半月之風







「どうしよう…まだまだこんなにあるよ…」


今朝、自宅の玄関をノックした時よりも、更に丁寧なリズムで、
兄の事務所のドアを叩いてみたのだが…返事がない。
もう二度程…合計6回叩いても音沙汰がない。
仕方なくドアノブに手をかけてみると、抵抗なく開いた。

室内を見回すと、パーテーションに囲まれた上部にだけ電灯が点いており、
そこから、ガサガサ、バサバサという音とともに、泣きそうな声…
文字通り『泣き言』が聞こえてきた。


「もし間に合わなかったら…いやいやいや、それは絶対許されない…
   とりあえず、今日は徹夜かな…」

昔はよく聞いていた、おどおどとした声。
久々に聞いたその上擦った声に、懐かしさと…何故だかすごく、安堵した。


「そんなに切羽詰まってたら、ミスするよ?
   少し休憩を取ることを…強くお奨めするね。」

パーテーションの端を軽くノックしながら、顔を出す。

返事がなかったから、勝手に上がらせてもらったけど…
不用心だし、留守番バイト失格だよ?


突然の来訪者に、作業に没頭していた山口は、飛び上がって驚いたが、
月島の顔を見るや否や、表情をくしゃりと崩し…飛び付いてきた。

「つっ…ツッキィィィィィィィーーーっっ!!!」
「おっと…!」

数日前も、コンビニから帰宅した際、玄関先で…こうして飛び付いてきたっけ。
あの時の『歓喜』の声とは少し違うが、『歓迎』されているのは間違いない。
力いっぱい背中に腕を回し、胸に頭を擦りつけてくる仕種…
頭のクセ毛が耳に見え、ぶんぶんと尻尾を振り回す音まで聞こえてきそうだった。

あぁ…旅先から帰宅したら、飼い犬が盛大に歓待してくれた時の、
申し訳ないやら嬉しいやらという、複雑な飼い主の気分が…これか。

出て行ったのは『忠犬』の方なのに、何故か僕の方が罪悪感を感じてしまい、
よしよし…と、山口が落ち着くまで、頭と背を撫で続けた。


「ツッキー…来てくれて、ありがとう。」

ぽつりと小さな声で呟くと、山口は僕のシャツで目尻の涙をこっそり拭くと、
いつも通りのヘラヘラ顔で僕を見上げ、お茶入れて来るから待ってて!と、
給湯室へとパタパタ掛けて行った。

「何で来たの?って言われなくて…よかった。」

山口の姿が見えなくなってから、僕はこっそりため息を付き、
山口の温もりが残る胸を、そっと撫で下ろした。


差し入れた高級カップアイスと、渋めの緑茶を啜りながら、
僕は山口から、今回の『詳細』を聞いた。

山口は、僕とどう『お付き合い』していいか悩んだ挙句、出て行ったこと。
それは決して悪い意味ではなく、僕との『将来』を見据えた上…
つまり、『もっと先を前提としたお付き合い』を考えての行動だった。

ただ、そのために選択した方法…公正証書による遺言作成が、
少々一般的ではなかったため、あらぬ誤解を招いてしまったのだが。

「俺が『思い付き』で行動しちゃったばっかりに、こんなことになって…
   ウチはともかく、ツッキーや月島のおじさんおばさんには、本当に申し訳ないよ…」
「いや、どちらかというと…事態を煽ったのは月島家だろうからね。」

特に、この状況を利用して、何やら『策』を投じたのは…あの人だ。
目の前に山積する書類の山をスプーンで指しながら、僕は問い掛けた。

「それで、この見るからに『修羅場』っぽい原因を作った、月島家長男は…
   一体何を、山口や黒尾さんにやらせようとしてるんだい?」
「俺は、最初から明光君とこのバイトを、本格的にやろうって思って来たんだけど…」
まさか、こんなことになるなんて…全然予想してなかったんだよ…
そう前置きして、山口は順を追って現状を説明した。

今回の仕事は、五輪の『地』…来るべき東京五輪を契機とする、
都内某ターミナル駅前再開発に伴う、取得用地の相続登記に関する仕事であること。
開発業者から仕事を請けた明光の事務所は、膨大な雑務をこなす実働部隊として、
同業のサムライ(見習い)である黒尾と、元々バイトをしていた山口を使っていること。
そして、この仕事を機に、黒尾は当事務所の東京支部として開業し、
山口は黒尾先生の補助者として、正式に登録されることになったこと…

話が進むに連れ、事態が全く予想していなかったような規模に膨らみ、
流石の僕も、突っ込むタイミングすら忘れ、ただただ聞き入るしかできなかった。


「…というわけで、俺と黒尾さん、明光君の三人は、只今『納品ド修羅場』なんだ。
   元々はもっと時間的にも余裕があったはずなんだけど…」
山口家と月島家の『誤解』と『思い込み』で、カツカツの状態に…

「ただ単に巻き込まれただけの黒尾さんを、修羅場まで引き込んじゃって…」
俺は自業自得だからまだいいけど…黒尾さんに申し訳なくて。

仕事終わんない…修羅場の出口が見えないからって、ぐずぐず言ってられないよね。
勇んで飛び出して来たのに、カッコ悪い所をツッキーにも見られちゃうし…
俺、ホントに自分が情けなくて…ごめんね。

鼻を啜りながら、頭を垂れる山口。
小さく震える肩に、慰めるようにそっと触れる。

「山口は悪くない。お前は一生懸命、僕の…僕達のために、動こうとしただけ。
   それが、思いもよらない大きさに膨張した…怖くなって当然だよ。」

怖くなったのは…僕とて同じだ。


仙台駅で黒尾に捕獲された際、黒尾は山口や両家のことだけを案じ、
自分については何一つ言わなかった。
だが、事態を冷静に俯瞰してみると、窮地に立たされていたのは…黒尾の方だ。

いきなり突撃してきた兄に、強引に巻き込まれてしまったのもあるが、
黒尾がこの事態に首を突っ込んだ『元々』の理由は、僕達を心配してのこと…
行き過ぎたお節介…つまり、多大な親切心から、動いてくれたのだ。
『開業のチャンス』など、後から付いてきた『おまけ』に過ぎない。

だが、『おまけ』とは言え、これ以上ないぐらいの『チャンス』には違いない。
運よく転がり込んで来たチャンスをモノにしようと、必死に奮闘しているはずだ。


もしあの時、劫火に煽られるがまま、実家に帰省していたとすると…

僕達二人と、山口・月島両家の仲がズタズタになると、黒尾は憂慮していたが、
どちらも『元々』物凄く仲が良いし、誤解が解けたら、修復は十分可能だ。
むしろ、ただの『笑い話』として終わってしまう…そのぐらいの仲の良さなのだ。

しかし、両家の暴走によって、明光や黒尾の仕事の足を引っ張ってしまった場合、
その被害たるや、とても『笑い話』では済まされなかった。
請け負った仕事は、ただの雑務かもしれない。だが、その仕事の先には…
黒尾の夢。明光及び事務所の信用。そして、駅前再開発事業。
それら全てが、水の泡と消え…莫大な損害賠償を抱える可能性すらあったのだ。

些細な反抗と嫉妬、そして誤解が、壊すかもしれなかったもの。
この事実を知って、怖くならない方が…どうかしている。



「僕は本当に…自分が情けないよ。」

月島の口から落ちた言葉に、山口は「え?」と不思議そうな顔をした。
何でツッキーが…?と尋ねる前に、山口は月島の腕の中に包まれていた。

驚く山口を腕に閉じ込めたまま、月島は絞り出すように、だがはっきりと…
自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぎ始めた。


「今回の事態…『元々』の原因は、僕にもあるかもしれない。
   僕が山口を延々待たせた結果…山口は迷い、勢い余って帰省してしまった。
   これを利用したあの人には、言いたいことが山程あるけど…
   こんな『策』を練ったのは、僕の子どもじみた反抗心があったからだし。」

自分がさっさと、異常なまでに強い羞恥心を捨て、山口に想いを伝えていれば。
兄が『可愛い弟達』のことを、何よりも優先してくれていると…素直に認めていれば。
実の兄と同様に、『二人の兄貴分』の支えがあったことを、ちゃんと自覚していれば。

「僕が子どもだったばっかりに、大切な人達を…傷付けるところだったんだ。」

抱き締めていた手を緩めた月島は、今度はその両手を山口の頬に添え、
正面から真っ直ぐ、その瞳を見据えた。


「僕がここに来た『元々』の理由…山口を絶対、手放したくなかったからだよ。」

僕なんかより、黒尾さんの方が、山口を幸せにできるだろうけど…
それでも僕は、山口と一緒じゃなきゃ嫌だ。

驚愕で見開かれた瞳から溢れ落ちた涙が、頬に添えた手に触れた。
指先でその雫を拭うと、月島は力強く言葉を続けた。

「山口に、黒尾さんと赤葦さん、両家の家族に…勿論兄ちゃんも。
   僕の大切な人達を、僕はもう…傷付けたくない。」

あの人達に対して素直になるには、まだまだ時間が掛かるけど、
僕の『重度の照れ屋』という慢性疾患が、誰かに致命傷を与える前に…
少しずつ改善するように、努力していくから。


真摯な月島の想いに、山口は静かに頷いた。
その動きで再度零れた滴を、月島は優しく微笑みながら指で掬った。

「僕に今できることは…山口の仕事を手伝い、この事態を乗り切ることだよ。
   僕も精一杯頑張るから、仕事の指示を出してくれる?」

僕の要領の良さと飲み込みの速さ…山口は熟知してるよね?
それに、一人で徹夜の納品修羅場よりも、二人の方が…ずっと気が楽でしょ。

「ツッキーが手伝ってくれると、すっごい助かるし、
   一緒に居てくれることが、何よりも嬉しい…よ。」

頬を両手で包まれたままの山口は、たどたどしくしか言えなかったが、
みたび零れて来た露が、その歓びを如実に表していた。


月島は、頬に添えた手をゆっくりと引き寄せ、額に額を付けた。
焦点が合わない程の至近距離から、山口の瞳を覗き込む。

「僕達は、『一緒』じゃなきゃダメ…なんだよ。」

それこそ、僕らが『単品』だと親達がパニックを起こしちゃうぐらい、
二人で『一緒』が…当たり前なんだよ。

「置手紙に、『時間を下さい』…山口は待ってって書いてたけど、
   傍に居て…二人で一緒に、今後のことを考えようよ。」

それぞれが突っ走ると…今回みたいなことになっちゃうかもしれないし、
何よりも…一方的に待つのも待たせるのも、お互いもう懲り懲りだしね。

「ずっと一緒に居られるよう…目の前の仕事、頑張ろう。」
「…っ!!!!」


感極まり、声を失った山口は、ただただ何度も、頷くだけだった。
感嘆とも嗚咽とも言えない息の塊を、肩から吐き出すと、
そろりと腕を伸ばし…月島のシャツを掴み、静かに瞳を閉じた。

閉じられた瞼を縁取る、艶やかな睫毛を伝って滑る涙。
それを唇で受け止めると、月島もそっと瞳を閉じ、その唇を合わせ…



「たぁーだぁーしぃーーーっ!!ただいま~~~!どう?作業は順調かな?
   …って、あれ、蛍も来てたの?ひっさしぶり~!!」

蛍がココに居るってことは、黒尾君は上手く火を消してくれたんだね~!
いやぁ~よかったよかった!!一時はどうなるかと思ったけど…
何とかなりそうなカンジじゃん。ホントよかったよ~!
あ、アイス買って来たけど、蛍と忠も食べない?


バタバタと音を立てながら、大声で事務所内を闊歩する明光。
給湯室の冷蔵庫に頭を突っ込む姿に、掠れた声が掛かった。

「ねぇ明光君…もしかして、ツッキーのウチに…
   黒尾さん達にも、こうやって『突撃乱入』したんじゃ…?」

「実は、そうなんだよね…そんなつもりは全っっっ然なかったんだけどさ、
   運悪く『大人の事情』ならぬ、『オトナの情事』の真っ只中で…」

さすがの俺も、ちょっとビックリしちゃったよ~
チラっとしか見てないけど、黒尾君ってばホントに惚れ惚れするカラダしてるし、
布団に隠れてても、赤葦君の放つ色気といったら…クラクラっとよろめきそうで…

今更ながら、あんなドEROい二人と、お前らが知り合いなんて…信じ難いよね。
4人で『下方向』の雑学考察ばっかりしてないか…兄ちゃん心配なんだけど。


ミルクアイスを咥えながら、『言いたい放題』の兄。
月島と山口は顔を見合わせ、深~~~~くため息を付いた。

「明光君の『乱入』慣れしてる、身内の俺らでも、これは…許容範囲外かも。」

慣れている自分達でさえ、怒りの絶叫を抑えるのに必死なのだ。
付き合って三日目の、幸せ絶頂時に、コレを喰らってしまったとすると…


「兄ちゃんだけは、『火』蛇に燃やし尽くされても…文句言えないから。」
「今回の一番の被害者は、間違いなく…赤葦さんだよね。」

はたして、五大シャトー程度の供物で、鎮火できるのだろうか…
二人は心の中で、激昂の炎熱を内に秘める火蛇に、深々と手を合わせた。




***************





「黒尾君の方も、どうやら上手くいきそうみたいだよ。
   本日中にアポを取れたものは回収終わって、明日昼には任務完了の予定だって。」


明光の事務所で黙々と作業を続けていた、月島と山口。
黒尾から入った「順調です」という連絡に、ホッと安堵のため息を付いた。

「よかった…あっちも大変そうだったから、心配してたけど…」
「黒尾さんだけならアウトでも、赤葦さんがサポートに付いたなら…安心だよね。」

黒尾担当の仕事内容をざっと聞いた月島は、こっそりと冷や汗を流した。
自分では、とてもそんな『手回し』はできない…一緒に『お手上げ』するところだ。
敵の時は、何度も痛い思いをさせられたが、味方にするとこんなにも頼もしい…

「何かを成そうとする動機があった時の、情熱とパワー…
   本当に赤葦君は、五大の『火』だったんだね。」
黒尾君じゃなくて、赤葦君こそ…俺の『補助者』に欲しいぐらいだよ~と、
明光は笑いながら、こっちの状況は?と弟達に確認した。

「こっちも、あと30分ぐらいでキリが良いよ。そこまでできたら…
   残りは明日の午前中で、十分間に合うだろうね。」
「本当に、ツッキーが来てくれて良かった…
   相変わらず、処理能力の高さと速さは断トツ…さすがツッキーだよ!」

「うんうん、俺の弟達も優秀で…兄ちゃん嬉しいよ。
   それじゃあ、俺らも一旦手を休めて…ピザでも取ろうか!」
明光の提案に、弟達は「やったぁ!」とハイタッチをし、
渡されたチラシから、好きなものを好きなだけ選び、宅配の電話を掛けた。



「そう言えば、『火』の蛇に関する話を、赤葦さんとしたんだけど…」

刺激的なソーセージが乗ったピザを口に運びながら、
月島は今朝、熊野神社で赤葦と考察した内容について、明光達に概説した。

「熊野の神々は、『水』蛇なのに、『火祭』…確かに、不思議な話だね。」
「う~ん、相変わらず面白そうなネタを考察して…兄ちゃん羨ましいぞ!」

弟が取ったのとは反対側…半円の対角にあったコーンたっぷりピザに食い付きながら、
明光は「ヒントになりそうな話は…」と、突如『昔々…』を語り始めた。


    今から1000年以上の昔、それはそれは美形の、安珍という若い山伏がいました。
    熊野に参詣に来ていた安珍…一夜の宿を借りたのは、熊野国造の家でした。
    その家の娘・清姫は、安珍に惚れてしまい、女だてらに夜這いをかけて迫ります。
    安珍は「参拝中の身ですから…」と断り、「帰りには立ち寄りますから」と騙し、
    その場から逃げ…参拝後も立ち寄らず、帰ってしまいました。

    騙されたと知った清姫は怒り、裸足のまま安珍を追い掛けます。
    追いついかれた安珍は、「別人だ」と嘘に嘘を重ね、逃げ回ります。
    怒りのあまり蛇身に化けた清姫は、火を吹きながら安珍を追い、
    恐れた安珍は、近くの道成寺に逃げ込み、鐘の中に隠れます。
    しかし清姫は安珍を赦さず、その鐘に巻き付き、安珍を焼き殺してしまいました。
    その後清姫は、蛇身のまま入水しました。



「…これは、道成寺に伝わる『安珍・清姫伝説』っていう話だよ。」

能の『道成寺』や映画…女性の怨念をテーマにした、多くの作品の題材になっている。
上田秋成の『雨月物語』にも、この話を元にした『蛇性の婬』という中編がある。

「鐘に巻き付いて、火を吹く蛇…『百鬼夜行図』で有名な鳥山石燕の浮世絵に、
   『道成寺鐘』っていうのがあったような…」
山口の言葉に、その通りだよと明光は頷いた。

「道成寺…どこかで聞いたことがあると思ったけど、その絵で思い出したよ!
   そのお寺を創建したのは、文武天皇とその妻…藤原宮子だよ。」
「藤原宮子…『髪長姫』だ!!」

高校時代に4人で語り合った、髪長姫・ラプンツェル。
きっかけとなった課題図書『ラプンツェルの飼育法』を提示したのは、明光だ。
課題図書研究の際、月島は日本の髪長姫・藤原宮子のことを知り、
その調査過程で、同じ道成寺縁起にまつわる『安珍・清姫伝説』に触れていた。

「まさか、こんなところで繋がるとは…ちょっと僕もびっくりだよ。」
弟達が真面目に『課題』に取り組んでいたと知り、兄は思わず涙ぐんだが、
ネクタイの端で涙を拭うと、話の続きを始めた。


「火蛇になった清姫は、熊野国造の娘…つまり、ニギハヤヒの末裔だ。
   熊野の神と思われる大国主と、『元々』は同じ…地祇だね。」

明光は、新幹線で黒尾と語った五大の『地』…
日本に『元々いた神』である『地祇』について、軽く説明した。

「熊野の神…大国主は、『地』で『水』で、そして『火』の蛇…?」
「色んな性質を持つにせよ、『元々の神』は、『蛇』ってことだね。」

熊野国造の清姫が、火蛇になったのであれば、
熊野の祭が『火祭』というのもわかるが…納得するには、まだ足りない。
黙って考え込む月島と山口に、明光は新たな問いをした。


「『水』と『火』…足すとどうなると思う?」

「お湯が沸きそうですね…と、赤葦さんは言ってましたが…」
真夏の太陽の下、沸騰しそうな脳で、赤葦はそう呟いていた。
冗談半分でそれを告げると、明光は「まさにその通りだよ!」と手を叩いた。

「『熊野』…この漢字、別の読み方をすると…『ゆや』になる。
   このことから、『湯屋』や『湯谷』の字をあてることもあるんだ。」

また、熊野本宮大社が『元々』あった場所は、熊野川の中州…『大斎原』だ。
この読み方は『おおゆのはら』であり、『大湯原』とも表記される。

「熊野信仰の中心に…『湯』があった…ってこと?」
「熊野は…温泉地だった?」

確かに、河原を掘ればお湯が沸き出る川湯温泉とか、有名な温泉郷だけど…
『湯』って、それだけじゃないんだよね。

「鋳物を作る時の、鉄などの金属をどろどろに溶かした材料…これも『湯』だよ。
   型枠に溶けた金属を流し込むことを、『注湯』って言うからね。」

「ということは、熊野の神々は、鉄…タタラに関わっていた…?」
「だとすると、熊野の祭が『火祭』なのも、十分理解できるね。」

そして、その火を制御するのは…『風』だ。
だからこそ、『火祭』のことを『扇祭』…扇ぐ祭というのではないのか。

「熊野の神は…『風』を操る蛇でもあるんだ…」
「主祭神の一人、『スサノオ』は、『すさ』…荒れすさぶ嵐…風神の代表格。
   間違いなく、『風』蛇になるよね。」

熊野には、山…『地』があり、川と滝…『水』もある。
そこで行われる祭りは、『風』が司る『火』の祭だ。
地・水・火・風、4匹の蛇が集うこの場所…その中心となるものは…

「熊野の神は…製鉄に関わる神様…!?」
「歴代の天皇が、熊野を特別視してきたのは…これが理由だね。」

日本の歴史を語る上で、『製鉄』『タタラ』というキーワードは、絶対に外せない。
鉄は武力と財力の源…鉄を制するものが、国を制するのだ。

息を飲む弟達に、明光は静かに告げた。

「『スサノオ』は『州砂の王』…朱砂すなわち、砂鉄の王だよ。」


五大の蛇から、まさか熊野の姿が…日本の歴史が垣間見えようとは。
全く予想しなかった『元祖・雑学考察』の流れに、三人は言葉を失った。

国を奪われた大国主達『地祇』は、鉄を巡る覇権争いに敗れ、恨みを抱き…
『元々いた神』として、後から祀られた神々なのかもしれない。
溶けた鉄のようにドロドロとした歴史の深淵に、寒気すら感じてしまった。



「こうしてみると、やっぱり…黒尾君は『風』の蛇だね。」

場に溜まった空気を流すように、明光は大きな声を出した。
「物凄いパワーを秘めた『火』…赤葦君を制御し得るのは、黒尾君だけだ。」

半分食べ、半分残ったピザ…五大の『風』は、『半月』の形だったね。
しかも、五輪塔の『風輪』は、『黒』で塗るんだよね。
パチリとウインクする明光に、月島と山口も肩の力を抜いた。

「僕は、赤葦さんがやっぱり『火』だというのも…更に納得したよ。」
半月から切り取った『赤』い『三角』…ピザの一切れを口に入れ、月島は微笑んだ。

「『火』蛇の清姫は、その情熱で鐘を溶かした…」
「『鉄(朗)』を溶かすのは…熱い熱い赤(葦)の…『火』だね!」

火を操る風。その風に煽られた火は…鉄を溶かす。


「何とまあ、恐ろしくパワフルというか…強烈にお似合いの二人だね。」

呆れ返った明光の言葉に、三人は声を立てて笑い合った。





***************





翌日午後、権利者の署名を回収し終えた黒尾と赤葦は、事務所に帰還…
それを待ち構えていた月島・山口と共に、各種書類を纏め上げ、
予定通り午後3時に完成…明光は事務所の別動隊にそれを渡しに行った。

明光と成果品を送り出してから30分…
緊張2割、疲労8割という配分で、4人はぐったりと沈黙していた。

魂が抜けきった表情で天井を見つめていると、階下からドタドタという足音…
毎度ながらの乱入に身構えると、明光が満面の笑みで飛び込んで来た。


「みんなお疲れさま~!!無事に別動隊のサムライ…司法書士に納品できたよ!
   これからすぐに登記手続…仕事早いっ!って、依頼主のデベも大喜びだよ~!」

無事納品完了…この言葉が、どんなに嬉しいか。
4人は盛大に安堵のため息を付き…そして、顔を見合わせてハイタッチした。

「よっしゃぁっ!!」
「よかった…っ!!」
「何とか、なりましたね…」
「どうにかこうにか、ですけどね。」

司法書士から、君達にご褒美のケーキを買って貰えたから、お茶にしよう!
明光の言葉に、山口と月島は立ち上がって給湯室へ向かい、
黒尾と赤葦は雑然としていた応接テーブル周辺を、さっと片付けた。


実に和やかな雰囲気で、名店のショートケーキ(月島太鼓判)と、
熱いコーヒーを満喫…一息付いたところで、明光は鞄から大きめの封筒を出した。

「それじゃあ、残った『お楽しみ』と『懸案事項』について…皆で考えよっか。」

『お楽しみ』の方は良いとして、『懸案事項』など…あっただろうか?
4人が首を傾げていると、明光は呆れ返りながら、封筒から紙を出した。

「今晩の『月島・山口二家族会議』が残ってるでしょ!
   蛍達にとっては、こっちの方がむしろ『メイン』だよ…」

その前に、まずは『お楽しみ』について説明するね…と、
明光は取り出した紙をテーブルに広げた。

「これは…建物の図面か?」
「非木造3階建…そこそこの広さの…事務所と、賃貸部分ですか?」

図面を見た赤葦は、瞬時にそう答えたが…他の3人は、キョトンとしていた。
聞いたことはなかったが、どうやら赤葦は、建築系に明るい…のかもしれない。


「赤葦君の言う通り、これは1階が事務所、2階と3階がそれぞれ2LDKの住居。
   元の持ち主が設計事務所を1階で開き、2階を自宅に。3階は賃貸にしてたんだ。」

ここは、今回の依頼主が別の駅前再開発のために取得してた建物なんだ。
事業は開始してるけど、実際に建物取り壊しは3年後にスタート予定。
それまでの間、誰かに貸しててもいいけど…短期間だし店子とモメたくないし、
そのまま『空き家』として放置しとくはずの物件だったんだけど…

「昨日デベと交渉して…この物件を3年間の期限付で借りることができたんだ。
   ここがウチの東京支部…黒尾君の事務所予定地だよ。」

「!!!?お、俺の…っ!」

この仕事を終えたら、黒尾は開業…という約束ではあった。
だが、こうして実際に、目の前に『カタチ』を見せられると…感極まるものがある。

「あ…ありがとうございます!!」
頭を下げる黒尾に、他のメンツは一斉に拍手を贈った。


「たださ、ちょっと困ったことがあって…」
拍手が止んだタイミングで、明光は眉間に皺を寄せて声を落とした。

「ここ、一棟丸々貸しで、家賃が一括30万円なんだよね~
   ウチの当初の予定では、東京支部の家賃上限は15万…かなりオーバーなの。」

1階の事務所部分だけ借りたかったんだけど…こればっかりはしょうがなくて。
解体が決まってるとは言え、立地も物件自体も『優良』だからね。

「ということは、残りの15万は…俺の自腹ってことか。」
「明光君の事務所からお給料が出るとしても、まだ見習いの黒尾さんじゃ…」
「おサムライ様の俸給相場は存じ上げませんが、ギリギリってとこですか。」

厳しい現実を前に、苦笑いをする黒尾・山口・赤葦。
だが月島だけは、机から電卓と筆記用具を持ち出し、具体的数値を弾き始めた。


「兄ちゃん、この辺りの家賃相場は?」
「2LDKだと…最低で12.5万ってとこじゃないかな。」

「2階と3階をこの金額で転貸できれば、話はアッサリ片付くけど、
   不動産屋を通すと、仲介手数料が別途必要だし、3年の期間制限があるから…」
「その短期間じゃあ、借り手を探すのは、かなり難しそうだね。」
「現実的に、上階を第三者に貸し出すのは、不可能…ってことですね。」

やはり、黒尾が自分で何とかするしかなさそうだ。
「まぁ、実質15万でこの建物全部を借りられるなんて、それだけでラッキーか。」

何とか『良い方』に捉えようとする黒尾だったが、月島はまだ思考中だった。

「もしこの2階か3階に黒尾さん自身が住むとすれば…家賃補助は?」
「通勤手当の代わりに住居手当を出すなら…2万ぐらいかな?」
「13万なら、2LDKのほぼ相場ですから、黒尾さんも納得では?」
「まぁ…そうだな。」

それでも、カツカツには違いないが…その2万はありがたい。
たった2万でも交渉してくれた月島に、心から感謝しよう…と思った時、
黒尾は重要なことを思い出し、月島に向き直った。


「ツッキー…実家からいくら仕送り貰ってんだ?」
「きっかり10万。そのうち、住居費で4.5万ですから…遣り繰り可能です。」
「さすが、大学生協不動産の物件…恐ろしいぐらいに『破格』ですね。」

あの広さ(特に風呂)、駅からの距離を考えると、とんでもない好物件だ。
大学生協が持っている物件でなければ、考えられないような家賃である。
この金額だからこそ、都内でも10万の仕送りでやっていけるのだろう。

「今は実質『書庫兼酒屋談義』の場と化してますが、
   僕はあの部屋、結構気に入ってますから。引越の予定はありませんね。」

そんなわけで、他を当たって下さい。
ピシャリと黒尾の申し出を拒否しようとした月島だったが…

「お前さん、そこ…一月後には退去だろ?
   実質『山口宅で半同棲』だから影響はねぇだろうが…解約したじゃねぇか。」
「あっ…!!!」

今回のゴタゴタで、大暴走してしまった月島父。
忠君溺愛のあまり、「忠君と一緒じゃないなら、一人暮らしも認めない!」と、
怒りに任せ、次男坊のアパートを解約してしまっていた。
納品修羅場のせいか…そのことをすっかり忘れていた。


愕然とする月島に、黒尾は静かに提案した。

「…6万でどうだ?」
今よりも一部屋多いし、面積も広い。相場の12.5万の半値以下だ。

「非常に魅力的ですが…さすがに残り4万での遣り繰りは…」
「敷金・礼金も不要。不動産屋の仲介手数料も不要だ。」

「でも、やはり…」
「破格の家賃の代わりに、ツッキーは事務所の経理を担う。
   経理以外…『別の仕事』を手伝うなら、その都度バイト代を支払うが?」

黒尾の家賃負担分が半分に減るなら、ちょっとした学生バイトを雇うことができる。

「黒尾君が、ウチからの仕事『以外』も個人で請けられたら…さらに可能だね。」
「それについては、『アテ』もありますから…給料不払の心配はないでしょう。」

赤葦は自信満々に断言した。その真意を明光が問うと…
「今日伺った権利者さんの数人から、別途遺言作成の仕事を頂きました。」との答え。
黒尾さんの『人タラシ』も、役に立つことがあるみたいですよ…と。

「回収に飽き足らず、新規の仕事まで…すごい営業能力じゃん…」
明光は賞賛とも脱帽とも言えない表情で、超優秀な参謀を、眩しそうに見上げた。


「ツッキーが俺の仕事を手伝えば手伝う程、収入も安定するぜ?
   今は年度のド真ん中…大学生協の物件を借りられる可能性も低いから、
   バイトせざるを得ないのも確定…ここなら、住居とバイト先、両方解決だ。」

こんな好条件は、そうそうないだろう。それでもなお、月島は決断を渋る。
黒尾さんの仕事(収入)には、まだ不安要素が多すぎる…と。


「それならツッキー…3万ならどう?今より安いよ。」

今まで黙って聞いていた山口が、あっけらかんと言い放った。

「この中で一番収入が安定してるの…実は俺だよね?
   実家からの仕送りがなくても、今後は明光君のとこからも結構な給料貰えるし。
   俺がここに住むから、ツッキーは俺の『同居人』として…家賃折半はどうかな?」

2LDKもあるから、二人暮らしでも十分広いし、俺も『職場が真下』は魅力的だし…
家賃が減った分、資格取得とかに資金を回せるって利点もある。
何よりも『俺と一緒』って方が、この後…月島のおじさんとも交渉しやすいよ?

「山口君の提案だと、事務所の家賃問題も、月島君の新居問題も、
   両家の懸案事項も一挙に解決しますね。資金的な余裕も出てきます。」
「それは、そうなんですけど…」

これでもまだ、動こうとしない月島。
月島こそまさに、五大の『地』…動きや変化に対し、最後まで抵抗を続ける。


「蛍、そろそろ実家に…二家族会議に行かなきゃいけないんだけど。」
さっさと決断しろと、言外に明光は急かす。

「同居云々はともかく…俺と山口の間では、交渉成立だ。俺が3階でいいか?」
「勿論です。今後は黒尾さんと『同じ屋根の下』ですね!」
よろしくお願いします!と、握手を交わす黒尾と山口。
俺にも料理教えてくれよ…等、楽しそうな『新生活プラン』を描き始めた。


「月島君、照れ臭いのは分かりますが…」
「今だってほとんど忠と同棲なんでしょ?何を恥ずかしがってんの…」

赤葦と明光に小突かれながらも、月島は下を向いたまま…黙っている。
いや、何かを言い出そうと、ごにょごにょしてはいるのだが…言葉になってない。

その様子を見ていた山口は、しょうがないね…と嘆息しながら、
両手で月島の頬を引き上げ、朗々とした声で言い切った。

「ツッキーが恥かしがり屋なのは、俺が一番知ってる。
   待ってあげたいけど…時間もないし、もう待たないって俺…決めたから。
   だから、俺と一緒に住もう!いいよね?異議はっ?」

「っ!!!な、ないです…」


はい、決定!それじゃあ会議に行くよ!蛍と忠は俺の車に…
ここも閉めちゃうから、黒尾君達も一緒に出てくれる?

慌ただしく明光の指示に従い、黒尾と赤葦は荷物を持って事務所を出た。
まだ呆然とする月島の手を引いて、山口は車に乗り込み…
「行ってきます~!」と車窓から大きく手を振った。


「今の一件で…決まったな。」
「えぇ。今後の主導権は…山口君のものですね。」





***************





「改めて…乾杯!」
「納品お疲れ様でした。」


月島達を送り出した黒尾と赤葦は、宿にしていたホテルの最上階…
仙台の夜景を見下ろすバーで、グラスを合わせていた。

「夏限定のカクテルと言えば…やっぱりフローズンカクテルですね。」
ちなみに、俺のもフローズンですが…当然ノンアルコールです。

「ミルクセーキか…確かに、フローズンだな。」
「ミルクセーキは、英語で『milk shake』…ミルクと氷を一緒に攪拌です。」

実は、フローズンカクテルは、家庭でも簡単に作れるんです。
シェイカーではなく、ミキサーで一度に大量にできますから…
大人数でのパーティにもオススメですね。
庶民派のソーダアイスを使ったレシピなんかも、あるんですよ。

久々の『酒屋談義』に、赤葦は嬉しそうにグラスを光に翳しながら蘊蓄を垂れ、
飲みはしないものの、黒尾のグラスも手に取り、観察して楽しんでいた。

そう言えば、ちゃんとしたバーで…正規の『酒屋談義』をしたことは、
今回が初めてかもしれない。いつも、バーテン赤葦の『宅飲み』だ。
…そもそも、赤葦と二人だけでバーに来たのも、初めてだ。


何となく気恥ずかしくなった黒尾は、
半円のソーサー型グラスに刺さった、カラフルなストローを手に取った。

「初めてバーに来たとき、カクテルグラスにこうして2本のストロー…
   慌ててメニュー表に『カップル用』って書いてないか、確認したぜ。」

今日頼んだフローズンタイプのカクテルや、
細かく砕いた氷が入っている、クラッシュドタイプのカクテルには、
細いストローが2本付いてくることがある。
氷が多く、グラスから直接飲みにくいため、ストローを使って飲むのだ。
氷で片方が詰まってもいいように…と、もう1本は『スペア用』だ。

「飲む時は、2本揃えて一緒に飲むのがマナーです。
   2本同時だと、直接飲むのと同じぐらいの量が入ってきますし、
   キンキンに冷えたお酒の冷たさを、緩和することもできますから。」

ただし、トロピカルカクテルのような、太いストローが付いてくる場合は、
1本だけを使って飲む。
逆に、フローズンタイプのものでも、細いストローが1本だけなら、
それはマドラー・ストロー…かき混ぜ用である。

「こういうムーディなバーでのマナー…間違えると恥ずかしいな。」
「今度の『酒屋談義』で、月島君達に…ストロー2本添えて出してみますか。」

カクテル・ストローのマナーについて、まだ赤葦はレクチャーしていない。
あの二人なら、何の疑いも持たず…一緒に飲むかもしれない。
新たな『からかいのネタ』ができたことに、二人はほくそ笑んだ。



「半月型のグラスに、ストロー…まさに五大の『風』だな。」

風は、大気圧の差によって生じる。
その大気圧を利用して液体を上方へ運ぶのが、ストローの原理である。

「ストローには、『蛇腹』までありますから…『風』蛇そのものです。」

蛇腹と風は、切っても切れない縁がある。
蛇腹構造を利用して風を操るもの…扇子や鞴(ふいご)、アコーディオンがそうだ。
身の回りには、風を操る蛇が、あちこちに存在するのだ。


「蛇と言えば…やっぱり月島君は、『地』蛇でしたね。」
クルクルとストローを指先で回しながら、赤葦は静かに言った。

「なかなか動こうとしねぇ…まさに『地』だ。
   だが…ツッキーはそれで、いいんじゃねぇかな。」

黒尾はグラスの淵に付いた水滴を指先に付けると、コースターに乗せた。

「変化し続ける『水』の山口…放っておくと、どこまでも流れてしまう。
   勢いが強すぎると、周りをその激流で…飲み込んでしまう。」

今回の『元々』のスタートも、山口が勢い余って家出をしたこと…
その激流に翻弄された面があることも、間違いないのだ。

「そんな『水』を一定に湛え、安定をもたらすのが…『地』ですね。
   そして、硬い『地』を潤し、柔らかさを与えるのが、『水』です。」
「なかなか変化しないツッキーがいるからこそ、山口は暴走せず…安定するんだ。
   あの二人は、見事な相補関係…お似合いだな。」


二家族会議に赴いた、二人の様子を思い浮かべる。
出る前に、明光は笑いながら「心配いらない」と断言していたが…

「きっと…大丈夫ですよね。」
「あぁ…俺らの『元々』の任務も…無事完了だ。」

二人のことを『上手いコト収める』という、そもそもの任務。
明光の『当初の予定』とは、全く違う形になってしまったかもしれないが、
結果的に、二人にとって『収まるトコに収まった』のではないだろうか。

「後は、明日にでも俺が両家に挨拶しとけば…一件落着だな。」
「そうですね…黒尾さん、本当にお疲れさまでした。」

とは言え、黒尾さんの本当の苦労は…ここからスタートでしたね。
開業おめでとうございます…と、赤葦は柔らかく微笑んだ。


「本当の意味での開業は、2年後だが…どうやら実現できそうだ。」

ほんの数日前、たった3日前の晩に『酒屋談義』をした際に、
黒尾の結婚観…独立開業して、共同経営者と共に人生を送るプランを、
あくまでも『一例』として、3人に提示していた。

「まさかたった数日で、実現に漕ぎ付けてしまうなんて…恐れ入ります。」

偶然が重なったとは言え、突如乱入してきた『チャンス』をしっかり掴み取り、
自分の夢の実現に繋げてしまったのは…感嘆するしかない。
目標を決めたら、その達成に向けて尽力する…
その能力も、努力を厭わない胆力も、黒尾は共に持ち合わせているのだ。

それだけではない。黒尾のために手助けをしたい…という、
能力溢れる者達を惹きつける魅力…『人タラシ』の才も、やや過剰気味に完備だ。
山口は勿論、月島も…口には出さないが、黒尾を認め、尊敬していることは、
傍から見ていると、隠し切れないほど伝わってくる。

「山口君と月島君まで掌中に…黒尾さんの事務所は、安泰でしょうね。」

黒尾ならば、2年後…必ずや独立開業できるだろう。
優秀なスタッフに恵まれ、間違いなく上手くやっていくだろう。

「そうなると…いいんだがな。」
「黒尾さんのご活躍…心からお祈りしています。」

これは、赤葦の心からの言葉だった。
精一杯のエールを贈ると、静かにミルクセーキを飲み干し…ストローを置いた。


訪れる沈黙。そのまま二人で、窓の下の夜景を見つめる。
まるで蛇のように連なる、赤い車のテールランプ。

それをゆっくり目で追っていると、黒尾がようやく口を開いた。


「なぁ…高校の頃、一緒にカラオケに行ったの…覚えてるか?」

黒尾の問い掛けに、赤葦は黙ったまま、コクリと頷いた。

合宿の合間、4人で『酒屋談義』をした後、二次会がてら二人で行ったカラオケ。
歌を一曲も歌わず、ただただ、他愛ない会話を楽しんだだけだったが…

「あの時…『キャバ嬢と指名客ごっこ』で、俺が言ったことは…?」

「将来、ご自分の事務所を持ちたいと…仰ってましたね。」
「もし本当に、俺が事務所を開設した時には…」
「俺を雇って下さいと…俺は黒尾さんにお願いしました。」

忘れるはずもない。
「将来、自分のお店を持ちたいんです…」という、キャバ嬢鉄板のネタ。
『ごっこ』の中の会話だったが、そこで働きたいと思ったのは…紛れもなく本心だった。

3日前の『酒屋談義』で、黒尾がそれを本気で考えていたと知り、
赤葦は心底驚く反面、言い様のない喜びを感じていたのだ。


「赤葦。」
「はい…」

真剣な声で黒尾に呼ばれ、赤葦は腿の上でぎゅっと拳を握り、返事をした。
そのまま、黒尾の言葉を…静かに待った。


「あの時語った夢の通り…2年後、俺は自分の事務所を持つ。
   現状はお前が見た通り、実務はてんで『役立たず』…まだ修行中だがな。」

これから2年…しっかり明光さんの元で修行して、独立できるように頑張るつもり…
いや、確実にモノにしてみせる。

だから、2年後…俺が無事に『自分の事務所』を持つことができたら…


「その時は、俺の所に…来てくれないか?」


黒尾の言葉に、赤葦は息を飲み込んだ。
固く握りしめた拳に視線を落としたまま…震える声で呟いた。

「謹んで…お断りします。」



「…え?今、何て…」

聞こえてきた言葉が信じられず、黒尾は呆けたように聞き返した。
赤葦は下げていた頭を上げ、真正面から黒尾を見据え、
今度ははっきりした声で告げた。

「お断りです、と言ったんです。」


赤葦は椅子から立ち上がると、店の出口に向けて一歩踏み出した。

「ちょ、ちょっと待っ…」
「待ちません。俺は絶対に…待ちません。」

肩を掴む黒尾の手を乱暴に振り払い、赤葦はまた一歩離れる。
黒尾は慌てて赤葦の腕を掴み、ようやくその足を止めた。

「どこへ…行くつもりだ?」
「帰るんですよ。」

「帰るって…」
「家ですよ。俺の…実家に決まってるでしよ。」


それでは、失礼します。


赤葦は黒尾の手を振りほどき、背を向けたまま…黒尾の元から去って行った。



- 続 -



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※明光君の乱入 →『黄色反則
※髪長姫について →『大胆不適
※カラオケで… →『事後同伴

※司法書士→登記及び、裁判所・検察庁・法務局等、法務省に提出する書類作成の専門職。

※キューピッドは語る5題『4.照れ屋もここまでくると病気』


2016/08/02(P)  :  2016/09/25 加筆修正

 

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