※山口作『ミニシアター(抜粋)』の続き。



    既往疾速①







   既に終わったことは 疾速に過ぎ去る
   選んでしまった道は 二度と戻れない 


バサリと何かが崩壊する音と、頭部への重い衝撃で、俺は目が覚めた。
薄っすらと目を開けると、散乱する書類の山。ここは、事務所の…俺の机だ。

つい先程、長く辛かった修羅場を脱し、無事に納品を終えたところだった。
力尽きた俺は、どうやらそのまま机に突っ伏し、うたた寝をしていたようだ。

「痛ぇ…六法かよ。」

いつもはスッキリと整理整頓されている机も、修羅場ともなれば荒れ放題だ。
うず高く積まれた書類山脈で、事務所の中が全く見通せないぐらいである。
その頂上付近に鎮座していた六法が、表層雪崩を起こして俺に直撃したらしい。
コンパクトなサイズだが、普通の国語辞典ぐらいの重量は十分にある。
打ち所が悪ければ凶器にもなり得るし、記憶障害を負い狂気に陥る恐れもある。

「そうなったら…『狂喜』かもな。」


赤葦が記憶を失ってから、早3カ月。
最初の一月は、てんやわんやの大騒ぎ…どう過ごしたかも殆ど覚えていない。
二月目は、容態も安定してきた赤葦の様子を、ご両親から毎日連絡を貰いつつ、
赤葦の抜けた穴を埋めるべく、3人で各種手続や仕事をこなす日々だった。
この期間のことも、多忙過ぎて記憶らしい記憶は残っていない。

そして今月、赤葦が仕事に復帰してからが…地獄の始まりだった。


最初の内は、3人共大喜び…赤葦が戻って来たことが、嬉しくて堪らなかった。
赤葦の姿を見たのも、病院で昏睡しているのを見舞って以来だったから、
前と変わらず元気に笑い、楽しく会話しながら一緒に仕事ができる…
元の黒尾法務事務所に戻ったことを、素直に喜び合っていた。

赤葦が記憶を失った経緯や、その原因が不明なため、精神状態安定を最優先し、
自分達の『本当の関係』を告げることはできなかったけれども、
一緒に事務所で仕事をしながら、机越しに赤葦の横顔を確認できるだけで、
戻って来てくれた喜びに、俺の心は温かさを感じていた。


だがそんな安寧は、一週間も保たなかった。
赤葦がすぐ傍に居るのに、この腕に抱き締められないこと。
見せ掛けの穏やかさを壊せず、赤葦への想いを声にできないこと…
行き場のない愛しさが胸を埋め尽くし、内側からギリギリと圧迫し始めた。

この苦しみを味わったのは、俺だけではなかった。
『同じなのに違う』赤葦と、これからどのように接したら良いのか…
自分達の記憶と違う赤葦に、心が付いていけなくなってきてしまったのだ。

それが、二週間程前。
折しもその頃から修羅場に突入し、余計なことを考える余裕がなくなった。
こんなに修羅場を有り難く感じたのは、初めての経験…多忙に心を救われた。


机越しの、俯く赤葦の横顔が見えないように…少しずつ書類を積み上げて、
激情に駆られて赤葦を傷付けないよう…自分が壊れないように、
ほとんど無意識の内に、二週間かけてじわじわと机と心に壁を築いていた。

だがそれも、もう限界。修羅場が明けた緩みから、山口が暴発してしまった。
おそらくツッキーも似た状態…爆発しなければ、壊れてしまうだろう。
この壁…書類山脈が崩壊してしまったように、いずれは俺にも限界が来る。

それはわかっていても、どうしても俺は『今』を壊せなかった。
俺の中にある記憶が、俺をがんじがらめに捉え、身動きができなくなっていた。


   (お前は…誰だ?…わから、ない。)

病に倒れた親父。
薬の影響で意識が朦朧とし、病の進行と共に、眠っている時間が増えていった。
薬がないと痛みで苦しむから、それよりはずっと良いと、最初は思っていた。
だが時が経つにつれて、起きている時も徐々に意識レベルは落ちていき…
周りのことから少しずつ、最後には俺達家族のことも、わからなくなった。

   (鉄朗…?息子の…名前…?)

親父が最期を迎えた時よりも、俺が誰だかわからないと言われた時の方が、
受けた衝撃も感じた絶望も大きく…突き上げる慟哭を堪え切れなかった。
親父の世界にはもう俺は居ないという事実は、受け止めるには大き過ぎた。


赤葦が救急搬送され、病院のベッドで昏睡する姿を見た時に、
チラリと目に浮かんだ…親父の姿。
目覚めた赤葦が、俺達のことを覚えていないと判明した時に、
親父のことや、あの時の記憶が鮮明に蘇り…俺は気を失いそうになっていた。

   赤葦は無事に…戻ってきたんだ。
   親父みたいに…消えたりしない。

赤葦と親父は違う…わかっていても、あの時の恐怖は簡単には消えなかった。
赤葦が一日も早く、自分達の記憶を取り戻して欲しいと願う反面、
喪失の原因となった記憶を思い出すことにより、赤葦を苦しませたくなかった。

そして、その苦しみから逃れるために、今以上に記憶を失うかもしれない…
赤葦の世界から、俺達がまた消えてしまうかもしれない恐怖に囚われ、
たとえ仮初めであっても、今の安寧を壊すことができなかった。


   (このままじゃ駄目だ…わかってる。)

俺達の関係を告げないという選択は、間違っていなかったと思う。
一度選んだ道は二度と戻れない…だが、この道を進み続けることもできない。
この先にあるのは、果てのない絶望…たどり着く場所もないのだ。

それはわかっているけど、どうしていいか…わからなかった。
俺がズルズルしているせいで、ツッキー達にも苦しみを与えてしまっている。
早く何とかしなければ、共倒れは時間の問題だというのに…動けなかった。


「情けねぇ上司で…ヘタレな旦那で、ゴメンな。」

ピンチの時こそ、俺が皆を率いていかなきゃいけないのに。
俺が立っていなければ…立ち上がらなければいけないのに。
傍で支えてくれていた存在が居ないだけで、こんなにも…弱くなってしまった。

   (俺は一体、どうすれば…っ!)


毎夜毎夜、同じことを考え続け…独りきりの朝を迎える。
そして今日も、俺はこの場所から動けないまま、眠れない夜を過ごすのだろう。

「こんなことなら、いっそのこと…もう一度出逢わなきゃよかったかもな。」

月も星もない真っ暗な空に向かって、心とは裏腹の言葉を口にする。


窓に映った自分の目から零れ落ちる一筋の雫だけが、
声にできない想いを、俺の代わりに空に打ち明けた。




********************




「赤葦さん、診察お疲れ様です。」
「おや、月島君…どうしたんです?」


二週間に一度の、定期健診。
今回も特に異常や変化は見られず、経過観察するしかない…との結論だった。
『新生活』にも慣れ、精神的にもかなり落ち着いてきたようだから、
次回からは月に一度の通院にしてもいいとのこと、そして、
少しずつでいいから、『元の自分』について知るのも良いだろう…と言われた。

診察室を出て、母親と共に会計待ちをしていると、
診察後にどこかへ行っていた父親が、見慣れた人物を伴って戻って来た。


同じ事務所で働く、同僚の月島君。
一見クールで取っ付きにくそうに見えるけれど、それは単なる照れ隠し。
仕事中以外では穏やかに喋るし、今も両親とは随分楽しそうに会話している。
両親が『心から信頼できる人達』だと断言し、俺を安心して預けている事務所…
そこの一員の月島君も、俺にとって大事な人なんだなぁと改めて確認し、
俺は3人を置いて、一人で会計処理機の行列へと向かった。

検査も治療も投薬もない、定期的な診察のみだと、こんなに安いのか…
処置のしようがないのだから、当然と言えば当然だが、何だか申し訳なくなる。

領収証と診療明細書、カード等を母に渡すと、母は領収証をそのまま月島君へ…
月島君も特段のリアクションもせず、淡々とそれを受け取った。
え、何で俺の領収証を…?という疑問を差し挟む前に、父が勝手に話を進めた。


「じゃ、そういうことで…京治をよろしくね、月島君♪」
「しっかり楽しんできてね〜♪」
「はい、お任せ下さい…それじゃあ。」

その鞄に、必要そうなものは入れてあるから、後はテキトーに買ってね?
勿論、お土産も大歓迎だから…ゆっくりしていらっしゃいよ♪
そう言うと、両親は「ばいば~い♪」と手を振り、腕を組んで立ち去った。

「あの…これ、どういうことですか?」
「大したことじゃありませんよ。」

それじゃあ、行きましょうか。
月島君は輝くイケメンスマイルを放ち…俺の腕を引いてゆっくり歩き始めた。


病院を出て連れて行かれた先は、病院裏の公園内にある、小さな神社だった。
公園にはお散歩中の入院患者や、近くの園児さん達がチラホラ見えたが、
神社の境内には誰もおらず、静かな本殿脇のベンチに二人で並んで腰掛けた。

「こうして赤葦さんと神社のベンチに腰掛けて話すのは、久しぶりですね。」

以前は真夏…新宿中央公園内の熊野神社で、二人で神前結婚式を見たんですよ。
まだ僕達が一緒に住む前…と言っても、一年半程しか経ってないんですけどね。

突然始まった『元の俺』に関する話。
事務所に復帰してこの一月の間、修羅場だったこともあり、
同僚達は仕事以外の『元の俺』の話は、何一つしてくれなかったのだが…
修羅場も明け、医師の許可も得たから、ようやく…ということだろうか。

やっと!という期待と、ついに…という不安を押し隠しながら、
俺は踏ん切りをつけるべく、精一杯のイケメンスマイルでおどけてみせた。


「神前結婚式を、ですか?もしかして、俺達の結婚式のために、
   『挙式プラン』のパンフレットでも貰いに行ったんでしょうか?」
熊野三山の神職は、代々『饒速日尊(ニギハヤヒ)の後裔』だそうですから、
引き裂かれた七夕の二人…饒速日尊と瀬織津姫に誓いを立てるんですね。

自分の頭の中にふと浮かび、口を滑って出た言葉に、俺も月島君も驚いた。
こんな超マニアックなネタ…何で俺は知っているんだろうか?
いや、間違いなく知っている。こういう話ばかりを、語り合っていた…?

「僕達は…僕達4人の趣味は、酒を飲みながら雑学考察ですよ。
   それを一番最初に思い出して下さったことが…僕は何よりも嬉しいです。」

月島君は心からの笑顔を見せると、ポケットから白いハンカチを取り出した。
丁寧にそれを広げると、中には銀色の指環が収められていた。
神前結婚式の話から、指環登場…『まさか』と思うより先に、
『やっぱり』と思ってしまった自分に、俺は大して驚きもしなかった。

月島君はその指環を手に取り、予想通りの言葉を口にした。

「これは、赤葦さんのものです。そしてこっちが…僕のです。」


月島君は反対側のポケットから、今度は水色のハンカチを出し、
同じように挟まっていた銀色の指環を、自分の左手薬指に差し込んだ。

さっきは冗談半分で言ったのに、本当に俺は結婚していて、その相手は…

「成程。俺はとにかく『顔重視』で、生涯の伴侶を選んだようですね。
   それ以外は目を瞑るとして…月島君の顔だけは、モロに俺好みですからね。」
「赤葦さんに面と向かってここまで面を褒められたのは、初めてですよ。
   ですが、僕が赤葦さんの伴侶かどうかは…僕からは教えられません。」

赤葦さんの指環…内側にある『刻印』を見て下さい。
そう言って手渡された指環の中を覗き込むと、小さく三文字が刻まれていた。

   『T&K』

「『K』は俺…京治の『K』ですね。では、こちらの『T』が…」
「僕の愛称『ツッキー』の『T』…蛍だと京治と被っちゃいますからね。」

山口や黒尾さんは、僕をツッキーと呼んでくれるのに、未だ赤葦さんは…
赤葦さんが僕を可愛らしいその名で呼んでくれる日を、心待ちにしてますから。

「月島君を…俺も『ツッキー』と?」
「耳慣れない名で呼ばれるのは…やはり悲しいですからね。」

まぁ、呼び名については、おいおい思い出してくれればいいですから…と、
月島君は何とも言えない表情(苦笑い?)を、一度水色のハンカチで隠して外し、
今度は一転、ごく真剣な表情で俺の目の前に指を三本立てた。


「『T=ツッキー』…これは一つの可能性です。
   そして、その可能性はまだあと二つ存在するんです。」

   ・『T=忠』
   ・『T=鉄朗』

我らが黒尾法務事務所の同僚…3人全員に『T』たる資格があり、
この3人のうちの誰かが、赤葦さんの伴侶であると…断言します。
念のために申し添えておきますが、『4人全員で結婚』というのは除外です。
3人のうちいずれか1人と赤葦さんは結婚したと、素直にお考え下さい。

「あの事務所は俺の『ハーレム』じゃなかった…実に残念です。」
「ご安心下さい。実質的にはそれで…多分正解ですから。」

記憶はなくなっても、僕達3人が赤葦さんをどれだけ愛しているか…
それはこの一月で、ひしひしと伝わったはずですよね?


月島君の確認に俺が頷くと、月島君はふぅ~っと、大きくため息を吐いた。
どうやら相当緊張していたらしく、握り締めたハンカチが、ぐしゃぐしゃに…
月島君はもう一度肩から息をして、安堵の表情を見せた。

「今の話…驚かないんですね。正直こっちは、助かりましたけど。
   普通はショックで意識飛ばしてもいいし、僕をぶっ飛ばしてもいいのに…」
「常識的に考えると、衝撃的な話ですけど…何となく気付いてましたから。
   でも、一月前にコレを言われてたら、飛んでたかもしれませんね。」

こんなショッキングな話を、何の準備もなく暴露されたら…さすがに、ね。
だから、俺のことを案じて、ずっと様子を見て…黙ってて下さったんですよね?
言いたくても言えない苦しさを抱えながら、俺のために我慢し続けて…
どれだけ皆さんが俺のことを大事に想い、心から愛して下さっているのか。
記憶なんかなくても、そのことだけは痛い程…感じていましたからね。

皆さんなら、信じられる…皆さんと一緒なら、どんなことでも受け入れます。
この一月で心の準備はできましたから、『元の俺』のこと…沢山教えて下さい。

「言葉にできない…ツラい想いをさせてしまい、本当にすみません。
   そして、勇気を出して話して下さり、ありがとうございます…月島君。」


心からのキモチを伝えると、月島君は息の塊を飲み込んだ。
そして、それが上がってこないように…水色のハンカチで顔を覆って俯いた。
俺はそっと手を伸ばし、小さく嗚咽を漏らす月島君の頭を撫で続けた。

ずっとずっと前…
樹々の生い茂る緑の中、静かなベンチに座って、この髪に触れて…

「こうやって月島君の髪を撫でるのも、随分久しぶり…ですよね?」
「そこで僕は、想いをちゃんと言葉にできますようにって…神頼みしました。」

高校時代…赤葦さんと井の頭公園で初デートした時の、恥かしい想い出です。
今になって、こんなカタチでそれが叶うなんて…辯才天に感謝ですね。

月島君は柔らかく微笑むと、ハンカチを丁寧に畳んでポケットに戻し、
俺の手をしっかりと引いて、ベンチから立ち上がった。


「やっぱり…こうして一緒に話をしていたら、少しずつ思い出せそうですね。」
「えぇ。今も重要なことを、結構アッサリ…月島君が実は涙脆いこととか。」

そ、それは…思い出さなくていいです!
とにかく、これから一緒にいろんな所へ行って、いっぱいお話ししましょう!


「赤葦さん探しの旅…出発です。」




- ②へGO! -




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※黒尾→赤葦のテーマソング
   久保田利伸 『声にできない』

※新宿中央公園の熊野神社で →『三角之火
※井の頭公園でデート →『他言無用




それは甘い20題 『16.うたた寝』

お題は『確かに恋だった』様よりお借り致しました。


2017/12/13   

 

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