夜想愛夢 ~夢虫之青~






「『サキュバス忠ちゃん』をっ!」
「そっちは『夢虫之青』コース…一緒に海水浴だよ。海へ…GO~!!」


ひゃっほ~い♪と海へ向かって駆け出そうとした山口…だったが、
目の前でヒラリと舞った、淡い水色のパーカーの裾を、月島は慌てて捕まえた。

「駄目だよ。ちゃんと準備運動してからじゃなきゃ…危ないでしょ。」
「あっ!そうだったね。穏やかそうに見えても、底の方は冷たいしね~」

毎日海で泳いでいても、波のない瀬戸内海だったとしても、
ほんの少し深い所へ行ったり、前日に雨が降っていた場合等は、
海底付近に冷たい水…その温度差が足の不調を引き起こす可能性があり、
思わぬ事故や怪我に繋がったりする…海は絶対に、油断してはならない場所だ。


そう言えば、天鈿女の夫・猿田彦の死因は…海での溺死だった。
大国主に協力して葦原中国(日本)の国造りをした、少彦名命(すくなひこな)も、
大国主が『国譲り』をした際に、海の彼方の『常世(あの世)』へと去った。

国を譲った…奪われた神々は、現世(この世)から海へ入り、『あの世』へ。
竜宮城も『常世』と呼ばれていたし、天岩戸もそうだった。
大国主(大己貴命)は、三輪山の大蛇。少彦名は、医療と酒の神…こちらも蛇だ。
この二柱の神様コンビと縁深いのが、有馬温泉の起源『三羽烏』…八咫烏だ。
そして、猿田彦は天孫降臨でニニギの道案内をした神…八咫烏に繋がった。


漫然と海を眺めながら、柔軟体操。泡沫のように浮かんでは消える…神々の話。
せっかくのバカンスなのに、ちょっぴりおセンチな気分になってしまった。

少し手前…海に近い所で、薄手のパーカーをひらひらさせながら、
柔らかくしなやかな体で、舞い踊るように準備体操をする山口。
その姿が、蝶の羽か、天女の羽衣のように見え…消えそうな儚さに、息を飲む。

「もう、いいよね?先に…行くよ。」

ふわり…
山口が脱ぎ捨てた衣が、空を舞う。

それを受け取ろうと伸ばした手から、風に煽られた衣が、するりと逃げた。
その衣の向こう…青い空と海に、山口が溶けてしまいそうな錯覚に囚われ、
月島は引き攣る声を上げ、山口を呼び止めた。


「待って、待って山口…っ!」
  (僕を置いて…行かないで!)

あの光景が…山口が僕を置いて消えた『金縛り』の光景が、脳内に蘇る。
動けず、声も出せない僕に気付かないまま、山口が消えた…恐ろしい夢。
その時の恐怖を思い出した僕は、突き動かされるように、声を張り上げていた。

でも今回は…夢じゃなくて『現実』の山口は、切羽詰まった僕の声に気付き、
驚いて足を止め、こちらを振り返り…不思議そうな顔で僕の元へ戻って来た。

「どうしたの、ツッキ…っ!!?」

ふわり、ふわり…
柔らかい山口の髪が、僕の目の前を、アゲハチョウのように舞う。
首を傾げながら、下から僕の顔を覗き込む山口の頬を、両手の中に閉じ籠めて、
その存在を確認するように、 僅かに震える唇で、そっと…キスを落とした。

   (ちゃんと、僕の所に…居る。)


突然のキスに驚いた山口は、バサバサと睫毛を羽ばたかせ、何度も瞬きをした。
だが、飛び立とうとした蝶は、すぐに羽を静かに畳んで、月島の唇に止まった。

蜜を吸うように、ちゅっちゅっと小さく音を立て、山口は月島にキスを続ける。
その優しい仕種が、月島の恐怖や強張りを少しずつ吸い上げ、溶かしていく。

「大丈夫。俺はツッキーから離れない…ツッキーを置いて行ったりしないよ。」

あっ!勿論これは、ツッキーがまた俺に酷いコト言ったり、おイタをして、
俺に『実家に帰らせて頂きます!』をさせないっていう大前提があるんだけど…
でも、俺もできる限り、勢いだけで飛び出さないようにするから。
ツッキーが怖い夢を見たり、金縛りに遭ったりしないように…

「ずっとツッキーの、傍にいるから…
   って、えええっ!ど、どうしたっ、ツッキー…だっ、だいじょ、っ!!?」


腕の中に、山口を固く固く抱擁する。
抱き締める強さで、このキモチを伝えたい…そのぐらい、強く固く。

ほんのちょっとしたことで、僅かに浮かんできた、漠然とした不安だったのに、
山口は柔らかい笑顔でそれを受け止めて溶かし…全部消し去ってくれた。

そして、当たり前のように言ってくれた『ずっと傍にいる』というひと言…
このたったひと言が、僕のココロとカラダを温め、幸福で満たしてくれたのだ。

「ありがと…山口。」
「えっ?いや、その…どう、いたしまして…?」

らしくない僕に戸惑いながらも、山口は両手を背に回し、胸に額を付けた。
山口の感情を表すように、ひょこひょこと所在無げに振れる、触角…クセ毛。
それが鼻先を掠め、擽ったさに頬が緩むと、山口の触角もふわりと綻んだ。


「俺の予定…当初の『酔いが回ったような激レアな姿に…』って計画とは、
   全然違う流れになったけど…ツッキーの『激レア』な姿に、ドキドキだよ。」
「あれ?この『サキュバス忠ちゃん』コースは、『ドキドキ』じゃなくて、
   予想外に可愛い!?激レアな蛍君にムラムラ…『欲情』じゃなかったっけ?」

すっかり調子を取り戻した月島は、笑いながら山口の顔を覗き込んだ。
ようやく自分の行動と『ひと言』が、結構恥ずかしいものだと気付いた山口は、
慌てて月島から身を離し…それでも手だけはしっかり握り、海へ走り出した。

「ちっ、違うってば!こんなの、予定になかったから…もう、泳ごっ!」

わたわたと揺らめく、山口の触角を追いかけながら、
月島は蝶に聞こえない小さな声で、もう一度…ありがとうと呟いた。





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「あ、ツッキー見て…蝶々だよ!」
「あれは…アオスジアゲハだね。」


二人で海に入り、お砂遊びの汗を流しつつ、のんびり海に浮かぶ…
海水浴は、プールの授業や水泳のお習い事、競泳とは全く別種のものだから、
『海水泳』というよりは、やはり『浴』の方がしっくりくる。

速く長く泳ぐよりも、できるだけ体力を使わずに浮いていることが、
海で浴するには必要なスキル…浸かるだけでいいのだ。

だから、速度重視で体力消耗が激しいバタフライは、競泳にしかない泳法で…
という話をしていたら、「あっ!」という小さな声を上げ、
山口は月島の二の腕を掴み、岸壁あたりを指差した。

海水が引き、ちょっとした磯になっているところに、数匹の蝶が止まっていた。
黒い羽に、青い条(すじ)の入った、美しい蝶…アオスジアゲハだった。
濡れた岩に降り立ち、羽ばたくことなく羽を立てたまま、じっとしていた。




「海に蝶々なんて、珍しい…?何してるんだろうね。」
何匹も集まって、不思議なコトをしてるから…交尾の準備か、合コンかな?

月島の背に隠れるように、後ろから両手を月島の肩に乗せ、
ぷかぷか浮きながら蝶を観察し、不思議な行動の意味を推理する山口。
山口がバタ足をして、蝶達を驚かせないよう、月島は山口の腿を捕まえて…
海の中で『おんぶ』しながら、音を立てずに蝶の近くへと寄って行った。

「生き物の『謎の行動』を、全て交尾に結びつけるのは、短絡的すぎだよ。
   あれは、蝶の吸水…海水のミネラル分を補給か?と言われてるんだ。」

子孫繁栄が生物の存在理由なら、生物の行動は全て『交尾のため』のものだが、
蝶が何故そんなことをするのか、未だはっきりわかってないそうだ。

「少なくとも、あれは『合コン』じゃないと思うよ。
   おそらく、あそこにいる蝶は…全員オスのはずだから。」
「吸水行動するのは、主にオスだけってことなの?
   だとしたら、あれは…『飲み会』か、もしくは『酒屋談義』だね!」

居るのはちょうど4匹だし…あ、1匹だけ離れた所のを飲んでるのは、
きっとアカアシアゲハ…あそこだけ『ノンアルコール』だよ。
…と、しょーもないことを言いながら、クスクス笑い合う。
こういう『何でもないこと』を笑い合える心地良さ…幸せを感じる時間だ。


「青と言えば、俺もまだ青かった頃…」
「文字通り『青虫』だった頃ですね。」
…と、クロオアゲハ&アカアシアゲハのやり取りを、脳内で妄想していると、
「青と言えば…」と、背に乗ったヤマグチアゲハが会話に入ってきた。

「青い蝶々って、青く『見える』だけなんだってね。」
「海や空が青いのと、同じ理屈だよ。」

蝶の羽の色には、2つのタイプがある。
多数を占めるのが、羽に付着している鱗粉の色…赤や黄色の羽だ。
もう1つが、羽に入った条が光を反射させることで、青く見えるものだ。

「アオスジアゲハや、モルフォ蝶…青く見える部分には、鱗粉がないんだ。」
「青いのは、羽の構造がそう見せているだけ…孔雀の羽も、同じだよね!」

だから青い蝶は、見る角度を変えると、緑や紫に色が変化して見えるのだ。
黒でも白でもなく、赤でもない『曖昧な色』を、全部『青』と総称したのも、
青い光の持つ特色を写して、そう表現せざるを得なかったのかもしれない。


曖昧さを表す、青。
現実を写しているように見えて、現実とは違う…夢に似ている。

「『夢虫』…蝶々の別名なんだって。」
『胡蝶の夢』って言葉もあるし、蝶々が『夢虫』なのも、わかる気がするね。

それに、『夜の蝶』って言葉もある…深い濃紺の暗闇も、青の一部だし、
曖昧で掴み所のない遊女の本心も、ヒラヒラ舞う蝶々に…青にピッタリだね。

月島の背に乗ったまま、ふわふわと羽のように海中で足を動かした山口は、
その足をしっかり月島のカラダに絡め、腕で肩を包み込むように密着した。
月島は山口の腰を支えていた手を離し、今度は自分の腰に回された山口の足に、
その腕を重ね…膝から長い脛にかけて、水流を当てるように、緩々と撫でた。

青に隠されて見えない海の中で、コッソリと絡み合う。
何だか秘密を共有しているような、ゾクリとした感覚が、湧き上がってくる。


「僕が知ってる『夢虫』は…蝶じゃなくて、海の生物だよ。」

夢虫は、ウミグモの一種。蜘蛛に外形が似ているだけで、蜘蛛とは無関係だ。
それでも、『夢』と『蜘蛛』が…『海』で繋がった。

「海で絡む新婦…山口は絡新婦(じょろうぐも)で、僕の『夢虫』だね。」
「気に入った獲物は離さない…夢の中まで入り込んで、甘い蜜を吸うんだよ。」

まさに『サキュバス忠ちゃん』…そろそろ蜜を、頂こうかな?

ちゅるり…と、わざと音を立てて耳朶を吸い上げ、常世から現世へと誘う蝶。
青い光を乱反射させながら、月島は山口を背に絡ませたまま、海から上がった。





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簡易シャワーでカラダを流し、薄暗い物置小屋に入る。
ぱたんとドアを閉める音よりも、ずっと小さな音で背から降り立った山口は、
ジェットスキーに立て掛けてあった、青いビニールプールを床に置いた。

…ただ置いただけじゃなかった。
円形のプールを『伏して』置き、その上に山口は仰向けに寝そべり、
天に伸ばした腕を、蝶のようにひらひらと舞わせながら、月島を手招きした。

「もしかして、『サキュバス忠ちゃん』って…天鈿女?」

伏せた桶の上に寝て、胸を露わにし、紐を解いて陰部を見せながら、舞い踊る…
天岩戸に籠もった天照大神を、この世に惹き出すため、天鈿女が魅せた踊りだ。

シャワーで濡れたカラダが、ビニール製のプールで滑るのだろう。
バランスを取るために腰の位置を変え、下肢を張る姿…踊っているようだ。
これがもしや、行動不能に陥る『さそうおどり』か…と思いながら、
月島は山口に近付き、招かれるままに覆い被さった。


「このコースは…なし、ね?」

キスをしようと接近してきた月島の顔から、山口は眼鏡を抜き取った。
照明もなく視界はぼやけたが、10㎝程上がったシャッターの下から、
明るい昼間の光が物置内に差し込み、いつもよりずっと明るく…よく見える。

天鈿女のように、水着の腰紐を解き、サッと脱ごうとするが、
濡れた水着はなかなか脱ぎ辛いようで、山口は艶っぽく腰をくゆらせ続けた。

あられもない姿で、自ら下肢を晒そうとしている自分の痴態に、
山口は羞恥に頬を染め、「ツッキー、見ないで…」と懇願しようとした。
だが見上げた顔は、焦点を合わせるべく目を細め、ある一点を凝視…
そして、みるみるうちに首まで真っ赤にし、両掌で顔を覆い隠してしまった。

「ど…どうしたの、ツッキー!?どっか具合でも、悪い…?」
それとも、俺の変な格好に、気持ち悪くなっちゃった、とか…?

悪い想像をしてしまった山口は、ゴメンと言いながら起き上がろうとしたが、
月島がそれを遮り、思いっきり山口を抑え込み、プールに乗り上げてきた。

「その水着は…反則だよっ」
「…え?」


山口が着ているのは、ごくごく普通の、紺色をしたスクール水着だ。
月島の部屋の押入にあったうちの1つ…高校時代に使っていた『おさがり』だ。

「もしやツッキー、スク水に萌えちゃうタイプ…だったりする?」
「ちっ、違うよ!…多分。そうじゃなくて、ココに…」

左の腰付近を、月島が震える指で摘み上げる。
紺色の水着の中で、その部分だけが白い四角に染め抜かれており、
そこには油性ペンで『1-4 月島』と、持主の名前が書かれていた。

スク水の『おさがり』なんだから、これが書いあっても、何の不思議もないが…
首を傾げながら、ムギュ~っとしがみ付いてくる月島の背に腕を回すと、
月島は照れくささと嬉しさが混じった声で、ポソポソと囁いた。

「『月島』って、書いてある…っ」


山口は僕の『おさがり』を着てるだけなんだけど、コレは今…『正解』なんだ。
山口も僕と同じ『月島』になったから…コレで間違ってないんだよ。
こんなとこで、僕達が結婚した…山口が僕のものだって、実感しちゃうなんて…

「何か、凄い…じ~んとしちゃった。」

思い掛けない月島の言葉に、山口は息が止まりそうになった。
たったこれだけのことが、二人が結ばれたという証拠に…
自分が『月島』になったのが、夢じゃなくて現実だと、はっきり表すなんて。

感極まった二人は、互いにしがみ付きながら固く抱き合い、
何度も何度も、『自分のモノ』だと主張するように、口づけを交わし合った。


円形の台座の上に、四肢を広げた美しい蝶を、自分のカラダで貼り付ける。
自分の下から逃げてしまわないように、熱い楔でしっかりと繋ぎ止める。

蝶の片足には、蝶の名前を記した布を、わざと絡ませたまま…
深く繋がる動きに合わせて、持主を主張するかのように、ヒラヒラと揺らす。

暗い中、自分の下で羽ばたく蝶。
その光景が、『サキュバス』のイメージと、ある歌に重なった。


「山口…『蝶々夫人』って知ってる?」
「あっ…んっ…しっ、てる、よ…」

『蝶々夫人』は、長崎を舞台とした、プッチーニ作曲の名作オペラである。
没落藩士令嬢の蝶々さんと、海軍士官ピンカートンの恋愛を描いた物語の中で、
ようやく二人が結ばれ、初めての夜を過ごす第一幕の最後…
宵闇の庭に出た二人は、甘美で情熱的な二重唱を歌い上げるのだ。

幻惑的な光景の中、月島はとろりとした表情で、腕の中の蝶に囁きかけた。


「ねぇ…どうして山口は、一度も僕に『愛してる』って言ってくれないの?」

繋がり合い、キスをしながら、愛の歌を奏でる月島。

「言ってくれなかったのは、ツッキーじゃん」という現実的なツッコミは、
あまりにも甘く、夢のような月島の声に包まれ、山口の脳内から掻き消された。

激レアな月島の姿に、カラダ中に熱が迸り、まるで酔ったかのような浮遊感…
止め処なく溢れる羞恥心に、月島の求める言葉など、到底出せそうになかった。

「そんなのっ、言えない、よ…
   恥かしくて、死んじゃう、からっ」

もっと恥かしいコトをしてる真っ最中なのに…何を今更。
こんな可愛い人が、僕の伴侶だなんて、本当に…夢みたいだよ。

「死ぬどころか、喜びのあまり…イっちゃうかもね。」

あれ…?
今のこの状況は『現実』だけど…『サキュバス忠ちゃん』のコースの中。
蝶を青に貼り付けて…これは夢なのか現なのか、よくわからなくなってきた。
これが本当の『胡蝶の夢』ならば、イくとしたら、常世と現世の…どっち?

まぁ…夢でも現でも、ゴクラクでも。
イくのなら、山口と一緒がいい…それだけで十分だ。


青に貼り付けた山口の手に、そっとキスを落とす。
唇だと…蝶が恥ずかしがって、逃げてしまいそうだから。

「ホントに、蝶々みたいに…ツッキーのピンで、留められちゃった…」

   夏休みの、昆虫採集…
   最後に残ってた宿題が、できた…ね?

ピンが抜けないように、下からしっかりと脚を絡め、腰を合わせて踊る。
自ら激しく蜜を求め舞い上がる、煽情的な蝶の姿に、月島は深く溺れていった。

「もう、絶対に…逃がさない。」
この蝶は…僕のもの、だから。


『独占』を宣言する、愛の言葉。
蝶は大きく羽を広げ、持主に願った。


「ずっとずっと、可愛がって…ね?」





- 完 -





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※三羽烏について →『抵抗溶接
※蝶々夫人第一幕・愛の二重唱(ラブソング)
   →『可愛がってくださいね』



2017/08/31

 

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