億劫組織④







「『記憶喪失』ネタって、よくあるド定番だと思ってましたが…」
「実際に自分を主人公とした、リアルな『ミニシアター』を聞くと、
   当事者にとってはとんでもなく大変なんだって…やっとわかりましたよ~」


最初に赤葦が暗示したのは(登場人物を伏せたため明示ではない)、
月島が酔い潰れて記憶を飛ばしてしまうケース…薬剤性短期記憶障害だった。
これは、人並みに飲酒経験のある人であれば、『一度は通った道』とも言え、
最も身近かつ、その多くは笑い話(若気の至り)で済むものだ。

それに対し、黒尾が提示した『ミニシアター』は、外傷性短期記憶障害…
運動や転倒等の事故で、脳震盪を起こした際等にみられる症例だった。
これぞ『記憶喪失』の王道!というストーリーではあったのだが、
主人公となった山口と相方の月島は、その話に本気で困惑してしまった。

チームメイト兼クラスメイト兼唯一無二の友人兼幼馴染兼恋人…のような、
お互いに肩書(役割)がありすぎ…共依存に近い濃密な関係を築いていた場合、
本人だけでなくその相方も、人間関係の『中核』を失ってしまうことになる。


「僕のことを覚えてない…僕を知らない山口なんて、考えたこともなかった。
  『山口忠とセットじゃない月島蛍』なんて…その存在すら危ういよ。」
「確かに…ツッキーを単体で放置しとくなんて、危険極まりないよね~
   それに、『ツッキーの金魚の糞』じゃない俺は、ただの…うっ、涙出そう~」

記憶を持ったまま(設定)の月島からは、「君が居ないと…」という悲痛な声。
それに対し、記憶喪失になった側の山口からは、やや暢気なおトボけ…
これだけでも、強固だった二人の関係性に、結構なズレが生じている。

この『ミニシアター』は、とりあえず記憶の淵へ追いやりたい…とばかりに、
月島は「ちょっと確認です。」と、表情と気分を切り替えて挙手をした。


「ド定番の『記憶喪失』は、『健忘』のうち『全生活史健忘』でしたが、
   もう一つの『健忘』…『一過性全健忘(一過性記憶喪失)』について、です。」

『ココはどこ?ワタシはだれ?』という記憶喪失の代表は、
障害より『前』の自分に関する記憶を失ってしまう、『逆向性』だった。
これに対し『一過性全健忘』は、障害の『後』のできごとを記憶できなくなる、
『前向性』というタイプの記憶喪失である。

詳しい原因はまだ不明だが、健康な人が突然、ストレスや激しい運動等により、
脳の記憶を司る『海馬』の機能が一時的に低下して、発症すると言われている。

一過性というだけあり、その多くが24時間以内に回復するのだが、
発症中は、新たな記憶ができない…周りの状況が把握できなくなるため、
本人は大混乱を起こし、同じ質問を繰り返したりするそうだ。

<『記憶障害』とは>
①短期記憶障害 →一時的なもの忘れ
    (A)『健忘』…宣言的記憶障害
         a.全生活史健忘(逆向性)
         b.一過性全健忘(前向性)
②長期記憶障害 →認知症等


「昔のことは思い出せるが、数時間前のことは思い出せない…って状態か。」
「症状がなくなっても、発症中のことは全く思い出せないのも…特徴です。」

脳検査でも異常がなく、てんかん等の疾病もなければ、一過性と診断され、
特に投薬や治療もなく、経過観察のみで終わる、軽いモノだそうだ。

「発症する人も再発も少ない、一生に一度あるかないか、だけど…」
「原因も発症システムも不明…過労とかストレスなら、誰でもなり得るね~」

とは言え、大きな疾病の前触れというわけでもなく、発症も
40~50代が多い。
俺らはまだ大丈夫だな~と、黒尾はホッとしかけたが、
「黒尾さんは、この一過性健忘には要注意です。」と、月島が待ったをかけた。


「過労になりがちな個人事業主。ストレスを独りで抱え込む性格…」
「明光君に『ムキーーーっ!』ってなった瞬間に、『ぷつん。』かもですよ?」

たった数時間とは言え、黒尾さんがツラい思いをするのは…嫌ですから。
同じ『ぷつん。』なら、忘却する方向じゃなくて…皆で大爆発しましょうね!

下手したら、今朝の明光の電話の後、発症していたかもしれない…
そのことに気付いた赤葦と山口は、黒尾に抱き着いて労わりの言葉をかけた。

「お前ら…っ!!」
予想外に優しい扱いを受けた黒尾は、じんわりと目を潤ませながら、
可愛い奴らめ…っ!と、抱き着いてきた二人を、むきゅ~~~っと抱擁した。


「4人の中では、黒尾さんが一番『一過性記憶喪失』の危険性が高いですけど、
   僕達全員にその可能性があった…つい数年前までは特に、です。」

黒尾にぴっとり張り付く山口を剥がしながら、自分も皆に少し近づいた月島は、
両手でそっと山口の瞳を覆い隠して…『ミニシアター』を開始した。


*****


「来週末の合宿の、行程表なんだが…」
「えっ!?あの、黒尾さん、それは…」


本来なら、この三連休は二泊三日の『合宿』のはずだった。
だが、折しも台風直撃…体育館競技にはあまり関係ないようにも感じるが、
安全上の問題等から、最終日のみの『日帰りコース』に変更されていた。

ただでさえ大会直前で、その上通常の学校行事も押せ押せな時期。
しかも、大学への推薦入学を目指す受験生達は、その準備にも追われる日々…
タイトなスケジュールが、暴風と豪雨によって更に凝縮されてしまった。


「来週の合宿は、今回あまりできなかった、フルセットを中心に…」
「そうだな。梟谷と音駒だけだし、ひたすら試合をこなしとくか…」

忙しいのは、学生だけではない。
監督やコーチ、それに教師達の『大人連中』は、輪をかけて多忙である。
いつものように、のんびり飲みながら打ち合せをする暇も全く取れず、
事務方のトップにその仕事を任せ、早々に別業務の現場へと戻って行った。


「あと準備すべきことは…黒尾さん?」
「…えっ、あ、悪ぃ。何だっけ?」

合同練習後、疲れの溜まっている部員達全員を先に上がらせてから、
梟谷と音駒の事務方トップ…赤葦と黒尾だけが残り、打ち合せをしていた。

梟谷の部室で、こうして2人で業務を行うのは、これが初めてではない。
むしろ、面倒なだけの打ち合せを、優秀な2人が上手く片付けてくれるため、
監督達は安心して任せ…と言えば聞こえがいいが、要は押し付けである。


梟谷は完全分業型…チームとしてのトップと、事務方のトップが違う。
「いいな~!赤葦ばっかり、いっつもカントクからオコヅカイ貰って、
   黒尾と2人で飯食って遊んで…超~羨ましいっ!俺も黒尾と遊びたいっ!!」
…と、チームのトップは常々不平を言うが、冗談じゃない。

別に俺は、黒尾さんと二人っきりでご飯を食べてのんびりしたいがために、
クソ面倒で億劫極まりない、事務方トップを務めているわけじゃない。
組織を上手く回すために必要な、適材適所の分業…せざるを得ないだけだ。

これは仕事。仕事だ、仕事!
ただ、本来は職権外の超過業務だから、メリットが多少あるにすぎない。
監督もコーチも主将も…誰もやりたがらない雑務を引き受けてるんだから、
少しぐらい『役得』があったって…罰は当たらないはずだ。

   (役得…俺には、それしか…ない。)


書類で顔を隠しながら、チラリと座卓越しに座る黒尾さんを観察する。
音駒は権限集約型…チームだけでなく、組織としてのトップも、主将が務める。
「トップが役立たず…じゃなくて、厄介なウエがいない分、気が楽だぜ~?」
…と、茶化しながら言っていたが、全権力と共に全責任を負う、キツい立場だ。

地味で真面目な人がトップだと、組織は安泰だろうけど(実に羨ましい)、
ウチほどシタに押し付けすぎは論外だとしても、もうちょっとこの人を…
独りで背負い込み過ぎる、優しくて頼れる黒尾さんを、補佐してあげて欲しい。


今だって、空腹だと言っていた割に、あまり箸も進んでいないし、
冷たいお蕎麦を食べているのに、まだ汗が引いておらず、呼吸もやや荒い。
それに、表情も何だか虚ろで…いつもは微塵も見せない『疲れた顔』だ。

   (もし俺が、黒尾さんのシタなら…)

絶対に、黒尾さん独りだけに、こんなツラい思いはさせないのに。
俺が傍についてサポートし、一緒にいろんなことをして…

   (ずっと、傍に…居られるのに。)


…駄目だ。今は、仕事の時間。
妙な『私情』を持ち込む場じゃない。
邪念を振り払うように、ほぼ完成した行程表を面前から下ろす。
書類越しではなく、真正面から黒尾さんと視線を合わせ…ようとしたが、
強くまっすぐなはずの視線を、捕らえることができなかった。

   (黒尾さんの様子が…おかしい?)


「かなりお疲れのようですね…大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫…後は行程表…」

それは…ついさっき、終わらせたところじゃないか。
疲れのあまり、寝惚けてるのだろうか?それとも、どこか体調が…?
そう言えば、いつもの機敏な受け答えがなく、呂律も随分緩やかだし、
指で挟んでいるだけの箸の先も…わずかに震えているように見える。


「ちょっと黒尾さん…失礼します!」
「ん…、な、んだ…?」

手を伸ばし、やや赤い頬に触れ…その熱さに、思わず手を引いてしまった。
それに、滴るほどの…汗。

   (これって、もしかして…!?)

ある可能性に思い当たった俺は、書類を投げ捨てて座卓を脇に除け…
すぐさまジャージを脱がせ、されるがままの黒尾さんからシャツも剥ぎ取った。

部室の窓を閉め、冷房を『パワフル』にし、扇風機も『強』で回す。
呆然としたままの黒尾さんを、風が当たる場所へ静かに寝かせてから、
ズボンの紐を緩め…『ひんやり汗ふきシート』で、全身を拭き始めた。


「あ、かあ、し…?ここは…?何、やってんだ…?」
「ここは梟谷の部室です。来週の合宿の件で、打ち合せ中でした。」

「そう…だったか?あ、そうだ、行程表を…」
「安心して下さい。完成しましたから…今はゆっくり、休んで下さい。」

「お前が、全部やって、くれたんだな…いつも、すまねぇ…」
「そんなこと…っ」

今日は、梟谷との合同練習で…
片付けは?帰還引率は?打ち合せは…?

ぼんやりと俺を見上げながら、全く俺を見ていない…
苦しそうに喘ぎながらも、仕事のことばかりを気にかけ、
同じことを繰り返し繰り返し…確認し続けている。


この症状はおそらく…熱中症だ。
夏の初めに、まだカラダが暑さに慣れていないから気を付けるように…と、
梟谷グループの合宿開始時のミーティングで、俺自身が説明したが、
その際に調べ、全員にアナウンスした症状と…酷似している。

この連休前には、秋の長雨で寒いぐらいの涼しい日が続いていた。
そして、台風一過…今度は猛烈な暑さがぶり返し、体育館内もサウナ状態。
更には、文化祭の準備と、推薦入試の小論文提出期限が迫っているらしかった。
(木兎さんとの立ち話から、漏れ聞こえていた。)

折からの多忙と、急激な気温と気圧の変化、そして蓄積した疲労。
それらが重なり合った結果、皆が帰って気が抜けた瞬間…『ぷつん。』だ。


「仕事…やらねぇと…」
「もう、終わりましたからっ!大丈夫ですから…っ!」

熱中症に関する本の中に、症状の一つとして意識障害があると書かれていた。
一時的に記憶ができなくなる、一過性の記憶喪失が起こる場合がある…と。

ごく短時間ではあるが、周りの状況を記憶できなくなり、同じ質問を繰り返す…
そして、発症中のできごとは、全く覚えていないというものらしい。
黒尾さんの状態は、まさにこれ…なんじゃないだろうか。


「何で、こんなとこで…俺は、何を…?こんなこと、してる場合じゃ…」

俺の方を見ているのに、俺のことは全く見えていない。
自分が苦しんでいるのに、周りのことばかり気にし続けている…
その不器用でクソ真面目な姿に、胸の奥が締め付けられてしまう。

「お願いですから…もう、休んで…っ」

濡れた体はきれいに拭き取り、部屋も冷えて汗もすっかり引いているのに、
黒尾さんの胸元に、ポタリ、ポタリ…水滴が落ちて跳ねた。
俺は熱中症じゃないはずなのに…新たな雫を拭う手が、小さく震えていた。


「赤葦…?どうした?どっか…痛ぇ、のか…?」

ぼんやりしながらも、黒尾さんはゆっくりと腕を上げ…俺の濡れた頬を拭った。
この期に及んでも、自分ではなく、俺のことを心配するなんて…

込み上げてくる熱を必死に抑えようと、スポーツドリンクを一口飲み込む。

   今は、俺にできる応急処置を…
   どうせ、覚えてないんだから…


「黒尾さん、口…開けて下さい。」
「…?」

黒尾さんの頭を腿に乗せ、片手で顎に手を添える。
不思議そうな顔をしながらも、やっと俺と視線を合わせてくれた、黒尾さん。
俺は「大丈夫ですから。」と言い聞かせるように、ゆっくりと髪を撫でた。

黒尾さんの視線が、再び宙を彷徨い始めたのを確認してから、
もう一度スポーツドリンクを口に含み…


「これはただの、熱中症の『処置』…
   これは、仕事の一環…ですからっ。」



*****


「熱中症を原因とする、症候性短期記憶障害…一過性記憶喪失です。」

黒尾さんの状況は、ストレス、過労、激しい運動…全てが当てはまります。
熱中症の症例と処置を熟知していた、賢く冷静な『誰か』が傍にいなければ…
実は結構危ない状況だったかもしれないという、『もしも』の物語です。

「そんな『誰か』が、ずっと傍に居てくれるようになって…よかったですね。」

現在ではその『誰か』が、赤葦さんの他に更にもう2人増えてますけど、
さすがにここまでは…さっき赤葦さんが事務所でヤってみせたような、
スペシャルな『処置』なんてできませんから…どうか気を付けて下さい。


ぽそぽそと小声で呟く月島を、黒尾はぐいっと引き寄せた。
『ミニシアター』の最中ずっと黒尾のシャツを握り締めていた赤葦と山口…
3人まとめて黒尾はしっかりと抱き締め直し、朗々とした声で断言した。


「俺はホントに…幸せ者だ。」




- ⑤へGO! -




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※熱中症について →『熱中症状


2017/09/23    (2017/09/20分 MEMO小咄より移設)

 

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