奥嫉窺測(6)  ~王姫側室③







合同練習や合宿等で、何度か音駒には来ているけれど、
自主練をする体育館(第二だか第三だか)の奥…合宿所とは敷地の真反対にある、
取り壊し予定の旧校舎の方には、当然ながら足を向けたことはなかった。

連休初日の晩ともなれば、人の気配もなく、経費節減のためか外灯もない…
あるのは最低限の非常灯や避難口誘導灯と、昇りはじめたばかりの月明りだけ。

他校という不慣れな場所かつ、灯りのない旧校舎というシチュエーション。
そして、練習後の火照った体に当たる冷たい夜風が、必要以上に熱を奪い、
本能的な部分で感じるゾクリとした寒気が、否応なしに芯を冷やしていく。
何とか平常心を保とうと、手に持っていた俺専用ドリンクボトルを傾け、
いつもの味と香りをほんの少しだけ…別の熱を意識しない程度、口に含んだ。


何でこんな所へ?という疑問の答えは、数歩前の黒尾さんが尋ねる前に呟いた。

「この裏に、俺の秘密基地がある…前にそれを、二人に教えてやったんだ。」

アイツら、集団行動がキツそうだったから、少しでも息抜きできる場所を…な。
まぁ、野良猫らしいちっぽけな隠れスポット…多分、二人はそこに居るはずだ。

「かなり暗いし、解体作業用の工具もあるから…足元、十分気を付けろよ?」

こちらを振り返ることはしないけれど、黒尾さんは歩くペースを徐々に落とし、
はぐれたり危ない場所に行かないよう…ほんのわずかに腕同士を触れさせた。
さりげないリード、ごく自然かつスマートなエスコート…

   (本当に…優しい人、だな。)


俺が一方的に気まずさを感じ、黒尾さんを避けていた…それを察した上で、
黒尾さんは俺と適切な距離を図り、必要以上の接触を断っていてくれた。
黒尾さんからしてみれば、理由もよくわからないうちに俺から避けられ、
本当はギスギスしたり怒っても当然なのに…そっとしておいてくれたのだ。

もし俺がそんなことをされたら、納得いくまで尋問…理由を徹底的に追及する。
そこまでする必要のない相手なら、俺とは合わない人なんだと早々に割り切り、
俺の『世界』から遮断…『無関心』の枠に投げ捨ててしまうだろう。

だが、黒尾さんは…俺とは違う。
不義理な俺を詰ることも、切り捨てることもせず、待ってくれている。
俺が自白(自滅?)するのを虎視眈々と狙っている…という言い方もできるが、
それは俺が勝手に負い目を感じているだけで、本当は…やっぱり優しいのだ。

   (黒尾さんは、優しい…誰にでも。)


何だかんだ言っても、木兎さんに『ごほうび』のバナナオレを与えてくれたし、
自分の大切な秘密基地を、他校の『人見知り幼馴染』達にアッサリ提供したり、
今も、貴重な休憩時間を削ってまで、その二人の手助けをしようとしている。
誰にでも優しく、懐が深い…将の器を持った『大物』なのだ。

   (俺には手が届かない…高嶺の花。)

仲良しの木兎さんだけじゃなくて、顔見知り程度の月島君達にも優しいのだ。
こうして俺なんかが行動を共にできるのも、ただの『役得』に過ぎない。
職務上、同じ『世話焼き組』に列せられているだけ…ただそれだけ、だ。

わかってはいるけど、『役得』でも一緒に居られるのが嬉しくてたまらないし、
俺以外の誰かに優しくする姿を見ると、胸の奥で小さくチクリと…音がする。

   (俺のモノじゃないのに…)

自分からは何もせず、逃げてばかりいるのに、妬んだりして…馬鹿みたいだ。
悔しいけれど、全く以って孤爪の言う通り…俺はとんだヘタレだよ。

   (俺には分不相応な…大きな人だ。)


さらさらと、歩く度に手の甲を掠めていく、黒尾さんのジャージ。
今だけ…ほんの一部だけでも、自分の手の中に入れてみたい衝動に駆られた。
気付かれないようにそっと、小指と薬指で裾の端を捕まえ…ようとしたその時、
黒尾さんはいきなり歩みを止め、俺はその肩に思い切り鼻をぶつけてしまった。

「すみま…っ」
「シッ…!!」

どうやらこの先に、探していた二人が居るらしい。
壁の際から姿を確認しようとしたら、黒尾さんに腕を引っ張られた。


「ここからじゃ駄目だ。こっちへ…」

黒尾さんはそう囁き、俺の腕を掴んだまま壁伝いに少し移動すると、
鍵の壊れた窓を静かに開け、まるで猫のように音もなく校舎に侵入した。

1.5m程の高さから、腕を伸ばして俺を待ってくれる、黒尾さん。
その手を取ってもいいのだろうか…と、恐る恐る手を伸ばしかけると、
悩む間もなくあちらからガツっと思い切り捕まれ、一瞬の内に引き上げられた。

   (えっ、凄っ…パ、パワフルッ!?)

ふわっとした浮遊感のあと、温かくガッチリした腕の中に…スポッと着地。
驚いて声も上げられない俺を抱きかかえたまま、黒尾さんは部屋の奥へ進んだ。
非力がややコンプレックスの俺は、別の意味で落ちそうに…危ないとこだった。

   (優しくて逞しいとか…ズルい。)


元は何の部屋かもわからないが、現在はただの物置として使われているらしく、
廊下から微かに漏れる光も、部屋中に山と積まれたダンボールで遮られていた。
ほぼ真っ暗闇にも関わらず、慣れた様子で黒尾さんはわずかな隙間へ…
部屋の奥の壁際に、俺を背後から抱えた状態で、静かに座り込んだ。

ダンボールと壁に囲まれた、ごく狭い空間の床付近にあった、丸い換気口…
その脇のレバーを手探りで動かすと、外からの風とともに、声が聞こえてきた。
どうやら、丁度この壁のすぐ向こうに、月島君と山口君がいるようだ。
二人の様子を『見る』ことはできないけれど、『聞く』ことは十分可能…

盗み聞きをしてしまうことに、最初はかなり後ろめたさを感じたけれども、
その背徳感も、聞こえてきた『第一声』に、かき消されてしまった。


   『キス…してくれないの?』



********************




息を飲む音が、換気口の向こうと、真後ろから同時に響いてきた。
俺は思わず「えっ!?」と声を出しそうになってしまったが、
俺を腕に抱き込んでいた黒尾さんが、咄嗟に掌で口を覆い、声を封じてくれた。

この狭さでは、ろくに身動きも取れないし、音を立てるわけにもいかない。
吐息だけで「このまま…」と耳元に指示され、俺は頷く代わりに背を震わせた。

   (体温が…吐息が…ち、近いっ!)

跳ね上がる鼓動が、密着したカラダを通じて、黒尾さんにバレてしまいそう…
でもそんな心配は必要ないぐらい、二人の会話に黒尾さんの心臓も跳ねていた。


   『そんなこと、できない…よ。』
   『あの日は…してくれたのに?』

それはっ、あの時は…山口が記憶喪失になってるとは、知らなかったから。
目覚めてすぐ、何もわからない状態だった山口に、あんなことしちゃって…
知らなかったとは言え、驚かせたよね?ホントに…ゴメン。



   (二人は元々、キスするような関係…)

幼馴染にしては、異常なまでに距離が近すぎるとは思っていたけれど、
この二人は『ただの』幼馴染じゃなく、『ただならぬ』幼馴染だった…
予想してはいたが、本人達から直接聞く衝撃は、予想を遥かに超えていた。

別にカマトトぶるつもりはないが、やはりその…恥ずかしいものは恥ずかしい。
真後ろからも、俺と同じ「そわっ」とした落ち着かない空気が伝わってきて、
こっちもつられソワソワ…喉がカラカラに乾いてくる。


   『嫌な思いさせてたら…ゴメン。』
   『謝ることなんて、全然ないよ?』

そりゃあ、起き抜けに超イケメンが目の前で笑ってて、更にキスされるなんて…
まるっきり『乙女ゲーム』な展開に、超ビックリしたけど…嫌じゃなかったよ。
大丈夫!その顔なら、何ヤっても大抵は許されちゃうんじゃないかな?

   『ほら、よく言う…イケメン無罪!』
   『いや、そういう問題じゃ…』



暢気な山口君の言葉に、月島君が一気に緊張を解く気配が伝わって来た。
換気口の外から、和やかで温かい空気と微笑み合う声が、ほんわり入ってくる。
俺も黒尾さんも、二人につられて肩の力をふわっと抜き…場がほんのり緩んだ。

…とは言うものの、もし俺が山口君の立場だったら、どうしただろう?
イケメンだろうがなかろうが、知っていようがいまいが、突然キスされたら…?
俺ならまず、正当防衛の範囲で一発殴って、それから理由をじっくり問い質し…

   (黒尾さんなら…どうするだろう?)

全く見ず知らずの方がまだマシ。必要不可欠な『処置』だったとはいえ、
週1間隔で会う同業他社の顔見知り…イケメンでも可愛くもない面倒な奴から、
記憶のないうちにキ…『マウス・トゥ・マウス』されていたと知ったら…

   (そんなの…嫌に決まってる!)

冷たい汗が、背中を流れ落ちていく。
密着した黒尾さんの体温が温かい分、余計その冷たさに身慄いしてしまった。

俺が独りで絶望感を味わう中、月島君は逆にホッとした様子で、会話を続けた。


   『嫌じゃなかったなら…よかった。』
   『元々…そういうカンケーだよね?』

   『っ!?お、思い出したのっ!?』
   『思い出しては、ないんだけど…』

思い出してもないけど、そもそも忘れてない?ような…気がするんだ。
俺が喪失したのは、母さんによると、宣言的記憶のうちの、エピソード記憶…
文字にできるアタマの中の『想い出』だけを、ごっそり失くしちゃっただけ。
文字にはできない記憶…カラダが覚えてる感覚記憶は、忘れてなかったみたい。

そうじゃなきゃ、超イケメン(眼鏡付)との『オトナなキス』なんかに、
無意識に応えることなんて不可能…記憶喪失に気付かないぐらいだったじゃん?

   『確かに…いつも通りだったね。』
   『結構な手練れ…熟練の技だよね♪』



   (カラダが覚えている、記憶…?)

アタマじゃなくて、カラダだけが覚えている記憶…俺にも心当たりがある。
あの時は『処置』に必死で、黒尾さんがどんな様子だったか?という記憶は、
アタマの中にはほとんど残っていない…『見る』余裕まではなかったんだろう。

それなのにカラダにははっきり、『唇の感触』の記憶が刻み込まれている。
温かくて、柔らかくて…そう、まさに、こんなカンジの…

   (っ!!?だ、ダメだっ!!)

音を立てないようにと、俺の口を塞いでいる、温かく大きな黒尾さんの掌。
唇に当たるその感触が、まるであの時触れた、熱い唇みたいで…
俺はゴクリと唾を飲み込みながら、慌てて唇を噛み締めたけれど、
その動きが裏目に出てしまい、黒尾さんの掌を唇で食むような形になった。

当然ながら黒尾さんはその感触に驚き、ビクリっ!と盛大に体を震わせた。
声を漏らさないように堪えた吐息が、耳元と頸筋にかかり、今度は俺もビクリ…
お互いの振動が、余計に『まるでそういうコトしてる』かのように錯覚させ、
無理矢理忘れようとしていた記憶を、鮮明に呼び起こしてしまった。

   (こんなとこで、思い出しちゃ…)

勝手に焦る俺を、もっと焦らせようとしているのだろうか…
外の二人は、耳を塞ぎたくなるようなことを言い出し始めてしまった。


   『ねぇ、キス…してみない?』
   『えっ!?いや、だから…っ』

   『記憶のない俺とするのは…嫌?』
   『そんなことは、ない、けど…っ』

最後の最後まで思い出せない月島君は、俺にとって一番『特別』な人だと思う。
アタマでは全然わからないのに、カラダの方はちゃんと覚えてるからこそ、
『アタマ』と『カラダ』の記憶が一致しなくて、『ココロ』が…苦しいんだ。

こういうことを俺が言うのは、本当にズルいとわかってるんだけど、
もうこれ以上苦しみたくない…一秒でも早く、月島君を思い出したいんだ。
記憶を取り戻すには、『アタマ』と『カラダ』の記憶を繋げるしかないと思う。
だから、これは『治療』とか『処置』の一種だと割り切って…

   『俺ともう一回、キスし…んっ』



二人の会話は…聞こえなくなった。

その代わりに、熱い吐息が混じる音と、鼻に抜ける声にならない声、
湿った粘膜同士が深く触れ合い、激しく絡み、潤いを吸い合う音…
換気口越しのはずなのに、それらの音がはっきりと伝わってきた。

   (すごい…キス、してる…)

記憶のない『アタマ』ではなく、『カラダ』が欲するままに求め合う、
ほとんど本能に近い…『恋人同士』の濃厚な繋がり。
それをごく近くで聴きながら、ごく近い体温と感触を、俺は唇に感じ…

高まる緊張からか、俺の唇を覆う黒尾さんの手に、ギュッと力が入る。
それが尚更強く密着してきて、同時に呼吸も苦しくなった。
口をわずかに開けて息を吐くと、その動きと熱も、『外』の音に同調し…
まるで自分達も『同じこと』をしているような錯覚に陥ってしまった。


   『ぁ…ゃ、もっと…んんっ…』
   『山口…舌、もっと出して…』


相手を素直に求め合う囁き。互いにキツく抱擁し、肌を滑る衣擦れ音。
その音に合わせ、形を確かめるように唇を行き来し、挟んで揉む…熱い指。

   (もっと…して、欲しい…っ)

唇を押し開こうとしていた指を、強めに唇で食みながら吸い上げると、
別の指で顎をぐいっと引き上げられ、顔ごと背後に大きく反らされた。

その直後、指よりももっと熱く、もっと柔らかい…記憶に残る感触に包まれた。

   (そう、この…カンジ。)

さっきまで換気口を通して聴いていた外の音が、アタマの中に直接響いてくる。
耳元に当たっていた吐息の熱さを、今度は自分の唇が直接受け止め、
口の端から零れ落ちる滴を、自分のものではない舌が、舐め取っていく。

   (欲しい…この人が、欲しい…っ)


『カラダ』よりもむしろ『ココロ』が、猛烈にそれを求め…
沸き上がる欲に促されるままに、欲しくて堪らないものに、腕を伸ばした。
顔だけじゃなく、カラダ全体を後ろへ向け、しがみ付くように強く抱き寄せる。

俺の顎を固定していた手は、いつの間にか後ろへ…大きな掌で頭を包みながら、
吐息が当たっていた頸筋付近を、今度は指で擽り、耳朶を挟んで揉んでくれた。

   (あ…それ、気持ち、イイ…っ)


理由なんてわからない。
わからないけれど…とにかくもっと触れて、もっともっと、キスしたかった。

   (好きで好きで…堪らない…っ!)



   『ねぇ…思い出した?』

遠くで微かに聞こえた、外の声。
それに対する答えは、ごくごく間近からはっきり…中に直接響いてきた。


「この味、この香り、この感触。
   思い出す?いや…忘れらんねぇよ。」




- (7)へGO! -




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※宣言的記憶・エピソード記憶 →『億劫組織③

それは甘い20題 『13.吐息』

お題は『確かに恋だった』様よりお借り致しました。


2017/11/18   

 

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