泡沫王子







「この話こそ、僕は『入口付近』の考察が肝心だと思ってます。」

乾杯したグラスをテーブルに置くと、月島はそう切り出した。



『本日の一本』は、美しい花の装飾が特徴的な、シャンパンだった。

当初の予定では、昨日の『おつかい』にちなんで、
棺に眠る『黒ワイン』を楽しむはずだった。
だが、「雨に当たったせいか、節々が重く…」と、筋肉・関節痛を訴える者と、
「今日はやっぱり、祝杯したい気分だ」という、少々浮かれ気味の意見により、
酒と肴の給仕が比較的楽な、シャンパンに変更された。


「シャンパンは、発泡性ワイン…スパークリングワインのうち、
   フランスのシャンパーニュ地方で、原産地呼称統制法によって定められた、
   厳しい規格に基づいて生産されたものです。」
「限られた狭い地域産の、限定的なプレミア名称…ってことですね。」

給仕が楽…とは言うものの、非常に価値の高い逸品である。
そんな高級品を、ポンと惜し気もなく振る舞う赤葦…
体調はともかく、相当な『御機嫌』ぶりが窺える。

山口はいつもより丁寧に磨いたシャンパングラスを用意して、
ビスケットやクッキーを器に美しく盛り付けた。


「瓶に描かれている白い花は…何だ?」

明るい緑色の瓶を囲むように、白い花弁の花。
お酒の瓶というよりは、既に工芸品のような美しさである。

「それは、アネモネの花です。19世紀末~20世紀初頭の、ベル・エポック…
   『良き時代』を代表する、フランスの装飾美術を…」
「アール・ヌーヴォー…ですよね。」
「花や植物等の『自然の美』をモチーフにした、自由曲線の組み合わせ…
   アルフォンス・ミュシャの絵画や、ミュシャの故郷・チェコのプラハ本駅、
   アントニ・ガウディの建築…サグラダ・ファミリアが代表ですね。」

バルセロナにある未だ建設中の教会は、ガウディ没後100年にあたる、
2026年に完成予定…とのことである。



「実はこの瓶、そのアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家…
   エミール・ガレがデザインしたものなんですよ。」
「おいおい、そんな貴重品…俺達で飲んでいいのかよ…」

祝杯を上げたいと言っていた黒尾ですら、明らかな『高級品』の登場に、
きめ細やかな泡のたつ細身のグラスを、恐る恐る受け取った。

では、ノン・アルコールの俺はこちらで…と、
同じグラスに炭酸飲料を入れた赤葦だったが、
その泡の繊細さがあまりにも違うことに、思わず苦笑した。

「そちらを頂けないのは、本当に残念で仕方ないのですが…」
「今日は、いつも以上に大事に味わって頂こうぜ…乾杯!」


口を付けた瞬間、滑らかな泡が透き通る様に弾けて消え、
花のような香りが、全身を包み込んでいく…

「すごい…これが、本物の、シャンパン…」
「泡沫(うたかた)、玉響(たまゆら)…そんな言葉が相応しいな。」
「味覚表現と言えるかどうかわかりませんが…本当に『美しい味』です。」

明らかに、自分達には『分不相応』な高級品である。
今日は、このお酒に見合うような『特別な日』にしなければならない…
そんな気持ちにさせてくれる、素晴らしい逸品だった。

「消えゆく泡の美しさ…本日の『お姫様』は、決まりだな。」
「『はかない夢』『薄れゆく希望』…アネモネの花言葉を体現するように、
   泡となって消えた…『人魚姫』ですね。」

本日のテーマが異論なく決定すると、月島が静かに口を開き、
物語の『入口付近』を語り始めた。


「15歳の誕生日。初めて浮上した海の上…人間の世界。
   美しいその世界に酔いしれていると、彼女は大きな船を見つけます。
   その船には、ひときわ目を引く王子様…彼女は一目惚れします。」
「しかし、突然の嵐で、その船は難破。
   王子様は海に放り出され…姫は瀕死の王子様を、浜に運んで…」

そこで、ストップだ。
月島の後を継いで、物語を語っていた山口に、待ったが掛かった。

「この突然の海難事故…原因は何でしょうか。」


本当に『入口』での疑問提起に、3人は目を瞬かせた。

「王子様御一行は、彼の誕生日を祝う船上パーティーをしてた…」
「姫が現れた頃には、海上は穏やかだった…ってことですね。」
「何で突然、嵐が来ちゃったのか…言われてみれば、不思議だね。」

それを考えるに当たっては、まずは『人魚』がどんな存在か…
その点を確認する必要があるだろう。
月島は本棚から、神話をテーマにした作品が多い画家の画集を出し、
『マーメイド』というタイトルの絵を広げて見せた。



「人魚とは、水中に生息する『ヒト』と『魚』の特徴を併せ持つ生物です。
   世界中にたくさんの『人魚』の伝承がありますが…」
「西洋の人魚は、上半身がヒト・下半身が魚類…美しい女性だな。」

ライン川のローレライ、アイルランドのメロウ、ギリシャ神話のセイレーン。
淡水魚か海水魚かを問わず、その特徴は共通している。

「美しい歌声で人々を魅了し、船を難破させる…『魔物』だよね。」
「いと甘き声に 君を誘う かえれよ 我を捨つるな…『帰れソレントへ』という、
   イタリアの民謡は、船乗り達の無事帰還を願った歌です。
   この歌に出てくる『麗しのシレン』が、人魚セイレーンです。」
「嵐や不漁の前兆ともされる『不吉の象徴』…望まれない存在、だな。」

美しい人魚。それに相応しいシャンパン…だったはずだが、
その出だしから、何だか雲行きが怪しくなってきた。


「初めて見る『海の上の世界』。そして、素敵な『王子様』…
   歓喜に咽ぶ人魚姫が、その昂った感情を表現するには…?」

人魚姫は、『海の中の世界』で、一番美しい『声』を持つお姫様。
美しいその『歌声』で、人々を魅了する、『人魚』のお姫様だ。

「も、もしかして…『歌』を、歌ってしまった…?」
「『人魚の出現』イコール、『嵐の到来』…でもあったな。」
「まさか、人魚姫自身が、海難事故の『原因』…」

月島は首肯すると、悲しげな表情で呟いた。

「非常に衝撃的な説ですが、この可能性は…否定できません。」

『人魚』の『本質』を考えると、人魚姫は、王子を『助けた』存在ではなく、
王子を『溺れさせた』存在なのではないか…?

物語の『入口』で、物語の根底を覆す可能性に触れ、
4人はまるで、海の底に沈んでしまうかのような息苦しさを感じた。


「ではここで、『西洋の』人魚の話は一旦置いておき、
   今度は『東洋』…日本における人魚伝説を見てみましょう。」

貝殻の形をしたクッキーを頬張ると、
月島はそれをシャンパンで流し込み、話題の転換を提案した。


「日本の人魚伝説と言えば、やっぱり『八百比丘尼(やおびくに)』だけど…
   この話、西洋のとはちょっと『焦点』が違うよね?」

山口はグラスの泡まで綺麗に舐めとると、遠慮がちにおかわりを求めた。
赤葦はゆっくりと瓶を傾け、できるだけ静かに注いだ。

「山口君の指摘通り、日本の人魚伝説の焦点は人魚『そのもの』ではなく、
   人魚の肉を『食べた者』の運命、ですよね。」
「人魚の肉を食した者は、不老長寿になる…
   夫や子、孫に曾孫…周りの者がどんどん死んでいってしまうのに、
 自分だけは年を取らず、若いまま取り残される…って悲話だな。」

不老長寿となった八百比丘尼は、人々に疎まれ尼になり、
国中の貧しい人々を助けて回ったのだが、
最後には世を儚んで…洞窟の中へと消えていった。

「『不老』ではあっても『不死』ではない彼女は、自ら命を…」
「たまたま人魚を食っちまっただけなのに、最後は自分が犠牲に…」

黒尾はセリフの途中で言葉を切り、顎に手を当てて黙り込んだ。
眉間に皺を寄せて、思考すること数秒…

「人々を助けて回った八百比丘尼。王子様を助けた人魚姫。
   自分を犠牲にしてまでも、他人を助けたっていう面からすれば、
   人魚姫は、『西洋の人魚』よりも、八百比丘尼に近いんじゃねぇか?」

『人魚姫=西洋の人魚』と考えた場合、
その内面…『本質』において、相容れない部分があった。
人を助ける存在という『本質』に着目すると、『人魚姫≠西洋の人魚』であり、
黒尾の言うように、『人魚姫≒八百比丘尼』の方が、近く感じるのだ。

「両者に共通するのは、『自己犠牲』という本質だけではありません。
   『魂の回帰』から外れた存在…これも、同じではないでしょうか。」

赤葦は、昨夜黒尾と少し話した『赤ずきん』についての考察を、
掻い摘んで月島達に説明した。


「『食べる』という行為が、その後の『再生』すなわち『魂の回帰』を表す…
   赤葦さんの仰る通り、世界中で見受けられる『太陽神話』の類型ですね。」

死んでは再生する命の環。自然の流転。命の根源への回帰…
太陽や月等の流転と、人間の魂の流転は、神話の中で重ね合わせて語られている。
死と再生、魂を司るからこそ、太陽神は最高位の存在なのだ。

「人魚姫の物語では、人魚は転生しない…死んだら海の泡になる、って。
   海の世界の住人にとって、海の泡に戻るのは、まさに『回帰』だね。」
「だが人魚姫は、王子様を殺せなかったが故に、『泡』になった後、
   『空に上がって』行った…つまり、海へは『還れなかった』ことになる。」
「対する八百比丘尼も、人魚の肉を喰らい『人ではないモノ』になった。
   それ故に、不老の力を得て…魂の流転が叶わぬ存在となった。」

『人魚姫=西洋の人魚』とすると、人魚姫は王子様を溺れさた存在として、
その罪を背負っていかなければいけない。
たとえそうでなくとも、自分が助かるには、王子を殺さなければならず、
生き残った後も、人魚姫はその罪から逃れられない。
だが、『人魚姫≒八百比丘尼』とする場合…自分を犠牲にする場合には、
今度は『魂の回帰』から外れた存在となってしまうのだ。

「人魚姫は、どちらにせよ…救われない存在なんです。」

喉を潤すはずの泡が、喉を封じ込め…溺れてしまいそうだった。


故郷・家族・同種との決別。
人間になる『魔法の薬』と引換えに、舌を切り落として声を失う。
歩くたびに、ナイフで刺されるような痛み。
王子様に『選ばれない』とわかった翌朝…絶命。

人魚姫は、ただ王子様に恋をしてしまっただけなのに。
アイデンティティ喪失。意思疎通手段の欠如。肉体的苦痛。死への恐怖。
これらが全て、アネモネの花言葉…『恋の苦しみ』だと言うのなら、
『薄れゆく希望』どころか…希望など、まるでないではないか。

人魚姫の『苦しい恋』に思いを馳せていた山口の頭に、
ふとある疑問が浮かび上がってきた。


「どうして人魚姫は、別の女性と王子様が『結婚』するまで、
   王子様に自分が選ばれるという希望を…諦めなかったんだろう?」




***************





シンデレラ、白雪姫、いばら姫。高校時代に語ったラプンツェル。
実に様々なお姫様達の、苦難溢れるラブストーリーを語り合ってきた。

悲恋という意味では、織姫達の物語もそうであったが、
王子様との恋がそもそも成立しなかったという点では、
人魚姫の『救われなさ』は、群を抜いているのではなかろうか。


黒尾は赤葦のグラスに炭酸飲料を注ぎながら、
人魚姫の物語にまつわる疑問について、列挙した。

「なぜ王子様は、口のきけない少女を傍に置いたのか?
   その少女は『踊りが上手だった』…この意味は?
   そして、さっきの山口の疑問…
   なぜ他の女性に王子様が心を奪われているとわかっていながら、
   人魚姫は王子様から『自分が選ばれる希望』を失わなかったのか?」

こうして列挙してみると、『人魚の本質』を考えるよりも、
ずっと答えは明白に出てくるような気がする。


畳んだ布団の上に座っていた赤葦は、両足を揃えて体側に流し、
その脚にタオルケットを掛け、人魚姫のポーズを取った。

「『人魚姫』は、『閉じられた脚』の象徴。
   それが引き裂かれ、人間の2本の脚になる…
   これは、処女喪失を表しているのではないか、とも言われていますね。」

赤葦の言葉に、月島はゴミ箱に手を伸ばし、
捨てられていた紙コップを取り出した。

「その説は非常に有名ですが、そうとも言い切れない部分はあります。
   尾鰭が二股に分かれた人魚も…存在しますからね。」

月島が見せた紙コップは、人魚をロゴマークとするコーヒーチェーン店のもの…
そこに描かれた人魚は、確かに尾鰭が二股になっている。



「ですが、『魔法で人間になる』ことが、処女喪失を表していなくても、
   黒尾さんが列挙した疑問点を見ると、人魚姫と王子様の間には、
   『そういうカンケー』があると…十分推察できますよね。」

月島はそう言うと、紙コップを握り潰し、ゴミ箱へ投げ入れた。

「人間になった人魚姫は、岸に流れ着き…王子様に助けられます。
   その時人魚姫は…『全裸』でしたよね。」
「目の前に現れた、裸の女。しかも、自分に好意を寄せてくる。
   口が聞けない…物言わぬ、まさに『据え膳』だよな。」

一体、どんな『踊り』が上手だったから、王子様は言葉を持たない人魚姫を…
身元不明の少女を、傍に置き続けたというのだろうか。

「人魚姫は、『王子様を助けたのは、あの女性ではなく自分』だと、
   それをいつか王子様がわかってくれるのでは?と、期待してましたが…」
「その『他の女性』だって、王子様を助けてんじゃねぇか。」

人魚姫は、王子様を海の中から引き揚げた後、岩陰に隠れ…放置した。
そこに現れた『他の女性』が、瀕死の王子様を介抱した。
絶体絶命のピンチを救ったのは人魚姫かもしれないが、
その後の看護や介護を担い、王子様の回復に尽力したのは、
間違いなくその『他の女性』…彼女も、王子様にとっては『命の恩人』だ。

「王子様が、『他の女性』を好きになっちゃうのも…当たり前だね。
   それでもなお、人魚姫が『選ばれる希望』を捨てなかったのは…」
「王子様に愛されている…その確固たる『事実』があったから、でしょうね。」

言葉を交わすことはできなくとも、自分は王子様と、体を…愛を交わしている。
その『事実』があり、王子が自分を傍に置き続けていることで、
『自分が選ばれる』という『はかない夢』を、持ち続けたのではないだろうか。


グラスの中の、小さな泡を眺めながら、
山口は消え入りそうな声で、ぽつりと溢した。

「『言葉』はなくても、愛されていると感じる…『事実』がある。
   それだけじゃあ、人魚姫は救われないのは、どうしてなんだろう?
   やっぱり、『言葉』が、必要…なのかな。」

人魚姫が死から逃れるには、王子様から『選ばれる』必要があった。
それは、『愛し合っている』ように見える『事実』では不十分で、
ちゃんと『愛してる』という『言葉』が必要なのではないのか?

「『言葉』だけではありません。王子様と『結婚』する…
   つまり、『結婚』という『形式』も必要になります。」

人魚姫は、王子様が自分ではない『他の女性』と『結婚』した翌日、
泡となって消える運命だったのだ。
人魚姫の生死を分かつのは、『結婚』という儀式…『形式』である。


「『言葉』はともかく、そもそも『結婚』って…そんなに大事なもんか?」

黒尾のたどり着いた『そもそもの疑問』に、4人は顔を見合わせた。


結婚…婚姻は、双方の合意に基づき、婚姻届を提出することで成立する。
この『婚姻届』という形式の有無により、法律上様々な保護を受けられる。
婚姻届を提出しないが、事実上『夫婦』とみなされる関係が、内縁である。

「内縁関係でも、互いに同居・協力・扶助の義務は発生するし、
   もちろん、家事負担や貞操を守る義務だってある。」
「年金の分割や、健康保険、災害補償だって、婚姻と同様に扱われます。
   相続だって、きちんとした遺言を残せば、可能です。」

住宅ローンを組んだり、配偶者特別控除を受けたり、手術の際のサイン等、
内縁関係では事実上難しい問題も、もちろん多い。
しかし、いざという時にお互いを守る手段は、色々あるのだ。

「どうしてそこまで、人魚姫が『結婚』にこだわるのか…
   俺には、あんまり実感湧かねぇんだよな。」

どこかで聞いたようなセリフに、月島は苦笑しながら答えた。

「それ、もしかしたら『目覚めのキス』と同じで、
   僕達が『日本人だから』…そう感じるだけかもしれませんよ?」

日本人は、世界の人々と比べ、キスで目覚めた経験も少なく、
キスで目覚めたいと思う人も、圧倒的に少なかった。


「日本の民話と、世界の童話の大きな違い…
   日本には、結婚を『結末』とする物語が、ほとんど存在しないんです。」

日本版シンデレラ・落窪物語も、物語の大半は結婚『後』の話である。

「確かに、『異類女房』という、人間以外のモノと結婚する話はあります。
   蛇、蛙、蛤、魚、鶴、狐、竜、猫…ほぼ全てが、結婚『後』が主題で、
   しかもハッピーエンドにならないケースが多勢を占めます。」

この中で、西洋の童話のようなハッピーエンド…
『二人は結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ。』となるのは、
「実は、唯一あなただけ…『猫女房』だけなんですよ。」

『唯一の例外』と言われ、黒尾は「よっしゃ!」と拳を突き上げた。
だが、話の論点は…そこではない。


「数々の民話からもわかる通り、日本は結婚という『形式』に、
   それほど重きを置いてきませんでした。」

だからこそ、結婚の解消…離婚も、世界に比して『簡単』である。
日本において、同性婚という『形式』の議論が活性化しないのも、
これが理由の一つなのかもしれない。


「『鶴の恩返し』も、『羽衣伝説』も、結婚…『結合による完成』よりも、
   完成するはずだったものが、『別れて立ち去る』ところが主題です。
   相手が『消えること』…そこに、美しさを見出しているんです。」

多くの異類女房譚然り、八百比丘尼然り、桜の花も然り。
日本人は、『消えゆくもの』に対して、はかない美しさを感じるのだ。

「だから、『西洋の童話』としてはイレギュラーな『人魚姫』を、
   むしろ『日本的な感覚』に近いものとして、美しく感じるんだ…」

民話や神話は、その国の人々の精神性を、如実に表す。
西洋の童話が、『結合による完成』を『結末』とするのが多いことが、
逆説的に、西洋の人々がいかに『結婚』に重きを置いているかを示している。

「『西洋の童話』の中に生きる『人魚姫』にとって、
   ハッピーエンドは『結婚』でなければならなかった…ということですね。」

やはり、『人魚姫』は…結局救われないまま、なのだろう。


山口はやり切れない思いを振り払う様に、グラスを一気にあおると、
明るい声と、透き通るような澄んだ瞳で、黒尾に問いかけた。


「黒尾さんはさっき、『結婚はそんなに大事か?』って言いましたけど…
   それって別に、結婚したくない…ってワケじゃないですよね?」





***************





山口の質問に、黒尾以外の二人は、目を見開いて…凝固した。
問われた張本人は、そんな緊張感とは無縁の顔で、ニンマリ笑った。

「当たり前だろ。俺だって、そういう相手と機会があれば、
   『こいつと結婚してぇな~』って、ごく自然に思うぜ?」

あぁ、でも、そうだな…と、黒尾は自身の発言を修正した。

「それは別に、『法律上の手続に則って』って意味じゃなくて、
   何らかの『儀式』…通過儀礼として、『結婚』みたいなケジメをつけて、
   その相手と『共に暮らして老いる』ことを選択する、って意味だ。」

様々な事情から、現行法上の『婚姻関係』を結べないケースがある。
そのような場合でも、何らかの『形式』を通し、結合という完成を求めるのは、
人間の感情としては、ごく自然な『気持ち』ではないだろうか。

「西洋ほど重んじないとはいえ、やっぱり『形式』は…
   『ケジメ』をつけることは、精神的な面でも大切ですよね。」
「よく聞くだろ?学生時代そのまんま、ずるずると同棲を続けてしまい…
   結局、ダラダラと『付き合ってる期間』だけが長くなっちまうケース。」

このまま私たち、どうなるんだろ。もういい歳だし、この人しかいないし…
惰性のまま、『同棲以上結婚未満』を続け、先に進めない。
気が付いた時には、既に相手とはすっかり『家族』の雰囲気になっており、
今更奮起して、手続やら何やらをこなす気力も情熱も…なくなっているのだ。


「今だって十分幸せなら、今のままでもいいかな…
   って思っちまうのは、 ただの『甘え』だろ。
   そんな『宙ぶらりん』が許されるのは、せいぜい学生まで。
   特に相手が女性なら、子どものことを考えても、そんなに猶予はねぇ。」

「あ、相手がもし、子どもがいらないって思ってたり、できない場合は…?」
「それでも、同じだろ。人間の寿命は、人魚みたいに300年あるわけじゃない。
   貴重な『若い時期』を無駄にズルズル…ってのは、勿体ねぇよ。」

自分と相手の『限りある人生』を大切にしたいのであれば、
いずれかの時点で、きちんとした『形式』を経て、
しっかりと『相手との人生』を歩む『覚悟』を決めるべき…

黒尾が言っているのは、相手を想うからこその、形式の重要性だ。
相手の為に、がっちりと腰を据え、相手の全てを受け止める覚悟…
それを厭わない度量と器を、黒尾は持っているのだ。

「やっぱり、黒尾さんは…本当に『理想的』な王子様ですね。
   黒尾さんに選ばれる人が、心から羨ましいです…」

年齢不相応ですらある黒尾の『男らしさ』に、山口が感服していると、
今まで黙って聞いていた二人が、慌てたように口を開いた。


「あ、あの、それは相手が女性以外…
   現行法上では婚姻できない相手の場合でも、気持ちは同じ、ですか?」
「さっき出てきた『異類女房』って、実はよくある話じゃねぇか?
   結婚前には『猫』被ってたのが、結婚後に『狼』に変身したり、
   酒に溺れる『大蛇』だったり、暴力を振るう『獣』だったり…」

「た、確かに、結婚なんてほとんど…『異類』との結合、ですけど…」
「だったら、運よく『こいつとなら』…って相手ができたんなら、
   別にそいつがお姫様だろうと猛禽類だろうと、大して問題じゃねぇな。」

かつて、『山口妊娠疑惑』が取り沙汰された時。
その時に、黒尾と同じぐらい『器』のデカい人間がこう言っていた…
「大事なことは…『二人が幸せか?』ってコトだけ!!」だと。

黒尾は間違いなく、『二人のキモチ』という『本質』を見誤ることなく、
どんな困難にも立ち向かい、幸せを掴み取るだろう。

「この僕ですら…黒尾さんとなら、結婚したいと思ってしまいましたよ…」

月島ですら、文句のつけようのない男…
だが、赤葦は一人、冷静に黒尾に噛み付いた。


「口では何とでも言えますよ。むしろ、そこまでご立派に仰るなら…
   具体的にどのような『形式』を考えておいでなのか、お教えください。」

何故か喧嘩腰…鋭い視線に、月島と山口は怯みそうになったが、
その視線を正面から受け止め、黒尾は丁寧に説明を始めた。

「これはあくまでも、現行法で使える手段の範囲内、という限定だが…」
「それで構いません。ではこれもあくまでも『仮定』として…
   相手が『同性』だったケースを、お願いします。」

赤葦の要求に頷くと、黒尾はグラスを空けて喉を潤し、口火を切った。


「まずは、『婚姻届』に代わる、法的拘束力のある『文書』を作成する。
   これには、『合意契約公正証書』を利用する手が考えられる。」

公正証書とは、法律の専門家である公証人が作成する『公文書』である。
公文書であるため、信頼性に優れた、強い証拠力を持つ文書になる。

「つまり、公的文書を用いて、『婚姻契約』を結ぶ…ということですか?」
「法的に保護される『身分』を得られない以上、共同生活におけるルール等…
   大事な『約束事』は、『入口付近』できちんと決めておく必要がある。」

婚姻に伴う合意契約公正証書は、一般的な結婚の場合でも、
事実婚…内縁関係を選択した場合にも、勿論利用できる。
財産管理や子どものこと、親族との付き合い方、約束違反のペナルティ…
これらを事前に定めておくことで、後の紛争を予防する『保険』にもなる。

「もちろんこれは、相手を『がんじがらめ』に束縛するためじゃねぇ。
   事故や災害の保険と同じ…いわば『安心材料』だな。」

とは言え、『口約束』よりも、はるかに強固な『文書』である。
これを交わすだけでも、『形式』としては…十分すぎるくらいだろう。
下手をすると、結婚式での『新郎新婦の誓い』や、『婚姻届』よりも、
ずっと強力な『形式』になりうるかもしれない。

「この公正証書を利用すれば、歳を取った後の扶養問題や、後見人のこと、
   相手への贈与や遺言なども、可能になりますね。ですが…」
「特に財産問題に関しては、相続の際には、本来の相続人とのやり取りが、
   やはりネックになると思うんですが…」

いくら遺言で『全て相手に…』とあっても、親兄弟などの法定相続人には、
一定の相続権があり、遺言に不服がある場合は、揉めることになる。


「財産全てを相手にやることはできなくとも、『ある程度』はスッキリと、
   相手が受け取れる…そんな方法だって、あるにはあるぜ?」

話の先を促すように、月島は率先して黒尾のグラスにシャンパンを注ぎ、
真剣な面持ちで、黒尾の話に聞き入った。

「簿記の勉強をしたツッキーは、所得税の確定申告の『控除』欄にある、
   『小規模企業共済等掛金控除』っていう言葉に、見覚えあるだろ?」
「課税額の基本となる『収入』算出の際、所得から控除されるものですね。
   他には、社会保険料控除や医療費控除、配偶者控除等がありますが…」



黒尾の言う『小規模企業共済等掛金控除』の詳細については、
月島だけでなく、山口と赤葦にも、全く『馴染み』がなかった。

「これは、サムライ達…弁護士や税理士、公認会計士や行政書士なんかの、
   『士(サムライ)業』や、医師や鍼灸師等の開業資格者、スポーツ選手等…
   個人事業主が加入できる、一種の『年金・退職金制度』だな。」

個人事業主は、サラリーマンや公務員のように、
厚生年金や共済年金には加入できず、国民年金のみになる。
それだけではなく、個人事業主には『退職金』も存在しない。

「個人事業主は、サラリーマン以上に…『老後』が心配、ですね。」
「そもそも、『死ぬまで現役!』が前提でしょうけど…
   人生、何が起こるかわかりませんからね。」

そんな個人事業主のために、毎月最大7万円までの自由な金額を積立て、
廃業した際や死亡時の生活資金として、共済金を受け取れるのが、
『小規模企業共済』という公的制度である。
毎月の掛金が所得控除にも利用できる点で、非常に便利な制度だ。

「この共済金の受給資格者には、『共同経営者』も含まれる。
   もし俺が個人事業主として開業し、相手を共同経営者にすれば…」
「いざという時は、相手は正当な権利として、共済金を受け取れますね。」
「しかも、月に最大7万円積立てると、年間84万円…
   普通の『配偶者控除』よりも、ずっとデカい節税になります!」

実現には、当然のことながら食っていけるだけの資格や技術が必要である。
税額控除を受けるためにも、きちんとした確定申告…税務処理も必須。
それだけ、課題や負担、苦労も山積しているのだが…

「仕事ってのは、そもそもが『しんどい』もんだろ。
   サラリーマンだろうが公務員だろうが、事業主だろうが…同じだ。
   苦労するポイントが、ちょっと違うだけだからな。」

あっけらかんと言ってのける黒尾に、3人は度肝を抜かれてしまった。
未だ学生の身でありながら、この男はそこまで考えているというのか…
これが、『策士・黒尾』の真骨頂…3人は身震いした。


「ちょ、ちょっと待って下さい。
   黒尾さんがそこまでしっかり『策』を巡らせているとなると、
   それに合わせる『相手』は…とてつもなく大変ですよね?」
「理想的な王子様というよりは、理想が高過ぎる王子様…ですよね。」

黒尾に養ってもらうだけ…『待つ』だけのお姫様であれば、
これほどまで頼もしい『王子様』など、そうそういないだろう。
だが、黒尾は相手を『共同経営者』にすると言っていた。
つまり、相手にも『同じだけ』を求めている、ということだ。

「それ、研磨にもよく言われたわ。
   『クロは理想高過ぎて、結婚できないタイプだ』…ってな。」

黒尾は苦笑いしながら、グイグイと杯を傾けた。

「共同経営する以上は、俺も同じだけ、家庭に貢献しなきゃいけねぇ。
   俺の方も…これから『花嫁修業』が必要になるな。」

あー、俺、ここで…ツッキーんとこで修行させてもらおうかな。
笑いながら黒尾が言うと、月島はぶんぶんと首を横に振って拒否した。

「僕は、黒尾さんと二人で、上手くやっていく自信はありません。」
「でも…ツッキーが『誰かの下で大人しく働く姿』も、思い浮かばないよ?」
「月島君なら、黒尾さんと共に『大文句垂れながら働く』のが、
   実はお似合いなのかもしれませんねぇ…『経理部長』さん?」

ツッキー、黒尾さんと事業起こしてみれば?
面倒な就職活動も、しなくてすみますよ?

他人事だと思って、山口と赤葦は含み笑いをしながら、月島を茶化した。
だが、そんな二人にも、黒尾は真面目な顔で告げた。

「共同経営者は、別に『1人』じゃなくてもいいんだからな?
   俺とは違う分野のサムライ…実務をこなせる『器用な奴』とか、
   事業の全てを裏から統括できるような『参謀』も、不可欠だな。」

まさか、『黒尾の結婚観』という『仮定の話』から、
4人での共同経営の可能性に、話が膨らむとは…
そこまで本気の『策』なのか、ただの『冗談話』なのか、
飄々とした黒尾の表情からは、全く読み取ることはできなかった。

どう受け止めればいいのか困惑していると、
黒尾は「ちょんちょん」と指先で3人を手招きした。
全員が顔を寄せると、内緒話をするかのように…はっきり断言した。


「個人事業主は、確かに大変だ。だけど、考えてもみろよ…
   満員電車で通勤する必要もない、裁量次第でいつでも休める。
   それこそ…『目覚めのキス』からの『なだれ込み』も可能なんだぞ?
   これはもう、『頑張る!』しかねぇだろうよ。」

好きな時に、好き放題できるのなら…俺は、努力を惜しまねぇよ。

シタゴコロ丸出しのニヤニヤ笑顔で、黒尾は『本音』を暴露した。


「一瞬でも、黒尾さんカッコイイと思った自分が…恥ずかしいです。」
「その意見には完全同意ですが、何で毎度毎度、口に出すんですか。」
「重ね重ね、あなたという人は…色んな意味で恐ろしい人ですよね。」

温泉宿での『マグロじゃつまんねぇ』発言の時と同様に、
3人は呆れ顔で…だが、ホっとしたように相好を崩した。


残り少なくなってきたシャンパンを、赤葦に注ぎ足してもらいながら、
先程とは全く違う、真剣とも憂悶ともとれる表情で、黒尾は歎息した。


「とは言え、結局のところ、全力で『頑張る!』って思うような…
   そんな貴重で稀有な『相手』を、自分に引き止めておくためには、
   やっぱり『言葉』が必要…って結論になるんだがな。」

話が、『人魚姫』に…戻ったようだ。





***************





しん、とする室内。
グラスの中の泡が弾ける音さえ聴こえそうな、静寂。

赤葦は、美しいシャンパンの瓶を手元に引き寄せると、
装飾された白い花を指でなぞりながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「アネモネの花言葉は、『はかない夢』『薄れゆく希望』『恋の苦しみ』
   そしてもう一つ、『嫉妬のための無実の犠牲』…というのがあります。」

「嫉妬のための…?意味がいまいち、よくわかりません…」
かなり酔いも回ってきたのだろうか。難解な言葉に、首を傾げる月島。

「どういう『由来』のある、花言葉なんだ?」
黒尾の問いに、赤葦は大まかな説明をした。

「これは、ギリシャ神話なのですが…」

    美と愛の女神アフロディーテは、キューピッドの悪戯により、
    美少年アドニスに恋をしてしまいました。
    それに嫉妬した、アフロディーテの恋人・軍神アレスは、
    アドニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺害してしまいした。
    その時に流れたアドニスの血から、アネモネの花が生まれました。

「つまり、何の罪もない、無実のアドニスが、
   軍神アレスの嫉妬によって、犠牲になってしまった…」
「『(いわれのない)嫉妬のための無実の(者の)犠牲』…ってことか。」

『嫉妬』とは、自分が持っているものや、大事にしている誰かを、
他の人に奪われたり、奪われそうになることに対する、恐れや不安の感情だ。

「奪われそうになることに対して、恐怖や不安を感じることは、
   誰にでもある…嫉妬は、人間だけでなく動物にもある感情です。」
「人間と動物の違いは、その『嫉妬』が『誤解』や『思い込み』であった場合、
   ちゃんとそれを解消したり、取り除く手段がある…」
「それが、『言葉』…アレスとアフロディーテが話し合っていれば、
   無実のアドニスは、犠牲にならずにすんだかもしれない…ですよね。」

嫉妬による悲劇が、ギリシャ神話の時代からも、『よくある話』だったから、
それを戒めるために、アドニスの犠牲は『神話』となり、
美しい花…花言葉として、連綿と受け継がれているのだろう。


山口は、瓶に残っていたわずかな泡を、自分のグラスに注いだ。
白い花を愛おしむ様に見つめながら、澄んだ瞳で語りかけた。

「『人魚姫』は、魔法で『人間になった』はずです。
   でも、『言葉』を持たなかった彼女は、はたして本当に、
   『人間になった』と言えるんでしょうか…?」

肉体的な結合は、人間以外の動物だって、当たり前のようにやっている。
だが、『言葉』を使った精神的結合を行うのは、人間だけだ。

「『言葉』を使って愛情表現できるのは、人間だけ。
   『言葉』がないのなら、モノと同じ…か。」

グラスに口を付け、静かに飲み干す。
空になったグラスをテーブルに置くと、山口は目を瞑り、空を仰いだ。

「本当に『人間になる』魔法があったなら…
   人魚姫には、想いを伝えられる『言葉』を…あげてほしかったな。」


最後まで、グラスにシャンパンが残っていた月島は、
目を閉じて一息つくと、それを一気に飲み干した。

「山口の言う通り、やっぱり『言葉』が必要…僕も、そう思う。」
閉じていた瞳を開けると、隣に座っていた山口に、真っ直ぐ向き直った。

「口に出して言わなくても、確固たる『事実』があれば、
   僕が山口のことをどんなに好きかなんて…十分伝わってるって、思ってた。」

「っ!!?」
「お、おぃ、ツッキー…」

散々渋っていた『入口付近』の言葉を、ごくアッサリと言ってしまった…
赤葦と黒尾は驚いて凝視するが、月島の目は据わり…周りが見えていない。
もしかすると…酔っている、のだろうか?

そんな二人に、山口はごく冷静に、チラリと視線を送ってきた。
このまま、少し待って欲しい…と。


「僕は絶対、山口を誰かに奪われるなんて…耐えられない。
   それがたとえ、黒尾さんや赤葦さんであっても、嫌だ。」
   嫉妬に狂って…何を仕出かすか、自分でもわからないよ。

据わり切った目で淡々と宣言され、黒尾と赤葦はゾクリと背を震わせた。


「よく考えるまでもなく、この厄介極まりない僕に合わせられるのは、
   間違いなく、世界中で山口ぐらいしかいないだろうね。」

うんうん…と、月島の正しい自己認識に対し、黒尾は深く首肯する。
赤葦が山口を見ると、下を向き…笑いを堪えている。

酔った勢いで、饒舌に『本音』を語りだす月島を、あえて放置…
このチャンスを利用してしまおうという、山口の『策』のようだった。


「そんな貴重で稀有な『相手』を、自分に引き止めておくためには…?」
黒尾のセリフを借り、赤葦はほくそ笑みつつ月島に『続き』を促した。

「勿論それには、きちんとした『言葉』と、『形式』が必要。
   今日の黒尾さんの話…綿密に練られた『策』を聞いて、僕は痛感したんだ…
   僕はまだ、全然『きちんと』…山口との将来を、考えてなかったなって。」

「は、はい…?」

確かに、そういう話はした。
昨日のように、酔った勢いで『世間話の一環』風に、ポロリと…
『入口付近』の言葉を言ってくれればいいな…という程度の軽い気持ちで、
山口は面白半分…月島を『喋りたいだけ放置』してみた。

だが予想に反し、山口が思っていた『以上』のことを、ベラベラと…
よく見ると、既に月島の焦点は…あらぬ虚空を彷徨っている。


「おい山口、このままだとツッキーは…」
「『入口』すっ飛ばして、『出口』のアレ、言ってしまいますよ…」

今まで散々、月島を煽り立ててきた二人だったが、
この状況は想定しておらず…にわかに慌て始めた。


「今の僕には、黒尾さんみたいな、山口を幸せにできる『策』は、ない。
   悔しいけど、あの二人に知恵を借りながら、構築していくつもりだよ。」
「そ、そう…が、頑張って…」

当の山口も、動揺で赤くなり、焦り始めた。

「幸いなことに、『予行演習』ともいえる同棲も、すこぶる上手く行ってる。
   山口と『ずっと一緒』に生活していくのに、僕は何も不安材料がないよ。」
「そ、そうだね、俺も、それはそうだけど…」

頭の回転が速い、即ち、妄想の暴走も超特急…

長期間焦らされた挙句、前後不覚の『感情だだ漏れ』状態から、
一生を左右するような『言葉』を言われてしまうのは、
あまりにも山口が不憫…悲劇を通り越して、喜劇である。


黒尾は月島を羽交い絞めにし、暴走ストップを試みた。

「ツッキーの気持ちは、よぉ~~~くわかった。
   わかってるから、今はそれ以上、言うな。頼むから、言うな。」
「ちゃんと『言葉』で言えって言ったの、黒尾さんでしょ?」

「ほ、ほら、黒尾さんや俺も見てる『公衆の面前』ですし…
   一生に一度の、大事な大事な『言葉』は、ぜひ二人きりの時に…」
「折角、赤葦さんが高価な『祝杯』を用意して下さったんです。
   今日という機会を逃したら、僕はまた、ずるずるしちゃいますから。」

この『祝杯』は、月島君達じゃなくて、俺の…という言葉を飲み込み、
赤葦は月島から隠す様に、山口の前に躍り出た。

だが、そんな『目隠し』も、月島には通用しない。
大分前から、既に…見えていないのだから。


「山口。」
「な、何…?」

静かに名前を呼ばれ、盛大にビクつく山口。
赤葦の背に隠れながらも、赤だか青だかわからない顔色で、
やや涙目のまま…反射的に返事をした。

「僕は、山口が好きだよ。」
「っ!!!あ、そ、それは、どうも…」

「だから、僕と…」

あぁ、もう駄目だ。止められない。
黒尾は観念し、羽交い絞めにしていた手を緩め、
赤葦はスっと体を横に避け、月島と山口の前を開けた。


「…付き合って下さい。」



「「「…そこ(入口)かよっ!!?」」」


3人からややキツめのツッコミを喰らった月島は、
その勢いと酒により昏酔…人魚姫の『喜劇』は閉幕した。



***************





黒尾達の手を借りながら、何とか月島を山口宅まで運んだのは…深夜。
布団に横たえると、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。

部屋の灯りを消し、カーテンを少しだけ開ける。
今夜は月も出ていないが、都会の夜の灯が、閉じられた瞼を照らす。


    横に座り、静かに眼鏡を取り外す。
    仄かな灯が、長い睫毛の陰を作る。


(今日は本当に、色々あったな…)

人魚姫の話。『形式』に関する話。アネモネの花と…
今回の『酒屋談義』は、いつも以上に『濃密』だった。

どの話も、『飲みの場の雑談』というよりは、『真剣な考察』であり、
とても皆、酔っているとは思えない明敏さだった。
彼らのペースに付いて行くのは大変だが、知的好奇心を強烈に刺激されるのは、
痺れるような快感…楽しくて仕方ないのだ。

(やっぱり俺…4人での『酒屋談義』、大好きだな。)


そんな大好きな場所で、今日、大事な『言葉』を貰えた。

酔って暴走した結果かもかもしれない。でも、紛れもなく『本音』だろう。
あの『言葉』を言う一瞬だけ、ツッキーの焦点が自分の上に結ばれ、
握られた拳に、グっと力が入っていたのが…俺にはわかった。

(やっと…やっと、言って貰えた…)

溢れだす涙。
ツッキーを起こさないよう、必死に嗚咽は飲み込むが、
この涙だけは、どうしようもなかった。


「俺も、ツッキーが、好き、だよ…」

抑えきれない嗚咽と共に、『言葉』が零れ落ちる。


まだ高校生の頃、明光君の家に閉じ込められた時。
ツッキーからその『言葉』を言うまでは、俺から言うのも待ってほしい…
そうツッキーに言われた。
だから俺は、その日が来るのを、ずっとずっと待ち続けた。


「ツッキーのことが大好きだって…ずっとずっと、言いたかった…っ」


好きだと言って貰えないことよりも、自分からも言えなかった…
そっちの方が、ずっと辛くて、もどかしかった。

きっと…『言葉』を封じられた人魚姫も、同じ気持ちだったんだろう。
王子様のことが、好きで好きでたまらないのに、それを『言葉』にできない…
泡と消えてしまった人魚姫のことを思うと、涙がまた止まらなくなった。


頬を伝って落ちる水滴が、布団の隅を濡らす。

その時不意に、強く腕を引き寄せられ、
今度はツッキーの胸元が、涙に濡れる。


「ゴメン、山口…待たせて、本当にゴメン…それと、ありがとう。」


俺は人魚姫の分も一緒に、声を上げて泣き続けた。



- 完 -



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※山口妊娠疑惑 →『危言危行
※『ラプンツェル』について →『大胆不適
※明光君の家で… →『縄目之恥

※崩壊する童話5題『5.魔法が使える人魚姫』


2016/06/10(P)  :  2016/09/25 加筆修正

 

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