円形之水







「そろそろいらっしゃる頃だと思ってました。」
「話が早くて、大変助かります。」


黒尾と明光を仙台へ送り出した赤葦は、早速行動開始…
その前に、『手付金』として貰ったワインを取り出し、ラベルをウットリ眺めた。

「就職前に、五大シャトーが我がコレクションに加わるとは…」

シャトー・ラフィット・ロートシルトは、『ロートシルト』すなわち
ロスチャイルド家が所有する醸造所である。
ロスチャイルド家と言えば、ロマノフ家やモルガン家とも親戚関係にある、
ヨーロッパ発祥・世界屈指の大財閥だ。

「ラフィットが『王のワイン』と呼ばれるまでの名声を手にしたのは、
   ルイ15世の愛妾・ポンパドゥール夫人が愛飲し、世に広めたからで…」

彼女にラフィットを薦めたのがリシュリュー男爵…
三銃士に出てくるリシュリュー枢機卿(ルイ13世宰相)の縁者なんです。
また、シャンパン・タワーに使われるソーサー型グラスは、
ポンパドゥール夫人の乳房を象ったものだと言われているんですよ。
ちなみに、現フランス大統領官邸のエリゼ宮は、彼女の邸宅の一つです。

赤葦は大学受験時に自作・丸暗記した『趣味と実益を兼ねたフランス王政史』を、
腕に抱いたラフィットに向けて、嬉しそうに披露した。



「…一人で『雑学考察』するのもアレなんで、そろそろ動きますか。」

初任給で絶対にワインセラーを購入しよう…そう決めた赤葦は、
ワインを大事に大事に鞄へしまうと、身支度と戸締りを確認し、月島宅を出た。


徒歩一分の距離を、諸々の事情から三分かけて歩き、
赤葦は山口宅のインターホンを鳴らした。
出て来た月島は…予想した通りのセリフで、赤葦を迎え入れてくれた。

山口宅に来るのは、彼らの引越手伝いをして以来。
その時に比べ、当然ながら『生活感』に満ち溢れてはいたが、
『男子学生』の一人(?)暮らしの部屋としては、かなりスッキリしており、
合理性を愛する家主(?)の性格を、表しているかのようだった。

散らかってますが、どうぞ…と、所帯じみた定型句を述べながら、
月島は赤葦に座卓脇の座布団をすすめ、すぐにお茶が出て来た。


「思った以上に…落ち着いてますね。」
「えぇ、まぁ…そうですね。」

月島は苦笑すると、座卓の隅に乗せてあった白い封筒を、赤葦に手渡した。
「念のために伺いますが…赤葦さんの『入れ知恵』じゃないですよね。」

拝見します…と丁寧に受け取った赤葦は、封筒の中の便箋を取り出した。


    『ツッキーへ。
       やっと俺のことを<好きだ>と言ってくれてありがとう。
       でも、俺自身の気持ちが、わからなくなりました。
       しばらく時間を下さい。 山口忠 』


手紙の文面は、かつて赤葦が私文書偽造の『たとえ話』として出したものに、
多分わざと非常によく似せてあり…しかも署名捺印までしてあった。
それ故に、月島は『入れ知恵』なのかと確認したのだろう。

「違いますよ。もし俺の入れ知恵なら…もっと月島君が動揺しまくるように、
   それはそれはドラスチックな内容にしますからね。」

完璧な三つ折りにしてある便箋を、赤葦は封筒に入れ直し、脇に置いた。


「ということは、やっぱり…『あの人』ですね?」
「本当に、月島君は話が早くて助かります。」

苦虫を数十匹程噛み潰したような表情の月島に、赤葦は笑顔で答えた。



「…というわけで、月島・山口両家では大騒動になっているそうですよ。」
「そんなことだろうと思ってましたよ。あの人がやりそうなことです。」

赤葦は、明光から聞いた話を余すところなく月島に説明した。
こうした経緯や明光の存在を隠しながら、『月島対策班』の任務をこなすのは、
とてつもない労力を要するところだったが…
赤葦にとって幸運なことに、明光の策略は全部弟に『バレバレ』だった。

「俺としては、さっさとアチラに出向いて当事者及び両家で話を付けて、
   即刻『一件落着!』してもらえると…すっごい楽なんですけど。」

それじゃあ、明日にでも帰省して、カタを付けて来てくださいね。
以上で、俺の仕事…『月島対策班』の任務は完了です。

よっっっっこいしょっ………と、フラつく足腰で立ち上がり、
ヨタヨタと山口宅を辞そうとする赤葦。
その赤葦の腕を月島は引き、再び座布団+クッションの上へ静かに坐らせた。


「この程度で『任務完了』なんて…甘すぎなんじゃないですか?
   赤葦さんには、『報酬』に見合う分だけ、僕の相手をしてもらいますよ。」
「別に俺は、月島君から『報酬』貰うつもりはないんだけど?」
「僕だって、別口でお出しするつもりは、これっぽっちもありません。
   ですが、気になりませんか?アチラ側…『山口対策班』の動きとか…」

間違いなく、明光は弟に『全部バレバレ』なことも、計算の上だ。
黒尾と赤葦の存在を『作り話』だと言っていたくせに、
赤葦垂涎の『手付金』を用意していたり、当面の費用も封筒入で準備していた。
これが単なる『可愛い弟達の仲直り大作戦!』であるわけがない。

月島は眉間に指を当てながら、努めて冷静に説明した。


「兄は僕と違って、良く言えばフレンドリーな『お調子者』ですが、
   浮ついていて実態が見えないという点では、相当な『クセ者』です。」
「まぁ…『底が見えない』という意味では、弟より厄介そうだね。」

不機嫌さを良くも悪くもストレートに表現する弟よりも、
朗らかな笑顔の下が透けて見えない兄…内心が全く読めない。

「兄の主目的は、現段階でははっきりとわかりませんが…
   その兄の側に、同じぐらい面倒な人が付いてしまったことが、大問題です。」

僕の中の、『腹黒な人ランキング』のツートップ…
あの二人が組んでしまったとすると、事態が『すんなり』行くとは思えません。

兄と黒尾さんのタッグなんて…絶対に見たくなかったです。

ガラにもなく本心から恐怖を滲ませる月島に、赤葦も息を飲んだ。


「俺の中の『面倒な人ランキング』第2位の月島君が、そこまで怖れるとは…
   コチラ側も、心してかからなければならない…ということだね。」

もしかすると、当初予定していた『月島対策班』の任務よりも、
コトは『カンタン』には進まない…かもしれない。
コチラが苦心惨憺してコトを進めたとしても、それが全てアチラの『想定通り』、
つまり結局は兄&黒尾の『掌の上』であるとするならば…

「アチラの思惑通りになるのは…実に面白くない、ですね。」
「でしょう?僕も、それだけは絶対に我慢ならないんですよ。」

知らなかったとは言え、明光の策に易々と嵌ってしまった自分…失態だ。
自分だって、策に嵌るよりは、策を弄する方が性に合っているのだ。
自他ともに認める『狡猾参謀』…絶対に、負けるわけにはいかなかった。


「月島君、楽しい作戦会議…しましょうか。」
「えぇ…アチラ側に、一泡吹かせてやりましょう。」

妙な闘争心に火が付いた赤葦と月島は、ガッチリと拳を握り合った。




***************





「きっとアチラは今頃、『五大』の一番目…『地』についてダベってますよ。」
「それで、コチラは二番目の『水』…しかも『円形』で、ココなんですね。」

二人がやってきたのは、駅から少し離れた場所にある、回転寿司店だった。
普段行くのは一皿100円のお買い得店、今日は『ちょっとお高め』の店…
接待交際費か会議費で計上できるのだから、遠慮などいらない。
経費計上できなくても、兄に遠慮するつもりなど、毛頭なかったが。

月島はいきなり、最高級の黒金皿…大トロを2皿注文した。
「僕は、レーンからはあまり取らない派です。」と、次々にタッチパネルを押す。
赤葦は粉茶をお湯で溶きながら、「あら汁も注文して下さい。」と頼んだ。


「月島君は、五輪塔を見たことがありますか?」
「勿論です。昔は『おでんみたいだな』と思ってましたが。」

古代インド哲学の『五大』が、仏教に取り入れられ『五輪』となり、
その思想を形で表した五輪塔が、供養塔や墓塔…仏塔として各地に建てられている。
下から、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月の風輪、団形の空輪からなり、
それを『石造』として表すと、六面体、球形、宝形屋根型、半球、
そして宝珠型が重なる構造となる。
側面図…真横から見ると、アニメの『おでん』のようにも見える形だ。



「一ノ谷にある、平敦盛…清盛の弟の胴塚や、鎌倉三代将軍・源実朝の首塚、
   日光輪王寺の南光坊天海…家康を神として東照宮に祀った高僧の墓、
   それに、宮沢賢治の墓も、五輪塔の形をしていますね。」
「南光坊天海は、五色不動を作ったとも言われる人物ですね。
   天海について考察するのも実に魅力的ですが…今回は涙を飲んで割愛、です。」

今まで4人で考察した話の中で、『円形の水』に絡む話と言えば…
月島は、『ご注文の品』という土台に乗った皿を取り、赤葦に手渡した。

「『水蛇』即ち、激安回転寿司での『アナゴ』の代用魚…『海蛇』ですね。」


同じ『ウミヘビ科』という名ではあるが、全く違う生物の系統が2つある。
一つは爬虫類有鱗目ウミヘビ科、もう一つは魚類ウナギ目のウミヘビ科だ。
回転寿司に使われるのは後者…主にペルー産の『マルアナゴ』である。

「食品の偽装表示が問題となった際、『激安回転寿司のアナゴはウミヘビ!』と、
   センセーショナルなネタが話題になったりしましたが…」
「『ウミヘビ』を爬虫類の方に勘違いさせる、意図的な書き方ですよね。
   実際『マルアナゴ』は、流通名が『アナゴ』なので、そう表記しても問題ナシ。
   本物?のアナゴ…ウナギ目アナゴ科の『マアナゴ』とは、親戚関係です。」

ただし、『マルアナゴ』を『マアナゴ』と表記すると、偽装になる。
ちなみに、激安回転寿司で代用魚を使用すること自体に対しては、
「こんなに本物が安いわけない」と消費者も十分わかっているとして、
排除命令等は出せない…と、公正取引委員会は解答しているようだ。

大体、爬虫類だと何がいけないんですか。僕としては…と、
爬虫類有鱗目ウミヘビ科の地位向上のため、熱く語ろうとする月島を、
俺は美味ければどちらでも構いません…これ、おかわりお願いします…と、
赤葦は口いっぱいに巨大煮穴子を頬張りながら、生物学から話題転換した。

「そう言えば、全天最大の星座…『うみへび座』は、どっちなんでしょう?」


「その『うみへび』はヒュドラですから…全く別系統の『水蛇』ですね。」

ヒュドラは、ギリシャ神話に出てくる怪物である。
父は怪物の王テューポーン(大地の神ガイアの息子)、母は半人半蛇のエキドナ。
同父母兄弟に、冥界の番犬ケルベロスや、キメラの由来となったキマイラがいる。
まさに正統派エリート怪物一家出身の、サラブレッド的存在である。

「ヒュドラは…半神半人最大の英雄・ヘラクレスに退治された…?」
「えぇ。草食恐竜のような胴体に9つの首を持つ、『多頭の蛇』です。」
その姿は…何度も語ったアレにソックリではないか。



「八岐大蛇は、やはり『水蛇』だったんですね…」
「しかも、『地の神』ガイアの孫…間違いなく『神』ですよ。」

西洋の神話と、東洋の神話の類似性。
どちらが『元』か等、不明な点も多いが、蛇が特別な存在であったことは、
どちらも同じだったと考えられるのではないだろうか。

「西洋と東洋の『蛇神話』の類似性と言えば…ヒュドラに似た大蛇、
   『ラミア』が、特に有名ですよね。」
「ブルガリア神話では、ヒュドラそっくりの姿ですが、本来は…
   『上半身美女・下半身蛇』で、『口笛で人々を虜にする』怪物ですね。」

どこかで聞いたような…昨夜4人で話した、泡と消えた姫様に似ている。
人魚とラミアの違いは、もしかすると下半身が『魚類』か『爬虫類』の違い…
つまり『海蛇』という点では、共通しているのかもしれない。

「ラミア伝説が東洋に伝わり、中国の『白蛇伝』に…という説もありますね。」
「白蛇と人間の婚姻…まさに『異類女房譚』ですね。
   それに、『水輪』は、『白』で塗るのが基本でしたね。」

「ラミアは、子を殺された悲しみから、他の母親を羨むようになり、
   いつしか他人の子を取って食べるようになった…と言われています。」
「日本にも、ソックリな女性がいますね…鬼子母神という。」
「そして、『白蛇の使い』と言われる女性も…弁才天です。」

八岐大蛇伝説の話から、こうした大蛇は『オス♂』のイメージがあったが、
様々な大蛇系神話を見ると、特に『子を喰らう』属性のあるものは、
『メス♀』…女性とされている場合が多いように感じる。

「これは、赤ずきん同様に…『魂の回帰』類話と言えるかもしれませんね。」
「ヒュドラ一家の家系図を見ても、ヒュドラは『♀』と書かれていました。」


円形のレーンを流れてきた、『丸い水物』…赤葦は水羊羹を、
月島はマンゴーを手に取ると、熱いお茶と共にシメのデザートに突入した。

「そう言えば、お兄さん…明光さんは、五大で言うと『水』っぽいですね。」
「確かに、イイとこで邪魔して一時中断させる…『水をさす』だとか、
   妙な策略に誘い込む…『水を向ける』あたりが、まさにそうです。」

そんな人に遠慮は無用…とばかりに、高級フルーツ皿を追加注文する弟。

「兄の経費だと思うと、僕は『湯水の如く』使っちゃいますね。」
「その善し悪しは『水掛け論』ですし、『水に流せ』ない件も…ありますから。」

塔のようにうず高く積まれた円形の皿。
その一番上に3皿目の水羊羹を乗せると、赤葦は会計ボタンを押した。




蛇のように、巨大な何かを丸飲みしたかのような腹を抱え、
二人は静かな住宅街を、ゆっくりゆっくりと歩きながら帰路についた。


「俺、ちょっと安心した…かな。」
「意外と僕が…しっかりしていたから、ですか?」

ずっと傍にいた存在。ようやく気持ちを伝え、付き合い始めた翌日。
そんな相手が、『自分の気持ちがわからなくなった』という言葉を残し、
自分の元から去ってしまったのだ。
悠長に寿司を食べながら雑学考察など…異常なまでの落ち着きっぷりだ。

「まぁ、下手に騒いでも仕方ない部分はあるでしょうが…」
その落ち着きぶりの理由は?と、赤葦は言外に問い掛けてきた。

「慌てふためいて動くと、それこそ兄の思うツボです。
   それを何としても回避したい、というのも、勿論あるんですが…」

本当のところは…五大の『水』かもしれません。

月島は少し困ったような顔でため息をつくと、
川にかかる橋の上で立ち止まり、静かに語り始めた。


「五大の『水』…その性質は、『変化に適応する』というものです。
   これこそまさに、山口にピッタリな性質ですから。」

どんな環境に置かれても、その環境が劇的に変化しても、
上手くそれに対応し、適応進化していく…まさに軟体動物のような柔軟性だ。
延々と待たされ、ようやく訪れた、自分達の『転機』…
幼馴染ではない、『新たな関係』を月島と作っていくために、
山口は早くも…動き出した、ということだろう。

「あぁ見えて、山口の行動力は、文字通り『流れる水』の様な勢いです。
   強固な意志で、あっという間に変化してしまう…驚異的な適応能力です。」

いじめられっ子から脱却するために、単身バレークラブに飛び込んでみたり、
数回しか顔を合わせていない近所の商店主に、弟子入りしてしまったり。

「いつも僕は、そんな山口に…置いて行かれるんです。」


一滴の水のように、ポツリと零れた月島の本心。
水のように澄んだ感情の漏出に、赤葦は息を飲んだ。

「変化してやまない山口を、僕の檻に閉じ込め続け、待たせ続けた…
   僕が山口にしてきたことは、本当に…酷いことなんですよ。」

橋の欄干に腕を乗せ、川面に向かって声を振り絞る月島。
赤葦もその隣に腕を乗せ、月島の言葉を静かに聞き続けた。

「昨夜、やっとそこから脱却…これからどうすべきか、僕は未だわからないのに、
   もう山口は、動き出してしまったんです。」

山口が何を思って、どう考えて動いたか…僕にはわかりません。
檻から出た山口が、僕の元を去ってしまう結果になったとしても…

「僕には、それを止めることはできない…
   僕ができるのは…『何もせずに待つ』ことだけです。
   『時間を下さい』という、山口の言葉を尊重して…待つだけです。」

兄の言うように、これがただの『仲違い』だったら、どんなに楽だったろうか。
『仲直り』という分かり易い対策が選択できるだけ、ずっとカンタンだったのに。

「ただ待ち続ける…これが、こんなに辛いなんて…」
それをずっと山口に強いてきた自分が、今更ながら…腹立たしいです。

この川が、こんな思いは流し去ってくれれば…と、月島は力なく呟いた。


赤葦は項垂れる月島の背をポンポンと撫でると、力強く断言した。

「やっぱり俺…安心したよ。月島君が想像以上に…可愛いってね。」

のんびり俺と寿司屋で『酒屋談義』を楽しむ程、余裕綽々かと思いきや、
落ち着き払ってるように『見えた』だけで、本当は…動揺しまくってるよね?

月島君がちゃんと『普通』の感情を持った人で…本当によかった。ホッとしたよ。
バシバシと背中を叩く赤葦に、月島はちょっとムっとして見せた。

「そんなに僕…動揺してるように見えます?努めて冷静に…」
「その努力は凄く伝わってきますが…あからさまに動揺してます。」

赤葦は月島の首根っこをガシっと掴んで引き寄せると、
その耳元にごくごく小さな声で、囁いた。


「今日、月島君と過ごしてわかったんですが…月島君、ホントに可愛いよね。
   月島君をずっと見てて、俺…すごいドキドキしっぱなしだったんですよ?」

艶っぽく囁く赤葦の声とセリフに、月島の心臓の方がドキリと跳ねた。
発言の真意を探るべく、赤葦の表情を見ようとするも…更に引き寄せられた。

「あ、赤葦さん…それは、えっと、どういう…」
「月島君が、俺にもちょっと『心の扉』を開いてくれて…
   辛い気持ちを正直に話してくれて、俺は嬉しいよ。」

この人は、こんな淫靡な空気を纏い、脳を溶かすような喋り方を…しただろうか?

月島が赤葦の『妖艶な何か』に、クラっとよろめきそうになった瞬間、
赤葦は月島が羽織っていたチェックのシャツの裾を、そっと握った。


「ガラのせいでパっと見はわかりませんが…これ、裏返しです。
   それに、『下』の方の『扉』も…開いてますよ?」

誰かに気付かれたらどうしよう…って、ずっとハラハラしながら見てました。


赤葦のとんでもない指摘に、月島は慌ててチャックを上げ、シャツを着直した。

「いっ、いつから…気付いてたんですっ!?」
「『そろそろいらっしゃる頃だと…』の辺りですね。」

「何で家を出る前に…言ってくれなかったんですか…」
「さすがの俺も、面と向かって『チャック開いてます』は…恥ずかしくて。」

大嘘である。この人なら、淡々と事実を事実として告げるはずだ。
それをずっと放置して、遊んでいたとすれば…


「赤葦さん…念のために言いますが、僕と兄は『別人格』です。
   兄に邪魔された鬱憤を、僕で晴らさないで下さい。」
「おや、俺がそんなに怒っているように見えましたか?」

川面に反射する街の灯りのような、偽物の笑顔。
これはもう…激怒以外の何物でもない。


「なんて大人げない…ですが、可愛げはあって、僕もちょっと安心しました…」
「『素敵タイム』をぶち壊したこと…そう簡単には水に流しませんからね。」


どうやらウチの兄は、とんでもない人に…
僕の『怒らせてはいけない人ランキング』第1位に、火をつけてしまったようだ。





***************





それじゃあ、行って来るね。


実家に帰省した翌日、玄関で靴を履いていると、来客を知らせる音…
玄関脇の擦りガラスに映る、黒っぽい影を見ながら、
俺は「はいは~い」と、鍵を回し、扉を開けて…驚きの声を上げた。

「くっ、黒尾さんっ!!?」
「よっ!おはよーさん。」

眩しい朝日を背負って現れたのは、よく見知ってはいるが…
スーツに黒縁眼鏡という、全く見慣れない格好をした、黒尾だった。

呆気にとられ、立ち竦む山口。
黒尾はそんな山口の後ろ…見送りに出ていた母に対し、輝く笑顔で挨拶した。


「初めまして。私、黒尾鉄朗と申します。
   山口君には、いつも大変お世話になっております。」

高校時代よりも、更に磨きが掛かった黒尾の『営業モード』…
山口はポカンと口を開けたまま、母と黒尾のやりとりを見つめていた。

よくわからないうちに、すっかり母と黒尾は打ち解けてしまい、
何度か黒尾に呼びかけられ、やっと山口は我に返った。

「これから、どっかに出掛けるところだったのか?」
「え?え、は、はいっ!ちょっと…役場と、法務局の方まで…
   戸籍謄本を、取りに行こうかなって…」

山口の言葉に、黒尾は驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

「そうか…それは、ちょうど良かった。俺も、謄本取って来たし…
   俺も一緒に、役場に行こうかな。」

それでは、すみません…また改めて、ご挨拶にお伺いします。

黒尾は母に深々と頭を下げ、山口と連れ立って玄関を出た。



「役場まで付き合って頂いて…ありがとうございます!
   それにしても、いきなりウチにまで…ビックリしました。」

黒尾と山口は、役場で戸籍謄本を取った後、法務局近く…
有名な伊達政宗騎馬像のある、仙台城…雅称・青葉城にやってきた。
高台から仙台の街並みを見下ろし、緑あふれる公園内を、二人で散策した。

「話には聞いていたが…青葉城って名前が相応しいな。
   緑豊かで、まさに『杜の都』って雰囲気だ。」

人の少ない森林内のベンチに座り、黒尾は山口に缶コーヒーを渡した。
そのまましばらく、静かに森林浴を愉しんだ。

「都心から出てくると、ホントに心が洗われるっつーか…いいトコだな。」
「ありがとうございます。故郷を褒められると…嬉しいですね。」

えへへ、と照れ笑いする山口に、黒尾もつられて微笑んだ。
その柔らかい微笑みに、山口はさっきとは別の意味で驚いた。


「黒尾さん、ここ数日の間に…何だか雰囲気が変わりましたね。」
「そうか?『スーツに眼鏡』って格好が、見慣れねぇだけじゃ…」

ピシっと背筋を伸ばし、眼鏡の端をクイっと上げてみせる。
それもあるけど、違います…と、山口は首を横に振った。

「上手く言えないんですけど、柔らかく?丸く?なった…あ、そうか!
   えっと、あの…良かったです、ね?」

この木漏れ日のような穏やかな雰囲気…いわゆる『幸せオーラ』というやつだ。
それに気付いた山口は、嬉しさと恥ずかしさを混ぜ合わせた表情で頬を染め、
風に消えそうな小さな声で、おめでとうございます、と言った。

「あー、その、なんだ…お前さん方には色々世話になったというか…」

こちらも消え入りそうな声で、サンキューな。と呟いた。


黒尾は何とも言えない照れ臭さを、吹き飛ばすように咳払いすると、
そんなことよりも…と、山口に切り出した。

「俺と同じように、やっと一歩踏み出したはずのお前が…
   何でこんなとこに?しかも戸籍謄本って…どういうことだ?」

いきなり直球の質問に、山口は言い淀む…かと、黒尾は思っていた。
だが、山口は大量の酒が入った時のような澄んだ目で、表情も凪いでいた。

「一言で言うと…一歩踏み出したから、ここに居る…です。
   戸籍謄本を取りに来たのも、仙台に帰省したのも、そのためです。」

黒尾は黙って頷き、山口に話を促した。
だが、返ってきた言葉に、黒尾は度肝を抜かれてしまった。


「戸籍謄本は…正式な遺言作成のために取りに来ました。」
「は…?い、遺言だと…!?」

遺言は、直筆で書く自筆証書遺言が最も一般的ですが、
もっと法的拘束力の強い方式…公正証書を用いた遺言もあります。
その作成には、遺言者の戸籍謄本が必要なので、本籍地の仙台に…

「そ、それはわかった、というよりも…何でそんな遺言に詳しいんだよ。」
「あ、俺、毎年自分の誕生日に、ツッキーに遺言書をプレゼントしてて…」
「はぁっ!?何だそりゃ…」
「ツッキーの誕生日には、ツッキーの分を俺が貰ってるんですよ~!」

嬉しそうに語る山口。あまりにイレギュラーな『お誕生日プレゼント』、
しかも誕生日を迎える側が贈る…に、黒尾は大いに混乱した。

「そんなこんなで俺、この歳にして遺言書には、割と馴染みが…」
「そ、そうか…それで、何でその遺言を、わざわざ公正証書で?」

公正証書で遺言を作成するには、公証人役場に出向き、
公証人に対して遺言内容を伝え、公証人に作成してもらわなければならない。
手数料の他に、その遺言や相続に関係のない証人も2名必要となるため、
内容もきちんと整った、非常に強固な証拠力を持つ遺言書となる。

「一昨日、黒尾さんが話して下さった、『形式』の話を聞いて…」


人魚姫の話の流れから、婚姻という『形式』について…
黒尾の結婚観に関する話題が、『酒屋談義』のネタになった。
その際に黒尾は、現行法では様々な理由から婚姻届を提出できない場合に、
公正証書を利用して婚姻契約を結ぶ…という可能性について触れたのだ。

「ずっとずっと待ち続けて、やっとツッキーに言って貰えた…
   ようやく、ツッキーと『お付き合い』できることになりました。
   でも、よく考えると…『付き合う』って、一体どういう状態だろうって…」

どういう状態を以ってして、『付き合っている』と言えるのか?
その定義の難しさについては、黒尾も過去に赤葦と考察したことがある。
特に月島・山口のような超レアケースでは…判定が非常に困難だ。

「今更『お付き合い』って言われても…
   それ『以前』との違いが、まるでわかんねぇよな。」
「そうなんです。それで、俺自身はどうしたいのかも、わかんなくなって…」

お互いの気持ちは、とうにわかっていた。ヤることだって、しっかりヤっている。
なかったのは、『そういうカンケー』の『入口付近』であるはずの『言葉』だけ。
ようやく一昨日、名称的には『ズルズルの幼馴染』から抜け出せたのだが、
では実質的にどう変わるかと言われると…特になし、なのだ。

「やっと『言葉』を貰えて、精神的には物凄く救われました。
   でも、散々待ち続けた結果が…『何も変わらない』、なんですよね。」

たった数日で、『劇的』に変化した黒尾さん達が…羨ましいですよ。
幼馴染…『時間の積み重ねによる安定』に、こんな落とし穴があるなんて…

月島・山口や、黒尾・研磨の『幼馴染』という安定した関係に、
赤葦は憧憬を抱いていたが、それが内包する『ズルズル』の恐ろしさを、
黒尾は十分承知しており…それ故に山口に深く深く同情した。

「辛い思いして待ち続けて、やっとズルズルから抜け出したはずなのに、
   抜け出た先も、結局同じ景色が続いていた…か。」

もし俺がその立場だったら…絶望しちまいそうだ。
苦々しく呟いた黒尾に、山口は強く首肯した。

「またこの『ズルズル』が延々続くなんて…俺、絶対嫌なんです。
   とりあえず出来ることを考えたら、行きついたのが…遺言公正証書でした。」

山口はグッと背筋を伸ばすと、はっきりした声で力強く続けた。


「現段階では、これからツッキーとどうなっていくか、わかりません。
   でも、俺達の気持ちがはっきり確定するまで動かないのも、問題です。
   だから、いつか来るかもしれないその日のために…」

黒尾さんが言ってた『けじめ』…俺なりの『形式』は、
今からちゃんと、用意しておこうかなって。

…これを渡せる日が、来るといいんですけどね。


はにかんだ様に微笑む山口に、黒尾は大きく心を揺さぶられた。

待って待って、やっと訪れた転機。それなのに、現状は変わらない…
そのことに絶望することもなく、その変化に対応し、
前に進むために、今できることを確実にこなす…これがどんなに、難しいことか。

「山口…お前やっぱり、スゲェ奴だな。」
「いやいやそんな…ただただ、もう待つのが嫌なだけですよ…」

謙遜する山口だが…その発言の痛々しさに、黒尾はまた切なくなった。
ぐしゃぐしゃと山口の髪を掻き乱し、ホンットーにお前は可愛いな、と呟いた。


ひとしきり頭を撫で回した黒尾は、スっと表情を引き締め、
山口に正面から向かい合った。

「なぁ山口。お前の『特技』を…『手に職』にしてみねぇか?」

「俺の特技?手に職って…どういうことです?」

黒尾の言葉に、山口はキョトンと音がしそうな顔で、復唱した。
チラリと腕時計に視線を走らせて、時間を確認すると、
黒尾は「詳細は後々説明するが…」と前置きしつつ、言葉と続けた。


「俺は今、ある人からちょっとした仕事を請けているんだが…
   それには、遺言や相続に詳しくて、公文書慣れしてる奴の助力が必要なんだ。」
「遺言と、公文書…確かに俺は、その手の文書に拒絶反応はないですし、
   少なくとも、普通のラブレターよりは、ずっと親近感が湧く文書ですけど…」

「『文書』や『書類』に親近感湧くってだけで、結構な特殊能力だぜ?
   その能力を生かして…俺に、力を貸して欲しいんだ。」


    俺には、お前の力が必要なんだ。


尊敬する大切な人から、真っ直ぐの視線で、そんな風に言われたら。
これを無下に突っぱねることなど…できるはずもない。

山口は半信半疑ながらも、コクリと頷いた。


「俺で力になれるなら…黒尾さんのために、なるのなら…」





***************





「えーっと、住所によると、この辺りのはずなんだが…」

メモを見ながらオフィス街を見回す黒尾。
地元人・山口は、横からそのメモの住所を見て…えっ!?、と声を上げた。

「あの、その住所ってもしかして…明光君の職場じゃ…」
「お前、場所知ってんのか?助かったぜ…案内頼むわ。」

何で明光君?黒尾さんと知り合いだったっけ?
渦巻く疑問に混乱しながら、山口は法務局裏にあるビルへと向かった。



「やぁ、二人ともいらっしゃ~い!」
「明光君久しぶり!元気そうだね。」

勝手知ったる何とやら…山口は事務所内にいた明光に笑顔で挨拶すると、
そのままカウンターを越え、奥の小部屋へと入って行った。

「黒尾君も、ご苦労さま。こっちへどうぞ~」

促されるまま応接セットのソファに座ると、
程なく山口がお盆にアイスコーヒーを乗せてやってきた。

「おい山口、お前なんで…」
「あ、ここ、俺のバイト先なんですよ。主な勤務地は東京ですが…」
「そ、そうだったのか…」

黒尾さんも、明光君の仕事なんだったら、先にそれを言って下さいよ~
真剣に『力を貸してくれ』なんて言うから、すっごい身構えちゃいました。

それじゃあ、ごゆっくり…と、応接コーナーから去ろうとする山口に、
書類を抱えて来た明光が、「今日は忠も一緒に居て。」と、手を引いた。

山口は、明光側と、対面の黒尾側…どちらに座るべきか迷ったが、
明光が黒尾の隣に書類一式を並べたため、そちらに座った。


「改めまして…ようこそ黒尾君。この度は仕事を請けてくれてありがとう。
   早速、仕事の詳細について説明しちゃうね。」

質問は、後で思いっきり受け付けるから。
明光は『イロイロ聞きたいことがあります顔』の二人に、
まずは黙って聞いてほしい…と、口元に人差し指を当てた。

「黒尾君には、昨日新幹線でザックリ言ったけど、今回の仕事は『五輪の地』…
   五輪に便乗して再開発しちゃおうっていう、デベからの依頼だよ。」

デベとは、大規模な土地開発や都市再開発事業を行う、開発業者(developer)だ。

高度成長時に造られた街が、そろそろ耐用年数を迎え、
方々で駅前再開発事業が持ち上がっていたのだが…折からの不況で中断。
だが、都心で五輪が開催されることになり、この機会を逃してなるものか…と、
潤沢な補助金等を利用しつつ、中断されていた事業を再スタートさせているのだ。

「もしかして…五大の『地』と言わんばかりの権利者が…?」

五大の『地』は…『動きや変化に対して抵抗する』性質だ。
再開発に伴う、『もともとそこに住んでいる人』の移転交渉…即ち、
用地買収に反対している権利者の対応が、今回の仕事…なのだろうか。

「いやいや、さすがにそんな『大仕事』は、君達に頼んだりしないよ。
   権利者自体も、開発と買収には同意してる。ただ…相続が発生しちゃってて。」

元々の再開発事業が持ち上がったのが、今から30年程前…
その時に土地の権利者だった人が、既に亡くなっているケースも多い。
この場合、現権利者と新たに交渉を行わなければいけないことになる。

「相続人が反対…してるの?」
「そういう難航権利者には、ウチの別動隊が動いてるよ。」

だからほら…今ウチ、俺以外に誰もいないでしょ?
事務机は10程度あるが、明光以外の全員が出払っているようだ。

「現所有者と思われる人も、事業には賛成。でも…相続登記してないんだ。
   ちなみに、この30年間で…相続が2度もあったんだよね~」

土地等の権利者が死亡した際には、速やかに新たな所有者を登記…が理想だが、
現実的には、揉めることなくそのまま長男一家が住み、そのまた長男が…と、
登記を変更しないままというケースも、多々あるのだ。

そのような土地をいざ売却しようとすると、現所有者を確定する必要があるが、
そのためには、『他の相続人全員の同意』が必要となってくる。

「ちょっと待て…登記は『じーちゃん』のまま、その相続人全員ってことは…」
「おじいちゃん直系の子供達、孫達、そして、おじいちゃんの兄弟にその子…」
「ま、ざっと50名程度…参っちゃうよね~」

相続登記を怠っていると、まさにねずみ算式に…相続人が増えてくるのだ。

この事態に、デベも現所有者っぽい人…居住者も、慌てちゃったわけ。
この機会に登記をキレイにして、一族の相続・権利関係をはっきりしとこうって。
幸いなことに、現居住者に近い『直系』の人は、都内に固まってたから、
そっちはまた別の部隊が、既に仕事をしてるとこだよ。

「残った30名近くの傍系が、ここ仙台にいるんだ。
   君達の仕事は、彼らの戸籍謄本及び、同意書への署名捺印を集めること。」

事前に話は通してるし、反対者もいないから、各家庭を回って来るだけだよ~

「要は…短時間での大量の雑務、だな。」
「そう。カンタンでしょ?ものすっごい面倒なだけで。」

確かにカンタンだろうが…『大量のカンタン』は、イコール『相当な大仕事』だ。
しかも、慣れない『カンタン』は、全然『カンタン』ではない。

黒尾が天を仰ぎかけた所で、横からあっけらかんとした声がした。

「なら俺は…とりあえず戸籍謄本の請求を、やっちゃえばいいの?」

えっと、請求用紙は…あそこの棚だったよね。
権利者一覧表は…あ、このファイルだね。

事も無げに動き出す山口に、黒尾は慌てて「質問!」と挙手をした。


「えーっと、なんでまた、お前はそんな…」
「俺、ここでバイトしてるんで、登記等の公文書関係は、割と親近感が…」
「ね、言ったでしょ?忠がいると仕事が早いよ~って。」

身内の俺が言うのもアレだけど、『地味な作業』を『淡々と捌く』能力…
忠はピカイチだよ。ホントに『地味キング』だよね。

「山口がそんなバイトしてたなんて…聞いてねぇよ。」
「そう…でしたっけ?そう言えば俺達、お互いのこととか…
   今までほとんど話したことなかったですね。」
「特にお前は、ツッキーの話ばっかりで…山口自身は謎だらけだ。」

結構な頻度で、『酒屋談義』をしてきたはずなのに、
酒の場で話すのは、仕事や学校の愚痴、身の上話やコイバナではなく、
本当にどうでもいい…雑学ばかりだった。

「君達さぁ…お互いのこと、知らなさすぎでしょ!
   全く、酒飲んで『他所の美女』の話ばっかり…イヤラシイ集まりだねぇ~」

他所の美女…シンデレラや白雪姫のことだろうか。
言い方には問題があるが、内容としては…間違ってない。

「じゃあ、忠は知らないんだ…黒尾君も同業者…『サムライ』だって。」


明光の言葉に、山口はまたしてもポカンと口を開けて固まった。

「え…黒尾さんも、おサムライ…士業者だったんですか!?」
「まだ登録はしてねぇけど、一応行政書士資格者…修行中だ。」

行政書士とは、官公署へ提出する書類や、権利義務・事実証明に関する書類、
それらの手続の代理や代行、相談に応ずる国家資格者だ。
作成可能な書類や手続は3000種類以上…まさに『文書』に関する専門職だ。


『酒屋談義』でも、手慣れた仕種で六法を捲り、法的考察をしていたから、
もしかしたら法学部かな?ぐらいには思っていたのだが…
そう言えば、大学でどんな勉強をしているのかも、お互い知らなかった。

「書士会に登録しないと、仕事は請けられねぇ。登録には金も掛かるし…
   学生のうちは、都内の事務所でバイトしつつ、仕事を覚えてたとこだよ。」

ちなみに、俺の専門は離婚だから…相続はちょっと不慣れなんだよな。
ホントは風営法の申請とか、『ワクワク系』のをやりたかったけどな…

官公署と一言で言っても、その分野は多岐に渡る。
相続や離婚、飲食店開業や会社設立、車検登録にビザ申請、建設業の許可申請…
ありとあらゆる行政機関に提出する書類に、行政書士は関わっている。
そのため、同じ行政書士でも、全く『流派違い』のサムライが存在するのだ。


「どおりで、シンデレラの『玉の輿婚』に危機感を抱いてたり、
   妙にリアルで超個性的な『結婚観』…だったんですね。納得です!」
「毎日毎日、他所様の破滅的な痴話喧嘩を見続けてたら…な。
   結婚なんて一度もしたことねぇのに、離婚回数は既に3ケタ突破だぜ…」

よっぽどの相手でなければ、黒尾が結婚したいと思わないのも…無理はない。
だからこそ、そんな黒尾を本気にさせる程の、『よっぽどの相手』には、
年齢不相応なまでの驚異的な『王子様ぶり』を見せたのだろう。

黒尾と山口が、お互いの知らなかった一面に感嘆していると、
それじゃあ、話…続けるね。と、明光が割って入った。


「今回の仕事は、ウチの下で雑務だけど…今後黒尾君とは、
   ウチの『東京部隊』として、提携していきたいなぁって思ってるんだ。」

今まで、ちょっとした東京での仕事は、忠に頼んでたけど…
やっぱり、ちゃんとした資格者が必要な場面もあるからね。

「それじゃあ、黒尾さんは、明光君の事務所に所属…?」
「これから2年間は、そうだけど…その後は、『提携先』だよ。」

つまり、書士会への登録料や事務所開設費用は、明光の事務所が持つ。
2年間は明光の下でミッチリと修行し…その後、黒尾は独立するということだ。

「資金も、仕事も、修行もさせて貰えて…俺にとっちゃ『最高待遇』だ。」
「その代わり、俺の無茶ぶりに振り回される2年間ってことになるけどね。」

ま、独立後も振り回さないっていう保証は…どこにもないよ。
ちなみに、俺に振り回されるイコール…激可愛い弟達も、おまけについてくる!
考えようによっては、明らかに『割に合わない』かもしれないよね~?

明光の妙に明るい笑顔に、黒尾はグっと息を詰まらせたが、
望むところだぜ…と、黒尾は不敵に笑い返した。


「あ…それじゃあ、俺の『住民票』は…」
「忠は、元々ウチの『行政書士補助者』として登録するつもりだったけど…
   忠さえ良ければ、黒尾先生の補助者として、サポートして欲しいんだ。」

忠にもいずれは、本格的に動いて欲しいから…補助者登録したいんだ。
忠が『今だ!』って思った時が来たら…登録に必要な住民票を、持って来てね。

…これが、山口が仙台に帰省した、もう一つの理由である。

ただ正式な遺言という『形式』を準備するだけでは、不十分だ。
これを堂々と手渡し、将来を確定する『言葉』を言うためには、
ちゃんと一人立ちして、食っていけるような『手に職』も必要…
だからこそ、山口はその準備のために、仙台・明光の所へ来たのだった。


「黒尾君は、念願だった個人事業主に。しかも開業資金&営業も不要。
   俺は俺で、面倒な東京の仕事は全部押し付けられる…『便利な手駒』ゲット。
   忠だって、社会人として一人立ちするに十分な経験と、就職先を確保。
   そして、おまけの『蛍&忠の世話係』…月島・山口両家の懸案事項も解消!!」

上手く行けば…なかなか見事な『策』だと思わない?と、
パチクリとウインクしてみせた明光。
そして黒尾は、城址公園で見せたのと同じ真剣な表情で、山口に向き直った。

「改めて頼みたい。山口…俺の補助者に、なってくれないか?」


山口は一瞬息を飲んだが、大きく息を吸い直し、勢いよく頭を下げた。

「こちらこそ、ぜひ黒尾さんの元で働かせて下さい…お願いします!」


この『策』の成功を祈願し、三人は固く握手を交わした。

だが、その結束に『待った』を掛けたのは…
明光の携帯に入った、一本の電話だった。



「…はぁっ!?じょ、冗談でしょ…?それで、蛍は…?
   そう…わかった。それじゃあ、明日の晩…」



- 続 -



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※文書偽造のたとえ話 →『白馬王子
※山口が『軟体動物』な理由 →『結論提示
※遺言書プレゼント →『技能伝承
※『付き合っている』の定義 →『諸恋確率

※ソーサ型シャンパングラスは、マリー・アントワネット(ルイ16世王妃)の、
   左胸を象ったもの…という説もあります。
※サムライ業の一部は、職務として戸籍等を請求することができます。

※キューピッドは語る5題『2.見てるこっちがハラハラ』


2016/07/21(P)  :  2016/09/25 加筆修正

 

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