記憶喪失 ~赤葦のケース~







「よしっ、あとはデータを送って、電話したら…納品完了だ。」
「ついに修羅場脱出…おめでとうございます。」

やったぁ…と、力なく机に突っ伏し、修羅場脱出を喜ぶ、月島と山口。
少しでもその労をねぎらおうと、赤葦は熱いお茶と塩豆大福を、3人に配った。

「あああぁぁぁ…甘すぎない甘さと、渋いお茶が、染み渡るぅぅぅぅ~」
「赤葦さん、最高です…」

あぁ、もう上がって…ぐだ~~~って大の字になって、惰眠を貪りたい…
とりあえず寝たいだけ寝て、ご飯もお風呂も起きてから…いいよね、ツッキー?
っていうか、事務所から2階に上がれるかどうかも、ちょっとアヤシイよ~

頬に大福の白い粉を付けたまま、その頬を机の上に逆戻りさせる山口。
このままココで寝るのもアリかも…と、月島も眼鏡をおでこにずり上げた。


「ココで寝ても、全然疲れは取れねぇだろ。もういいから…さっさと上がれ。」

眠そうな目を擦りながら、黒尾が『↑』を指すが、二人はなかなか動かない。
正確に言えば、動きたくても動けない…そのぐらいの満身創痍っぷりである。

「2人はまだマシな方ですよ。徒歩1分もないんですから。」

マシというよりは、最高待遇…社員寮兼職場だなんて、羨ましい限りですよ。
俺なんて、これから駅まで歩いて、電車乗ってまた歩いて…1時間ですからね?
『バイト』の俺が、『社員』寮に入れないのはわかってますけど、
こんな日くらいは、泊めて下さってもいいのになぁと、思ってしまいますが…

「…ダメ、ですか?」
「駄目だ。」


冗談半分、本気半分…ごく軽い気持ちで赤葦は言ったのに、
黒尾は『取り付く島もない』どころか、スパっとキツい言葉で切って捨てた。

   一瞬で凍り付く室内。
   息を飲む音が、響く。

「あ…くっ、黒尾さんとこも、俺達のとこも、修羅場中で部屋がぐしゃぐしゃ…
   だからっ、赤葦さんにお見せできない状態…なんですよ、すみませんっ!」
「そんなこと、俺は気にしませんし…何なら俺が家事を手伝いましょうか?
   それとも、俺に見られたら困るアレとかソレが、散乱してたり…?」

「そっ、そそそっ、そうなんですよ!僕のステキな性癖を知られるわけには…
   黒尾さんなんて、それはそれはスゴいのが…あんな顔しといて、ですよ!」
「それはそれは…むしろめちゃくちゃ見たくなってしまいましたね。
   絶滅危惧種の『頑固親父』そのまんまな黒尾さんの本性…気になります。」


チラリと伺うように、赤葦は黒尾に視線を送ったが…完全にスルー。
そして、硬い表情のまま財布を取り出すと、黒尾は机の隅に万札を置いた。

「電車は億劫だろうから、タクシー使って、帰っていいぞ。
   明日は病院で定期健診の日…早く帰って休めよ。仕事も休んでいいから。」

   それじゃあ気を付けて。お疲れさん。
   ご両親と…病院の先生に、くれぐれも宜しく伝えてくれ。

口にしたことを『字面』で見れば、赤葦を労わる『良い雇主』だが、
口から出た言葉を『音』として聞くと、紛れもなく『拒絶』を表していた。
その証拠に…黒尾は一度たりとも、赤葦の方へ顔を向けようとすらしないのだ。


「…わかりました。では、お先に失礼します。お疲れ様でした。」

まだ終電に間に合いますから、そちらは不要です。お気遣い感謝致します。
明日もお言葉に甘えて、お休みを頂戴致しますので…
皆さんもどうぞごゆっくり、修羅場の疲れを癒して下さいませ。

そう言うと赤葦は、サッと片付けと身支度を済ませると、
誰とも目を合わせないまま、ペコリと頭を下げ…事務所から出て行った。



「黒尾さんっっ…!!!」

赤葦が出て行った数秒後、耐えかねたように山口が激昂した。
珍しく大声を上げて詰め寄り、黒尾の襟を掴んで引き寄せたが…
すぐにその手を離し、黒尾にぶつけそうになった言葉を飲み込んだ。

そして、蹴破りそうな勢いで扉を開けて事務所から飛び出すと、
来客用玄関から去って行った赤葦を、追いかけようとした。

「山口…っ!!」
「ツッキー!?は…離してよっ!!」

廊下で山口を止めたのは、まさかの月島だった。
月島なら、自分と一緒に赤葦を追いかけてくれる…そう思っていた山口は、
驚きと衝撃で一瞬足を止めてしまい、その隙に月島に抑え込まれてしまった。


「離してツッキー!赤葦さんの所へ…」
「ダメだよ。今は…ダメっ!」

普段はその線の細さと冷静さで、外見からはあまりイメージが湧かないが、
月島の手足は長く、そのサイズに見合うだけの力がある…
抑え込まれてしまったら、山口でも全く身動きが取れなくなってしまう。

必死に藻掻いても、微動だにしない…絶対に離さないという強い意志を感じ、
山口は抵抗を諦め…月島にしがみ付いてその場に崩れ落ちた。

「こんなの…もう…嫌だ…っ」
「わかってる。わかってるから…」

胸の中で声を上げて泣き喚く山口を、しっかり抱き締めながら、
月島も必死に涙を堪え…溢れ出そうな激情を、嗚咽と共に噛み殺した。


3カ月前…赤葦が救急搬送されたとの連絡が、赤葦の実家から入った。
都内の駅で突如倒れたそうだが…これといった疾病は見当たらなかった。
一週間程の昏睡を経て、ようやく覚醒した赤葦は…何も覚えていなかった。

目立った外傷や病変もなく、身体的には至って健康体。
だが、名前も出自も、両親も友人も…自分に関する記憶を全て失っていたのだ。

心因性…原因不明の記憶喪失と診断された赤葦だったが、
原因がわからない以上、催眠療法等の治療を安易に選択することもできず、
しばらくの間は、強いショックを与えないようにしながら日常生活を送り、
少しずつココロを慣らしていく…『経過観察』をするしかなかった。

退院後1月程は、実家で療養。両親の下で『赤葦家』の生活を取り戻し始めた。
日常生活には困らなくなった頃、社会との関わりを徐々に戻していこうと、
両親が心から信頼し、赤葦の状況を理解してくれている『親しい知人』の所で、
リハビリがてら『アルバイト』を開始…それが、1月前のことだ。


記憶を喪失した原因は不明…もしかすると、とてつもない心的ショックを受け、
自己を防衛するために、記憶を封印してしまったのかもしれない。
だとすると、無理矢理その封印をこじ開けると、赤葦が傷付いてしまう…

だから、赤葦自身が記憶を取り戻すまでは、俺達は『知人』『同僚』のまま、
静かに回復を待ちながら…赤葦の新しい人生を見守って行こう。

…と、近しい者達で誓い合っていた。


赤葦を心から大切に想う故に、そういう手段を選択した…せざるを得なかった。
黒尾との関係や、月島達と開業・同棲に至った特殊な経緯は、
そう簡単に説明できるものではない…相当な衝撃を与える恐れがあるのだ。

「まさか『俺がお前の結婚相手だ。』なんて…自己紹介できるわけねぇだろ。」

赤葦が俺達にも慣れて、落ち着いて来たら…徐々に話していけばいい。
その間に記憶が戻るかもしれねぇし、そうじゃなくても…
赤葦と新たな関係を、ゆっくり築けばいいだろう?

赤葦の両親も月島達も、当初はそれが正しいと思い、この方法を選択した。
何よりも、黒尾がそう望んだから…それが一番良いと思ったのだ。


最初のうちは、この方法は非常に上手くいった。
元々器用で賢い赤葦は、静かな環境の中で、大学(休学中)で学んでいることや、
仕事のノウハウ等については、あっという間に取り戻した。
以前と変わらない能力を発揮し、有能な『バイト』として…復帰を果たした。

表面上は今までと変わらない…『黒尾法務事務所』は戻って来た。
だがそのせいで、『戻って来ない』方がじわじわとココロを締め付け始めた。

今まで通りの仕事を、今まで通りの4人で、今まで通りの場所でこなす。
だが、目の前にいる『有能な赤葦』は、自分達との記憶が一切ない…
共有してきた楽しい思い出や、お互いへの想いが、全て欠落しているのだ。

   今まで通りの赤葦。
   でも、自分を知らない赤葦。
   赤葦に関係を告げられない…自分達。

外からは見えないが、内側に抱えるその大きな差異が、徐々に重みを増し…
次第に胸を圧迫し、やり場のない想いに耐えきれなくなってきてしまった。

そして、いつしか黒尾は、赤葦と自分を守るために…距離を置くようになった。
これ以上自分が壊れてしまわないよう…激情に駆られて赤葦を壊さないように、
必要最低限の接触に止め、自らのココロまで封印し始めているのだ。

   (このままじゃ…ダメだ。)


赤葦さんが自然に回復するのを、じっと待っているだけでは、
何年かかるかわからない…その前に、自分達が壊れてしまうだろう。
現に山口は限界寸前…僕としては、山口が苦しむ状態を、放っては置けない。

黒尾さんは自分がどんなにツラい想いをしても、耐え続けようとするだろう。
今やもう、自分では現状を打開できない状況に陥ってしまっていても…だ。

そして、聡い赤葦さん自身も、自分が記憶を失ってしまったことが…
自分の『存在』が、黒尾さんを苦しめていることに、本能で勘付いている。

このままだと、赤葦さん自身がよくわからないうちに、
黒尾さんから遠ざかるという選択を、取ってしまいかねない…似た者同士故に。

   (そんなの…僕は認めない!)


僕は黒尾さんみたいに我慢強くないし、赤葦さんみたいに明敏でもない。
当然、山口みたいな素直さなんてカケラもない…我儘でダメな部下だ。

そんな僕だからこそ…自分のキモチに従って、我儘三昧ヤっていいはずだ。

   (僕が…僕が、動くから。)


泣き疲れて寝た山口をベッドに寝かせ、静かに扉を閉める。
まだ灯りの付いた事務所。そこにも気付かれないように…僕は家から出た。




- 既往疾速①へGO! -




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億劫組織⑤』より抜粋


 

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