ご注意下さい!

この話は、BLかつ性的な表現を含みます。
18歳未満の方、性描写が苦手な方は、閲覧をお控え下さい。
(閲覧により不快感を抱かれた場合、当方は責任を負いかねます。)

※今回はがっつりクロ赤です。
      


    それでもOK!な方  →コチラをどうぞ。



























































    福利厚生③









「スマホ。」「持った。」
「お財布。」「持った。」
「時計は?」「着けた。」
「ハンカチ。」「右の尻に。」

出掛ける前、玄関で行われる恒例の点呼。
入れた場所や身に着けた部分を押さえながら、忘れ物がないかをチェック。

「指環は…今日はナシですね。」
「あぁ…仕事じゃねぇからな。」

仕事上の余計なトラブル防止のため、既婚者を作出する小道具だった指環。
今は『本物』だから、仕事でなくても装備してもいいのだが…
久々の学校。久々に会う…最後に会うかもしれない友人達。
これを装着していた方が、逆に面倒を引き寄せてしまうだろう。

「赤葦の方は…準備は大丈夫か?」
「はい…鞄や紙袋も持ちました。」


今日は黒尾の卒業式。
大学も違えば、学年も違う赤葦は、家でお留守番の予定だった。
だが昨夜、黒尾の母から連絡があり、急遽同行することになったのだ。

『京ちゃん、鉄朗の晴れ姿…写真撮って来てね。』

成人もし、一人立ちもしたし、さらには結婚もした。
親としての『子育て・教育』も、この大学卒業を以って完了…
本人よりも、実は親の方が祝杯を上げたい気分なのだろう。

勿論、父兄の同席も可能なのだが、息子は既に親の手を離れている。
式典自体は自宅でのんびりウェブ中継を観ればいい…ということで、
ちゃんと卒業したという証拠写真を、親への感謝と共に送るように要請された。

「すげぇ面倒臭いこと頼まれちまって…悪かったな。」
「いえ、俺も興味あったんで…むしろラッキーです。」

・自宅での撮影は不可。学校の敷地内・卒業式だと判るものにすること。
・卒業証書を所持した全身写真かつ、証書自体の画像も添付すること。
・できれば、京ちゃんとのツーショットも送るべし。

これらの条件を満たすには、赤葦自身も現地へ行くしかない。
自分の知らない黒尾の『世界』を見学できる機会に、心の中でガッツポーズ…
正々堂々と『父兄(家族)代表』として、一緒に卒業式へ向かうことになった。


靴箱の扉を開け、並んで身だしなみをチェックする。
扉の内側は、天井まで全面が鏡張りになっており、
長身の二人には、大変ありがたいサイズの『姿見』だった。

黒尾はスーツのポケットからネクタイを取り出し、鏡を見ながら結ぼうとした。
だが、横にいた赤葦がそのネクタイを引いて、黒尾の正面に立った。

「今日は晴れの舞台ですから…ちょっと華やかにしませんか?」
そう言うと、シャツの襟を立て、ネクタイを結び始めた。

おろしたてのシャツに、上質な絹のネクタイがシュルシュルと擦れる音。
静かな玄関に微かに響くその音と、真剣な赤葦の表情…
パートナーにネクタイを結んで貰うという『特別な行為』に、
言いようのない温もりに包まれ…感極まりそうだった。

「何か…変わった結び方、してんのか?見たことねぇ方法だ。」
デレデレと緩みかけた頬を誤魔化すように、黒尾はやや大きな声で尋ねた。

いつも自分が結ぶのは、至ってシンプル…オーソドックスなやり方だ。
ネクタイの結び方には色々あるとは聞いていたが、それを試したこともないし、
一種類をきちんと結べれば上等…不器用な自分には、それで精一杯だった。

今、赤葦がしてくれているのは、それよりもはるかに高難度…
『結ぶ』というよりも、『織り上げる』と表現した方が良さそうなものだ。

「自分でも何度か練習したんですけど…難しいですね。」
「人のを結ぶってのは、随分…感覚が違うだろうしな。」

ちょっとだけ…小さくなってもらってもいいですか?
言われた通りに黒尾が中腰になると、赤葦は背後から腕を回し、
あぁ、これなら…あともう10秒程、その体勢で我慢して下さいね…と、
鏡を確認しながら、器用に織り込んで行った。

きっちり10秒で黒尾を立たせると、赤葦は再び正面に戻り、
最後の仕上げ…キュっと結び目を首元に押し上げ、襟を整えた。

「お待たせ致しました…完成です。」
「お、サンキュー。これ…凄ぇな!」

鏡を覗き込むと、結び目を中心に、4つの帯が重なり合っていた。
美しい結び目が品のある光沢を放ち、派手すぎない華やかさを演出…
落ち着いた深紅と細身のスタイルも相まって、黒尾の長身を引き立てていた。

ネクタイの結び方ひとつで、ここまで印象が変わるのか…
何だかちょっとだけ、自分がカッコ良くなった気分にすらなってきた。

「『晴れの舞台』には相応しい…オシャレな結び方だな。」
いつもより男前度が3割増ぐらいに見えるし…
あ、でも、これが緩んだら…自分じゃ絶対直せねぇな。

「おや、ネクタイが緩むようなコト…なさるおつもりで?」
たったの『3割増』ぐらいじゃあ、突然モテたりしませんからね。
いくら晴れの舞台とは言え、最後の思い出とばかりに、
ご友人等と『物理的に』胸襟を開かないよう…お願い致します。

赤葦はそう言うと、手綱を引くかのようにネクタイの端をキュっと握り、
俺が居ない所で、これを緩めないで…と、俯きながら呟いた。


その仕種に、物理的ではなく心理的に…黒尾はキュンと締められた。
下を向く赤葦の頬を両手で引き上げ、感謝と誓いを込めてキスをする。

「そんなこと…するわけないだろ?」
「えぇ。勿論…信じてますからね?」

とりあえず、その緩きみった頬…ちゃんと締めて下さい。
赤葦は黒尾の頬をむにゅっと掴みながら、微笑みと共にキスを返した。





***************





黒尾の通う大学は、都心からは離れているが、山一つが全て大学の敷地…
その歴史の古さを体現するかのような、広大なキャンパスだった。
直結する駅から山を登って下って…会場のアリーナまで、徒歩10分もかかる。

学生数の多さから、卒業式も午前・午後の二部制。
黒尾の属する法学部は、文学部と共に『午前の部』だったが、
たった2つの学部だけで、こんなにも大勢の人がいるのか!?と、
赤葦は到着早々、眩暈がしそうになった。

黒尾とは違う大学だが、赤葦の大学もここと同じく、
理工学部は文系学部とは隔離され、単独のキャンパス…人も少ない。
更には建築学科ということもあり、女性が極端に少ない環境に居るため、
華やかな袴姿の女性達の多さにも、圧倒されてしまった。

大学が違うと、学部が違うと…もう全くの『別世界』だ。
自分達が本当に『別世界』の住人だと、威圧されているように錯覚する。

  (ちょっと前の俺なら、もうこれだけで…参ってましたね。)

誰もが知っている名門校の、誰もが知っている学部。
黒尾が通っている大学を知ったのも、付き合い始めた直後で、
昨夏、同居を始める直前…たったの半年前のことだった。

高校時代からの部活繋がりで、時折『酒屋談義』する間柄だったが、
黒尾がどの大学へ通い、どんなことを学び、資格を有しているのか等、
何一つ知らないまま…曖昧な『友人』を続けていた。


  (もし俺達が、『酒屋談義』を続けていなかったら…?)

住む世界が違い過ぎて、部活引退後は二度と会うもなかっただろう。
ここまで別世界だと、『友人』を続けることすら、難しかったはずだ。
『友人以上』になれるのは、天文学的確率だと、かつて概算したが、
『黒尾の住む世界』を垣間見たことで、その概算が正しかったこと…
二人が結ばれたのは、もう『運命』と言うしかないように思えてきた。

  (自分の運の良さにこそ、眩暈がしそうですね。)

今まで考察してきた全ての神々に、赤葦は心から感謝を捧げたくなった。
パっと見渡したこのアリーナの中だけでも、俺と黒尾さんが出逢うのは…
いや、お互いを見つけ出すことだって、ちょっとした奇跡かもしれない。

  (本当に、『酒屋談義』様様、ですね。)


黒尾さんはよく、「俺なんて地味な方だぞ?」と言っていた。
大学生のうちに国家資格を取得し、実務家として経験を積み、更には開業…
地味なんてのは謙遜で、とんでもなく『凄い人』だと思っていた。

だが、実際に黒尾さんの住む世界に来てみると、
それは謙遜でも何でもなく、ただの『事実』だと判明した。

アリーナの観覧席…父兄等、卒業生以外のための席に座っていたのだが、
二階部分にあたるそこから見下ろしているにも関わらず、
190㎝近い長身の黒尾さんが…ほとんど目立たない。
ちょっと目を離したら、すぐに見失ってしまいそうだった。

  (黒尾さんですら埋もれてしまうなんて…)

たまたま真後ろに座っていた、事情通?の女性達のお喋りが聞こえてきた。
あの人は、某プロ野球に入団。あちらは日本代表…バレーの実業団へ。
今年もかなりの人数が、司法試験目指して法科大学院へ入学。
弁護士以外のサムライ資格取得者など、珍しくも何ともなく、
黒尾さんと同じように、学生起業した者も、ごろごろしているらしい。

黒尾さん以上に長身の、本格アスリート達。
日本を背負って立つ、ずば抜けて賢い人達。
 
  (上には上が…いくらでもいる。)

これだけ身近に『凄い人』が溢れかえっているから、
黒尾さんは『身の丈に合った人生』という、堅実な道を選んだのかもしれない。
ここの校是である『質実剛健』を、見事に身に着けたということだ。


卒業式はつつがなく進行し、おエラい様方の祝辞や総代の答辞等を、
聞くともなく聞き流し…少々飽きてきた頃、
突然耳慣れた名前が会場内にコールされ、俺は腰を浮かせて驚いた。

壇上には、名前を呼ばれた数人が登壇…
その中に、よく見知った顔があるような気がする。
間違いなくあれは黒尾さんなのだが…信じられなかった。

  (成績優秀者…表彰!?)

これが、『25日の外せない用事』の正体であり、
黒尾母の言う『鉄朗の晴れ姿』なんだろう。

  (じょっ、冗談でしょ…)

慌ててスマホを取り出し、最大限ズームするが、遠すぎて上手く撮れない。
表彰されると知っていれば、新調してでも高倍率デジカメを持って来たのに…!

撮影を断念し、じっと壇上に眼を凝らしていると、
真後ろからまた会話が聞こえてきた。


「あ、黒尾先輩じゃん。」
「やっぱりあの人、優秀者表彰かぁ~」
夏合宿の後、開業するからって、早めにゼミ長引退したけど…元気そうだね。
っていうか、しばらく見ないうちに、ちょっと雰囲気変わったね。

  (黒尾さんの、後輩さん達…!)

偶然にも、黒尾さんのお知り合い…
俺は耳に全神経を集中させ、女性達の話に聞き入った。

「いつもジャージかジーンズ…スーツだとかなり印象違うよね。」
「私、夏前にスーツ姿を見たけど…あんな小洒落てなかったよ?」

  (あれは去年の秋、表参道で…俺が選んだスーツです。)

仕事帰りに待ち合わせ、今日と同じように、遠くから客観的に黒尾さんを観察し…
居合わせたオシャレ女性達に触発され、勢いで購入した一張羅だ。
贔屓目抜きにして、男前度が『2割増』だと思っているが…正解のようだ。

「さっき入口ですれ違ったけど、ネクタイの柄も結び方も、『上級者』だったよ。」

  (お褒めの言葉…どうもありがとうございます♪)

必死に練習した甲斐があった。
黒尾さんが後輩さん達から高評価を貰えたことが、我が事のように誇らしい。
それ、実は俺が…と、心の中で胸を張っておいた。

「黒尾先輩、仕事も順調っぽいけど…」
「むしろプライベートの方が…より上手くいってるみたいだね。」

夏の頃より、ずっと柔らかい雰囲気。
そして、特殊なネクタイの結び方。
ここから明確に導き出される答えは…

「あの結び方(ノット)は、確か『トゥルーラブ・ノット』…
   ガサツな黒尾先輩が一人で結べるとは、到底思えない。」
「更に、あの余裕ある雰囲気…既婚者のそれにそっくり。」

故に、夏からの半年で、黒尾先輩のプライベートは劇的に好転した。
…以上、証明終了。

「いや、実にめでたいね。」
「ホント、羨ましいよね。」

少ない情報から、完璧に真相を見抜いた後輩さん達…恐るべし。
俺は将来有望な女性達に、心から拍手喝采しておいた。


それにしても。
今の出来事で、俺は自分の成長と変化を少しばかり実感した。

秋に表参道で待ち合わせた時、いかに黒尾さんがハイスペックかに気付き、
自分にはあまりに不釣り合いだと…気分がどん底に堕ちてしまった。
どんなカタチでもいいから、黒尾さんとの『繋がり』が欲しくて、
オシャレ女性のアドバイスに従い、俺が選んだスーツを着て貰ったり、
密かに色違いのネクタイを買ったり…内心の焦りを、『小道具』で抑えようとした。

今日は、その時と似た状況で、更に『世界の違い』を痛感させられた。
黒尾さんの凄さと、自分には勿体無いぐらいのイイ男だと…再確認した。
だが、あの時みたいな絶望や焦燥を感じることはなく、
ただただ、黒尾さんが後輩さん達や大学から褒められて…嬉しかった。

  (恐らくこれが…既婚者の余裕、か?)


…なんてのは、ただの強がりだ。
まだ俺はそんなにオトナじゃないし、落ち着いてもいない。

秋よりは随分マシになったとは言え、今も女性達の話に内心ヒヤヒヤし、
握り締めた左手の中で、親指は薬指の付け根を…
今日は着けていない指環を、ずっと確認し続けているのだ。

  (俺だけでも…してくればよかった。)

壇上で堂々と表彰される黒尾さんと、遠くから恐々と見つめるだけの俺。
その大きな差と、場違いな自分…手が冷たくなってくる。


「黒尾先輩のお相手…一体どんな人だろうね?」
「あの人、結構クセが強いし…難しそうだよね。」
まあ、先輩が選ぶ人なら、きっと『よっぽどの相手』だろうね。

  (そんな大層なもんじゃ、ないです…すみません。)

どう考えても、貴女達の方が優秀で、ここにはそんな人達が溢れ返っている。
本当に、俺なんかで…申し訳ないです。

指環の代わりに、右手でギュと、お揃いのネクタイを握り締める。
鬱々としかけた思考を振り払うべく、大きく深呼吸をする。

いつまでも、こんな卑屈なままではダメだ。
黒尾さんと住む世界が違ったのも、大学まで。それも今日で終わり。
これからは一緒に…同じく世界を、ずっと歩んで行くのだ。
隣に立つに相応しい人間に、俺もならなきゃいけない。

  (このマイナス思考から…今日で卒業!)


俺は出来るだけ明るい笑顔を作り、後ろを振り返って女性達に話し掛けた。

「あの、すみません。少々お願いしたいことがあるんですが…」





***************





式典後、『卒業式』と書かれた看板付近で、後輩さん達と黒尾さんを待った。

どうやら待ち合わせていたらしい、同じゼミの面々も、続々と集合してきた。
夏合宿の予行練習に俺も行ったことを告げると、皆さんから盛大に感謝され、
一気に和やかな雰囲気になり…黒尾さんの大学生活について色々教えて貰え、
実に楽しい待ち時間を過ごせた。

しばらくすると、黒尾さんが友人達と会場から出て来た。
手にしていた卒業証書や、優秀者表彰の記念品、チューリップの花を受け取り、
持参していた紙袋に入れ…少し歪んでいたネクタイを修正。
その後、女性達に俺が依頼しておいた、ツーショット写真をはじめ、
たくさんの『大学時代の思い出』を、皆さんと共に撮影した。

いつの間にか俺と後輩さん達が知り合っていたことに、随分驚いていたが、
多くの後輩や友人達に卒業と表彰を祝われ、黒尾さんはとても嬉しそうだった。

ひとしきり撮影会が終わると、俺も一緒に飲み会に来ないか?と誘われたが、
明日から仕事で遠出だから…と、黒尾さんは固辞し、別れを告げた。


「良かったんですか?大学生最後の飲み会…行かなくても。」
「あぁ。ゼミ長引退の時にも飲んだし…明日も早いからな。」

それよりも、せっかくだから…校内を案内してやるよ。
すっげぇ広いし、花も綺麗だし、散歩にはもってこいだぞ?

そう言うと、黒尾さんは俺が預かっていた紙袋を持ち、
自販機で温かいお茶を2本購入し、アリーナから山林に向かって歩き始めた。

「ここ、本当に…学校の敷地内なんですよね?」
「多分、そのはずなんだが…俺も初めて来た。」

駅から反対方向に進むと、卒業式の喧騒はすぐに聞こえなくなり、
自分達以外にはほとんど誰も居ないぐらい、緑豊かで静かな小路になった。
途中、わき道から出てきた馬!?(乗馬部なんてあったのか…)と遭遇したり、
開けた場所で幼稚園さん達がお弁当を広げていたり(どうやら遠足)、
近所の町内会さんが、来週の花見の場所決めがてら飲んでいたり。
大学の山が、一つの街のような…本当に一つの『世界』を構築していた。

「黒尾さんが住んでいた世界…凄いの一言ですね。」
「俺だって、この世界の…ごく一部しか知らねぇ。」

今日アリーナに居た大勢の中で、俺が顔を知ってる奴は100人未満。
話をする程の知り合いは、最後に写真を撮った連中ぐらいだぞ?

「それに…今どこに居るのか、実はさっぱりわかんねぇし。」
「えっ!?ま、まさか、自分の大学で…迷子なんですか!?」

鬱蒼と生い茂る森。周りを見渡しても、遠くに白い校舎の屋上が見えるだけ。
この世界に、二人だけが取り残されたかのような…
春とはとても思えない寒風に、迷子ではなく『遭難』した気分になってきた。

急に心細くなり、真横を歩く黒尾さんをチラリと見上げると、
目が合った黒尾さんは、一瞬ハッと息を詰め、
こっちだ…と、俺の手を掴み、足早に森を抜けて行った。


「あ…前方に建築物発見です!」
「多目的トイレか…助かった!」

何でこんな森の中に、築年の新しそうなトイレが…?
いや、これだけ広ければ、要所要所にあってしかるべし、だろう。
入口脇には校内図もあり、どうやら遭難は免れたようだ。

ホッと一安心…俺がその地図を確認していると、
不意に繋いだままだった手を引かれ、トイレの中に引き摺り込まれた。
200cm×200cm程の、標準的な多目的トイレブースの中には…と、
装備されている設備一式を確認する間もなく、入口扉から一番遠い壁に、
背を押し付けられるように…いきなり強く抱擁されてしまった。

突然の行為の理由を質すどころか、驚きの声を上げる隙もなく、
頬を固定され、唇を塞がれ、深く舌を差し込まれる。
激しいキスに、思考も息も追いつかない…待って、と上げた手も、
捕まれて壁に張り付けられ、体全体を覆われてしまう。

何かに焦っているような、いつもよりずっと性急な黒尾さん。
驚きはしたものの、激しく求められて、悪い気はしない…
だって、俺の方がずっと…こうしたかった。

抵抗する力を全て抜くと、壁の腕を解放してもらえた。
自由になった両腕で、今度は俺から黒尾さんの首を強く引き寄せた。


酸素を奪い合うようなキスに、呼吸が途切れてくる。
苦しさのあまり、軽くネクタイを引くと、少し唇を離してくれた。
そして、おもむろに俺のネクタイの結び目に手をかけ、解いてしまった。

「こっちの結び方の方が…男前度が上がるのか?」
俺とは違う結び方だけど、赤葦のも…オシャレで変わってるよな。
秋に俺が見立てたそのスーツと、お前の雰囲気にすっげぇ合ってるけど、
いつの間にか、男女問わず惹き寄せて…めちゃくちゃ焦ったぞ。

せっかく綺麗な結び目で、申し訳ないんだが…これはナシで。
赤葦がこれ以上モテたら…いや、ネクタイがなくなったぐらいで、
お前の魅力が割引されることなんて、ありえねぇんだけど…

ここには、俺なんか足元にも及ばねぇ『凄ぇ奴ら』ばっかりで、
そいつらに赤葦が取られたら…って、勝手に被害妄想に駆られちまった。
こんな小っせぇことに拘って、カッコ悪いけど…勘弁してくれねぇか?

黒尾さんは俺のネクタイの端を口に咥えると、
クルクルと丁寧に丸めて、自分の胸ポケットへと差し込んだ。


妙に官能的なその仕種と、隠そうともしない独占欲に、
抑えていた情動が、一気に突き上げてきた。
黒尾さんのネクタイを強引に引き寄せ、何かを結びつけるように、舌を絡めた。

「ネクタイは…男性シンボルのメタファだとか。」
夢分析で有名な心理学者・フロイトが言っていたそうだ。
何でもかんでも性的なモノに関連付け、「それはどうか?」と思う説も多いが、
このネクタイに関しては、納得せざるを得ない部分がある。

誰かにネクタイを触らせるのは、急所となる首を晒すこと…
それだけ気を許した相手でなければ、耐えられるものではない。
だからこそ、ネクタイを結んで貰うのが『特別な行為』であり…逆も然りだ。

特別な相手にしかネクタイを贈らないようにするのも、
性的なメタファ…暗喩が見え隠れするからであろう。

「ネクタイは…性の象徴たる『蛇』にソックリだよな。」
「その意味からも、『ネクタイ=男性器』…納得です。」

黒尾さんのネクタイの端を、俺も同じように口に咥え、結び目を解いていく。
これ見よがしに指先に巻き付け、俺の胸ポケットに入れ込んだ。


露わになった喉元が、生唾を飲み込んで上下する。
その動きを辿るように舌を這わされ、今度は甘い吐息が湧き上がってくる。

互いを煽り立てるような、激しく絡み合うキスを続ける。
カラダに身に付けるもので、もう一つの『蛇』に似たモノ…
それを緩める、カチャカチャという金属音。
そして、床のタイルにバックルが落ちる鈍い音。
下着も一緒にずり下ろされ、床に着けた脚にそれらを引っ掛けたまま、
脱がされた方の脚は、黒尾さんが腰高ぐらいまで抱え上げ…
手洗器の横に設置された、ステンレス製の手摺に乗せられてしまった。

腿裏に当たる手摺と、大きく広げられた下肢に触れる空気の冷たさに、
ビクリとカラダが跳ね…黒尾さんにギュっとしがみつく。


できるだけ声が漏れないように、口を開いたまま唇を合わせる。
指で拡げるのと同じ動きで、口内に舌を出し入れ…芯から溶かされていく。
俺もそれに応えるように、黒尾さんの指と舌を、同じ動きで締め付ける。

「明日から、出張、ですから…っ」
無理のない程度で、お願いします。

「やめろ、とは…言わねぇのか?」
こんなとこで、こんな格好で…すげぇコト、してるよな。
まぁ、『多目的』の中に含まれてるかもしんねぇけどな。

そんなことは、百も承知。
でも、もう…止められない。
今すぐ、黒尾さんは俺だけのものだと…
二人がしっかりと結ばれ、繋がっていることを、カラダ中で感じたかった。


立ったまま、下から突き上げられ。
抑えきれないリズミカルな嬌声が、冷たい壁に当たり、周囲を震わせる。
こんなにはっきりと、自分のあられもない艶声を、大音量で…

「声…外まで聞こえてるかもな。」
「抑えるの、あぁっ、ムリ…んっ」

俺にとっては、知人など誰もいない…ここは『別世界』なのだ。
声を聞かれることなど、実に些細な問題…大したことではない。
それよりも、今自分が黒尾さんと繋がっている実感の方が、ずっと重要だ。

ご自分の大学で、こんなコトして…黒尾さんこそ、大胆ですね。
いいんですか?『自分の世界』の方々に、バレちゃっても…?
視線だけでそう問いかけてみたけど、返って来たのは不敵な微笑みだけ。

ここが『俺の世界』だったのは、さっきの卒業式まで。
今日の数倍の人間がいる世界で、俺がココで…なんて、わかるわけねぇよ。
もしバレたとしても、卒業した俺はもう…『別世界』の人間だ。


「お前にとっても、俺にとっても…ここは『旅先』と一緒だ。」
「それじゃあ、コレが…『新婚旅行』の、スタート、ですね。」

黒尾さんの『卒業旅行』と、二人の『新婚旅行』…
福井に行く前に、とりあえず極楽へ寄り道…ですね。



- 続 -



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※『友人以上(恋人)』になる確率 →『諸恋確率
※表参道にて →『背高頭低
※夏合宿の予行演習 →『林檎王子
※性の象徴たる蛇 →『雲霞之交



2017/03/28

 

NOVELS