三角之火







溜まった洗濯物(二人分)を、鼻唄混じりに干していると、
玄関から控え目なノックが二回響いてきた。

ドアの覗き穴から確認すると、ここの本来の家主…
赤葦が鍵を開けると、月島は少し苦笑いしながら、
お邪魔します…?と中に入った。

「妙な気分ですが…『いらっしゃい』としか、言い様がないですね。」

赤葦も苦笑しながら部屋に招き入れ、冷蔵庫から出したペットボトルを渡すと、
洗濯を干し終わるまで、しばらくお待ちください…と、ベランダに向かった。


「あ…すみません、勝手に服をお借りしてます。」
「いえ…よくお似合いですよ。」

ここで朝を迎えるのも、今日で…まだたったの3日目か。
ずっと前からここに住んでいたかのような気分になっていたことに、
赤葦は少なからず驚いてしまった。

「変な気分…ですね。まるで、ここが『我が家』みたいです。」
「同感です。ここは僕のウチ…のはずなのに、他所のお宅に来た気分です。」

この倒錯した『妙な状況』…こう言い換えることもできそうだ。

「『自分のツレ』が実家に帰ってる間に、『他所のヒト』のとこへ…?」
「しかも、『新婚のダンナ』の『出張中』を狙って…?」

「その奥さんは、間男のシャツを着て、ダンナの下着を洗う…と。」
「まさに『昼ドラ』的…もしくは、『人妻モノ』的な設定ですね。」

この状況を見た第三者に、そう『誤解』されても…仕方ないかもしれない。
こういった『誤解』を解くのは、実は結構厄介だったりする。
大丈夫だとは思うが…誰もここに(乱入して)来ませんように。

月島と赤葦は、なんとも言えない表情を見合わせると、
それぞれ口を閉ざし…視線を玄関方向に逸らせた。


「とっ、ところで、赤葦さん…朝ごはんは?」
「まだですけど…」

これを干したら、喫茶店にでも…と思っていた。
この状況で『一人分』の朝食など、作る気にもならないです…
と言いかけ、『二人分』もまだ作ったことがないことに、赤葦は気が付いた。

やや先走り気味の思考を振り払うように、音を立ててベランダの窓を閉めると、
それなら、もしよかったら…と、月島が口を開いた。

「朝食と散歩がてら、僕と一緒に出掛けませんか?
   ただ『待ってるだけ』も…勿体無いですから。」

月島の誘いに、赤葦はニッコリ微笑んだ。
「えぇ…大歓迎です。ぜひご一緒しましょう。」


早速『戸締り確認』をしはじめた赤葦だったが、
たった今閉めたベランダの窓を、何故か月島が再び開けた。

「夕方、天気が崩れるかもしれないそうなんで…
   これは中に入れておきましょう。いつ帰るか、分かりませんしね。」

手際よく洗濯物をカーテンレールに掛け直す月島。
その『主婦業の先輩』ぶりに、勉強になります…と、赤葦は心にメモを取った。



駅前の喫茶店でモーニングを食べた後、月島は「ちょっと行きたい所が…」と、
都心行きの電車に乗り込み、『散歩先』へと向かった。

「ここは…新宿中央公園、ですね。」
「目的地は、公園…の中にある、神社なんです。」

月島の『行きたい所』は、赤葦が全く予想していなかった場所だった。
予想外ではあるが、社寺仏閣のある公園は、赤葦も好きな『散歩先』だ。

「こんなところに、結構大きな神社…しかも、熊野神社があったんですね。」

熊野三山…熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の神々を祀った熊野神社は、
日本全国で約3000社…文字通り至る所に存在するのだが、
まさか新宿の『ど真ん中』にあるとは、赤葦も全く知らなかった。

「僕は社務所に行ってくるので…そこで待ってて貰えますか?」

月島の視線の先には、涼しげな木陰に覆われたベンチが見えた。
赤葦は頷くと、のんびりと足を伸ばしてベンチに座った。


午前中の涼やかな木陰とは言え、蝉時雨の夏は…やはり、暑い。
ぼぅっと本殿を眺めていると、凛とした荘厳さ溢れる、雅楽の音色が響いてきた。

「結婚式…みたいですね。」

社務所から戻ってきた月島は、冷えたお茶を渡しながら、赤葦の隣に腰掛けた。
そのまま二人で、厳粛な結婚式の様子を、静かに見学した。


「神前式…ここは熊野神社なんで、熊野の神々に誓いを立てるんですね。」

関係者達が本殿の中に入るのを見届けた後、赤葦は月島に確認した。

「この神社の祭神は、熊野三山の神々と共に、櫛御気野大神(クシミケヌノ)…
   つまり素戔嗚尊(スサノオ)と、その母・イザナミだそうです。」
「イザナギ・イザナミ夫婦は、縁結びで有名ですから…神前式に相応しい…?」

赤葦はそう言いながらも、かつて黒尾と共に考察した内容…
神は『自分が叶えられなかった願い』を代わりに叶えてくれる存在では?という話と、
イザナギ・イザナミ夫婦は、黄泉の国から上手く帰還できなかった事実を思い出した。

その話を、列席者や参拝者には絶対に聞こえないような小さな声で、
赤葦はこっそりと月島に耳打ちしてみた。

「なんでそんな面白くて重要な考察を、二人だけで…ズルいです。」
月島はむくれながらも、その知見には僕も賛成です、と首肯した。

「だからこそ、あの夫婦に誓うんじゃないんですか?
   『僕達は絶対に、上手くやってみせますから!』…と。」


それにもう一つ、熊野神社が神前式に相応しいかもしれない理由が…あります。
月島は社務所で貰った『挙式プラン』のパンフレットを、赤葦に手渡した。

「おや、月島君はコレを取りにココにいらしたんですか…」
「違いますよ。これは勝手に渡されただけです。
   …見て頂きたいのは、当然ながら神社の『由緒』と『御祭神』についてです。」

そこには、櫛御気野大神・別名スサノオと、イザナミが、
商売繁盛・豊作・家内安全・縁結びの神であるから、挙式に良い…等と書いてあった。

「それだけでも十分かもしれませんが…『元々』の熊野の神々について、
   何も触れられていないのが、少々気になりますね。」

熊野には、大元となる熊野三神…三所権現の他に、数多の神々が祀られている。
三所権現以外も含めて、熊野十二所権現と言われており、
その中には、スサノオやイザナギ・イザナミも当然ながらいるのだが…

「実は、熊野三山の主祭神の正体には諸説あって…確定してないそうです。」
「こんなに大きな、日本を代表する神社なのに…ですか?」

それこそ、世界遺産になるぐらいの、超有名所なのに…妙な話だ。

「具体的に『この神様だ!』とは断言できませんが、
   熊野の神々が『どういう性質の神様か』は…ヒントがあります。」

僕も赤葦さんを見習って、コレを持ち歩くようになったんですよ…と、
月島はポケットからメモ帳を取り出し、ペラペラと捲った。


「熊野三山の神社の神職は、代々『熊野国造』が担ってきたんですが…
   この人達は、『饒速日尊(ニギハヤヒ)の後裔』だそうですよ。」
「ニギハヤヒ…!!?なるほど…そういうことですか。」

ニギハヤヒは、七夕の織姫…瀬織津姫の夫であり、本来の天照大神(アマテル)だ。
持統天皇・藤原不比等コンビによって、『歴史』から抹消されたかもしれない、
日本に『元々いた』神様…夫婦神である。

そして、瀬織津姫は、『運命の赤い糸』で大国主と結ばれた、玉依姫でもあった。
大国主も、日本に『元々いた』出雲の神様である。

「熊野三山の一つ、熊野那智大社の主祭神は飛瀧権現…那智の大滝そのものです。
   この飛瀧権現こそ、大国主だと言われているんですよ。」
「熊野の『元々の』神様は…国を『奪われ』て、子孫繁栄が叶わなかった神…」

これは、イザナギ・イザナミ夫婦に誓うのと、全く同じ構図である。

「だからこそ、熊野の神々に…結合と繁栄を誓うんですね。」
「僕達は絶対に…貴方達の轍を踏みません。
   貴方達の悲願を、達成してみせますから…と。」

神前式とは、字面通り『神様が居そうな場所で結婚式を挙げる』という、
挙式『スタイル』の一つ…という程度に思っていた。
その『神様』がどんな神様で、どうしてこの神様に誓いを立てるのかなど、
考えたことなど…まるでなかった。

「僕は、今日ここで挙式したご夫婦の幸せを…熊野の神々と共に祈りたいです。」
「どうか、饒速日尊・瀬織津姫の代わりに…幸せになって欲しいですね。」

他所様の結婚式を見て、どうしようもなく切ない気持ちになってしまった。
赤葦と月島は本殿に心から祈りを捧げ、神社を後にした。



「ところで、熊野神社と言えば…昔からずっと不思議に思ってたことがあるんです。」

神社を出て、二人は公園内の滝の傍にやって来た。
水の落ちる音を聞きながら、赤葦は月島に語り掛けた。

「先程も出てきましたが、熊野那智大社の主祭神は『滝』そのもの…
   まさに『水』の蛇ですよね。」

熊野本宮神社も、元々は『川』の中州にあり、主祭神が大国主とすれば…『水蛇』だ。

「その『滝』が主祭神の那智大社の例祭・扇祭は…なんで『火祭』なんでしょう?」
「!!?そ、そう言われれば、おかしな話…ですね。それに、確か…
   熊野速玉大社の摂社・神倉神社…熊野の神々が最初に降臨した聖地のお祭りも、
   『御燈祭』…こちらも有名な『火祭』です!!」

お燈まつりは男のまつり 山は火の滝 下り竜…と、民謡・新宮節で謳われている祭だ。
これらの祭から見えてくるのは…

「熊野の神々は…『火の蛇』ってことになりますね。」

これは一体、何を意味しているのだろうか。

「熊野と、五大の『火』蛇の謎…じっくり考える必要がありますね。」
「これを考察しつつ、皆さんの帰りをのんびり待ちましょうか。」


二人が深く考察体勢に入ろうとした矢先、月島の携帯が鳴った。
着信元の名前を見た月島は、少々驚いた顔をし、
すみません、少し席を外します…と、足早に大樹の裏へと回った。


水と火、足したら…お湯が沸きそうですね。
そもそも、熊野みたいな山中で火祭なんて…山火事になったらどうするんです?

燦々と照る真夏の太陽に、脳まで沸騰しそうだった。
考察の続きは、涼しい所に移動して…と、赤葦が溶けそうな頭で考えていると、
まさに『沸騰寸前』な表情をした月島が、慌てて戻ってきた。


「赤葦さん…悠長に『待って』られなくなりました。
   山口の実家に…婚約者と思しき人物が、やって来たって…」
「…は?」

月島の言葉に、赤葦は間抜けな返事しか出来なかった。
怒りで湯気すら立ち上らせそうな月島は、吐き捨てるように捲し立てた。

「今朝、『僕と同じぐらい長身』で、『眼鏡にスーツ』の『誠実そうな好青年』が、
   山口を迎えに来て…一緒に『戸籍謄本』持って『役場』へ行ったそうです。」

戸籍謄本を持って役場に行く用事…
一般人が思いつくのは、まず一番にコレ。むしろ、コレしか思いつかない。

「こっ…婚姻届、ですか…?」

山口・月島両家の親達も、『自分達の経験上』から、そう思ったらしい。
たった一人で帰省した翌日、全然別の人間が迎えに来て、役場へ…
昨日の今日で、両家は火をつけたような大パニック状態陥っている…という、
月島母からの「どうなってんの!?」の電話だった。

「その、婚約者と思しき人物って、まさか…」
「玄関先でちょっと話しただけで、『誠実そうな好青年』と錯覚させてしまう…
   そんな『僕と同じくらいの長身』には、心当たりが一人しかいませんよ!」
「あの…人タラシっ!!!」

既に溶けそうだった脳内に、どんっ!と火が付く音を聞いた。
熊野の火祭の如く、全身を火蛇が駆け巡る。


「赤葦さん…行きましょう!」
「えぇ…いざ、仙台!!」




***************





「ま…まずいことに、なっちゃったよ…」

電話を切った明光は、真っ青な顔と震える声で、ゆっくりと振り返った。


決意を新たに、早速仕事に取り掛かろうとしていた黒尾と山口は、
その『タダゴト』ではない雰囲気に、眉をひそめて顔を見合わせた。

「忠が、蛍以外と結婚するらしいって…両家で大騒ぎになってるよ…」

「えっ!!!?お、俺が、けっ、結婚っ!!?」
「はぁ!?お前、いつの間にそんな…どこのどいつだそりゃ!!?」

明光のトンデモ発言に、黒尾と山口は文字通り飛び上がって驚いた。
だが、そんな二人に、明光は泣きそうな顔してため息をついた。

「何言ってんの…それ、黒尾君のことでしょ…
   全く、君がそんな『人タラシ』だなんて、俺の計算になかったんだけど。」

モノの数分立ち話しただけで、『素敵な好青年』って思わせちゃうなんて、
物凄い営業の才能というか…『化け猫』被るにも程があるでしょ!
しかも、二人揃って戸籍謄本持って役場、おまけに『改めてご挨拶に…』って、
普通の人なら、『結婚のご挨拶』って勘違いしちゃっても…しょうがないよ。

「そうか…俺達、みんな『法律系』だから、『戸籍謄本+役場=婚姻届』なんて…」
「全く思いもよらなかったな…」

人は皆、自分が見た『事実』を、自分の『知識』と『経験』によって、判断する。
黒尾にとって、戸籍謄本はただの『行政書士登録に必要な身分証明書』であり、
山口にとっては、『遺言公正証書作成に必要な一書類』でしかなかった。
役場だって、黒尾は『離婚届を出す場所』で、山口は『各種書類申請先』なのだが、
どう考えたって、二人の方がマイナーな部類に属し、
月島・山口両家の親達の感覚が、世間的にはメジャーである。

「黒尾さんの『天然人タラシ』っぷりを甘く見た…明光君の失策だね。」
「忠の言う通り、『蛍が懐いてる』って異常事態…もっと重く見るべきだったね。」
「お前ら…実はめちゃくちゃ失礼なこと言ってねぇか?」

それで、『まずいこと』って…それだけじゃねぇんだろ?
弛みかけた場の雰囲気を、黒尾は『本題』を持ちだすことで引き締めた。


「そ、そうだった!それで、『まずいこと』は主に2つあるんだ。
   一つは…この事態に、ウチの親父が首を突っ込んで来たこと。」

「おっ、おじさん…怒ってる、よね?」
明光の言葉に、山口は冷や汗を垂らし、声を詰まらせた。

「何だ、月島父は…そんなに怖ぇ人なのか?」
ま、親父ってのはどこもそんなもんだろうが…という暢気な黒尾の声に、
明光と山口は、苦笑いしながら顔を見合わせた。

「怖いというか…『明光君とツッキーを足して純粋培養』したカンジ…かな。」
「培養前に、俺らから『温厚柔和な月島母』って溶媒を抜き去った上で…ね。」
「…手が付けらんねぇぐらい、面倒臭そうな人だな。」

本心から厭そうな顔をした黒尾に、明光は深く首肯した。

「当然ながら、『忠溺愛』度合も…かなりの濃縮っぷりなんだよね。」
「おじさん、何故だか俺には…ものすっっっっごい優しいんだよね…」
「ソレも純粋培養ってか…余計に面倒だな。」

そして、『頭の回転が速い=妄想の暴走も超特急』というのも、父親譲りだ。
今回の事態を、『可愛い忠君を蛍が泣かせた→(中略)→忠君がヨソの子に…』と捉え、
その原因となったであろう実の息子・蛍に対し、烈火の如くお怒り中…らしい。

「これだけなら、忠に事情説明させたらカタが付く話なんだけど…
   親父は、『忠君と一緒じゃないなら、東京一人暮らしも認めない!』って、
   怒りのあまり…蛍のアパート、契約解除しちゃったんだよ。」
「えぇぇぇぇーーー!!?じゃぁ、ツッキー…住むとこなくなっちゃったのっ!?」
「おいおいマジかよ…溺愛にも程があんだろ。」

ホントにもう…こっちにも火が付いちゃうなんて、予想外なんだけど。
しかも、鎮火がすこぶる厄介だし…参っちゃうよ。
明光は頭を抱え、はぁぁぁぁぁ~~~、と大きく歎息した。


「…ちょっと待って明光君。こっち『にも』ってことは…」
「そう。『まずいこと』の2つ目は…この事態を、母さんが蛍に伝えちゃったの。
   そんでもって、当然ながら蛍も大爆発…今、こっちに向かってるって。」

ねぇ黒尾君…こういう『万が一』の時に、蛍のストッパー役として、
『賢く冷静な赤葦さん』を付けたはずなんだけど…
どうして赤葦君も一緒になって、暴発しちゃってんの…?

涙目で訴える明光に、山口が淡々と答えた。

「明光君、『賢く冷静』って称号…ツッキーにだって当てはまるよ。一部はね。
   俺の中で、赤葦さんとツッキーは…『賢くて冷静かつ容赦ない人』ツートップだよ。」
「もし赤葦に火が付いちまったとしたら…非常にマズいな。
   あいつは俺の中で、『導火線がやたら短い奴ランキング』のナンバーワンだ。」

過去に一度だけ、本気で赤葦を怒らせたことがある。
火が付いたと思った瞬間…どんっ!と後頭部が床に着地していた。
あの時はこっちも激怒中だったせいか、極めて冷静に対応できたが…
数日間苦しんだ後頭部と背中の痛みを思い出し、黒尾は喉を引きつらせた。


「今回の策はね、この仕事が全て完了するまで、蛍は隔離しときたかったんだ。
   仕事完成前に、忠を俺と黒尾君の元に付けたと知ったら…絶対蛍は激怒して、
   ありとあらゆる手段を駆使して、俺達の邪魔をするだろうからね。」

俺の苦労も、仕事に関わる色んな人のことも、忠や黒尾君の思いもソッチノケ…
ただただ、俺への反発っていう『勢い』だけで、やってしまいかねないんだ。
それが、絶対自分の首を絞めて、後悔することになるとわかっていても、
自分では止められない…自分で自分の火を消すのって、本当に難しいからね。

「それよりも、むしろ赤葦君の方が五大の『火』だったなんて…大誤算だよ。」

無事に仕事が終わって、開業準備の大枠が決まった段階で、
「実は俺、ツッキーのために…」って忠に暴露させて、大団円!
我ながら完璧な舞台設定だと思ってたのに…泣きたくなっちゃうよ。

明光はため息の塊を腹の底から出すと、よし!と頬を叩いて顔を上げた。


「今更嘆いても仕方ない。俺はこれから…出掛けてくる。
   忠はこのまま、ここで仕事の完成に向けて、尽力して欲しい。」
「わかったよ。できるだけ早く…頑張るから。」

「黒尾君は、当初の予定通り、権利者宅への回収業務と…蛍・赤葦君の回収。
   2時間後ぐらいに駅に着くはずだから…絶対に蛍達を実家に行かせないで。」
「今あいつらを月島家にやってしまったら…事態修復の見込はゼロだな。」

きっとあの二人は、自分達では抑えきれない火…激情に突き動かされている。
この火を鎮火…まではいかずとも、山口や仕事関係者に飛び火しないよう、
最低限の制御をしなければいけない。これは間違いなく…俺の役目だ。

黒尾は落ち着いた声で、「こっちは任せろ。」と力強く断言した。


「明日の晩、月島・山口両家で、今回の事態を話し合う『二家族会議』がある。
   その時までに…できれば、仕事も完成させておきたい。
   そして勿論、君達4人のことも…可能な限り、ね。」

二人には、当初の予定より、ずっと大変な思いをさせるけど…
ここが踏ん張りどころだ。何とか乗り切ろうね!!


    それじゃあ…行動開始!!

明光の掛け声と共に、三人は方々へと駆け出した。





***************





黒尾と共に、都心の食料品店へ『おつかい』に行ったのが、3日前。
その翌日…4人で人魚姫について『酒屋談義』したのが、2日前だ。

翌日午後、山口が突如帰省。夕方、明光襲来。
黒尾と明光は仙台へ向かい、赤葦と月島はのんびり寿司三昧…昨夜のことだ。

そして今朝、赤葦達が神前結婚式を眺めている頃に、黒尾達は仙台の役場に…
只今『3時のおやつ』の時間…赤葦と月島も、仙台到着だ。


「仙台って…実は凄く近いんですね。新宿から2時間で着いちゃいました。」
「新書一冊読み終えるかどうか…本当に近いですね。」

それじゃあ、行きましょうか…
改札を抜け、こっちです、と月島が赤葦を促した所で、真後ろから声が掛けられた。

「どこ行くつもりだ?」

「っ!!?」
「く、黒尾さんっ!?」

突然の黒尾、しかも後ろ…新幹線の改札内からの登場に、
二人は完全に虚を突かれてしまった。
そのまま後ろから、子猫のように襟首を捕まれ…駅構外まで引き摺られてしまった。

人通りの少ないビルの脇、タイル張りの花壇に二人を並べて座らせると、
黒尾はその前に仁王立ちになり、二人を見下ろした。


「お前ら、何しに来た?」

見慣れないスーツに、眼鏡。感情を失ったかのような、冷たい視線。
その冷気に竦み上がりそうになったが、二人は負けてたまるものかと、
口々に黒尾へ『言いたい放題』を開始した。

「何って、帰省ですよ。いつ実家に帰っても、誰と帰っても…僕の勝手です。」
「俺の任務は、『月島対策班』です。月島君と行動と共にして…当然ですね。」

「黒尾さんこそ、こんな所で何してるんです?大事な『婚約者』を放って…」
「そうですよ。山口対策班とか言っときながら…さすが『泥棒猫』ですね。」

「そ、それじゃあ、僕らはもう…行きますからっ!」
「黒尾さんも、せいぜいお仕事頑張って下さいねっ」

二人の『言いたい放題』を、黒尾は黙って聞いていた。
何も反応がない…ただただ、真夏とは思えない冷気を放つ黒尾に、
月島と赤葦は居心地が悪くなり、その場から逃走を計ろうとした。


「今お前らが揃って月島家に行ったら…どうなると思う?」

浮かしかけた腰。だが、降ってきた冷たい声に、脚が動かなくなった。
本能的な恐怖を感じながらも、二人は何とか口先だけは動かし続けた。

「そ、それは…きっと、『黒尾さん達のケース』と同じように、
   ウチの親も、赤葦さんが『僕の相手』だって…思い込むでしょうね。」
「そうなると、事態は混迷…明光さんと黒尾さんが、どんな策でこれを打開するか…
   お手並み拝見、といったとこでしょうか。」

腹黒策士コンビの本領、じっくり見させてもらいますよ。
それでは、本当に…失礼しますね。

捨て台詞とともに脱兎の如く逃げようとした二人…だったが、
次の瞬間、脳天に強烈な拳骨を喰らった。


「いっ痛っ!!!?」
「っっっー!!!?」

火を放つ頭頂部を抑え、花壇に逆戻りした月島と赤葦。
涙目になりながら見上げると、黒尾の凍てつく視線に囚われ…
次なる静かな一言に、完全に凝固してしまった。

「もしそんな事態に陥ったら…山口はどうなる?」


月島と山口が仲違いした…?というのは、両家の親達の完全な誤解。
そして、黒尾と山口の婚約?についても、事情を知らないが故の思い込みだ。

「兄貴への反発。自分が『策』の中心にいない疎外感。ちょっとした嫉妬…
   お前らの腹立たしさもわかる。俺や明光さんには、好きなだけ文句を言えばいい。
   だが、何の罪もない山口が犠牲になる可能性…一度でも考えたか?」

    アネモネの花言葉…『嫉妬のための無実の犠牲』を…思い出せ。
    今回のごたごた…『元』が何だったのか、ちゃんと思い出せ。
    お前らにとって、何が一番大切なことか…よく考えろ。


ゆっくりと、諭すような黒尾の言葉。
先程までは冷たさを感じていたはずなのに、穏やかささえ感じ、
煮えたぎっていた脳内が、スーっと平静さを取り戻してきた。

「僕は…僕の、些細な反抗心と、醜い嫉妬で…」
「俺の、微少な自尊心と、狭小な許容量のせいで、山口君が犠牲に…」

もし激情に駆られ、このまま突っ走っていたとしたら…
自分達の性格と口の悪さから、事態を壊滅的なまで破壊し尽し、
その結果、両家及び4人の仲も、修復不可能なまでズタズタにしたかもしれない。
起こり得た悲劇的な可能性に、月島と赤葦は息を飲んだ。


「山口は今、ツッキーとの将来を真剣に考え…必死に動いているんだ。
   そんな山口の努力が泡と消えることだけは…絶対に避けたかった。」

お前らなりに悩み、苦々しい思いをしたことも、わかってる。
この一件にカタが付いたら、俺がいくらでもグチを聞いてやる。
だから今は、山口の想いを汲んで…その『火』を収めてくれねぇか?

「拳骨喰らわせて…悪かったな。」

黒尾は鉄槌を落とした場所を優しく撫でながら、二人に頭を下げた。


「僕の方こそ…すみませんでした。」
「止めて下さって…ありがとうございます。」

すっかり大人しくなった月島と赤葦は、素直に黒尾に謝った。
その言葉を受けた黒尾は、相好を崩し…二人の頭をわしゃわしゃと撫で回した。


「よし、それじゃあ…ツッキーはこれから、明光さんの事務所へ行け。
   そこに山口が居るから、今回の『詳細』を聞くんだ。」

「で、でも…山口は『待ってくれ』と…」
山口の置手紙には、時間をくれと書いてあった。
それなのに、自分から会いに行ってもいいのだろうか…出て行った翌日に。

「手紙には、『会いたくない』とは書いてねぇんだろ?それなら…
   『いつまで待てばいい?』って、聞いてみりゃいいじゃねぇか。」

それに、今は鬱陶しい兄貴も居ねぇ…しっかり二人で話して来い!

バシバシと背中を叩く黒尾。その勢いに咽ながらも、
月島は立ち上がり、深々と黒尾に頭を下げ…行ってきます!と走り去った。


「…よし、これであいつらは大丈夫だな。」

黒尾は安堵の笑顔を溢すと、今度は赤葦の手を引いて立たせた。


「赤葦、お前は…こっちだ。」





***************





黒尾が赤葦を連れて行ったのは、駅直結という好立地にあるホテルだった。

フロントでカードキーを受け取り、エレベーターに乗り込むと、
そこで黒尾は、カードキー2枚のうち1枚を、黙って赤葦に手渡した。

ここが、赤葦の『今晩の宿』…ということだろう。
フロントで2枚受け取ったということは、赤葦がここに来ると予想して、
予め『二人部屋』を取っていた…全く、用意がいいことだ。



部屋は予想通りツインだったが、ベッドの一つ一つがセミダブル程度の大きさで、
割と身長のある自分達でも、充分四肢を伸ばせそうなサイズだった。

明るい陽の差す窓際には、ちょっとした応接セットがあったのだが、
そのローテーブルの上には、この部屋に似つかわしくない…書類の山。

あれは何ですか?と赤葦が尋ねようとした瞬間、
前を歩いていた黒尾がくるりと振り返り、赤葦をその腕に閉じ込めた。

そして、何も言えないまま…唇を塞がれた。


随分と…久しぶりの感触だ。
頬を掠める熱い吐息に、先程までとは違う『火』が、全身を駆け巡る。
その火に煽られるまま、互いをきつく抱き、貪るようにキスをする。

眼鏡に当たらないようにと、いつもより角度を付けての触れ合い。
それがまた、新鮮さに似た感覚を呼び起こし、更に熱を上げていく。


「お前がここに来た『元々の』理由…コレだろ?」

息継ぎの合間に、黒尾がそっと耳許に囁いた。
コレが欲しかったから、ここに来たんだろう?…と。

「そんなの…当たり前じゃないですか…」

こうして触れ合おうとしていた、まさにその時…明光に乱入されたのだ。
それからこのドタバタに突入し…ずっと『オアズケ』を余儀なくされていた。

「あれから、一体どれだけ我慢したと…」
「実際のところ…丸一日、ぐらいだな。」

まだそんなものだったか?

自分達の積もり積もった心情と、実際の時間の流れとの解離に気付き、
二人は顔を見合わせて苦笑した。

「黒尾さん…意外と堪え性がないんですね。」
「自分でも…ちょっと驚いてるところだな。」


たった一日しか経っていないはずなのに、
この一日で起きたことを文字にすると…30,000字以上のボリュームがある。
一日前と今とでは、自分達を取り巻く状況が、まるで変わってしまったのだ。

「この一日に何があったのか。今、どういう状況なのか…教えて下さいますね?」

赤葦の求めに対し、黒尾は静かに頷くと、
応接セットのソファに並んで腰掛け、丁寧に説明を始めた。



黒尾の話を聞き終えた赤葦は、暫く茫然としていた。
あまりに想像を絶する事態に、脳内の整理が追い付かなかった。

ようやく口から出た言葉は、ここに来る前と全く同じセリフだった。

「俺を、止めて下さって…ありがとうございました…」

自分の中で燃え滾っていた火。
もしあのまま、劫火を抱えて、別の火の中に飛び込んでいたら…

自分達が壊しそうになっていたものの『本当の大きさ』を知り、
赤葦は今頃になって震えが走ってきた。

「山口君を…両家の皆さんを傷付けなくて…本当に、良かった…」

アネモネの花言葉のように、誤解が誤解を生み、嫉妬がその火を加速させ、
取り返しのつかない事態に陥る可能性があったのだ。

ほんの少しだけでも冷静になっていれば、絶対に犯さないような過ちを、
抑えきれない激情…『誤解』や『嫉妬』が引き起こしてしまうことがある。
別の言葉で言い替えれば、『魔がさした』ということになるだろうが…
そんな言葉は、何の言い訳にも救いにもならないのだ。

声を震わせてこうべを垂れる赤葦の肩を、黒尾はそっと撫でた。

「その危機は回避できた…何事もなく済んだんだ。もう、気にするな。」

その優しい声に、熱いものが込み上げてくる。

「あなたが居て下さって…本当に良かったです。」
「俺に惚れ直してくれたみたいで…良かったぜ。」



それよりも…問題はコッチの方なんだよな。

黒尾は雰囲気をガラリと転換させる、明るく張りのある声を出した。
そして、目の前に散らばる書類を手にし…乾いた笑いを立てた。

「黒尾さんの仕事…権利者回り、巧く行ってないんですか?」

赤葦も表情をバチリと『仕事モード』切り替え、黒尾の顔を覗きこんだ。
「今になって、ゴネはじめた人がいる…とか?」

赤葦の問いに、黒尾は首を横に振った。
「いや、そうじゃなくて…お前らを捕獲する前、一軒だけ行って来たんだが…」


出迎えてくれたのは、穏やかな老夫婦だった。
いつも通りの『営業モード』で対応する好青年…かなりの好印象を持ってくれた。
期待通りに『本題』の方は至ってスムースに進んだのだが、その後が…予想外だった。

黒尾を大層気に入った話好きの老夫婦は、『本題』ではない話を延々し続け、
やれ飯を食って行けだの、これを持って行けだのと…

「お前らがもう一本早い新幹線で到着してたら、完全アウトだったぜ。」
俺の『猫かぶり』に、こんな『重篤な副作用』があったとは…計算外だ。

鞄から取り出した『手土産』…地酒の瓶を赤葦に渡しながら、黒尾は頭を抱えた。

「全く…『人タラシ』にも程があります。」
苦言を呈しながらも、赤葦は嬉々とした表情で、その瓶を受け取った。


「…それで、明日晩までの間に、あと何軒回ればいいんですか?」

赤葦の質問に、黒尾は黙って一覧表を見せた。
残された権利者は20数名…回るお宅の数としては、10軒程度残っていた。

「それぞれの家は、そんなに離れてないみたいなんだが、
   順番に回って…ギリギリ行けるかどうかってとこ…か?」

もし留守だったり、まだ署名捺印をしてなかったり、『副作用』が発動してしまうと、
その時間のロスが、致命的な影響を与えてしてしまうのだ。

「書類を集めて回った後、持って帰って…山口が纏め上げる時間も必要だろ?
   どうしたもんかなぁ…と、実は『お手上げ状態』だったりするんだ。」

ははははは…と、魂の抜けそうな顔で笑う黒尾。
その情けない背中に、赤葦は容赦ない一言を浴びせかけた。


「黒尾さんは、『上に立つ者』としての器は申し分ないですが…
   実務や下準備の方は、てんで『役立たず』ですね。」

ちょっとそれ、貸してください。
赤葦は黒尾から一覧表をひったくると、市内全域図を広げ、印を付けて行った。

「アポもなしに突撃なんて、非効率飛び越して、ただの馬鹿ですよ。
   一覧表の名前から予想すると…黒尾さんの行ったお宅が、仙台の本家みたいですね。
   そうだとすると…」

赤葦はローテーブルに乗せてあった黒尾の携帯を取り、電話をかけ始めた。

「あ、もしもし、私…本日お邪魔致しました…そうです、黒尾です。その節は…」

黒尾が呆気にとられる中、赤葦は一軒目のご婦人と朗らかに電話…
明日はお盆前の休みということで、周りの親戚が数軒そこに集まることを聞き出した。
その上で彼ら…権利者達に、書類を準備して持って来るよう連絡してもらうこと、
更には、明日のお昼ご飯を御馳走になることまで、約束してしまった。

「これで、残りは4軒…」

続けざまに電話をし、夏休みで外出する予定だったという権利者達に、
これから取りに行く旨の了解を、ごくあっさりと得ることができた。

「本日中に4軒…夜8時までには終了できそうです。
   明日は11時頃に残りの全てを一か所で回収、昼ご飯及び歓談。
   遅くとも15時までには、明光さんの事務所に帰還可能です。」
「そ…そうか…」

赤葦は黒尾の鞄に必要書類を入れると、さぁ行きますよ、と立ち上がった。


「行くって…どこへ?」
「決まってるでしょ。俺のスーツや下着、手土産に…その他諸々の購入です。」

まさか、この服で行くわけにもいかないですし、何も持って来てないですし。
あぁ勿論、全部『経費』で落として頂きますけど…良いですよね?

勝手に段取りを纏めてしまう赤葦に、黒尾はただ頷くだけだった。

「一緒に…来てくれるのか?」
「黒尾さん一人だと、またあっちこっちで『人タラシ』しますからね。」

適度な所で場を切り上げられる人間が、同行した方が得策です。
いつ帰ってくるかわからない人を、ここで待ち続けるのも…俺は嫌ですから。

はにかんだ様な微笑みを見せながら、赤葦は再度、さぁ行きましょう、と言った。


「お前がここに居てくれて…本当に助かったぜ。」
「どうぞ、もっともっと…惚れ直して下さいね。」



- 続 -



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※『自分が叶えられなかった願い』 →『蜜月祈願
※饒速日尊・瀬織津姫について →『予定調和
※赤葦を怒らせた黒尾 →『朔月有無
※嫉妬のための無実の犠牲 →『泡沫王子

※キューピッドは語る5題『3.我ながら完璧な舞台設定』


2016/07/28(P)  :  2016/09/25 加筆修正

 

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