「お疲れさん。」
「ひゃぁっ!?」
梟谷グループの合同練習終了後。
帰還準備をしつつ、トイレで小休止…顔と疲れを洗い流し、
首に掛けたタオルを手に取った瞬間、露わになった部分に冷たい感触。
驚いて声と顔を上げると、鏡の中に耳慣れた声の『見知った顔』があった。
「驚かせて…悪かったな。」
黒尾は赤葦の前髪から垂れる雫を指先で掬い、柔らかく微笑んだ。
「全く…心臓に悪いです。」
赤葦は黒尾から隠す様に、タオルに顔を埋めて小声で答えた。
場に訪れる…重い沈黙。
黒尾は赤葦の首筋に当てた紙パックを、「ほら!」と赤葦の手に握らせ、
蛇口を盛大に開けて、バシャバシャと顔を洗い始めた。
「このコーヒー牛乳…俺が頂いても、宜しいんですか?」
やや緊張気味の声で、赤葦は黒尾に尋ねた。
黒尾は同じようにタオルで顔を隠しながら、コクリと頷いた。
「先月お前から貰ったやつの…それが『お返し』だよ。」
黒尾の答えに、赤葦は息を飲んだ。
そして、恐る恐る…探るように再度黒尾に問い掛けた。
「本当に俺が…受け取っていいんですね?」
「そうだ。『そういう意味』として…な。」
はっきりとした黒尾の言葉に、赤葦は顔を真っ赤に染め…
声にならない声をタオルの中に零し、その場にしゃがみ込んだ。
先月の合同練習終了後も、黒尾はいつものようにここで一息ついていた。
新主将を拝命してからは、業務増大…帰還前の小休止を取っていたら、
同じように新副主将となった赤葦が、同じ目的でやって来た。
そして、今日黒尾が赤葦がしたのと同じように、
黒尾の首筋に冷え冷えのペットボトルを、ピタリと押し当てたのだ。
これ…どうぞ。
ちょっと早いですし、本当は『カシスグレープ』じゃなくて、
『カシスグレープフルーツ』なんですけど…これしかなかったので。
年齢的にも、本物はまだ早いので…今回は、これで。
そう早口で言うと、赤葦は黒尾にボトルを握らせ、走り去っていったのだ。
赤葦の様子も妙だったし、言っていたこともよくわからない…
せっかく会えたのに、それだけしか話せなかったのも、ちょっと残念だった。
「帰りの電車で、あれが何を意味しているのか…調べて、考えたんだ。」
時期は2月中旬…恐らく、本来は『数日後』が正式という意味だろう。
そして年齢的にも『数年後』が正しく、カシスグレープではなく、
カシスグレープフルーツがキーワードとなるもの…
調べると、答えはすぐに『ルジェカシスグレープフルーツ』と判明した。
…2月14日の『本日のカクテル』だった。
つまりこれは…赤葦から俺への、『2月14日の贈り物』という意味だ。
それに気付いた俺は…すぐに『3月14日のカクテル』を調べた。
『ビターカルーアミルク』は、コーヒーリキュールをミルクで割ったお酒…
お前にも本物は『ちょっと早い』から、コーヒー牛乳にしたんだ。
この解釈で…これが俺の『返事』で、よかったか?
黒尾の確認に、赤葦もタオルで顔を隠したまま、静かに頷いた。
そのままボソボソ早口で(恐らくこれも照れ隠し)…言葉を紡ぎ始めた。
「気付いて貰えるかどうか…気付いて貰えなくても、良かったんです。」
同じグループで切磋琢磨し合う、ライバルチーム同士なのに、
溜まったものを吐き出す姿を曝し合え、労い合える人が居た…
ここで黒尾さんと『リフレッシュ』するのが、楽しみになっていました。
そんな黒尾さんのことを、いつの間にか『そういう意味』として…
いくら同じグループで、月一回程度こうしてお会いするとしても、
学校も学年も違う『袖すり合う程度』の関係ですから、
堂々と気持ちを伝えるわけにもいかず、ましてや合同練習にチョコなんて…
ですから、自分の気持ちに区切りを付けるために、
『それ』とは一見わからないように、黒尾さんにお渡ししたんです。
気付いて貰えなかったら、それまで。
「お疲れさまです。」の気持ちとして、俺はジュースを差し入れただけ…
今まで通り、『親しい顔見知り』のままでいようと、思っていました。
淡い期待が全くなかったかと言えば、嘘になりますが、
俺の込めた微かな意図に、気付いて貰えただけじゃなく、
まさか『そういう意味』として『お返し』を頂けるなんて…
「嬉しすぎて…顔を上げられません。」
「それなら…そのままで、いいから。」
黒尾はタオルに包まれた赤葦の頭を、ポンポンと優しく撫で、
こちらもいつもより早口で…語り始めた。
「気付いたというか…俺の『都合のいい解釈』かもなって。」
俺の方も、いつの間にか『袖すり合う程度』のお前のことを…
ただの『差し入れ』かもしれないのに、舞い上がる程嬉しかった事実に、
俺ははっきりと…赤葦への気持ちを自覚したんだ。
だから、貰えたジュースに『もしかしたら』って可能性を見出した時に、
それが間違ってても『差し入れのお返し』って言い訳が立つように、
俺も同じ方法で、赤葦に渡してみようと思ったんだ。
赤葦の「本当に受け取ってもいいのか?」っていう確認を聞いて、
俺に都合のいい解釈じゃなくて…間違ってなくて、すっげぇ安心した。
だからっ、そのっ、何だっ、つまり…っ
今は俺も、お前の顔を見る余裕は…さっ、先に帰るなっ!
それじゃあ、おおおっ、お疲れサン!
黒尾はそう言うと、音を立てて扉を閉め、トイレから走り去って行った。
一人になったトイレで、赤葦はもう一度タオルに大きく甘いため息…
逸る鼓動と頬の熱を落ち着けようと、深呼吸を繰り返した。
信じられない…この想いが伝わるなんて。
ここで俺に声を掛け、労ってくれていたのも、別に俺が『特別』なんじゃなくて、
黒尾さんならば、誰にでも優しく、手を差し伸べるはず…
その優しさを『勘違い』しちゃダメだと、ずっと自分に言い聞かせていた。
でも、もう抑えきれないほどに想いが膨らんでしまい…
だからこそ、伝わらなかった時の保険として、こんな遠回しの手を使った。
今の二人の関係が、壊れてしまわないように。自分も…傷つかないように。
だけど、ちゃんと想いは伝わった。そして…通じ合えた。
勇気を振り絞って、本当に良かった。
この奇跡のような幸運…あぁダメだ、まだ心臓が痛い。幸せで死にそうだ。
「そろそろ、戻らないと…顔洗ったら、少し落ち着く、か?」
よろよろと立ち上がり、洗面台に向かった瞬間に、
再びバタン!!と大きな音を立てて扉が開き、心臓が止まりそうになった。
「うわぁっ!?」
「忘れ物だっ!」
飛び込んで来たのは、さっき出て行ったばかりの黒尾。
飛び上がって驚いた赤葦に、「わっ悪いっ!」と一言謝ると、
ポケットから取り出した小さな紙を、赤葦の手にギュっと握らせた。
「これ、俺の連絡先だ。後でそっちから連絡貰えると…助かる。」
「あっ!?俺達、お互いの連絡先も…まだ知りませんでしたね。」
これから帰還して、片付け等…遅くなるかもしれませんが、
必ず今日のうちに、ご連絡致しますね。
気持ちを伝え合って、それで大満足。
連絡先も知らないまま、帰ってしまうところだった。
自分達がいかに動揺し、浮ついていたか…バレバレだった。
互いに顔を見合わせ、はにかんだように照れ笑い。
それじゃあ、今度こそ本当に…またな。
黒尾はそう言うと、トイレの扉に手を掛け…もう一度振り返った。
そして、赤葦が首から下げていたタオルを、自分の方へ引き寄せた。
「もう一個、忘れ物…」
ほんの一瞬だけ、触れた唇。
すぐに離れると、黒尾はもう振り返らず…今度は静かに扉を閉めて行った。
「顔洗うの、やめよ…」
火照った顔を誤魔化すため、赤葦は扉を大きく開き、
全力疾走でトイレから駆け出した。
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終 -
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※この半年後の二人 →『忘物注意』
2017/03/16 (2017/03/14分 MEMO小咄を加筆修正・移設)