「あ…黒尾さん、お疲れさまです。」
「お、そっちもお疲れさん…だな。」
週末毎に集まり、ひたすら試合をこなす武者修行…
梟谷グループの秋は、何かに急き立てられるような過密さだった。
平日は通常通り学校…しかも、何かしらの行事も多い季節。
放課後はそれらの『部活以外』の領分もこなしつつ、部活に精を出す。
じっくりバレーのできる週末は、とことんそれに費やす…
一体、いつ自分達は休んでいるのだろうか…?と、自問自答してしまう。
特に『主将』『副主将』といった役職付の人間にとって、
週末は一週間のうち最も過酷で、休む隙など存在しない。
練習試合で他校に居る間など、プライベートな時間と言えば、
それこそ…トイレぐらいしか思い付かない。
今週の練習試合もやっと終わり、後は…引率か。
「音駒さんも、これから帰還ですか?…心中お察しします。」
「梟谷さんは、今回『ホーム』だな…心底羨ましく思うぜ。」
梟谷学園、男子トイレ。
部員達の引率という、最後の『一大事業』を前に、
主将の黒尾は、トイレを口実に『気分転換』していた。
誰も居ないトイレで、疲労が籠った重いため息を手洗器に流し、
誰にも見つからないよう、鏡の中の自分に『気合』を入れていると、
きっと同じ目的だろう…赤葦が入って来た。
帰還引率という業務がない代わりに、梟谷には『後片付け』がある。
練習場所はグループ内で持ち回り制のため、
黒尾も『ホーム』…後片付けがいかに大変か、よくわかっている。
本心では、『心底羨ましい』などとは、とても思えなかった。
隣の手洗器の前に立ち、赤葦は勢いよく水を流し…顔を洗った。
平均以上の身長がある赤葦には、手洗器の高さが低すぎて、
かなり腰を折らなければならず、窮屈そうだった。
すっげぇ、辛そうだな…と、黒尾は他人事のように思った。
首に掛けたタオルで顔を拭きながら、
そのタオルの中に、ふぅ~っと、息を吐き出している音がする。
そして、頬をパンパンと強めに叩き、『気合』を入れる。
こうして赤葦も、部員達に隠れてコッソリ…『気分転換』しているのだ。
似たような立場かつ、『外』の人間だからこそ、
絶対に『内』の人間には見せられない姿を、曝し合えるのかもしれない。
「そろそろ…お時間じゃないですか?」
「そうだな…ぼちぼち帰るとするか。」
目の前の、鏡の中の相手に…少しだけ横目で見ながら、話しかける。
できるだけ直接…相手の目を見たりしないように。
「では…忘れ物等には、十分お気を付け下さいね。」
「まぁ…たとえ忘れても、すぐ取りに戻るけどな。」
それじゃあ、またな。
黒尾はそう言うと、赤葦の後ろをスっと通り過ぎ、
静かにトイレから出て行った。
「あ、ヤべぇ…」
梟谷の最寄駅改札で、黒尾は慌てた声を上げた。
部員達は全員改札を通り抜け、半数はホームへの階段を降りていた。
「クロ…どうしたの?」
「いや、財布が…」
黒尾の直前に改札を抜けた研磨。
声に気付いて振り返ると、鞄の中に手を突っ込み、『捜索中』の黒尾の姿。
財布はいつも、尻ポケットに入れていたはず…それが行方不明だったため、
慌てて改札前で、鞄の中を検めていたのだろう。
「最後にトイレ行った時…忘れたんじゃない?」
「あっ!?手洗器の…棚のとこだ!」
悪ぃ研磨、取りに行ってくるから…あと頼むわ。
鞄を背負い直し、「すまん!」と手を合わせる黒尾。
「今日は駅で解散…ミーティングは明日って、みんなに伝えてくれ。」
「わかった。じゃあ…」
クロもいろいろ、『オツカレサマ』…だね。
今日ぐらいはのんびり、帰ってくるといいよ。
研磨は口の端を少しだけ緩めると、踵を返して階段を降りた。
******
「そろそろいらっしゃる頃だと思っていました。」
「さすが赤葦だな。手間かけさせて悪かったな。」
校門前に一人佇んでいた赤葦は、戻ってきた黒尾に、
眉を寄せながら、忘れ物の財布を手渡した。
「俺は、『忘れ物にご注意下さい』と言ったはずですが?」
「俺の言った通りに、『すぐ取りに戻って』来ただろう?」
財布を尻ポケットに入れた黒尾は、駅…とは反対方向に足を向けた。
少し前を歩き始めた、赤葦のほんの少し後ろを、ついて行く。
さっきまで、空にはまだ茜色が残っていたはずなのに、
いつの間にか、もうすっかり濃紺…陽が落ちるのも、早くなってきた。
「ずっと疑問に思っていたことがあるんですが…」
歩を緩めた赤葦が、前を向いたまま黒尾に語り掛けた。
黒尾は赤葦の隣に並び、同じく前だけを見て、先を促した。
「何か物事を始める時には、『指を染める』と言いますよね?」
この物事が『悪事』だった時には…『手を汚す』ことになります。
「では、この悪事をやめる時には…?」
「『足を洗う』…だな。」
「どうして手を汚したのに、足を洗うのか…不思議ですよね。」
手は結局…汚れたままじゃないですか。
赤葦は街灯に自分の手を翳し、黒尾に見せた。
黒尾はその手を取って『汚れ』を確認し…握ったまま下ろした。
「足を洗ったつもりでも、結局悪事がバレてしまった場合等…
そんな時は、潔く『腹を括って』…」
「今度は『首を洗って待つ』…か。またしても洗う場所が違うよな。」
『体の一部』を使った慣用表現は、手に余るほど存在するが、
できれば洗う場所は統一した方がいいのでは…?と、若干思ってしまう。
心を入れ替えたのかどうか、これではサッパリわからないではないか。
「そう言えば、『腹が黒い』も慣用表現ですね。」
「『頭がキレる』だって、似たような意味だな。」
赤葦が完全に歩を止めると、黒尾は掴んでいた手をそっと離した。
自由になった手で鞄から鍵を出し、赤葦は自宅の玄関を開けた。
玄関に入ると、ホールの灯りは点いていたが…人の気配がない。
自室へ向かう階段を上る赤葦の背に、黒尾はボソリと呟いた。
「親の居ない自宅に引き込むとは…どういう『腹積もり』だ?」
「おや、相手の『胸の内を読む』…黒尾さんお得意ですよね?」
隠した場所と、読む場所が違ったら…結局わかんねぇよな。
洗う場所以上に、こっちは統一してもらわないと…頭が痛い問題だ。
肩の重荷…鞄を赤葦が下ろす音と、黒尾が部屋の扉を閉める音。
その次に、カーテンを引く音と、重荷を投げ捨てる音が、同時に響く。
その音が鳴りやまない内に、洗って待っていた首を互いに引き寄せ合う。
「腹でも胸でもダメなら…お前の『眉を読む』しかねぇな。」
お前の本心…どこならわかる?と、黒尾は赤葦の顔を覗き込んだ。
赤葦はパチパチと大きく瞬きし、意外と長い睫毛を動かした。
「『眉』は構いませんが…『睫を読まれる』のは御免です。」
狐に睫を読まれると、化かされてしまう…らしい。
騙されたり、化かされるのは嫌だ…と、赤葦は黒尾の耳に留めさせた。
黒尾は小鼻を蠢かせながら、口裏を引いた。
「…と言いながら、お前は俺の『鼻毛を読む』んだろ?」
「全く…あなたは本当に、『口の減らない』方ですね。」
黒尾は赤葦に額を合わせ、瞳を凝らした。
「そういうお前こそ…『目は口ほどにものを言う』、だぜ?」
この目に滾っているモノを知っているから、ずっと目を合わせなかった。
視線を絡ませたら…自分の中にも同じモノがあると、バレてしまうから。
それに気付いてしまったら、抑えが効かなくなってしまうことも…
お互い、手に取る様にわかっていた。
黒尾の言葉に、赤葦はゆっくりと瞼を下した。
「では、おしゃべりな『目』の方は…自分で黙らせますね。」
『口』の方は…黒尾さんにお任せします。
その言葉通り、これ以上のおしゃべりは不要…と、
二人は互いの唇を封じ込めた。
塞いだはずなのに、今までよりも饒舌に、互いの本心を語り始める。
見えない『本心』は…『体』全体で確かめ合えばいいだけ。
探り合いに本腰を入れはじめた黒尾。
赤葦はそれに、腰を浮かせて答えた。
- 完 -
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※鼻毛を読む →惚れている相手の心を見透かして翻弄すること。
2016/10/10UP