「あれから…25ヶ月だ。」
今日は大事な話があるんだ…と、珍しく黒尾の重々しい声が事務所内に響いた。
先日納品を終え、各々が好きなように過ごしていた、黒尾法務事務所の面々は、
らしくなくシリアスな所長の様子に、ゴクリと唾を飲み込み…赤葦をチラ見。
だが、我らが参謀殿も詳細は知らないらしく、不機嫌そうに首を横に振り、
黙って給湯室へ…きっと、やたら熱ぅ〜くて濃〜いお茶を入れてくるはずだ。
月島が応接室への引き戸に手を掛け、あちらに集合するか?と視線で問うたが、
黒尾は机に肘をついて首を垂れたまま…月島も静かに自席に戻った。
山口は広げていた問題集等を片付け、背筋を伸ばして待機…赤葦が戻ってきた。
予想通り、粉茶か?というぐらいの濃さと、明らかに渋そうな香りのするお茶…
しかし、それにも黒尾は目もくれず、赤葦が着席する音が消えて10秒後、
沈黙が支配する事務所内に、淡々と声を響かせた。
「再開発事業が…頓挫したらしい。」
「…はい?えーっと、どちらの?」
「…ここだ。」
「…?それが、何か?」
駅前の古くなった街を解体し、新しい商業ビルやマンションに建て替える…
主に駅前を中心に計画される再開発事業が、日本中のあちこちで行われている。
特に首都圏では、東京オリンピック開催が決まってから、その流れが加速…
「この機を絶対に逃すな!」と、補助金も使っての再開発フィーバーだった。
だが、コトはそんなに上手くいくはずもなく、地権者との交渉が難航したり、
さほどオリンピック熱も高まっていなかったりと、徐々に事業が滞り始め、
開催まで2年を切った今、計画自体を見直す場所も、珍しくなくなっていた。
当事務所でも、建築設備専門の赤葦を中心に、再開発の仕事を請けていたが、
事業が上手く行ったものは、補助金期限オセオセで超特急…ド修羅場となり、
真逆の場合は、請けた仕事が途中で「ゴメンナサイ」というのも、数件あった。
だから、自分達が住んでいる場所の再開発が頓挫したと言われても、
「はぁ、そうですか。」という今更感だけ…黒尾の深刻さにピンとこなかった。
パソコン越しに、困惑の視線を交わし合う、赤葦・月島・山口の三人。
しばらく黙って待っていると、黒尾が大きくため息を吐き…『昔話』を始めた。
「俺達がこの家に来て、一緒に開業&同棲を初めたのは…2年前の8月だ。」
それまでは、大学のために上京していた月島の部屋に、4人で時折集まって、
美酒と共にシンデレラや人魚姫等について、グダグダと考察する程度だった。
だが、互いのことはほとんど知らないまま、『五輪騒動』等に巻き込まれ、
あれよあれよと黒尾は開業、それを手伝う形で三人が集結…いまや『家族』だ。
「あれから…25ヶ月だ。」
もうそんなに?とも思うし、まだそんなもの?とも感じる…あっという間だ。
25ヶ月前には、たまに会って語り合うだけの仲だったなんて、信じられない。
三人が『昔話』に花を咲かせようと、明るい表情と声を上げようとした瞬間、
またしても黒尾が重々しい空気でそれを遮り…その『重さ』の理由を語った。
「25ヶ月前…ここに一緒に住むようになった経緯を、思い出してみろ。」
月島兄・明光の策略に嵌り、都合のイイ手駒としてコキ使われることに…
兄事務所の東京支社を任される形で、なんちゃって開業したのが、2年前の夏。
そのゴタゴタの際に、弟達(および月島山口両家)のお守も押し付けられつつ、
元請の再開発事業者から、3年間の期限付でこの一戸建住宅を破格で借り受け、
1階を事務所に、2階に月山コンビ、3階にクロ赤コンビが居住し始めた。
そこからは、まさに『激動』だった。
開業&同棲(&交際)から3ヶ月…年末に黒尾&赤葦が婚約、年明け結婚。
昨年6月には、ついに月島&山口も結婚し、デレッデレの新婚生活に突入…
4人で大騒ぎしながら、必死に仕事と家庭を全力疾走しているところだ。
「今年3月に、赤葦さんも大学卒業。事務所参謀&技術者として働いていて…」
「僕と山口は大学4年生。単位は昨年度中に取得済…FPの合格発表待ち。」
「俺は去年宅建合格、来月の行政書士試験に向けて…ラストスパート中~」
開業&同棲直後、月島父が襲来し『家族会議』を開催…
その際に、おぼろげながら計画した通りに、各々が研鑽を積んでいた。
一言で言うと、順風満帆。つつがない毎日を、穏やかに過ごしている。
「…ちょっと待って下さい!
あれから2年ということは…黒尾さんはそろそろ、明光さんの下から卒業!」
「合格したら、俺も本職のサムライに…
黒尾法務事務所は、正式に『独立』を果たすことになるんですね~♪」
「実態はともかく、形式上は…
父さん&兄ちゃんの下僕から、ようやく脱出できるんだね!」
バンザ~イ!!!と、部下三人はもろ手を上げて大喜び。
黒尾は「そうなると…いいんだけどな」と、ごくわずかに表情を緩めたが、
緩んだ分以上に顔を顰め、低く呻くように声を振り絞った。
「…本題は、そっちじゃない。
2年経ったということは、この家に居られるのは、あと1年…」
「…あっ!!?」
「すっかり、忘れてた…っ!!」
「あっ!そう言えば、俺…卒論で『事務所兼二世帯住宅』を設計しました!
随分先の『夢物語』だと、面白半分…俺としたことが、迂闊でした。」
今から慌てて移転先を探したり、赤葦の描いた設計図通りの家を建てるのは、
時間的にも金銭的にも無理…一家離散の危機が、目前に迫っていたのだ。
真っ青な顔で固まる部下達。
日々の生活と修羅場に追われ、のうのうと暮らしていたわけではないのだが、
こんなにも時間は早く過ぎていく…取り返しのつかない大失態だった。
黒尾の重々しさの理由が、ようやくわかった三人は、愕然と口を閉ざした。
月島と山口はほぼ半泣き状態、赤葦は後悔と苦渋と自責の念に満ちた表情…
その空気を打ち破ったのは、所長の黒尾だった。
「待ってくれ。ここを出ていかなきゃいけないって心配は…おそらく不要だ。」
それが、最初に話した再開発の頓挫。
3年の期限付きでここを破格で借りられたのも、取り壊しが決まっていたから…
だが、その計画が頓挫してしまったことで、買収や解体等も全て立ち消えた。
当該事業は『宙ぶらりん』の状態で、おそらくこのまま…ズルズルだろう。
「景気停滞や人口減少で、各地の大規模再開発ビルにも、空き店舗が目立つ…
巨大ショッピングモールだって、丸ごと廃墟になってきてるんだからな。」
確かに、この仕事を始めるきっかけとなった『五輪騒動』の再開発も、
30年前に頓挫した事業が、ゾンビの如く復活した…幸運な例だった。
だとすると、今回ダメだったものは、次に五輪クラスの機会が来たとしても…
「少なくともあと30年ぐらいは、この場所は…この家は、残る。」
「やったぁぁぁぁぁ~!!」
「よかった…一安心だね。」
「九死に一生…助かりました。」
黒尾の言葉に、三人は緊張の塊を腹の底から吐き出した。
ここから移転しなくてもいい…離れ離れにならなくてすむのは、実に喜ばしい。
それなのに、黒尾一人だけは緊張しきった顔で頭を抱え込んだまま。
その様子に、あらかたのことを察した赤葦は、ス…と目を細めると、
まるで深海のように冷たく重い圧の籠った声で、黒尾に尋問した。
「黒尾さん。あなたは一体…何を悩んでいらっしゃるんです?」
ここの地権者&家主…再開発デベから、出て行けとは言われていない。
むしろ、事業が頓挫したことを、あちら様は平謝りだったことでしょうね。
でも俺達にとっては、このまま棲み続けられるのは、朗報以外の何物でもない。
それなのに、あなたは未だ悩み続けている…『見当違い』のことでね。
自分では言い辛いなら、俺が代わりに言ってあげますよ。
…おそらく、あなたはデベからこのように言われたのでしょう?
「この家を…買わないか、と。」
「えっ!?」
「そ…そうなんですかっ!?」
沈黙は、『イエス』の証拠。
赤葦は灼熱の烈火で滾る絶対零度の視線で、黒尾を射貫いた。
「月島君。山口君。この人がどれだけお馬鹿さんか…教えてあげます。」
この人は、法的な『家族』ではない俺達に対し、あらゆる法的手段を使って、
『いざという時』に俺達が困らないように、『プラス』を残す策を講じている。
俺達のためにこの家を購入し…『家庭』を守ろうとしてくれているはずです。
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※五輪騒動 →『五輪』シリーズ
※FP →ファイナンシャル・プランナー。家計や資金計画のプロフェッショナル。
※月島父襲来 →『家族計画』
※赤葦引き抜き未遂 →『心身一新』
※俺なんかでいいのか… →『全員留守』
※弱音を吐けなかった… →『公私一双』
2018/09/30