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息を飲む音が、換気口の向こうと、真後ろから同時に響いてきた。
俺は思わず「えっ!?」と声を出しそうになってしまったが、
俺を腕に抱き込んでいた黒尾さんが、咄嗟に掌で口を覆い、声を封じてくれた。
この狭さでは、ろくに身動きも取れないし、音を立てるわけにもいかない。
吐息だけで「このまま…」と耳元に指示され、俺は頷く代わりに背を震わせた。
(体温が…吐息が…ち、近いっ!)
跳ね上がる鼓動が、密着したカラダを通じて、黒尾さんにバレてしまいそう…
でもそんな心配は必要ないぐらい、二人の会話に黒尾さんの心臓も跳ねていた。
『そんなこと、できない…よ。』
『あの日は…してくれたのに?』
それはっ、あの時は…山口が記憶喪失になってるとは、知らなかったから。
目覚めてすぐ、何もわからない状態だった山口に、あんなことしちゃって…
知らなかったとは言え、驚かせたよね?ホントに…ゴメン。
(二人は元々、キスするような関係…)
幼馴染にしては、異常なまでに距離が近すぎるとは思っていたけれど、
この二人は『ただの』幼馴染じゃなく、『ただならぬ』幼馴染だった…
予想してはいたが、本人達から直接聞く衝撃は、予想を遥かに超えていた。
別にカマトトぶるつもりはないが、やはりその…恥ずかしいものは恥ずかしい。
真後ろからも、俺と同じ「そわっ」とした落ち着かない空気が伝わってきて、
こっちもつられソワソワ…喉がカラカラに乾いてくる。
『嫌な思いさせてたら…ゴメン。』
『謝ることなんて、全然ないよ?』
そりゃあ、起き抜けに超イケメンが目の前で笑ってて、更にキスされるなんて…
まるっきり『乙女ゲーム』な展開に、超ビックリしたけど…嫌じゃなかったよ。
大丈夫!その顔なら、何ヤっても大抵は許されちゃうんじゃないかな?
『ほら、よく言う…イケメン無罪!』
『いや、そういう問題じゃ…』
暢気な山口君の言葉に、月島君が一気に緊張を解く気配が伝わって来た。
換気口の外から、和やかで温かい空気と微笑み合う声が、ほんわり入ってくる。
俺も黒尾さんも、二人につられて肩の力をふわっと抜き…場がほんのり緩んだ。
…とは言うものの、もし俺が山口君の立場だったら、どうしただろう?
イケメンだろうがなかろうが、知っていようがいまいが、突然キスされたら…?
俺ならまず、正当防衛の範囲で一発殴って、それから理由をじっくり問い質し…
(黒尾さんなら…どうするだろう?)
全く見ず知らずの方がまだマシ。必要不可欠な『処置』だったとはいえ、
週1間隔で会う同業他社の顔見知り…イケメンでも可愛くもない面倒な奴から、
記憶のないうちにキ…『マウス・トゥ・マウス』されていたと知ったら…
(そんなの…嫌に決まってる!)
冷たい汗が、背中を流れ落ちていく。
密着した黒尾さんの体温が温かい分、余計その冷たさに身慄いしてしまった。
俺が独りで絶望感を味わう中、月島君は逆にホッとした様子で、会話を続けた。
『嫌じゃなかったなら…よかった。』
『元々…そういうカンケーだよね?』
『っ!?お、思い出したのっ!?』
『思い出しては、ないんだけど…』
思い出してもないけど、そもそも忘れてない?ような…気がするんだ。
俺が喪失したのは、母さんによると、宣言的記憶のうちの、エピソード記憶…
文字にできるアタマの中の『想い出』だけを、ごっそり失くしちゃっただけ。
文字にはできない記憶…カラダが覚えてる感覚記憶は、忘れてなかったみたい。
そうじゃなきゃ、超イケメン(眼鏡付)との『オトナなキス』なんかに、
無意識に応えることなんて不可能…記憶喪失に気付かないぐらいだったじゃん?
『確かに…いつも通りだったね。』
『結構な手練れ…熟練の技だよね♪』
(カラダが覚えている、記憶…?)
アタマじゃなくて、カラダだけが覚えている記憶…俺にも心当たりがある。
あの時は『処置』に必死で、黒尾さんがどんな様子だったか?という記憶は、
アタマの中にはほとんど残っていない…『見る』余裕まではなかったんだろう。
それなのにカラダにははっきり、『唇の感触』の記憶が刻み込まれている。
温かくて、柔らかくて…そう、まさに、こんなカンジの…
(っ!!?だ、ダメだっ!!)
音を立てないようにと、俺の口を塞いでいる、温かく大きな黒尾さんの掌。
唇に当たるその感触が、まるであの時触れた、熱い唇みたいで…
俺はゴクリと唾を飲み込みながら、慌てて唇を噛み締めたけれど、
その動きが裏目に出てしまい、黒尾さんの掌を唇で食むような形になった。
当然ながら黒尾さんはその感触に驚き、ビクリっ!と盛大に体を震わせた。
声を漏らさないように堪えた吐息が、耳元と頸筋にかかり、今度は俺もビクリ…
お互いの振動が、余計に『まるでそういうコトしてる』かのように錯覚させ、
無理矢理忘れようとしていた記憶を、鮮明に呼び起こしてしまった。
(こんなとこで、思い出しちゃ…)
勝手に焦る俺を、もっと焦らせようとしているのだろうか…
外の二人は、耳を塞ぎたくなるようなことを言い出し始めてしまった。
『ねぇ、キス…してみない?』
『えっ!?いや、だから…っ』
『記憶のない俺とするのは…嫌?』
『そんなことは、ない、けど…っ』
最後の最後まで思い出せない月島君は、俺にとって一番『特別』な人だと思う。
アタマでは全然わからないのに、カラダの方はちゃんと覚えてるからこそ、
『アタマ』と『カラダ』の記憶が一致しなくて、『ココロ』が…苦しいんだ。
こういうことを俺が言うのは、本当にズルいとわかってるんだけど、
もうこれ以上苦しみたくない…一秒でも早く、月島君を思い出したいんだ。
記憶を取り戻すには、『アタマ』と『カラダ』の記憶を繋げるしかないと思う。
だから、これは『治療』とか『処置』の一種だと割り切って…
『俺ともう一回、キスし…んっ』
二人の会話は…聞こえなくなった。
その代わりに、熱い吐息が混じる音と、鼻に抜ける声にならない声、
湿った粘膜同士が深く触れ合い、激しく絡み、潤いを吸い合う音…
換気口越しのはずなのに、それらの音がはっきりと伝わってきた。
(すごい…キス、してる…)
記憶のない『アタマ』ではなく、『カラダ』が欲するままに求め合う、
ほとんど本能に近い…『恋人同士』の濃厚な繋がり。
それをごく近くで聴きながら、ごく近い体温と感触を、俺は唇に感じ…
高まる緊張からか、俺の唇を覆う黒尾さんの手に、ギュッと力が入る。
それが尚更強く密着してきて、同時に呼吸も苦しくなった。
口をわずかに開けて息を吐くと、その動きと熱も、『外』の音に同調し…
まるで自分達も『同じこと』をしているような錯覚に陥ってしまった。
『ぁ…ゃ、もっと…んんっ…』
『山口…舌、もっと出して…』
相手を素直に求め合う囁き。互いにキツく抱擁し、肌を滑る衣擦れ音。
その音に合わせ、形を確かめるように唇を行き来し、挟んで揉む…熱い指。
(もっと…して、欲しい…っ)
唇を押し開こうとしていた指を、強めに唇で食みながら吸い上げると、
別の指で顎をぐいっと引き上げられ、顔ごと背後に大きく反らされた。
その直後、指よりももっと熱く、もっと柔らかい…記憶に残る感触に包まれた。
(そう、この…カンジ。)
さっきまで換気口を通して聴いていた外の音が、アタマの中に直接響いてくる。
耳元に当たっていた吐息の熱さを、今度は自分の唇が直接受け止め、
口の端から零れ落ちる滴を、自分のものではない舌が、舐め取っていく。
(欲しい…この人が、欲しい…っ)
『カラダ』よりもむしろ『ココロ』が、猛烈にそれを求め…
沸き上がる欲に促されるままに、欲しくて堪らないものに、腕を伸ばした。
顔だけじゃなく、カラダ全体を後ろへ向け、しがみ付くように強く抱き寄せる。
俺の顎を固定していた手は、いつの間にか後ろへ…大きな掌で頭を包みながら、
吐息が当たっていた頸筋付近を、今度は指で擽り、耳朶を挟んで揉んでくれた。
(あ…それ、気持ち、イイ…っ)
理由なんてわからない。
わからないけれど…とにかくもっと触れて、もっともっと、キスしたかった。
(好きで好きで…堪らない…っ!)
『ねぇ…思い出した?』
遠くで微かに聞こえた、外の声。
それに対する答えは、ごくごく間近からはっきり…中に直接響いてきた。
「この味、この香り、この感触。
思い出す?いや…忘れらんねぇよ。」
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(7)へGO! -
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※宣言的記憶・エピソード記憶 →『億劫組織③』
それは甘い20題 『13.吐息』
お題は『確かに恋だった』様よりお借り致しました。
2017/11/18