王子不在







俺は昔から、ツッキーと待ち合わせをするのが好きだった。

待ち合わせ場所には、必ずツッキーの方が先に着いている。
指定時間の5分前には確実に居るから、
きっと『10分前到着』を設定しているのだろう。

対する俺は、指定時間『ジャスト』を心掛けている。
勿論これは、待ち合わせ相手がツッキーの場合限定なのだが、
(それ以外の場合は、ツッキーと同じく10分前確実到着)
これにはちゃんと、理由があるのだ。


そもそも、ツッキーも『待ち合わせ』が好きなのだ。
でもそれは、『相手より先に着く』ことが前提となっていて、
相手よりも遅れて到着することは、ツッキーの矜持に合わない。

「『先に来る』だけで、後から来る奴より優位に立てる」という、
ごく簡単に相手に負い目を感じさせる…ビジネスの常套手段だ。
過去にこれを、『月(ツッキー)に人を待たすな』と、
概ね間違ってない四字熟語で表した奴もいたが…
まさに歳月不待、あの頃から随分と時が流れてしまっている。


自販機の裏から、待ち合わせ場所をチラリと確認する。

時間まであと3分…
あの頃と全く同じように、周りからの桃色視線を一身に集めながら、
ツッキー自身は、ドス黒い不機嫌オーラーを放散させている。

相変わらずの倒錯した空間に、思わず笑みが零れてしまう。
「あの中に飛び込んだら、嫉妬&不機嫌ビームで焼け死ぬ!」と、
真っ青な顔で震えていた奴もいたっけ。


あと1分…
俺は自販機から数メートル離れ、その場で軽く助走し、息を上げる。
さも『急いで走って来ました』風を装うための、小細工だ。

30秒前。
俺は勢いよく飛び出し、ツッキーに向かって大きく手を振った。

「ツッキーお待たせーーーっ!!遅くなってゴメンね!」

「うるさい、山口。」

ツッキーの返事も、昔から全然変わらない。

俺の姿を確認した瞬間、ツッキーの表情が、ふっと…柔らかく緩む。
ほんの微々たる変化だが、俺はこの『変化』がどうしても見たくて、
昔からずっと、ツッキーよりも遅く到着するようにしているのだ。


ツッキーのすぐ傍に到着する。
昔は、「今日何して遊ぶ!?」とか、「今日の部活は…」とか、
すぐに『これからのお楽しみ』について、しゃべり始めていた。

だが、最近は、あの頃とは…ちょっと違う。
俺が到着すると、ツッキーの『表情』だけじゃなくて、
纏う『空気』までもが、ふわりと柔らかく緩むようになったのだ。
周囲の桃色さえも霞んで見える程…赤ささえ感じる、温かい空気だ。

その劇的な変化に、俺は下を向き、口をつぐんでしまうのだ。


「…何?どうしたの?」
黙る俺。心配するように、首を傾げて顔を覗き込もうとするツッキー。
こんな優しい気遣いも、あの頃にはなかったものの一つだ。

昔から繰り返してきた、大好きな『待ち合わせ』のはずなのに、
最近になってから、妙に…恥ずかしさと照れくささを感じるのだ。
ほとんど『二人暮らし』だから、余計にそう思うのかもしれない。

『同じ家』を出たのに、『違う場所』で待ち合わせる…
くすぐったさと特別感で、たったこれだけでも幸せな気分になるのだ。


「何でもないよ!それじゃあ…行こっ?」

少し赤い頬のまま、ヘラヘラと弛んだ笑いを溢しつつ、ツッキーに言った。
俺のニヤけきった顔を見たツッキーは、呆れたような困ったような顔をし、
あさっての方を向いて眼鏡の位置を直し、「行こうか。」と小さく呟いた。




「…参ったね。」
「運転、見合わせ…?」

駅に向かうと、物凄い人だかりだった。
学生街とは言え、色々な路線の乗換に便利な最寄駅は、
学生以外の人も沢山いて、一日中大勢の人が利用してはいるのだが…
それにしても、何かのイベントかというぐらいの多さだった。

「運転再開の見通しは…たってないみたいだね。」
「どうしよう…困ったね。」


明日晩に、いつものメンバーで『酒屋談義』をすることになっていた。
その準備のために、今日は『ステキなお店』に行くという赤葦に、
それならば、全員で行ってみようと…都心で待ち合わせをしていたのだ。

「時間までは…あと40分を切ったね。振替輸送ルートは…」
「この人だかりは、振替ルートへの大行列…だったんだね。」

既に入場規制が始まっているようだ。これではとても、間に合いそうにない。
それ以前に、あの人だかりに入って行く勇気も気力も、持ち合わせていない。

「明日の分の『おつかい』は…『赤ずきん』に任せようか。」

ツッキーはそう言うと、スマホを取り出し、メールを打ち始めた。
いつ到着できるかわからない以上、早めに連絡するのが良いだろう。
それは間違いないのだが…


「ツッキーあのさ、『赤ずきん』は…どっちなの?」

名前からすると、赤葦が『赤ずきん』になりそうなのだが、
どちらかと言うと、『赤』が似合うのは…黒尾の方だろう。

「確かに、黒尾さんの方が、赤いパーカーを着てたり…
   音駒のユニフォームの印象もあるから、『赤ずきん』が似合うね。」
「それに、赤葦さんは…むしろ『黒ずきん』じゃない?」

黒ずきん…黒衣(くろご)は、歌舞伎や人形浄瑠璃等で、
役者や人形遣いを手助けする、黒ずくめの『裏方』である。
『主役』には必要不可欠な存在でありながら、決して表立たず、
『存在しないもの』として陰から支え続ける…まさに『参謀』な存在だ。

「あの二人は、『名前』と『色』が…見事に『反対』だね。」
それじゃあ、僕はやっぱり『赤ずきん』の方に連絡するよ。

ツッキーが笑いながらスマホを操作するのを見て、
俺は『黒ずきん』の方に、『おつかい』依頼のメールを送った。



「ねぇツッキー…あの二人、大丈夫かな?」

駅前を避け、静かな裏路地の喫茶店に入った。
チェーン店ではないその店は、小さいながらも、店内で豆を焙煎しており、
ザッザッという豆を煎る音と、香ばしい珈琲の香りに包まれている。
その落ち着いた雰囲気から、俺達の『お気に入り』の喫茶店だった。

店の一番奥の『お気に入り』席に陣取り、
トーンを落とした声で、隣に座るツッキーに話しかけた。

先月、4人で『ひと夏の思い出』予行演習旅行に行った。
旅行自体は物凄く楽しかったのだが、その帰宅『後』から、
何だかあの二人の様子が、少しばかり…妙なのだ。

何となくではあるが、『酒屋談義』から…お互いから、
ちょっと距離を取っているような雰囲気を感じるのだ。

俺達を送り届けた後、あの二人に『ナニ』があったのかは、知らない。
でも俺は、赤葦さんが黒尾さんに対して密かに抱く『想い』は知っているし、
聞いてはいないものの、ツッキーがあの旅行の際に、
黒尾さんの『想い』に触れたであろうことも…何となく察している。

「大丈夫でしょ…と言いたいところだけど、
   こればっかりは、『外野』がとやかく言うもんじゃないし。」
「まあ、そうなんだけど…上手くいくといいなぁって。
   赤葦さんも黒尾さんも、二人とも…凄く大切な人だから。」

運ばれてきた珈琲に口を付け、その香りを胸一杯に吸い込んでから、
ツッキーは静かに口を開いた。

「僕にとっても、『酒屋談義』は大切な場所だし、あの二人も…そうだよ。
   だから、珍しく僕達から開催を呼びかけたり、買い出し同行を申し出た。」
「運転見合わせっていうアクシデントで、やむを得ず『二人っきり』…
   これが、『吉』と出ればいいんだけど…」

俺の心配を振り払うかのように、ツッキーは明るい声で答えた。

「とりあえず、こちら側は…運がうまく転がって、間違いなく『吉』だね。」
こうして、二人でゆっくり喫茶店で過ごすなんて…久しぶりだよね。

確かに、外で待ち合わせして、喫茶店でのんびりお話…まるで、デートだ。
俺はツッキーと顔を見合わせ、こっそりと微笑み合った。


「あの二人も、『おつかい』…楽しんでくれるといいね。」




***************





「『赤ずきんさん、おつかいは任せました。』…だとよ。」
「『もしあれば、そば粉もお願いします!!』…だそうです。」


あの旅行の『置き土産』のせいか、何となく連絡しづらくなり、
多忙を口実にしつつ、距離を置いていたことは間違いない。

でも、やはり自分にとってあの『酒屋談義』の場は、必要不可欠。
そろそろ皆さんとグダグダやりたいものの、自分からは言い出せず…
そんな折に、月島君達から開催の誘いが来て、
思わずガッツポーズをしてしまったぐらいである。

これを渡りに舟と、全員での買い出しを提案し、思惑通り採用。
4人で『いつも通り』楽しめば、妙な雰囲気も払拭されるはず…
唯一の懸案事項は、俺と黒尾さんの『微妙な空気』に山口君達が気付き、
気まずい思いをさせてしまったら申し訳ないな、というものだった。

だがそれも、運転見合わせという『不可抗力』により、
誰がどう見ても『正当な理由』によって、二人きりの機会を得ることができた。

これは、どうしても二人で解決しなければならないこと…
運よく転がり込んで来た僥倖に、心の奥底で感謝しつつ、
それをおくびにも出さず、お互いに顔を見合わせて苦笑した。

「それでは、『赤ずきん』さん…参りましょうか。」

俺の言葉に、黒尾さんはサっと赤いパーカーのフードを被り、
「思う存分…道草しようぜ。」とニンマリ笑ってみせた。



「ところで、山口の『おつかい』…そば粉って何だよ。
   明日は4人で『そば打ち』でもしようってか?」
「いえ、これはきっと…『赤ずきん』にちなんだものでしょうね。
   母親に頼まれた『おつかい』は…ワインとガレットを祖母に届けること。
   ガレットは、そば粉を原料とする食べ物ですよ。」

二人でやって来た『ステキな場所』は、巨大な食料品店だった。
国内のみならず輸入品等、ありとあらゆる種類の飲み物や食材が揃っており、
珍しい品々が所狭しと並ぶ様は、まさに圧巻だった。

これは一体何だ?見て下さいこんなモノが!…と、
好奇心を刺激する物達を手に取りながら、二人で『ステキ』ぶりを楽しんだ。


「さっき、ガレットは『そば粉を原料とする食べ物』って言っただろ?
   俺の淡い記憶じゃあ、ガレットってクッキーとかビスケット系だったような…」

黒尾の質問に、赤葦は「ちょっと待ってて下さい」と言うと、
すぐに数種類のお菓子を手にし、並べて見せた。

「黒尾さんは、クッキーとビスケット、
   それにサブレとガレットの違い…ご存知でしょうか?」
「いや…どれも甘くて、『もそもそ』『ぱさぱさ』『さくさく』の差…?
   ガレットに至っては、食った心当たりすら、さらさらねぇな。」

赤葦は一つ一つ手に取りながら、説明を始めた。

「クッキーはオランダ語で『koke(クオキエ)』…小さなケーキという意味です。
   日本には、アメリカから伝わってきた焼菓子です。
   ケーキを焼く際に、味や温度を見る『試し焼き』としてできたそうです。」

対するビスケットは、ラテン語で『二度焼かれたパン』と言う意味で、
イギリスでは保存食として食べられていた、小麦粉を使った焼菓子である。

「二度焼きした保存食…それで、クッキーより『ぱさぱさ』してんのか。」
「日本では、『糖分と脂肪分が全体の40%以上』のものをクッキー、
   40%未満のものをビスケットとして区別しているそうですよ。」
「食感の違い…材料の違いだったんだな。」

ちなみに、この区別は日本独自のものであり、
アメリカでは両方をクッキーと呼び、イギリスはビスケットと呼ぶ。
イギリスにはそもそも、クッキーという言葉も存在しないのだ。

「サブレはフランスから伝わってきた焼菓子で、
   バター等と小麦粉の比率が1:1…クッキー等より脂肪比率が高いです。」

フランス語で『sable』は、『砂をまかれた、さくさくとした歯ごたえ』だ。

「そしてガレットもフランス伝来…『丸く平たく焼いたもの』です。」
「何だ、それなら…クッキーもビスケットも、全部ガレットじゃねぇか。」
「そうですね。ガレットには、クッキーみたいな焼菓子もありますし、
   そば粉を使ったクレープ状のものも、ガレットと言うそうですよ。」

クレープ状に焼いた生地に、ハムやチーズ、卵等の具材を乗せ、
端を折り畳み、包んで食べる郷土料理である。



「病床に伏せるおばあさんへのお土産…どれだったんだろうな。
   ま、ワインに合う『おかず』なら、そば粉のガレットを希望だな。」
「きっと山口君もそう思って…そば粉を所望したんじゃないでしょうか。」

『赤ずきん』の黒尾さん…それに合うワインは、やはり…

赤葦は黒尾の手を取り、「上の階へ、行きましょう!」と、
足早にエスカレーターへと引っ張って行った。


赤葦が躍るように駆け上がったのは、フロア全てが酒という、
酒飲み(及び酒マニア)垂涎の場所だった。
その品揃えに圧倒されていると、赤葦は嬉しそうに黒尾に聞いてきた。

「黒尾さん、ワインの種類…『色』と言えば?」
「赤、白、それに…ロゼか。」
「実は、もう一つ…『黒』もあるんですよ。」

それは、『濃い赤ワイン』なんじゃ…?という疑問を口にする前に、
赤葦は「赤ワインとは別です」と、前もって断言した。

「ルーマニアで製造されるもので、
   『黒ワイン』というカテゴリが、ちゃんと存在するんですよ。」
「ルーマニアの酒か…ガレット以上に馴染みがねぇな。」
大手酒販メーカーのものを扱う店が多い、日本の一般的な酒売り場では、
あまりお目に掛かることがない国のお酒である。

「本来ならば、ルーマニアは世界一の『お酒天国』でもいいはずです。
   あの酒の神・バッカスがまさに、ルーマニア出身ですから。」

とは言え、俺もルーマニア出身の有名人は、
あと『この人』ぐらいしか思いつかないのですが…と、
赤葦は頑丈な木箱に入った黒いワインを、チラリと黒尾に見せた。

「中世のルーマニアには、ワラキア、モルダヴィア、トランシルバニア…
   オスマン帝国やハプスブルク家支配下の、3公国がありました。」
「ワラキア公国…ヴラド・ツェペシュ…ドラキュラ伯爵か!」

赤葦は手にした木箱を、恭しく黒尾に捧げた。
その木箱…『棺』の中には、赤よりも黒い液体の入った瓶…
まさに『吸血鬼専用』といった雰囲気のワインが眠っていた。

「『赤ずきん』の『おつかい』が、『吸血鬼』かよ…最高だな。」
「明日、こっそり月島君の本棚の隙間に…眠らせておきましょう。」

吸血鬼もゾクりとするような、蠱惑的な微笑みを湛えつつ、
赤葦は黒いマント…光沢のある黒いウィンドブレーカーを翻しながら、
レジへ悠々と歩いて行った。



「なぁ赤葦、さっきのガレット…『丸くて平たい焼いたもの』なら、
   アレでもよくねぇか?」

『お酒天国』を二人で散々満喫した後、黒尾は一番下のフロアへと、
まだ名残惜しそうな赤葦の手を、何とか引っ張って降りた。
そこは、子どもにとっての『天国』…駄菓子屋フロアだった。

レトロな雰囲気を醸す店内の柱に、ドラキュラに似合う燈色の満月…
巨大な『えびみりん焼』せんべいが、磔にされていた。

「確かに、せんべいも文字通り『丸く平たい焼いたもの』ですね。
   ぜひこれも、月島君のとこの壁に貼っておきましょう!」
「面白ぇな!それじゃあ、他にも『和風ガレット』を探そうぜ。」

    ただ、他愛ない雑学を、駄弁っているだけなのに。
    ただ、買うわけでもなく、商品を見るだけなのに。
    ただ、どこにでもある駄菓子を、選ぶだけなのに。

ごくごく些細なことなのに、何故こんなにも…楽しいのか。
相手の一挙一動が、交わす言葉が…こんなにも嬉しいのか。

    (やっぱり俺は、この人のことが…)

はっきりと自覚する、秘めたる想い。
真剣な表情で『丸く平たい』ポテトスナックを選ぶ姿を見つつ、
俺は高揚する気分を落ち着けようと、こっそり深呼吸した。


だが、そんな俺の気を知ってか知らずか…いや、知りようもなく、
隣から発せられる無邪気な一言に、俺の熱は一気に冷めた。

「お、この菓子、すっげぇ懐かしい!!昔よく食ったなぁ~。
   これとあれと…あ、それも研磨に買って帰ってやるかっ!!」

イカの酢漬けに、ソースかつ、砂肝ジャーキー…
子ども用というよりは、酒飲み用の『おつまみ』なラインナップ。
『引っ込み思案な年下の幼馴染』のために、あれもこれも、
これでもかというぐらい…籠に詰め込んでいく。

その『山積になった籠』が、越えられない『時間の差』のように見え…
俺はそんな醜い自分を振り払うかのように、籠から目を逸らした。

    (自覚した途端、コレですか…)

どうしようもないこととはいえ、湧き上がってくるドス黒い感情。
何とかそれを抑えようと、努めて冷静な声で、正当なツッコミを入れた。


「黒尾さん…おやつは300円まで、ですからね。」





***************





「え…雨?」
「そう言えば、夕方から崩れるって言ってたね。」


のんびりと喫茶店で『二人の時間』を過ごしているうちに、
外はいつの間にか、しとしとと雨が降っていた。

どうしたものかと思案していると、
喫茶店のマスターが、傘を貸してくれることになった。
差し出されたのは2本だったが、大きめの1本だけを借りることにして、
近々必ず来店することを約束し、二人で店を出た。

「ツッキー、傘…俺が持つよ?」
「背が高い方が持つ…こっちの方が、物理的に正解でしょ。」

そうだけど…と、申し訳なさそうに縮こまる山口。
ゆっくり歩きだすと、小さな声で「おじゃまします」と言い、
遠慮がちに寄り添いながら、傘に入ってきた。


「この傘…すごい大きいね。二人で入っても濡れないや。」
「レースクイーン用のものみたいだね。車メーカーのロゴ入りだし。」

二人で入っても濡れないのは、非常に助かる。
だが、その大きさの分、結構な重さがある。
更に、肩に柄を乗せられないため、余計に腕が疲れてくる。

傘を持つ手を変えるため、立ち位置を変更しようと思っていると、
山口がそっと傘に手を添え、支えてくれた。

「やっぱり、俺も一緒に傘…持つね。」
「正直、助かるよ。」

相合傘をして、なお余りある大きさ。
余るほど密着する必要はないはずだが…いや、そういう問題ではない。
一緒に傘を持つことなど、なかなかできることではない。

やっぱり、今日は本当に運が良い。
…喫茶店のマスターに、この傘の購入元を教えてもらおう。


「黒、赤、黄…ドイツかな?」

6分割されている傘布は、黒、赤、黄の3色が2枚ずつ。
このカラーリングは、国旗で言えばドイツかベルギーだろうが…

「この間の温泉で食べた鯉も、基本は黒、赤、黄の3色だね。」
「う~ん、それじゃあ何で、『こいのぼり』の色は、黒、赤と…青?」

大きな真鯉・お父さんは、黒。お母さんの緋鯉は、赤。
本当に『鯉』のカラーリングであれば、子どもは黄色でもいいはずだ。

「元は真鯉の黒だけで、緋鯉とこどもの青が追加されたのは、昭和から。
   どうやら、陰陽五行説によるカラーリングみたいだよ。」

陰陽五行説とは、この世の全ての物は、『陰と陽』の気と、
『木・火・土・金・水』の五行で成り立っているという思想である。
五行には、色や方角、季節、人徳や感覚器、神獣などが、
それぞれ配置されている。

「黒は、水。全ての生命の源。赤は、火。生命を育み万物を生み出すもの。」
「まさに、『お父さん』と『お母さん』だね。」
「青は、木、そして春。すくすくと成長する姿…ピッタリでしょ?」

健康と立身出世を願う『武者のぼり』が、こいのぼりのルーツであり、
このことからも、『子ども』には青が相応しいと言えるだろう。


「黒、赤、青のカラーリング…温泉で食べた『アレ』も、そうだね。」
「食用のナマコ…マナマコの種類だね。ちなみに、アカナマコが最高級品。
   『硬くなる』繋がりで言えば…ゴルフボールの硬度表示も、その3色。」

こうしてみると、何種類かの色パターンがあるものには、
『黒』と『赤』が含まれているものが、結構多い気がする。

「黒と赤だけなら…トランプに、慶弔両用スタンプ台、黒ムツと赤ムツ?」
「赤ムツに至っては、別名『のど黒』だしね。本当に美味の高級魚だよ。
   あとは…ズキンアザラシなんて、モロに『黒と赤』で、『ずきん』だよ。」

ズキンアザラシは、メスをめぐるオス同士の戦いや、求愛の際、
まずは鼻の外側の皮膚を膨らませて、黒い風船…『黒ずきん』を出す。
さらにヒートアップしてくると、今度は鼻の中の隔壁を膨らませ、
『赤ずきん』を出し合い、勝敗を決するのだ。

「アザラシか…例によって、滋養強壮…有名な精力剤だよね。」
「オスがハーレムを作るから、精力剤に選ばれたっていうのもあるけど、
   それよりも特筆すべきは、ズキンアザラシの授乳期間だよ。
   哺乳類最短・4日間で一人立ちしちゃうんだって。」
「早っ!!?超栄養満点なミルク…なんだろうね。」

その母乳は、脂肪分60%…牛乳の15倍にもなる、超高カロリーである。
この4日間で子どもの体重は、20kgから40kgへと倍増する。

「黒・赤ずきんの組み合わせ…なんだか『パワフル』だね。」
「しかも、『最短コース』で決着が付きそうな予感…だね。」

今頃、『おつかい』そっちのけで道草を楽しんでいるであろう、
『赤ずきん』と『黒ずきん』の姿を、同時に思い浮かべる。
僕と山口は顔を見合わせ、微笑み合った。


「黒と赤が、色を表すものに多く出てくるのには、理由があるんだ。
   そもそも、日本に古来からある『大和言葉』には、
   色を表す言葉として、黒、白、赤、青の4色しかなかったからね。」
「『明暗』と『寒暖』を分けるだけ…ってことかな。」
「そう言えば、以前にみんなで話した『畳語』になる色も、
    黒々、白々、赤々、青々の4つだけ…だった気がするよ。」
「『~い』って付けて形容詞になるのも、黒い、白い、赤い、青いだけ…
    やっぱり、日本語の文法上、この4色は特別扱いなんだね。」
五行説でも、中央の黄色を除く4色は、黒、白、赤、青である。


傘を持つ手が、少し痺れてきた。
つん、と肘で山口の肘を軽く突くと、意を察した山口は、
すっと手を離し、僕の反対側へと立ち位置を変えてくれた。
お互いにさっきとは反対の手で、また一緒に傘を握る。

ほんのわずかな動きで、意思疎通し合える…
たったこれだけのことでも、じんわりと温かい気持ちになってくる。


「ねぇツッキー、『赤』の反対って…何色?」
ごく小さな声で、山口が聞いてきた。

きっと、相合傘でなければ、聞こえなかっただろう。
屋外でも、誰にも邪魔されずに『二人きり』で居られる空間…
それが、相合傘の利点…素晴らしい所だ。

「話の流れと、僕達の心情で言えば…『黒』なんだけど、
   その問いの答えは、他にもあるよね。」

黒が答えになるのは、五行説の方角(赤は南、黒は北)や、
トランプのスート…マークがある。

「チーム内練習試合とか、源平合戦は、紅白戦…『白』だよね。」
「この由来には、赤ちゃんの『赤』と死装束の『白』だとか、
   女性の経血の『赤』と男性の精液の『白』…諸説あるらしいよ。」

「さっきの大和言葉の基本4色だと、暖色の赤には、寒色の青だね。」
「止まれの赤と、進めの青…信号も、反対は『青』になるね。」

「科学的に言えば、赤の反対色…補色は、青緑だよ。」
「ウェブカラーで赤は『#FF0000』…反対の『#00FFFF』はシアン。
    水色に近い、明るい青緑色だね。」

何が『対』で、何が『相応しい組み合わせ』なのか…
視点や基準を変えると、その答えも多種多様、一つとは言えないのだ。

このことは、色だけではなく、人間関係にも言えることだ。

「人と人との関係、特に恋愛関係には、他にも色んな選択肢…
   『対』になりうる相手は、色々いたはずなんだ。」
「でもそのたくさんの『色々』の中から、一つだけを選んだ…
   その偶然と幸運は、大事にしなきゃいけないよね。」

これは…『赤』と『黒』の話だけにとどまらない。

今まで、『気付いた時にはずっと一緒だった』と、ドウケツエビの様に、
『他の選択肢が存在しなかった』かのように思っていた。
だが、そもそも同じ空間に居て、違和感を感じない…
互いを『対』として認識できていることこそ、驚異的な偶然と幸運の賜物だ。
文字通りに『外』が存在しえないドウケツエビとは違い、
僕達には、『外』も『他』も、自由な意思もある…人間なのだ。

    (色々な選択肢がある中で、唯一の『対』として、『僕が』自ら選んだ…)

ここに至ってようやく、僕はそのことに気付いた。



「そう言えばさ、こないだの旅行の時…黒尾さんとどんなこと話したの?
   黒尾さんは、その…赤葦さんのこと、何か言ってた…?」

自分のことよりも、今はあの二人のことが気になって仕方ないらしい。
内緒話を教えて欲しいとねだるような、後ろめたさを感じているのだろうが、
チラチラとこちらを上目使いに見遣りながら、
さっきよりも更に小さな声で、こっそりと訊ねてきた。

「特には、何も。ただ、他愛ない話をしただけだよ。
   僕と山口の日常生活…ちゃんと料理できてんのか?とか、色々ね。」
「えっ!?つ、ツッキー、へ、変なこととか、黒尾さんに言ってない…よね?」

顔を赤く青くさせながら、おどおどし始めた山口。
別にヤマシイこともないし、ごく普通に生活しているだけなのに…
何をそんなに慌てふためく必要があるんだろうか。

わたわたとキョドりだした山口が可笑しくて、僕は笑いながら答えた。

「安心しなよ。ただ単に、僕がいかに山口が好きで好きでたまらないか…
   その程度の、ごく些細な話しかしてないよ。」
「な、なんだ、そんな話か…よかった…」

大げさなぐらい、ホッとした安堵のため息を、盛大に吐く山口。
そのコミカルな姿も笑いを誘い、僕はまた、頬を緩め…固まった。


「…へ?」
「…あ。」


自分が口にしたことと、耳にしたことが信じられず、
傘の中で、二人揃って呆然と立ち竦んだ。





***************





「調子乗って…買い過ぎたな。」
「えぇ…少しばかり、反省してます。」


あまりの楽しさに我を忘れ、あれもこれもと籠に詰め込み…
気付いた時には、二人の両手一杯、紙袋4つに大量の食料品。

この『おつかい』の結果を見たツッキー達には、きっと怒られるだろう。
生活感がないだの、食費を圧迫するだの、接待交際費だの…
よし、今から言い訳を考えておこう。

…いや、違う。問題は、この荷物をどうするか、だ。

「この『おつかい』…今から、持ってってやるか。」

我ながら、名案じゃないか。
だが、俺の出した答えに、赤葦は顔を曇らせた。

「そう…ですか。それでは、黒尾さんはJRですね。俺は地下鉄なんで…」
「は?俺も赤葦も、途中まで同じ路線だろ。」
「え?自宅へ…『幼馴染さん』に、駄菓子をお届けするんじゃ…」

予想外の言葉に、俺は呆気にとられた。
確かに、研磨用にと300円分きっかり、駄菓子を買ってやったが…

「生モノじゃねぇし、量もねぇし…そんなもん、いつだって良いだろ。
   それよりも、メインの『明日用』の大量の荷物を、ツッキー宅へ…」
「っ!!そ、そうですね!それじゃぁ、途中までご一緒しましょう!」

パっと明るくなる表情と、軽くなる足取り。
何だよそれ…まるで、俺に『あっち』に行って欲しくないみたいな…

    (『期待』しちまうぞ、コノヤロウ…)

ニヤつく頬を悟られないように、荷物を抱え直し、
赤葦と二人で、地下鉄のホームへと降りて行った。



「土曜の夕方とは言え…すごい人だな。スーパーラッシュかよ。」
「例の『運転見合わせ』が、つい先程、運転再開になったみたいですね。
   それに…雨も降り始めたみたいですよ。」

周りの人も、濡れた傘を畳んだり、ハンカチで服を拭いていたり。
ずっと屋内にいたせいで、それすら気付かなかった。

ターミナル駅とあって、降りる人も多いが、それ以上に乗る人が多い。
車両の一番奥…隣の車両とを隔てる扉の、ギリギリの所まで入るが、
後から後から人が更に乗って来て、ぎゅうぎゅうと押し込められる。

自分と赤葦が持っていた紙袋を、急遽両足の間で挟み、扉に背を預ける。
空いた片腕で扉の上部枠を掴み、もう片腕で赤葦の背を支えた。

「っ…すみません、お世話に…なります。」
「いや、気にすんな。」

やむを得ない状況とは言え、俺が赤葦を抱きしめ、
赤葦が俺の胸に、傾げた頭を付けている…そんな状態だ。

ここまでの密着は、あの極寒キャンプの、テントの中以来…つい最近だ。
あの時は、真っ暗で互いの顔をみる余裕もなかったし、
途中からは互いに背を向け、無理矢理お互いを『存在しないもの』とした。

それに対し今は、周りは大勢の人に囲まれてはいるが、
意識としては、『車両の一部』…自分達とは区別されたモノだ。
むしろ、公然と『二人きり』でいるような…そんな気分だった。

『駅はイチャイチャしやすい条件が揃っている』と、かつて4人で考察したが、
駅構内以上に、満員電車はイチャイチャを誘発しやすいんじゃないだろうか。

    (今日は色々と、ラッキーが重なったな。)

『運転見合わせ』を、こんなに幸運だと思ったのは…生まれて初めてだな。


「苦しく…ないか?」
「だ…大丈夫です。」

中吊広告に隠れるように。
周りの迷惑にならないように。
できるだけ小声で、赤葦の耳元に、わざと囁いてみる。

くすぐったさと羞恥心からか、赤葦は少し困ったように眉間に皺を寄せ、
頬を赤らめながら、恥じらう様に呟き、返事をした。

    (なかなかの…いい眺めだぜ。)

今まで見たことないような、赤葦の表情だ。
今日は一日を通して、色々な表情を見せてくれた。
出会ってから結構な年数になるはずだが、その間に見た全ての表情よりも、
今日一日に見た『新しい表情』の数の方が、多いかもしれない。

    できれば、もっともっと、赤葦の色んな顔を、見てみたい。
    できれば、ツッキーや山口も知らないような、そんな表情。
    できれば、それを見られるのは、この世で俺だけであれば…

    (…って、おぃおぃ、すっげぇ独占欲じゃねぇか…驚いたな。)

冷静に、そして明瞭に自覚する、自分の想い。
誤魔化しも、隠蔽することも…もう無理だろう。


無駄な抵抗を諦め、正直になるか…
そう覚悟を決め、腹を据えようと息を吐き出す。
だが、その息が意図せずに赤葦の首筋を掠めてしまい、
赤葦は大げさなぐらい、ビクりと身を震わせた。

「あ…悪ぃ。」
「い、いぇ…」

…あぁ、もどかしい。
俺の腹が据わっている内に、早く目的地へ…
この電車から、自由の利く場所へと出て行きたい。


若干苛々し始めた瞬間、腰の辺りがブルブルと振動し、
驚いた俺と赤葦は、顔を見合わせて少し距離を取った。

「すみません、俺の…」
身を捩りながら、赤葦はズボンのポケットからスマホを取り出す。
俺はできるだけ画面を見ないように、隣の車両へと視線を向けた。

「…あ、木兎さんからです。今から学校へ来いって…?」

赤葦の言葉に、自分の機嫌が一気に急降下するのがわかった。
精一杯努めて冷静に、視線を隣の車両に向けたまま、問いかけた。

「…急用か?」
「急用と言いますか…たまにあるんですよ、緊急招集が。
   あの人の気が向いた時に、『バレーやろうぜ!』って…」
「相変わらず、梟谷サンは仲良しなんだな。」
「いつも突然なんで…方々に頭下げて、色々準備するのも、大変ですよ。
   いつまで経っても、俺達はあの人の『お守り』から抜けられません。」

言葉とは裏腹に、赤葦は満更でもない顔だ。
次々と入る連絡。参加人数は…十分。顧問に連絡…完了。飲料の手配は…
ソフトクリーム買って来いって…無茶苦茶な『おつかい』ですね…

よく合宿や試合で見た、優秀な『参謀』の顔。
次々と押し寄せる無理難題を、事も無げに捌いていく姿は、
流石としか言いようのない『有能っぷり』である。

文句を言いつつも、仕事を熟すその顔は、自分の仕事に対するプライドと、
相手への『確固たる信頼感』を滲ませていた。

    (今日は…今日だけは、この『顔』は見たくなかったな。)



「次の次で、乗換だぞ。」
「え?あ、そうですね…」

仕事に夢中になっていた赤葦は、黒尾の言葉にハッと顔を上げ、
車両入口の電光掲示板を確認した。

「ですが、この荷物は…」
「俺一人で、大丈夫だ。」

「雨、結構降ってますけど…」
「『赤ずきん』被って行く。」

この電車に乗った当初の予定でも、赤葦は次の駅で乗換…
俺とは『途中』まで、一緒に帰るつもりだったはず。
それと変わらない…全然、変わらないじゃないか。
なのに、この重苦しさは、一体…何なんだ。


もうすぐ、乗換駅に着く。
黒尾は赤葦と目を合わせないまま、淡々と告げた。

「木兎と…梟谷の皆様に、よろしく伝えてくれ。」
「は、はい…今日は色々とお世話になりました…」

大きなターミナル駅。多くの人が降車し、車内に涼しい空気が入ってくる。
それとともに、人と人の距離も、少しずつ開いて行く。


赤葦は一歩だけ下がると、黒尾に頭を下げた。
じゃあな、と黒尾は手を上げ、チラリと赤葦に会釈する。

    一瞬、絡み合う視線。
    そのまま停止する刻。


降りる人の波に乗らず、その場に留まり続ける赤葦。
今度は乗る人の波に押され…黒尾の傍に戻ってきた。


そして、扉が閉まり…ゆっくりと電車は動き出した。



***************





大量の『おつかい』を持ってきたついでに、前泊させてほしい。
…という黒尾の申し出に、月島からは快諾の返事が来た。

自宅よりも月島宅が学校から近いせいもあり、
黒尾は頻繁にここを『簡易宿泊所』として利用しており、
いつの頃からか、「毎度面倒なんで」と、合鍵まで渡されていた。

勝手知ったる家の鍵を開け、玄関脇の下駄箱の扉に、
雨に濡れそぼった『赤ずきん』と『黒ずきん』を、脱いで掛けた。


紙袋を部屋の隅に置くと、横からタオルが差し出された。

「お、サンキューな。」
「いえ…何か、飲みますか?」

ほとんど『自分専用』になっている冷蔵庫を開け、
赤葦はストックしておいた緑茶のボトルを取り出し、グラスに注いだ。


「行かなくて…よかったのか?
   あいつから、『おつかい』も頼まれてただろ?」
タオルで髪を拭きながら、黒尾は赤葦に尋ねた。

「あんな『捨てられた子猫』みたいな目をしておいて…今更?
   それに、あのままお別れするのも、俺は…」
言い訳がましく紙袋に視線を送る振りをしながら、
赤葦は黒尾に、冷えたグラスを手渡した。

だが黒尾は、受け取ったグラスをそのまま流し台に置くと、
満員電車の中と同じように、赤葦をその胸に引き寄せた。


「ちょ、ちょっと、黒尾、さん…!?」

突然の抱擁に、赤葦の声が上擦る。
その動揺で前髪から滴り落ちた雫が、黒尾の肩口を濡らす。

黒尾は両腕を赤葦の背に回し、更に強く抱き込んできた。
赤葦はただ、黒尾にされるがまま…驚愕で硬直していた。


「あ、あの、これは、えっと…どういう…?」
「さっきまでと…大して変わんねぇだろ…?」

「前回といい、今も…あなたは、断りもなく…」
「前回も今回も…嫌なわけじゃ…ないんだろ?」

それは、そうですけど…と、赤葦は小さな声で呟いた。
そして、諦めたように全身の力を抜き、肩に頭を預けた。

「清廉潔白な…理想的な『王子様』は、どこへ行ったんです?」
「知らなかったか?『赤ずきん』には…『王子様』は居ねぇ。」

「そうでしたね。居たのは…『送り狼』ですか。」
「王子様が狼に豹変、か…なかなか悪くねぇな。」

狼と言えば、ちょっと疑問があるんですが…
赤葦は黒尾の肩に頭を乗せたまま、静かに話しはじめた。

「『赤ずきん』を食べる狼は…オスとメス、どちらなんでしょうか?」


赤葦の疑問に、黒尾は頭を上げ、真面目な表情で赤葦の顔を見た。

「確かに…それは、一考の余地があるな。
   『赤ずきん』含め、主人公が獣…『人喰い鬼』に食われる系の話じゃあ、
   その鬼は、『女』である場合が多い…よな。」

日本の昔話だと、『山姥』や『瓜子姫』の鬼が、その代表である。
『狼と七匹の子やぎ』等、人を喰うものが男である場合、
その鬼や狼は、子ども達を『女装』して食べる羽目になっている。


こうした『子どもが鬼に喰われる』という話の、イメージの根底には、
『命の根源(母)への回帰』…『死と再生』があるのではないだろうか。
だからこそ、喰われた赤ずきんは、狼の腹から再生する…

「『赤ずきん』は、処女喪失の話だとか、心理学の学派ごとに、
   ありとあらゆる『解釈』がなされているんですが…」
「心理学のいう、個人の性的な『精神的問題』として分析するよりも、
   もっと古くから世界中にある神話類型…『魂の回帰』とする方が、
   何となく、『しっくり』くる気がするな。」
「だとすると、やはり狼は…メスの方が合いますよね。」

これに関しては、月島と山口も交えつつ、もっとじっくり語るべきだろう。
とりあえず、今ここで…この状態で語る内容としては、『不適』である。



「…で?赤葦が言いたかったことは何だ?」
「最近、オスの『送り狼』はレッドリスト…絶滅危惧種だそうですよ。
   その影響故か、『送られ狼女子』…メスの勢力が拡大しているとか。」

赤葦は妖艶な笑みを魅せると、両腕を黒尾の首に回し、
額に額を付け、そっと囁いた。

「俺は…どちらでも構いませんが?」


二人の額から、水滴がスルリと口元に滑り落ちてきた。
黒尾はゴクリと喉を鳴らすと、その水滴を舐めとった。

「君子豹変す…これは本来、『良い方向』へ変化する言葉だったな。
   王子様は、狼に…豹変してもいいんだな?」
「その方が、『良い方向』に…『素敵』な変化なんでしょう?」


頬を羞恥で赤く染め、静かに瞳を閉じた赤葦。
だが、その耳に、至極丁寧な「頂きます。」の一言…

思わず吹き出して目を開けると、
その瞬間を待ってましたとばかりに、黒尾は赤葦の視線を捉えた。


その視線を絡めたまま、これ見よがしにゆっくりと…唇を合わせた。



- 完 -



**************************************************

※『君子豹変す』→豹の毛が季節によって生え変わり、
   斑紋が美しくはっきりするように、君子ははっきりと過ちを改める、の意。
※『月(ツッキー)に人を待たすな』 →『歳月不待
※『畳語』『駅でイチャイチャ』 →『三畳趣味

※崩壊する童話5題『4.赤ずきんお使い放棄』


2016/06/03(P)  :  2016/09/18 加筆修正

 

NOVELS