夜想愛夢②







「これは、夢だ…夢に違いない…」


月島に頼まれ(泣きつかれ)、夕方2階に着替えを取りに降りた赤葦は、
予想通りの光景…ダイニングテーブルに置かれた『定型文』を発見した。

   『実家へ帰らせて頂きます。』

月島が言い出したことでもあるし、前科もあり、行動力も当事務所随一。
前回は単なる誤解だったが、今回は正真正銘の家出…山口、本気の激怒だ。

置手紙を見た月島は、怒りと後悔と絶望と…ぐしゃぐしゃの感情を持て余し、
黒尾家の居間でクッションを抱きかかえながら、しくしく…めそめそ…
なかなか退かない梅雨前線のように、じめじめと転がっていた。

黒尾と赤葦は、暫くソレを放置していたのだが、月島は泣き疲れた挙句、
今度は現実逃避…「これは夢だ。」と、うわ言のように寝言を繰り返し始めた。
あまりの鬱陶しさに、二人は根負けし、仕方なく相手をしてやることにした。


「いつまでそうやって、いじけてるつもりだよ?」
「構ってあげますから、こっちにいらっしゃい。」

そんなに『夢』がお好きなら…月島君の夢を叶えてあげますよ。
赤葦はそう言うと、一本のワインを取り出し、月島にラベルを見せた。

「『海』に眠る、月島君の『夢』…大好きでしょう?」



フランスのメヌトゥー・サロンのワイン『Fossiles(フォシール)』は、
そのラベルと名前の通り、化石が出土する土地で作られたブドウを使って…
という、赤葦の説明そっちのけで、月島は飛び起きてクッションを放り投げ、
目をキラキラと輝かせながら、化石のワインを抱き締めた。

「あああっ、アンモナイトっ!僕の夢を具現化したようなワインですよっ!!」

このラベル…いや、瓶ごと僕に譲って下さいっ!お願いしますっ!
それじゃあ、早速『海の夢』に溺れましょう。グラス持って来ますね。

あっという間に復活した月島…黒尾は視線で赤葦に「お見事!」と称賛し、
赤葦は「チョロいです。」と口の端だけで微笑んで返した。


「海と夢…二つの繋がりと言えば?」
「単純にタイトルだけですけど、三島由紀夫の『豊饒の海』ですか…」

月島の『海の夢』を傾けながら、3人はちょっとした『酒屋談義』を開始した。
山口抜き…このメンツだけで飲むのは、実は今回が初めてかもしれない。

『豊穣の海』は、源氏物語の影響を強く受けた『浜松中納言物語』を元にした、
『夢のお告げ』と輪廻転生を軸とする、長編小説である。
この小説の最終入稿日に、三島は割腹自殺…彼が目指した『究極の小説』だ。

「あと、夢をテーマにした作品で、有名どころと言えば…
   『こんな夢を見た。』のフレーズで始まる、夏目漱石の『夢十夜』ですか。」
「夢の物語…夢野久作の『ドグラ・マグラ』もそうだな。」

『ドクラ・マグラ』は、日本四大推理小説の一つだが、
「読破した者は必ず一度は精神に異常を来す」と言われる、奇書中の奇書だ。
ミステリ好きな黒尾も、悪夢というに相応しい内容に、未だ読破できていない。

「読破できてない繋がりだと…『五輪』騒動の後、明光さんに借りた本だな。」
中国四大名著の一つ『紅楼夢』…空蛇・女媧が、裂けた天を石で補修した時に、
余った石が見た、夢の話…男女のプラトニックラブを描いた長編小説である。

「月島君繋がりだと、安部公房が見た夢を綴った、『笑う月』もそうですね。」
「夢をモチーフにした物語…古今東西問わず、たくさんありますね。
   源氏物語の最終帖だって、『夢浮橋』ですし。」

「………。」
「………。」
「………。」


何だか、夏休みの課題図書一覧を読み上げるだけのような…話が広がらない。
それだけでなく、イマイチ盛り上がらないし、語りポイントも少ない…
いつもの『酒屋談義』ほど、気分がノってこないのだ。

その理由は、考察するまでもなく、アンモナイトの瓶を見れば明らかだった。

「俺ら3人だけ…山口が居ねえと、なんか暗くねぇか?」
「ワインがまだ半分以上残ってる…信じられませんね。」
「聞き上手・盛り上げ上手の山口が…『酒屋談義』のキーマンだったんだ。」

ちょっとした小ネタを拾い上げ、話を繋ぎながら、場を明るく和ませる…
山口が果たしていた役割の大きさに、3人は今更ながら気が付いた。
知識の集積だけでは、考察も酒も進まないし、何よりも全然楽しくないのだ。

「僕達3人共、割とお口が達者で、ネタの黒さもキツさも原液並…」
「山口君という溶媒…緩衝材がなければ、飲めたもんじゃないんですね。」


苦笑いと共に、しんみりした空気が辺りを包み込む。
黒尾はグラスの淵を少しだけ舐めると、聞きなれない言葉を口にした。

   Und hüte deine Zunge wohl,
   Bald ist ein böses Wort gesagt!
   O Gott, es war nicht bös gemeint -
   Der Andre aber geht und klagt.

「夢を見るのは夜。その夜を表す曲…夜想曲(ノクターン)の中で、
   最も有名な曲の歌詞…元々はドイツの詩人フライリヒラートの詩なんだ。」

超絶技巧の持主であるハンガリーのピアニスト、フランツ・リストの代表作…
夜想曲『愛の夢(Liebesträume)』の、第3番である。

「さっき俺が暗唱した部分の意味は、簡単に訳すとこんなカンジだ。」

  『言葉には気をつけよ
    悪い言葉はすぐに口をすべる
   「ああ、誤解です!」と嘆いても
    彼の者は悲しみ立ち去りゆく』

「その曲なら、俺でも知ってますが…歌詞があったんですね。
   しかし、『愛の夢』という曲名にしては、少々厳しいご意見と言いますか…」
「『おお、愛しうる限り愛せ!』…これが詩の題名なんだよ。
   美しい旋律に乗せて、『愛のために尽くせ』と説く…耳に痛~い箴言だよ。」

いつか必ず、墓の前で嘆き悲しむ時がやって来る。
だから、愛する者の心が温かい鼓動を続ける限りは、心を尽くすのだ。
どんな時も、愛する者を喜ばせよ。
どんな時も、悲しませてはいけない…


「この歌詞で、何故『愛の夢』なのか…そこが実に、奥深いですね。」

『夢』には、様々な意味がある。
眠っている間に、あたかも現実の経験であるかのように感じること。
将来実現したいと思っていること。
現実離れした想像…夢想のこと。
そして、はかないこと…不確実なこと。

「『人の夢』と書いて、儚い(はかない)と読みますから…」
「愛の夢は、不確実で儚い…だから全力で愛せ!ってな。」

愛を儚いものにしているのは、口…
簡単に出てくる悪い言葉が、愛する者を悲しませ、去り行く結果になる。
現状を予見する、悪夢ような歌詞に、月島はグッタリと座卓に伏せた。


「明日朝起きたら、全部夢でした…って話に、なってればいいのに。」
「それは、故事成語で言うところの『邯鄲の夢』…夢オチを夢想ですか?」

「いや、もしかすると、そもそも山口と結婚してた現実の方が、夢…?」
「それは、故事成語の『胡蝶の夢』…夢と現実の区別がつかねぇって話。」

我、夢に胡蝶となるか、胡蝶、夢に我となるか…荘子の言葉だ。
紀元前3世紀頃に、既にインナースペース…自己の精神世界を自覚し、
それを言葉にして表現するとは…恐れ入るよな、と黒尾は感嘆すると、
月島の頭を優しく撫で、ゆっくりと話し始めた。


「歌繋がりなんだが、好きな奴とケンカした時は…『愛の歌』を聴くといい。」

バラード等の、しっとりした曲調のラブソングを、わざわざケンカした時に…?
黒尾の提案の真意を計れなかった月島と赤葦は、首を傾げて先を促した。

「ラブソングは、大半が片想いか失恋…切ない気持ちを歌い上げている。」

俺達は今、恋も実って結婚し…幸せの絶頂に居る。
だが、この幸せだって、夢と同じく儚いもの…言葉で簡単に崩れてしまう。
滑り落ちた、たった一言が相手を傷付け、たった一言謝罪が出てこなかった…
それがどんどん溝を広げ、ようやく叶った夢を、暗い水底に沈めてしまうのだ。

「毎日毎日、離婚相談に触れていると…痛い程わかるだろ?」
「言葉がいかに恐ろしいものか…『愛の夢』と同じですね。」

こんな時は、恋が実ることを夢見ていた頃を、今一度思い出してみるんだ。
辛く切ない、あの頃を思い出し…今がいかに幸せで、夢のような毎日なのかを、
きちんと自覚し、初心に返って自省する時間を、時折設けるんだ。
ラブソングは、それに一番お手軽な『反省ツール』なんだよ。

「ラブソングで…あの頃を思い出す?」
「『もし結ばれてなかったら?』って、夢想してみるってのもいいぜ?」

自分の好きなラブソングに、自分と相手を置き換えて…
あえて悪い夢を見ることで、現実と見比べてみるんだ。

そう、例えば…こんなカンジだ。
黒尾は目を閉じて深呼吸すると、ここは夏の海だ…と呟いた。


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「つっ…疲れた…」
「えぇ…本当に…」


梟谷と音駒の2校で、ほんの数日だけの夏合宿が行われた。
ほとんど『毎週恒例』のようになっている合同練習だが、今回はいつもと違い、
連休最終日に強制練習休業日…要するに『夏休み』が設けられていた。

あぁ、久々に自宅でのんびり休めるな…そう思ったのも束の間、
ゴロ寝計画は『鶴(兎?)の一声』により、無残にも儚い夢と消え去った。

「せっかくの夏休みだし…皆で海に行こうぜ!」

この言葉に、ごく一部の引き籠り等の例外を除き、ほぼ全員が即時賛同した。
喉を引き攣らせる『例外』に、監督達はすぐさま「引率任せたぞ。」と言い、
黒尾と赤葦の手に、餞別と厄介事を全て押し付け、悠々と逃走した。


「何が『大人が居ない方が、お前らもハッスルできるだろ?』だよ…クソッ」
「結局、俺と黒尾さんの負担が激増しただけ…これっぽっちも休めません。」

大人が居なかったことで、ハッスルできた奴らが大半なことも、間違ってない。
だが、弾けすぎて事故や怪我、更には『不祥事』等が起こらないように、
全員を監視し、あちこち走り回る…合宿の練習よりもハードな一日だったのだ。

「俺は最後まで、水着に着替える暇すらなかったんだが…」
「俺も、迷子センターを…余裕で2ケタ往復しましたよ。」

膨大な人波をかき分けながら、やっと全員を捕獲し、着替えと帰り支度をさせ、
海の家で楽しく晩御飯…させている間、
黒尾と赤葦は海岸沿いを歩き、行方不明だというサンダルと浮輪を捜索した。

「サンダルと浮輪の落とし物…3ケタに迫る勢いだったな。」
「失くした本人も、もう忘れてます…諦めて頂きましょう。」

捜索はただの口実…実態としては、ようやく訪れた『休憩時間』だ。
最後の任務である帰還引率の前に許された、ごく僅かな寸暇ではあるが、
久々に腰を下ろせた二人は、深々と重いため息をつき、脚を投げ出し脱力した。


「あんなに高い位置にあったのに…いつの間にか、沈みそうですね。」
「俺らより先に、お日様は本日の業務終了…心底羨ましい話だよな。」

海岸の隅、遊泳エリアを示す看板の側に並んで座り、海に還る太陽を眺める。
染まりゆく空に包まれながら、売店でようやく購入できた小さな菓子パンと、
ぬるくなったオレンジジュースを、夕食代わりに二人で分け合った。

一日中働き続けて、たったこれだけ…泣きたくなるような仕打ちである。
波打ち際を仲睦まじく歩く恋人達を、漫然と見遣りながら、黒尾は嘆息した。

「海で泳いだり、皆と騒ぐより…夕焼見ながらダベる方が、休みっぽいよな。」
今この瞬間こそが、俺にとっちゃあこの夏唯一の…バカンスかもな。


はっきり言葉にしたことはないが、お互いのことを憎からず想っていることは、
手に取れるほどわかっていたし…できることなら、言葉にして伝えたかった。

だが、大会を控えた今、ライバル校の幹部という立場の者同士が、
必要以上に『親密な関係』になるなど、『不祥事』以外の何物でもないし、
多忙を極める相手に、自分の存在が負担となることも、絶対に避けたかった。


赤葦は温もったペットボトルを、黙ったまま黒尾に渡した。
互いの指先がほんの少し触れ、心臓が跳ねたこともひた隠し、
黒尾はさっきまで赤葦の唇が触れていたボトルの飲み口に、自分の唇を重ねた。

この想いが叶わないとわかっているのならば、ずっとずっと楽だった。
合宿中に二人で話したことや、雑務の苦労を共に分かち合ったこと、
そして、今日こうして二人で沈む太陽を眺めたことも…忘れてしまえるのに。

でも、全て…忘れられない。
家に帰り、ホッと息をついた時や、眠りに落ちる前になると、
二人で過ごした僅かな時間を思い出し、せめて夢の中で…と、願ってしまう。


「できることなら、ここでずっと…二人でのんびりお話ししていたいですね。」
俺にとっても、今この瞬間だけが夏休み…忘れられない想い出になりそうです。

静かな波音にさえ、かき消されそうな声で、赤葦はそっと呟いた。
何かを必死に堪えるような、震える声…黒尾は息を飲み、真横を向くと、
声よりも震える瞳が、秘めたる想いを饒舌に、黒尾に語り掛けていた。

たった一言、この想いを言葉にできるならば。
砂に置いた手を、あと数センチだけ伸ばせるならば。
朱に染まる肩を抱き、その唇に直接触れることができるならば…

永遠に届かない想いなら、震える瞳から目を逸らしてしまえるのに。
同じ想いを湛えた瞳に心奪われ、動けない…ただただ、見つめ返してしまう。


溢れ落ちそうな想いを、黄昏と共に精一杯吸い込み、黒尾は瞳を閉じた。
空になったペットボトルを、思い切り握り潰しながら、声を絞り出した。

「いつかそんな日が来たら…お前と二人で、夜中まで海と星を眺めたいな。」


「そんな日が来ることを夢見ながら…夢が叶うよう、毎晩星を眺めますね。」

赤葦はそう言うと、何かを振り切るように立ち上がり、
暗くなり始めた空と海だけを見ながら、一人で歩き去った。


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「言いたくても言えない苦しみ…俺は『人魚姫』を思い出してしまいます。」
「想いを伝えられる今は、相手を傷付け、悲しませる言葉…言いたくない。」


切なさが溢れる黒尾の『ミニシアター』に、海へ還れなかった人魚姫…
ずっと山口に、その苦しみを与え続けていた、一年前までの自分を思い出した。

「僕は言葉を伝えないことで、山口にツラい想いをさせ続け、
  今度は口さがない言葉で、山口を傷付けてしまったんですね…」

結婚前は、こんな事態にならないようにと、口を封じてケンカを回避できた。
だが、結婚して幸せを手にしたことで、つい油断が生まれ…言ってしまった。

夢が叶った途端に、その夢を切望していた頃のことを忘れてしまい、
夢を壊しかけてようやく、夢がいかに儚いものかに気付き…後悔するのだ。

一向に減らないワインの瓶を見つめ、月島は自戒が籠った吐息を零した。
悔しさと情けなさを閉じ籠めるように、再び座卓に顔を伏せた。


「『後悔先に立たず』…これは当たり前のことだよ。」
「『後悔後を絶たず』…こっちの方が、大問題です。」

どうすれば、これからは後悔し続けないですむか…それを考え尽くすべきだ。
墓の前で嘆かなくていいように、『愛しうる限り愛せ!』…そうだよな?


黒尾と赤葦は、月島の背をゆっくりと撫でながら、静かな声で促した。

「今晩、夢の中で謝る練習してから…」
「明日、逢いに…行ってらっしゃい。」




- ③へGO! -





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※『紅楼夢』について →『団形之空
※『人魚姫』について →『泡沫王子
※結婚前はケンカを回避 →『結終結合

※黒尾ミニシアターのラブソング
   →久保田利伸 『Missing』



2017/07/20

 

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