だが、『バー』での会話で、大体の雰囲気は察したようだった。
「俺は…マスターみたいに強くないですし、まだ見習いなんで、
マネージャーの『職務』だってそんなに忙しくないです。
だから、『渇き』を感じるものから、出来るだけ目を逸らして…
不用意に近付かないように…してます。」
「目の前にあるのに、その『渇き』を癒せない…
ならば、極力それを見ないようにする…か。
健気で不憫…ホント、可愛いな。」
黒尾は山口の頭を優しく撫でると、
「マスター、あれを。」と、赤葦に目配せした。
「そんな貴方には、こちらを…」
マスターは山口に、新しいグラスを渡そうとした。
「あ…俺、まだお酒は…」
律儀に断ろうとするが、マスターは山口の手を取り、やや強引に握らせた。
「ご安心下さい。これはノンアルコールですから。」
マスターは、山口が持ってきた4本のペットボトルを並べた。
「オレンジ、パイナップル、グレープフルーツのジュース。
そこに、グレナデン(ザクロ)またはカシスを一振。
これらをシェイクしてして作るのが、
『プッシー・キャット』というカクテルです。」
「意味は…『可愛い子猫ちゃん』だよ。」
「さて…と。俺はそろそろ帰るわ。まだ『お勤め』が残ってるからな。」
「それでは…今晩は店仕舞いして、私も上がらせて頂きます。」
席を立つ黒尾に続き、赤葦もグラスを片付けて立ち上がる。
「あ、じゃあ俺達も…」
同じ様に立ち上がりかけた山口。
その時、「おっと…」と、酔いで足元が覚束無い黒尾が、
山口の肩にドンッとぶつかった。
「ぅわっ!?」
「…っ!?」
山口はその勢いで、倒れそうになり…
まだ座っていた月島は、咄嗟に山口を受け止めた。
「おぉっ、悪ぃな~これは『不可抗力』だ…赦してくれや。」
「お客さん達は、もう少し飲んで…
『渇き』を癒していって下さいね。」
そう言うと、常連客とマスターは、店から出て行ってしまった。
***************
座ったままの、月島。
その脚の間に、後ろから抱え込むような形で、山口。
酒の余韻に浸るかのように、暫く放心していた。
「な…何だったんだろ…」
「これも、いわゆる『酒屋談義』だったのかもね。」
実際には、薄暗い体育館の裏で、当然酒もない。
だが、心地よい静けさと、落ち着いた青い月明りという、
『雰囲気』だけは、完全に…『バー』だった。
「もしかして、これが…『ロール・プレイング』による心理療法、なのかな?」
現実に近いシチュエーションを設定し、
参加者に特定の『役割』を演じさせる…『心理劇』だ。
この『ごっこ遊び』を経ることで、心理的に癒す技法である。
「あの人達が癒されたのなら…それでいいかもね。」
赤葦さんのバーテン姿…見てみたいよね。
山口がクスクス笑う。
それにつられて、目の前のうなじが月明りに曝される。
月島は思わずそこから目を逸らし、月を見上げた。
今日、黒尾達が『月が満ちる』話をするまでは、
自分の『渇き』について、ほとんど自覚していなかった。
そんな暇もないぐらい、ハードな毎日だったし、
合宿慣れしていない一年生には、暇を感じる余裕すらなかった。
だが、そこには、大きく欠落している要因があった。
ふと気を抜いた瞬間に、『渇き』を自覚する存在…
山口の姿が、視界に入ってきていなかったのだ。
バーテンの問いに、山口が答えていたではないか。
「できるだけ目を逸らし、不用意に近づかない」…と。
それは、こちらの目にも入らないようにする…という、
山口の精一杯の努力…『抵抗』だったのではないか。
その不憫なまでの健気さと、久々に触れた肌の感触に、
焼け付くような『渇き』を自覚した。
「ツッキーの顔が、見えなくて…よかった。」
何かを耐えるかのように、体を縮こまらせ、
逃げるように、顔を膝に埋める山口。
搾り出すような声は…掠れ震えていた。
「もし見えてたら…多分、耐えられなかった…」
蚊が鳴くような小さな声で、痛切な心情を吐露する。
身を焦がす程の熱情が、その声から伝わってきた。
あぁ…こんなにも、自分は『渇望』されているというのか。
それに気付いた瞬間、渇いていたはずなのに、
とてつもなく暖かいものに満たされた気分になった。
突き上げる情動に、自分を満たす存在を、抱きしめる。
「っ…!!?」
驚愕で硬直する山口。
『必死の抵抗』を無駄にする月島から逃れようとするが、
月島は更に強く、山口を抱き込んだ。
「ごめん山口…ホントにごめん。これは…『不可抗力』だから…」
もう少しだけ、このままで…
- 完 -
**************************************************
※カクテル『ブザム・カレッサー』の意味 →秘めやかな抱擁
※この直後のクロ赤 →『隣席接客』
※ラブコメ20題『11.どうしようこの人かわいすぎる』
2016/03/25(P)
: 2016/09/11 加筆修正