夜想愛夢⑨







「セクシーなのと、キュートなの…忠君はどっちが好きなんだろうな。」
「忠の雰囲気だと、キュートかなぁ?セクシーも捨てがたいけどね~」
「正直…めちゃくちゃ迷うね。僕はどっちの山口も、大好物だけど。」


黒尾さんと赤葦さんに見送られながら、重い足を引き摺って仙台へ。
駅から自宅へ電話すると、夏期休暇中の兄が迎えに来てくれることになった。

駅前のデパートで待ち合わせをしていると、何故か兄だけでなく父も一緒…
それなのに、母と山口は居ない状況に、僕は一瞬で大半のことを理解した。

「父さん…今度は何やらかしたの?」
「私はただ、海でバカンスを…『アバンチュ~ル☆』を計画しただけだ。」
「例によって『勝手に』決めちゃったから、母さんがブチ切れちゃったんだ。」

あぁ…やっぱり。
おそらく、母さんは山口も引き連れて、出て行った…『天岩戸』に籠城だ。
母さんと山口が手を組んだら、月島家の男連中に勝ち目など微塵もない。
ひたすら謝り倒して、城から気持ちよく出て頂く以外の方法はないのだ。

「…それで、母さん達のご機嫌を取るために、貢物を準備してるんだね?」
「概ねそれで間違ってはないな。」
「蛍も、忠への貢物…一緒に選んだ方がいいでしょ?」

とりあえず気合を入れるために、デパートの最上階…中華料理屋に入った。
円卓を無駄にクルクル回しながら、月島の男達は思考をグルグル巡らせた。

「母さんへの供物は、ほぼ確定…『青い部屋』に相応しい宝物をご所望だ。」
「『深い海』を表す碧玉…サファイアあたりがいいんじゃない?」
「今回も随分、高くついたケンカだったみたいだね…ご愁傷様。」

自分のことは棚に上げ、耳慣れない『青い部屋』について兄に聞いていたら、
話が終わる頃に着信…その電話が終わると、兄ちゃんの顔は青く変色していた。


「どうした明光?水底に沈んだ水死体のような顔色だぞ?」
「そう言えば、『青』は死者の色…『この世』ではない世界を表す色だよね。」

洋の東西を問わず、古代から青は『別世界』を表す色とされてきた。
様々な宗教画…『神の国』の背景は青に塗られ、喪服の色も青が基本だった。

中国の道教でも、この世とあの世を繋ぐ鬼城の門は青く塗られていたし、
バビロンの王宮と大通りの境界にある、8番目の門…イシュタル門も青だ。
インドの最高神・シヴァ神の肌も青…神聖な『青』に染まっている。

シヴァ神ほどではないが、まるで幽霊を見たかのように、明光は真っ青な顔…
そして、震える声で、「青、だよ…」と呟きながら、状況を説明した。

「今の電話は、青い部屋の主から…」


今夜『青い部屋』で、真夏の夜に相応しい儀式を執り行います。
籠城を解きたければ、暗く青い世界へ…必ず月島家男子3人、全員で来ること。
尚、儀式には、この城に『元々いた神』と、深い縁のある『松』も参加します。

「もし来なければ…ってところで、電話が切れちゃったよ。」


一同、青い顔を見合わせ…ゴクリと唾を嚥下する。
カラカラに乾いた唇をどうにか動かし、『青の女王』からの誘いについて、
声を引き攣らせながら、慌てて考察を開始した。

「えっと、まず…『元々いた神』ってのは、まさか…」
「山口先生達が、夏期休暇…お盆の帰省してるんだよ。確か今朝、東京着かな。
   父さんがその予定を無視して、海バカンス予約…それが母さん激怒の理由。」
「『松』は、黒と赤の、相生の松…彼らも先生達と一緒に来るということか。」

帰国した山口夫妻は、空港から4人の家へ…僕とは入れ違いになったのだろう。
僕が策を練ったり土下座することなく、黒尾さん達を巻き込めたのは…朗報だ。
厄介事は全部あの二人が担当だから、来てくれるだけでも、かなり有難い。

だが、問題は…『真夏の夜に相応しい儀式』の方だ。


「『暗い』部屋で行う儀式と言えば、やはり『くらやみ祭』だろうな。」
「『くらやみ祭』…武蔵国の大國魂(おおくにたま)神社の、例大祭だね~」
「別名『出会い祭』『ケンカ祭』…暗闇の中で、神輿が集結するんだっけ?」

貴いものは見てはならないという、古来からの習わしによって、
神聖な御霊が神輿に移る際、周りから見えないよう暗闇の中で行われるそうだ。
だが、別名から解るように、『暗闇での出会い』が祭の肝…
つまり、男女の出会いの場である『歌垣(かがい)』がそのルーツだ。

「『くらやみ祭』は、境内摂社の宮乃咩神社に奉幣するところからスタート。
   宮乃咩(みやのめ)神社の祭神は、天鈿女命…天岩戸のエロダンス巫女だよ。」

大國魂神社の主祭神は、大国主…素戔嗚尊の子孫だが、
くらやみ祭は天鈿女命のお祭りだから、籠城を解くに相応しい儀式と言える。
(『ケンカ祭』は…ドンピシャすぎな名前のため、見なかったことにする。)


「そう言えば、大國魂神社の七不思議の一つは『松がない』ことなんだよ。」
「鳥たちが本殿にフンを落とさない…というのも、七不思議の一つだったな。」

本殿の主は、大国主…まつろわぬ者で、鳥はその眷属だったはずだ。
鳥がフンを落とさないとは、鳥が逆らわない…『鳥の主』という意味だろうか。

「『松がない』ので有名なのが、大宮氷川神社…大國魂神社の系列だよ~」

大國魂神社は、武蔵国の一之宮から六之宮まで合わせて祀る神社のため、
『六所宮』とも呼ばれているのだが、その中の一之宮が、大宮氷川神社である。
氷川神社の主祭神は、素戔嗚尊と櫛名田比売、摂社に櫛名田比売の両親がいる。

「櫛名田比売の親は足名椎・手名椎。彼らの住んでいた『肥の川(斐伊川)』が、
   転じて『氷川』になったのでは?と言われているそうだな。」

足名椎・手名椎が祀られているのが、氷川神社の境内摂社・門客人神社…
この神社は元々『荒脛巾(あらはばき)神社』と呼ばれていた。

「アラハバキは、ここ仙台に元々いた…伊達家の祖・長髄彦の可能性が高い。」

長髄彦も、朝廷に『まつろわぬ者』の代表…鳥たちの王だった。
アラハバキの『アラ』は、たたらの際に出る鉄滓…製鉄の神ということになる。

また、氷川神社の例大祭は『大湯祭』…湯は鉄が溶けたものだった。
そしてこの大湯祭は、別名『火剣祭』という、火の神事…やはり製鉄だ。

「火の神事に欠かせないのが…松明。松脂を多く含む松は、たたらに必須。」
「松と鉄の関係…『相生の松』にも繋がるんだ。蛍…わかるか?」


父と兄の『ノンストップ考察』に、付いて行くのが精一杯だった僕は、
『黒尾鉄朗は僕らの相生の松だった』ぐらいしか、咄嗟に思い付かなかった。
ゴリゴリにこじつけるなら、松は一株に雌雄がある…『雌雄同体』の樹木だ。
研磨先生とのオメガバース考察では、αとΩは共に雌雄同体という結論で、
αを黒尾さん、Ωを赤葦さんと仮定して遊び倒した…松に繋がった、かな。

しまった…二人の『ミニシアター』は、松繋がりで『松葉くずし』にしとけば…
と、全く関係のないコトだけを悶々と脳内に思い浮かべていると、
父と兄が『松と鉄の関係』について、少しずつヒントをくれた。

「『相生の松』の尉…『黒松』は、手に何を持っていた?」
「確か…箒だったかな?」

「箒(ほうき)の古語は、『ハハキ』だ。ハハキは『蛇木』と書くのだが…」
「アラハバキの『ハハキ』だね!黒松とアラハバキが、ほうきで繋がった!」

「アラハバキの後、門客人神社に祀られたのは、足名椎・手名椎夫妻だよね?
   夫婦が元々住んでいたのは、出雲国の東端を流れる肥の川…出雲国の境界。」
「出雲国の東隣の国は…あっ!?ほ、伯耆(ほうき)国だよっ!」

相生の松…黒松の箒。
箒はハハキで、製鉄の蛇…アラハバキ。
アラハバキと同じく、『客人』と貶められた足名椎・手名椎の国は、
『あの世』である出雲との境界にある、伯耆…『ほうき』の国だった。

「黒尾君が、相生の松を通じて…足名椎・手名椎と繋がったんだよ。」
「鉄の椎『鉄鎚(かなづち)』は、正義の鉄槌を下す…法律家にも繋がるな。」

ここにきて、まさかの繋がりを発見し、僕は魂が抜けるような感覚を覚えた。
寒気で身震いするほどの、深い考察…思い当ることも、いくつかある。


『箒』が『この世』と『別世界』の境界を表すことには、実例がある。
葬送の列で、箒を持つ「帚持(ははきもち)」という人がいるが、
死者の魂がこの世に残ってしまわないように、箒で掃いて送り出す役目の人だ。
人の魂を掃くこの箒を『玉(魂)箒』と言うそうだ。

また、『掃き出す』ことと『ハハキ(母木)』の字から、出産と結び付けられ、
妊婦の枕元に立てたり、松明をつけて箒を拝ませたり、箒で腹を撫でたりして、
赤ちゃんを『この世』に掃き出す、安産の呪具としても、使われてきた。

「語源の一説は『羽掃き』…鳥の羽で作ってたから。」
「鳥と箒も、見事に繋がったな。」

籠城する母と山口を、別世界たる『青の部屋』から出すには、
宝玉等の供物ではなく、むしろ箒を用意した方がいいのかもしれない。


美しい繋がりを見出した考察に、僕は感歎…大満足でデザートに食い付くと、
ぷちゅり!と音を立てて、熱々の御汁が小籠包から溢れ出してきた。
小籠包…この中にも、小さな龍が籠められているのかな?と思っていると、
父と兄は大きくため息…何故か未だに顔は青いまだった。

「母さんが言ってた『真夏の夜に相応しい儀式』が、この『くらやみ祭』なら、
   組んず解れつ、ステキな『歌垣』のお誘いってことになるけど…」
「間違いなく、それは誤りだろうな。
   あの二人はこの機に乗じ、我々の『愛の深さ』を試そうとしているんだ…」

『愛の深さ』とは、『歌垣』即ち暗闇での乱交パーティを阻止しに来い…
という、淡い『真夏の夜の夢』を断念させることだろうか。
…いや、そんな『ケンカ祭』は、絶対に認めるわけにはいかないし、
そもそもそんな儀式を、独占欲の化身・相生の松コンビが許すはずもない。

「母さん達がやろうとしてるのは、『暗い』儀式じゃなくて、『青い』方だよ。
   大国魂神社の『くらやみ祭』も、歌垣の時期…五月初旬で、夏じゃないし。」
「青行灯に照らされた部屋で行う、真夏の夜の悪夢…『百物語』だな。
   母さんと忠君は、我々に『肝試し』のお誘いをしている…ということだな。」

父と兄の言葉に、僕は意識を『あの世』に飛ばしかけた。
籠城を解いて欲しければ…自分達を深く愛してくれているのなら、
自ら『青い部屋』に迎えに来い…私達を待たせるなという、メッセージである。


「ちょっ、待っ…そそそっそんなムード満点なトコでソレは…マズいでしょ!」
「母さん迫真の『昔むかし…』に、俺達がどんだけ泣かされたか…っ!!」
「忠君に、無様な姿を見せるわけにはいかんが…確実に漏らすぞ、私はっ!」

僕達や父さんがおイタをした時、母さんは枕元で『絵本』を読んでくれた。
今昔百鬼拾遺や百器徒然袋、雨月物語等の怪談話を、それはそれは情感豊かに…
鬼気迫る表情と声で、滔々と僕達に読み聞かせていたのだ。

月島家の男達にとって、月島母の話す怪談は、途轍もない『トラウマ』であり、
怪談の内容よりも、それを語る母の存在そのものが、恐怖の対象だった。
(だから僕は、母さんではなく兄ちゃんに本を読んでもらうようになった。)

「かかかっ、母さん達の『青い儀式』…何とか阻止しなきゃ!」
「みみみっ、貢物…生贄を捧げてでも、百物語は止めて貰おうよっ!」
「おおおっ、落ち着け、息子達よ…とりあえず、ジュエリー売場に行くぞっ!」

今朝見た『金縛り』の夢よりも、はるかに現実的な悪夢の予感に、
僕達3人は涙目になりながら、必死に供物を探し回った。





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「父さんと母さん、帰国してたんだ!」
「黙っててゴメンなさいね~」


俺は今、月島のおばさんと二人で、イロイロな準備…お買い物に来てるとこだ。
お昼ご飯は『青』にちなんで、ブルーチーズのゴルゴンゾーラパスタ。
食後に生搾りパインジュースを飲みながら、おばさんは明光君に電話し、
今宵の百物語イベントに、月島家の皆様を御招待(参加要請)した。

その電話を横で聞いて、初めて俺は両親の帰国を知った。
時期的に、夏のバカンス…お盆の帰省、ということだろうか。


「本当は、コッソリ忠ちゃん達のとこに突撃して、驚かせるプランだったの…」
「運悪く、俺もツッキーも不在…」

いや、真の意味で運が悪いのは、黒尾さんと赤葦さんの二人だ。
『やるならば徹底的に』がモットーの母さん…その餌食になったのだから。

ついこの間、『相生の松』として、俺達を助けてくれたばっかりなのに、
きっとこの生搾り『パイン』ジュースのように、涙が枯れ果てるまで搾られた…
他人事ながら、黒と赤の『松』コンビが心底気の毒だ。

っていうか、父さん母さんの『本気サプライズ』に遭わなかっただけでも、
俺とツッキーは、相当ツイている…黒尾さん達には、本当に申し訳ない。

二人の涙のように、甘味よりも酸味が強いパインジュースを飲み干すと、
おばさんがストローをクルクル回しながら、「そう言えば…」と口を開いた。

「松も鳥居もないっていう、ちょっと変わった神社があるのよ。」


『白砂青松』の言葉にもある通り、常緑樹の松は美しい景観には欠かせない。
一里塚の目印としても、榎に次いで松は二番目に多い…『境界』を表す樹だ。

また、木造建築の建材や、鍛治・陶磁器窯の燃料としても不可欠であり、
貴重な灯り…松明や提灯の油になり、不完全燃焼で出た煤は墨の材料となる等、
神社に松はつきもので、ない方が『不思議』扱いされるぐらいである。


「松も鳥居もない神社…実は私達にも関係してるのよ。
   埼玉の浦和にある、調(つき)神社…その名前から、『月』と縁が深いの。」



別名・月宮と呼ばれるこの神社は、狛犬の代わりに『狛兎』が出迎えてくれる。
手水場や池の中等、至る所に兎がいるという、全国的にも珍しい神社である。



「主祭神は、天照大神…瀬織津姫という説もあるわ。」
「『月の女神』のお宮だから、本当は瀬織津姫なんだろうね。」

元々この場所は、古代の税金『租庸調』のうち、『調』を集める倉があった。
『調』は繊維製品…即ち織物だ。瀬織津姫に直結する。

調神社に鳥居がないのは、織物等の搬入に邪魔だったから…と言われているが、
ここが瀬織津姫に繋がる場所なら、その意味するところは変わってくる。

「瀬織津姫という神を、鳥居にとまった鶏の声で『起こさない』ため…?」
「松がない理由も、それに似てるかもしれないわよ。」


『相生の松』と同じように、調神社にも『松がない』相方が存在する。
それが、同じさいたま市にある、武蔵国一之宮…大宮氷川神社だ。

二つの神社は『兄弟』…天照大神と素戔嗚尊の兄弟が、それぞれ祀られている。
素戔嗚尊に延々待たされた天照大神が、「もう待つ(松)のは嫌だ!」と、
松の木を嫌ったから、調神社にも氷川神社にも松がない…と言われている。

「本当は…たたらに不可欠な松を、瀬織津姫達に与えたくなかったからだね。」
「氷川神社の『元々の神』も、おそらくは超強力な製鉄の神様ね。」

『松がない』ことが、その神社に眠る神がいかに手強かったかという、
逆説的な証拠になっている…そこまでしてでも、閉じ籠めたかった存在なのだ。

「松は『待つ』と、『祀る』…神として封じ籠められ、祀られたものの象徴。」
「ずっとずっと、籠城させられ続けている木…なんだね。」


そう言えば、たたらを象徴する植物は、松だけではない。
同じ『おめでたい』木と騙られている竹も、蛇を閉じ『籠』める木だ。

「あっ!竹は『神域』を表す…神々が坐す処を、竹で囲うよね!?」
「家を建てる時なんかの、地鎮祭ね。」

土地の四隅に竹を立て、その内に氏神様をお呼びし、土地を鎮める儀式だ。
『外』と『内』の境界に立てられる竹のことを…『忌竹』と言う。

「何でおめでたい儀式に使う竹が、忌まわしい存在なんだろう?
   神域に『外』から入ろうとするモノを、遮るためだと思ってたけど…」
「これも『逆』ね。強い蛇を呼び、そこから出ないように竹で閉じ籠めた上で、
   その土地を鎮めるために利用…『氏神様』は大抵、元々いた『地蛇』よね。」

閉じ籠められた神…『内』から見て、竹は『忌まわしい』存在なのではないか?
お祓い等にも使われる忌竹は、本当は何を追い祓おうとしているのか…?

「自分から閉じ籠もったのか、外から閉じ籠められたのか、わかんないよ…」
「わかっているのは、籠城せざるを得ない状況に追い祓われた…ってことね。」

『おめでたい』木だなんて、大嘘だ。
昔から慣習でそう言われ続けていることも、それが真の姿とは限らない。
逆に、そう言われているものほど、都合良く変えられている気さえしてくる。

「誰にとって『おめでたい』のか…」
「わからないまま、そう信じている私達自身が…『おめでたい』存在かもね。」


俺とおばさんの籠城なんて、面白半分…籠城と言ってはいけないレベルだ。
無理矢理閉じ籠められた、瀬織津姫達のことを思うと、
自ら籠もった自分達は、すぐに出て仲直りすべき…それができるのだから。

「自分から出られるなら…出なきゃ。」

俺の意中を察したおばさんは、優しく微笑み、頭を撫でてくれた。
そして、「ちょっとここで待っててくれる?」と言い残し、
トイレ近くの休憩スポット…ソファに俺を追いて、何処かへ行ってしまった。





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黒と赤の、色褪せた世界。

まるで映画のように、幕を隔てた向こう側から、俺を呼ぶ声がする。

   『山口…やまぐち…』

いや、声は聞こえない。
ただ、乾いた口唇が、『やまぐち』という形を作っているのが、わかるだけ。

黒と赤の世界から、俺を呼んでいるのは…ツッキーだ。
俺に向けて、何かを伝えようとしているわけでもなく、
ひたすら俺の名前だけを…『やまぐち』とだけ、呼び続けている。


ツッキーが俺の名前だけを呼ぶ状況は、あまり珍しいわけでもない。
口唇を交わし、互いの眼差しを辿り、震えるため息で…やまぐち、と。
俺の名前を朦朧と囁きながら、つま先を絡め、濡れた指先で…触れていく。
そんな『距離ゼロ』の時に、ツッキーの濡れた口唇は、俺の名前だけを形作る。

   『やまぐち…』

だから俺は、名前だけを連呼されると、どうしても『二人の時間』を思い出す。
俺の名前を呼んだその口唇が、カラダ中を這い回り、熱を残して行く…
その熱さが心地良く、離れられなくなる感覚を、思い出してしまうのだ。

   乾いたままの口唇で…呼ばないで。
   キスを絡めて、口唇を濡らしたい。
   熱く濡れた口唇で、触れて欲しい。

夢や幻の中じゃなくて、今すぐ逢いに来て…ちゃんと名前を呼んで欲しい。
俺とツッキーを隔てるモノ…距離も垣根も全部取り払って、
あらゆる境界を越えて…俺の中まで、入って来て欲しい。


俺の方から、離れたのに。
ほんの些細なことに拘り、突っぱねて、自分から籠もってしまったのに。
それでも、我儘な俺は、ツッキーに来て欲しいと望んでしまっている。

   (ごめんツッキー…我儘で、ゴメン。)

たとえ夢の中だったとしても、俺はツッキーなしで歩けるほど、強く…ない。
ここから救い出し、俺の側にいて欲しいと…待ち続けてしまう。

   (ツッキー、俺は、ここだよ。)

早く…俺をこの世界から出して。
お願い、もう…待たせないでよ。

「ツッキー…こっち、に…」

涙と共に、声を振り絞る。
俺の掠れた声が届いたのか、ツッキーは俺の方を見て、ゆっくり近づいてきた。


「山口、こんなところで…」

ホッとしたような、困惑したような、複雑な表情をしたツッキー。
俺の名前以外の言葉も口にしてくれたのが、何だか妙に嬉しくて、
俺は思いっきり腕を伸ばし、ツッキーの首を強引に引き寄せた。

「ツッキー、待ってたよ…」

乾いた口唇を交わし、濡らさなきゃ。
そう思った俺は、さらにツッキーの首を強く引いて、キスをした。


「ちょっ、やっ、まぐちっ!?」
「…イヤ?」

「いっ、イヤなわけ、ないけど…」
「俺、ツッキーをずっと待ってたよ?」

待ちくたびれちゃったから…早く。
先を促すように、腕の中にツッキーを閉じ籠めようとしたら、
何故だかグイっとカラダを離されてしまい…俺は泣きたくなった。

「どうして…?」
「どうしてって、そんなの…」

…ゴメン、山口。
ツッキーは小声で謝ると、俺の頬をパチン!と引っ叩いた。
その瞬間、黒と赤の世界が消え…明るい照明と、赤く染まったツッキーの顔。


「え…ここ、は?」
「駅前デパートの、トイレ前。」

さっきまで山口は、夢と現の『境界』に居たみたいだけど…ね。
待たせたのは悪かったし、僕を求めてくれるのも嬉しくてたまらないけど…

「ここではちょっと…マズいかな。」

照れ照れ…いや、デレデレとするツッキーに、ようやく『現』へと戻ってきた。
おばさんを待っていた俺は、休憩スポットのソファでうたた寝してしまい…
夢と現の境界を彷徨ったまま、ツッキーに…っ!?こんな、とこでっ!!


「つつつ、ツッキー!い、今のはその、寝惚けてただけ…寝言だからっ!」
「寝言でも、僕は嬉しかったよ?」
「っ!!!?」

内に隠し籠めることなく、ストレートかつオープンにデレデレするツッキーは、
恥ずかしさと照れ臭さで、絶句したまま下を向く俺に、手を差し伸べた。

「山口、お待たせ…行こう?」


さっきとは違う涙を隠しながら、俺はツッキーの手をそっと握り、
閉じ籠もっていた夢の世界から、ようやく抜け出した。






- ⑩へGO! -





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※歌垣について →『雲霞之交』『上司絶句
※雌雄同体について →『αβΩ!研磨先生④

※山口の夢(ラブソング)
   → 久宝瑠璃子 『reduce』



2017/08/10

 

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