※『猫手梟爪』直後。




    猫心梟心







「な…何だったんだ、一体…」

孤爪を捕獲したまではよかったが、その後は全く思い通りにいかず…
逆に、言いたい放題言われ、手痛い反撃を喰らってしまった。
それどころか、本来の目的である『近況を探る』ことも結局できないまま、
最初から最後まで、孤爪のペースで玩ばれる始末。

「く…っ!!」
悔しい、という言葉を口に出すのも、悔しくてたまらない。
何が悔しいって、もう…全部だ。

    一度も自分のペースを作れず、全てを見透かされていたことも。
    『幼馴染』という絶対的アドバンテージが、孤爪にあることも。
    そして、孤爪が言っていたことが、全て…正論だということも。

とにかく全てが…悔しくてたまらなかった。


ぎゅ…と、膝を強く抱え直し、そこに額を乗せる。
温もりよりも、寒々しい『冬の夜』の接近を感じさせる、夕焼けの燈色。
背を温めているはずの焼却炉の熱も、段々と弱くなってきた気がする。

こんなところで、のんびりサボっていいはずはない。
早々に撤収作業を終え、部員達を引き連れて…バスで学校へ戻らねば。
戻ったら、今日の合同練習で得られたことをまとめ、課題を見出し、
今後の『新生・梟谷排球部』を構築するための、策を練らなければ…

3年生が引退した今、俺に課せられた責務は…非常に重い。
同じ2年で主力を務めた者も、役職に就いていた者もいなかった分、
『いかに部を回すか』という実務を知っているのは…俺しかいない。
春に新入部員が入ってくるまでの間に、集団としての素地を作らなければ…
俺には『~しなければならない』が、山のように存在するのだ。

そんなことは、十分わかっている。
わかっているけど…ここから、動けない。
「戻りたくない!」と、抱え込んだ胸の内が…絶叫している。

    もう嫌だ…何も、考えたくない。
    全てから…逃げ出してしまいたい。

辛い練習や、眩暈がしそうな程の業務を抱えている時に、
こういう気分になることが、今までにも何度かあった。
大抵それは、合宿や合同練習といった、『特殊業務』が追加で課される時だ。
それでも投げ出さずにいられたのは、試合が間近に迫っていたことに加え、
そういうタイミングを見計らったかのように、
さりげなく声を掛け、手を差し伸べてくれる人が居たからだ。

    (あの人のおかげで、俺は何とか踏ん張れていたのに…)

大会も終わり、ちょっとした『燃え尽き症候群』のような、気の緩みもある。
そして、支えになってくれていた人も…居なくなってしまった。

別に引退したからといって、あの人との縁が切れるわけではない。
『なんとなく部活繋がり』や、『自主練も一緒にする比較的仲良し』ではなく、
部活を抜きにした、個人的な繋がりがある…『特別なカンケー』なのだ。
だがそれ故に、『連絡したくてもできない』現状が、じわじわと俺を苦しめ…
どうしょうもない息苦しさを感じさせてしまう。

心にぽっかり空いてしまった空虚感と、やるせない焦燥感。
それらが相まって…ここから動く気力を俺から奪っていく。


できることなら、職務も何もかも全て投げ出して、
相手の迷惑も顧みずに…逢いに行ってしまいたい。

    (もしかしたら、この近くに…校内のどこかに、居るかもしれない…)

逃げたい。声が聞きたい。逢いたい。逢って…
それができたら、どんなに幸せだろうか。
でも…できるわけ、ないじゃないか。

職務放棄してしまったら、伝統ある『梟谷学園排球部』の存続に支障をきたす。
もしも激情に駆られて連絡し、逢いに行ってしまったら…
人生を左右する『大学受験』という大事な時期に、邪魔をすることになる。
俺一人のワガママで、皆やあの人に迷惑を掛けることなど、許されるわけ…ない。

    (いや…違う。俺が恐れているのは…そんなことじゃない。)

責任から逃れ、迷惑を掛けた自分を、皆は非難し侮蔑するだろう。
俺への信用も評価も失墜し、梟谷では必要とされなくなるかもしれない。
そして何よりも、大事な時期に邪魔をしてしまったことで、
あの人に…嫌われてしまうかもしれないのだ。

    (そんな恐ろしいこと…俺には、耐えられない。)

結局俺は、周りのことを優先しているようで、その実…自分が可愛いだけだ。
責任感が強く、気遣いができる参謀…だなんて、ただの見せ掛けにすぎない。
ただただ、今の立場と居場所を失いたくないだけ…
断ることもできず、自分から動くこともできない、臆病で…弱い人間だ。

    (本当に…自分が嫌になる。)


何かに圧し潰されそうな息苦しさと、恐怖感。
いつも「お前はホントに凄ぇ参謀だな。」と褒めてくれていた、強いあの人が、
『本当の俺』が、卑怯で弱い…ワガママな人間だと知った時、
俺のことを嫌わないでいてくれるとは…到底思えない。
でも…それでも、やっぱり…

    (逢いたい…黒尾さんに、逢いたい…っ!!)

込み上げてくるものを必死に堪え、抱えた膝の間に深く息を吐く。
身を焦がす想いも、後ろの焼却炉が…燃やし尽くしてくれればいいのに。
こんなに辛いのなら、むしろ『特別なカンケー』になど、ならなければ…

…いや、今そんなことを考えても、無駄だ。
この息を吐き終わったら…職務に戻ろう。

そう決意した瞬間、突如ポケットが激しく振動した。


俺は驚きのあまり、吐ききる前に、その息を飲み込んでしまった。
げほげほと咳き込みながらスマホを開き…今度は呼吸が止まった。


    『お前に逢いたい。何とか抜けられねぇか?』


約三週間ぶりに届いた、あの人からの連絡。
その文面に、俺は弾かれたように立ち上がり…体育館へと駆け出した。




***************





体育館前に戻ると、部員達は撤収作業をあらかた終え、
学校へ戻るマイクロバスに、荷物を積み込んでいるところだった。
練習の疲れはあるものの、皆リラックスして楽しそうな表情…
誰一人として、俺がサボっていたことには、気付いていないようだった。

それには安堵しつつも…俺なんか、ホントは居なくても…?という、
後ろ向きな言葉が脳内を過ぎり、慌ててそれを振り払った。

部員達の作業を、少し離れた所から見ていた監督を見つけ、
俺は頭を下げながら、そこに駆け寄った。


「監督、すみません…少々宜しいでしょうか?」
「どうした、赤葦?…珍しいな。」

息を切らせ、切羽詰まった表情の俺に、監督は一瞬驚いた顔を見せたが、
すぐに冷静な表情に戻り、周りからは死角となる柱の裏に、俺をいざなった。

「無理を承知でお願いします…
   この場で俺だけ、『現地解散』させて頂けませんでしょうか?」

どう監督に切り出すべきか、走って戻る間、散々考えた。
家庭の都合、突発的な腹痛…だが、嘘だけはつきたくなかったから、
監督には正直に…玉砕覚悟で願い出てみることにした。
これでダメなら、もうきっぱり諦めよう…色々と。

どういうことだ?と、怪訝そうな目で理由を問う監督。
申し訳なさと恐怖感で、震えそうになる声…それを強引に抑え込みながら、
監督の目をしっかりと見据え、俺は丁寧に事情を説明した。

「俺は今、『今後』について…迷っています。」
先輩達が引退し、絶対的エースも居なくなってしまった、梟谷学園排球部…
これをいかに立て直し、新たなチームを構築していくべきか。
その重責を、自分がちゃんと担っていけるのかどうか。
木兎さんのようなカリスマ性のない自分に、皆が付いて来てくれるのだろうか。

「俺は、ただの『参謀』です…『頂点』に立つ素養は、ありません。」
今のままでは、俺がこのチームの『柱』となることは、非常に難しい…
だから、『今後』自分がどうすべきか考えるため…相談したい人がいるんです。

そこまで一気に言うと、黙って俺の話を聞いてくれていた監督は、
目を閉じて静かに頷き…明朗な声で断言した。


「それは、音駒の元主将…黒尾、だな?」
「っ!!?は、はい…」

な、何故、わかったのだろうか…?
監督の慧眼に驚いていると、厳しい表情を少し緩め、もう一度頷いた。

「彼なら…適任だな。」
木兎のような、輝くカリスマ性を持つわけでもない。
堅実な選手ではあるが、飛びぬけた才能や、『華』があるわけでもない。
それなのに、クセ者揃いの音駒を率い、猫又監督が多大な信頼を寄せていた。
まさに『智将』…その手腕と実力には、私も一目置いていた。
プレイスタイルや性格から考えても、赤葦とは似たタイプだろうな。

「彼からお前が学べることは、実に多いだろう…是非、行って来い。」
「え…よ、宜しいんです、か…?」

あまりにもアッサリと、許可が下りてしまった。
許可というよりも、推奨…本当に、いいのだろうか?

喜びよりも困惑が、脳内を支配する。
そして、次に監督が発した言葉に、困惑よりも驚愕で…声を失ってしまった。

「赤葦…すまなかった。」

参謀として。セッターとして。
そして、私を含め誰一人成し得なかった…『猛獣』使いとして。
梟谷の『要』としての役割を、赤葦は完璧にこなしてくれていた。
そんなお前に、梟谷の全員が…甘え、頼り過ぎていた。

新チームを立て直し、構築しなおすのは、本来『監督』である私の責務だ。
その重責を、お前にも背負わせてしまったこと…本当に申し訳なく思う。
あまりに優秀すぎて、赤葦もただの『高校生』だということを、忘れていた。

「お前の『支え』となるような存在を、梟谷の中に作ってやれなかったこと…
   心から申し訳なく思っている。本当に…すまなかった。」

俺に対し、深々と頭を下げる監督。
その姿と言葉に、俺は呆然と立ち竦んだままだった。
監督が、この俺を…そこまで評価してくれていた…?
俺のことを、ちゃんと…見ていてくれたというのか。


頭を上げた監督は、滅多に見せない優しい表情で、
完全に凝固する俺の頭を、ポンポンと撫でてくれた。

「現地解散…ここで『別行動』を申し出たぐらいで、
   お前が『職務放棄』したなど…誰もそんな風には思わない。」
その程度のワガママ…いや、『今後』のために必要なことなのだから、
『ワガママ』のうちにも入らないだろう。

「たとえ本当に赤葦がワガママを言ったとしても…誰も怒ったりしない。」
なぜなら…つい最近まで、お前の数億倍ワガママな奴に、
梟谷の全員が…この私ですら、散々振り回されていたのだから。
この程度のことで、お前に対する信頼が失われることなど、有り得ない。
そんな些細な事で悩むな…お前は全てに於いて、『気にしすぎ』だ。

「だから、安心して…黒尾の所に行って来い。
   そして、『今後』のことを…ちゃんと話し合って来るんだ。」

「あ…ありがとう、ございます…っ」
ようやく絞り出した、感謝の言葉。
これ以上のものは、どうやっても出てこない…

恐怖や困惑とは全く違う感情で、震える声と体。
監督はそれを慰めてくれるように、再度頭を撫で、柔らかい声で告げた。


「明日の練習は…休みだ。」
「えっ…確か、13時からだったはずでは…?」
「年末年始に溜まった疲れ…解消することも、重要だ。」
「それは、そうですけど…」

監督は、一体…何を言い出したんだろうか。
またしても困惑に首を傾げる俺に、監督は小声で囁いた。

「私も、家族を…大切な相手を、しばらく…なおざりにしていたからな。」
仕事の忙しさにかまけて、この年末年始…寂しい思いをさせてしまった。
明日は久しぶりに、私も家族とのんびり過ごすことにするよ。
勿論、皆には『どうしても外せない、家庭のゆゆしき事態』とでも…
適当な『言い訳』で、誤魔化しておくがな。
「この私にだって、安心できる場所で、羽を伸ばしたい時が…あるんだ。」

初めて見る、監督のお茶目な…やや照れた表情。
時折、監督が『家庭の事情』等の理由で部活を休むが…これが『真実』か。
監督でさえ、仕事よりもプライベートを優先し、休息したい時がある…
多少の『ワガママ』を言っても、許されているのだ。

この『真実』は、俺を心底…安堵させた。
ようやく肩の力が少し抜け、つかえていた息の塊が、ふっと出て来た。


これは『監督』としてではなく、人生の『先達』としての助言だが…
そう前置きし、監督はキュっと表情を引き締めた。

「与えられた役割…『仕事』は勿論大事だ。だが…『自分』も大事だ。
   何人たりとも、自分の気持ちには、嘘は付けない…それを忘れるな。」
『献身』と『自己犠牲』は、似て非なるものだ。
お前はもっと、自分の気持ちに素直になれ。
そして、それを受け止めてくれる相手を…大切にするんだ。

「当然だが…相手の気持ちも、ちゃんと受け止めてやれよ?」

ほら…早く行って来い。

監督に思い切り背を叩かれ、俺は『前へ』踏み出した。
そのまま数歩進んで振り返り…心から感謝を込め、深々と頭を下げた。



走り去る赤葦の後姿に、何故だか既視感を覚えてしまった。
この感覚…つい最近、ごく似たようなものを…

すぐに思い浮かんだのが、年末に久々に会った、長女の姿。
お父さん、この人と結婚したいの…という、所謂『ご挨拶』だった。
娘の成長を喜び、幸せを心から願う一方で、募る言い様のない寂しさ…
これが『娘を嫁にやる気持ち』か…と、去り行く背中を茫然と眺め、見送った。
今まさに、その時と同じような気分…

「な…何を言ってるんだ、私は。」

何かを振り払うように嘆息し、皆が待つバスへと向かった。





***************





「ここで『別行動』を取る件、了承得られました。」という連絡に対し、
「良かった。それじゃあ、さっきの写真の場所で。」という返事が来た。

さっきの写真…孤爪が強引に撮った、焼却炉での…だろうか。
すっかり陽は落ち、外灯もほとんどない体育館裏は、
焼却炉に近づくに連れて、足元すら覚束無い程の『真っ暗』だったが、
そこへ向かう俺には、先程までよりも何だか『明るく』感じられた。

ほんの20分前に座っていた、焼却炉前の階段。
どかりと足元に鞄を置き、深呼吸…放射熱はもうほとんどなく、
ジャージ越しに触れたコンクリートの冷たさに、一瞬ヒヤッとしたものの、
それが高まる鼓動を抑えてくれ…むしろ好都合だった。

ついさっきまでと、同じ格好…膝を抱え、額を乗せる。
少し鼻をひくつかせて、自分の匂いをチェック。
恐らく大丈夫…か?『汗ふきシート』の、柑橘系の香りしかしなかった。
今度は髪に手を添え…しまった、さっきトイレで、鏡を見ておくべきだった。
ジャージに汚れは…こんな暗い所じゃ、全くわからない。

折角久しぶりに逢えるのに…この格好で良かった…のか?
前回顔を合わせたのは、確か…春高の会場だ。
まままっまずい、その時と全く同じ格好…って、当たり前じゃないか。
むしろ、ジャージやユニフォーム、制服以外の姿なんて、見たことない。
こっちも、それ以外の衣装を見せた覚えも…全くない。

    (俺達、本当に『プライベート』で逢ったこと…ないんだ。)

「よくこれで、『付き合ってる』って言えるよね…」
全く以って、孤爪の言う通りだ。冷た~い目で詰られても、仕方ない。
これがもし『他人の話』だったら、俺ですら呆れているだろう。

俺が一人で勝手に『思い出し悔しがり』をしていると、
パタパタと駆けてくる足音が、少しずつ近づいてきた。
やっと…やっと、逢える…緊張を鎮めるべく、膝に顔を押し付ける。


「悪い、待たせたな…」
「いえ、そんな…は?」

懐かしい声。暴発しそうな想いを抑えながら、バっと顔を上げ…
予想だにしなかった黒尾さんの姿に、俺は間抜けな声を上げてしまった。

「学食の…お母さん?」
「そう見える…よな。」

久々に見る黒尾さんは、夜目に見ても…真っ白だった。
おそらく、いつものジャージの上に、割烹着を付けているのだろう。
しかもご丁寧なことに、三角巾まで頭に乗せていた。

「その…意外とお似合い、ですよ?」
「そっ、そうか?なら…良かった。」

訪れる沈黙。
もう、何から突っ込んでいいのか、わからない…
頭の中まで、真っ白になってしまった。
だがそれが、直前までの緊張感や、それ以前の焦燥感を吹き飛ばし、
良い意味で『真っ白』にしてくれた。

お互いに顔を見合わせ…同時に『ふっ』と頬を綻ばせた。

「ここじゃ寒いし…部室に来ねえか?」
「お邪魔しても宜しいのなら…是非。」

そう言うと、黒尾さんは足元にあった俺の荷物を肩に掛け、
「ほら…」とこちらに手を差し伸べて、立たせてくれた。
触れた暖かい手…冷えきっていた俺の手に驚いた顔をしたが、
再度しっかりと握り直し、そのまま手を引いて歩き始めた。

    (あ…手、繋いだ、まま…っ)

暗い体育館裏。
土曜の日没後で、周りには誰も居ない。
それでも、校内で手を繋いで歩くなんて…

    (凄く、ドキドキする…)

非常灯の淡い光が、少し前を歩く黒尾さんの横顔を、仄かに照らす。
こちらを見ようとはしないけれど、揺れる三角巾の縁から見え隠れする頬が、
ほんのちょっとだけ、赤くなっているような気がした。

    (は…恥ずかしい…)

黒尾さんの赤い顔を、見ないように。
繋いだ手を、視界に入れないように。

足元だけを凝視していると、視界の隅でヒラヒラ…割烹着のレースが踊る。
それが妙に可笑しくて、俺はいつしか恥ずかしさを忘れ、笑いを堪えていた。

    (その格好…大正解ですよ。)

これほどまでに警戒心と緊張感を解く衣装など、なかなかないだろう。
学食のお母さん…何だかホッとしてきたし、何よりもお腹が空いてきた。
あぁ…ご飯たっぷりの、丼物が食べたい。


そうこうしているうちに、部室に到着したようだ。
黒尾さんはポケットから鍵を出し、慣れた手付きで開け、中へ誘った。

「今日だけは自信を持って言える。ここは散らかってない…と。」

お邪魔します…と入った室内は、自信を持って言うだけあって、
移転直後の新事務所か?というぐらい、スッキリと片付いていた。
とても超体育会系男子の部室(しかも女子マネージャーなし)とは思えない。
板張りの床も磨かれ、モノも落ちていない…気味が悪いぐらいの綺麗さだ。

それよりも、俺の注意を引いたのは、部室の真ん中にあった座卓だ。
その上には、見覚えのある丼物チェーン店の袋。部室中に漂う、いい香り…

「くくく黒尾さんっ、もしや、これは…っ!!」
感激のあまり、やや涙目になってしまった。
まさに『食べたい♪』と思っていたものが、目の前に…っ!!
「練習後で、腹…めちゃくちゃ減ってんだろ?」

コクコクコク!!と首を激しく上下に振る。
はいはいはい、ちょっと待て…と、袋から丼を出す、お母さ…黒尾さん。
「特盛・つゆだくで…良かったか?」
「完璧です。贅沢を言うのならば…」
もしコレにアレが付いてくるなら、黒尾さんと俺は『以心伝心』確定ですね。
チラリ…と期待を込めた視線を送ると、まさに期待通りのモノが…

「牛丼には温玉…だよな?」
「黒尾さん…愛してます。」

お前、ビックリするほど『チョロい』っつーか…まぁいいか。
…黒尾さんは何かを言っていたが、俺には自分の腹の音しか聞こえなかった。
次に聞こえたのは、「どうぞ、召し上がれ…」の号令。
その後はもう、しばらくは夢中で牛丼(温玉のせ♪)を貪った。


「今、他人事のように痛感してるんですが…空腹時に考え事は禁物ですね。」
「脳に糖分が行き渡ってないと、思考はマイナス方向にしか…行かねぇな。」

合同練習後、あんなに悶々としていたというのに。
美味しいものでお腹が満たされてからは、嘘のようにスッキリだ。
練習の疲れと空腹が苛立ちを加速させ、思考が悪循環に陥っていた…
完全に冷静さを失っていた、数時間前までの自分が、若干情けない。

半ばやけくそ気味に黒尾さんと『久々の再会』をしていたら、
自分でも制御不能な感情を持て余した挙句、それを黒尾さんにぶつけてしまい、
破滅的な結果になっていた…かもしれない。
まずはお腹を満たして、冷静になること…『今後』に生きる、大事な教訓だ。

「ところで、よく『現地解散』の許可…貰えたな。腹痛か?」
「違いますよ。正々堂々と…『黒尾さんと会います!』と。」
デザートのレアチーズどら焼きと、二度漬け醤油煎餅(こちらも完璧!)を、
やや温くなったペットボトルの緑茶と共に頂きながら、
ようやく黒尾さんとの『会話』がスタートした。

隠し立てせず、正直に監督に申し出たことを言うと、黒尾さんは驚いたが、
真剣な表情で『監督と話したこと』を聞いてくれた。

全部聞き終わってから、「成程…そういうわけだったのか。」と納得し、
どら焼きと煎餅を指差しながら、苦笑いした。
「それ、実は…梟谷の監督からなんだ。」

体育館脇からこっそり梟谷の撤収作業を窺っていると、監督に発見され…
こっちに歩いてきたかと思うと、すれ違いざまに「赤葦を…頼む。」と言われ、
割烹着のポケットに、1000円札を差し込まれたのだ。
どういう理由かはさておき、きっとこれは『おやつ(エサ)代』だろうと解釈し、
有り難く使わせて貰った、というわけである。
このご恩はキッチリ返さなければ…と、黒尾は慎重に言葉を選びながら、
赤葦の『相談』について、自分の『経験』を伝え始めた。


「今のお前を見てると…一年前の自分とソックリだな~って。」
梟谷ほどではないが、音駒排球部も伝統あるそこそこの強豪校。
全国へ行けるかどうか?という際どいライン…
恩師である猫又監督と共にオレンジコートへ、という夢を叶えるためにも、
自分がチームを率いて、何とかその場所へ行かねば…という気負いがあった。

「チームの戦力もギリギリ。選手としての才能も平凡。
   それに、お前みたいな『参謀』としての実績も、俺にはなかった…」
俺が何とかしなければ…毎日そればかりを考え、もがき続けていた。
その切迫感がいつしか、チーム内に伝染してしまい、
『しなやかなネコ集団』のはずが、ギクシャクしてしまったんだ。

「あんなに自由気ままで、仲の良い音駒さんが…ギクシャク、ですか?」
「不機嫌も緊張も…マイナスの感情ほど、周りに伝染するもんなんだ。」
こっちは一生懸命やってんのに、全てが空回り…どころか、逆効果。
相手のことを思って進言したつもりが、批判と捉えられ喧嘩になる。
周りとの衝突を避けようとすると、今度は相手の出方ばかりが気になり…

「主将業務も、人間関係も、バレーすらも…全部、嫌になっちまった。」
何もかも全部投げ出して、逃げてしまいたい。
そんな卑怯で弱い自分が、惨めで情けなくて…自己嫌悪のループだ。

「んで、俺が採った選択肢は…『全部辞めてしまおう。』だった。」
こんなに辛い思いをするなら、もう逃げてしまおう。
俺なんかよりも、チームの『柱』に相応しい奴はいるじゃないか。
だから、退部届を鞄に突っ込んで…猫又監督に会いに行ったんだ。

切羽詰まった表情の俺に、猫又監督は…「飯、行くぞ。」
有無を言わさず飲み屋に連行…延々と酌を強要されたんだ。
酔い潰れる直前に、「そう言えば、何か用でもあったのか?」…と。
俺はやけくそ気味に全てをぶちまけ、それを監督は黙って聞いてくれた。
そして、俺の話が終わった瞬間…「馬鹿だな。」って、一言でバッサリだ。

誰もお前に、チームの『柱』になれとは言ってない。
戦略的な『柱』は研磨。集団としての『調停役』は夜久。
ムードメーカーにはトラ…それぞれに相応しい役割がある。
その全てを、お前ひとりがやってのけようなど…驕るのも大概にしろよ。

「お前はただ、皆がやりたがらないことを…『雑用』をこなしてればいい。
   お前ができることなんて、その程度のことだろ?」
だが、『その程度のこと』をきっちりこなせるのは、お前しかいない。
雑用さえこなしてくれれば、あとはお前の好きなように…バレーしてろ。

「その言葉を聞いて、俺は…憑き物が落ちた様に、全部が軽くなった。」
俺から妙な力みが消えたことは、すぐに皆にも伝わった。
それからは、嘘みてぇに元通り…『のんびりネコ集団』だぜ。
俺の悶々とした冬は、一体何だったんだ…?ってぐらいだ。


お茶で喉を潤し、一息ついた黒尾は、
ゆっくりとした口調で、赤葦に語り掛けた。

「赤葦は俺なんかよりもずっと器用で優秀だ。
   アレもコレも、何でもこなせる…本当に『強い』奴だと思う。」
でも、そんなお前でも、『全て』を自分一人でできるわけじゃないし、
そんなことをする必要もない…むしろ、しちゃいけないと思う。

辛口で辛辣、情け容赦ねぇお前に…どう考えても『調停役』は危険だし、
木兎ほど単純で扱いやすい『猛獣』なんか、滅多に居ない。
複雑な感情を持った人間相手は、猛獣を扱うよりもずっと…大変だからな。
誰かをサポートする『参謀』がお前の天職なら…それに徹すればいいんだ。
「全部自分がしなきゃ…なんて、気負う必要はない。
   一部を誰かに任せて、自分も誰かに寄り掛かっていいんだ。」

自分は弱くて、小っせぇ人間…
それならば、自分にできることだけを、きっちりやればいいだけだ。
周りに「ちょっと手伝ってくれよ」って頼んでみたら、
こっちが拍子抜けする程、アッサリ…助けてくれたりするもんだぜ?

「俺がお前に言ってやれることは、この程度…だな。」
役に立つアドバイス…というよりは、俺の情けない失敗談だけどな。
あんまり力になってやれなくて、ごめんな?


黒尾さんの話は、信じられないような内容だった。
いつも泰然自若として、紛れもなく音駒の『柱』だった黒尾さんが、
たった一年前に、全く同じような悩みを抱えていたなんて…

「お前の想像より、俺がずっと弱くて…呆れたか?」
「いいえ、全然。むしろ、安心したと言いますか…」

『強い』と思っていた黒尾さんが、自分と同じ『弱い』人間だった。
その『弱さ』を包み隠さず、淡々と『事実』として話してくれたことが、
どんな偉人の箴言や成功者の金言なんかより、ずっとずっと…
俺には重く響き渡り、そして俺の心を軽くしてくれた。

「俺もすっげぇ、安心した…」
俺とお前は、似た者同士。
今頃、去年の俺と同じ悩みを抱え、苦しんでいるんじゃないだろうか…?
そう予想できていたのに、自分の『情けない姿』を暴露することで、
もしお前に嫌われたら…?って考えると、なかなか連絡取り辛くなって…
結局自分が可愛くて、お前に手を差し伸べる勇気が、出せなかったんだ。

「俺も、全く…同じ、です。」
辛い、逃げたい、助けて欲しい…そんな『弱い』自分を曝してしまって、
ずっと『強い』と思っていた黒尾さんに、幻滅され…嫌われたくなかった。
お互いに超多忙な春高と、人生を左右する受験が終わるまで…
その『たった数ヶ月』も我慢できない、ワガママな奴だと思われたくなくて、
『声が聞きたい』『逢いたい』の一言が、どうしても言えなかった。


「本当に、俺は…馬鹿でした。」
「あぁ、俺も…全く同じだよ。」

緩やかな歎息と共に、力みの抜けた微笑みを見合わせる。
随分と無駄にターンを消費したかもしれないけれども、
やっと黒尾さんと本当に…心を通じ合わせることができた気がした。





***************





「あまりに馴染みすぎて、すっかり忘れてましたが…何故『割烹着』を?」
「俺にできること…『雑用』に一年間徹して、行きついた先が、コレだ。」

お腹も満たされ、心も満たされ。
すっかりリラックスした二人は、足を伸ばして『雑談タイム』に突入した。


「いや、センターも終わったし、やることねぇし…
   部室に置きっぱなしだった、荷物の引き取りに来たのはいいんだが…」

    何?クロ、ヒマなの?じゃあ、これ…よろしく。
    まじっスか!?手ぇ、空いてんなら、こっちも…
    いい機会なんで、全体的に掃除…お願いします~

昨日やっと色々落ち着いて、顔を出した瞬間に…体の良い『雑用係』だよ。
今日は梟谷グループの合同練習があるって聞いて、球拾いでも…と申し出ても、

    もう引退した奴が、しゃしゃり出て来ないでよ…邪魔。
    自分ら一日中体育館なんで…思う存分、掃除できます!
    できれば今日中に…キッチリと終わらせて下さいね~♪

「…と、割烹着を手渡されて、おしまい。」
確かに、引退した自分が請われてもないのに出しゃばるのは良くねぇし、
片付けに来たのは事実で、ヒマっちゃヒマだし…
それなら、徹底的にヤるか!…と、合同練習終了までに、やり遂げたんだよ。

見てくれ!この美しい部室…と誇らしく待ってたら、特に何の感想もなく、
お疲れでした~じゃ!って、皆で監督の奢り…飯食いに行っちまった。
当然俺も…と思ったら、「新チームの会合。クロは来ないで。」とピシャリ。
さすがにコレは…酷くねぇか!?あんまりだろっ!?
少しは俺を憐れに思ったのか、猫又監督が俺の『ごはん(エサ)代』をポン…と。

「それがこの…牛丼特盛の『元手』だ。」
「何と申しますか…心中お察しします。」

どんなに自分を犠牲にして、尽くしたとしても…一年後はこの有り様だ。
まあ、たった一年だから、自分の全てを捧げるという選択肢も、あるにはある。

「でも、赤葦にも『部活以外』で大切なものがあるなら、
   たまにはそっちを優先しても…絶対に問題ナシだと、俺は断言できる。」
一年前、誰かが俺にその事を…教えてくれればよかったのにな。

お前も自分で「ちょっと無理してんな~」とか、「もうイヤだ…」と思ったら、
「どんなに頑張っても、行きつく先は『割烹着』だ。」って思い出して、
適度にサボったり、ちゃんと息抜き…するんだぞ?


ふわぁぁぁぁ~、疲れた…
ホンット、『主将(雑用)』だの『参謀』だの…報われねぇよな。

黒尾さんはそう苦笑いしながら伸びをし、ゴロンと輝く床に寝そべった。
真横にあったヒーターの電熱線…それを反射し、割烹着が燈色に染まる。

「俺も、せめてお前と『同い年』だったら…」
同じ時に、同じ悩みを共有して、もっと楽にできたかもしれねぇよな。

まるで黄昏のような、燈色の黒尾さんの顔。
自分の仕事をやりきったその顔に、後悔の色は全くない。
だが、その仕事から解放される一抹の寂しさが、見え隠れしていた。

「俺は、『一つ下』で…良かったなぁって。」
黒尾さんという先人が居たことで、この一年、俺がどれだけ救われたか…
『二の轍』を踏む前に、こうして『智慧』を伝えてくれて、
俺が壊れてしまう前に、手助けしてもらえましたし。
黒尾さんのおかげで、一年後には『割烹着』…回避できそうですしね。

「本当に…今日は、ありがとうございました。」
黒尾さんとお話ができて…あなたにお逢いできて、本当に良かったです。

心からの感謝を込めて、頭下げる。
真っ直ぐなお礼に、黒尾さんは一瞬目を見開いて驚いた。
小声で「おう…」と言った横顔は、ヒーター以外の熱で赤くなっていた。


やっぱり俺…お前と『同い年』が、よかったな。
何かを振り払うように、黒尾さんは勢いよく上体を起こすと、
先程と同じようなセリフを言い…そして、耳を疑うようなことを尋ねられた。

「いつから研磨と…そんなに『仲良し』になったんだ?」
「…はい?仰ってる意味が、俺には全然わかりません。」

一体どこの『奇特な方』が、あの厄介極まりない孤爪と『仲良し』なんです?
そんな『好きモノ』が存在するなら、ぜひお目に掛かってみたいものですよ。
…あぁ、長年孤爪の保護者を務めてきた『物好き』が、ここに居ましたね。

俺が懇切丁寧に『違います!』を説明している途中で、黒尾さんは吹き出した。
「さっき、同じ質問を研磨にしたんだが…」

…は?何言ってんの?意味わかんないんだけど。
あの超面倒な赤葦と『仲良し』とか…エンカウント率1%未満の希少種じゃん。
そんな『ゲテモノ好き』がいるなら、むしろ遭遇してみたいぐらいだし。
…あぁ、そんなのが『大好物』って奴が、目の前に居たか。

「…って、これでもか!っていうぐらい『厭そうな顔』で言ってたな。」
そう、まさにその顔だよ…と、黒尾さんは腹を抱えて笑った。
全く以って心外だ。心の底から…面白くない。

「別に孤爪に対しては『何一つ』思うことはありませんが…
   どこをどう見れば、俺と孤爪が『仲良し』に見えるんです!?」
ぶんむくれながら問い詰めると、ジャージのポケットからスマホを取り出し、
黒尾さんは俺の目の前に、ずん!とそれを突き付けた。

「この写真…どう見たって『超~仲良し♪』にしか見えねぇだろ。」
その写真は、合同練習後の焼却炉で、孤爪が強引に撮ったもの…
やや伏した顔で、上目遣い…夕日のせいで頬を染めたように見える、俺。
その俺と肩を組み、密着しながら…何故か『してやったり』顔な、孤爪。
一切の予備知識を排除し、冷静に写真だけを見ると…


「ちっ、ちちちちっ、違いますっ!!これは孤爪が、勝手に…っ!」
客観的に見て、『仲良し』を通り越して『超~仲良し♪』な写真に、
まるで『浮気現場』の証拠を出されたかのような気分に…
慌てて『身の潔白』を証明しようと口を開くが、言葉が上擦ってしまう。

確かに、『同い年』の研磨と赤葦が仲良くしてくれれば…とは思っていた。
だが、ここまで『超~仲良し♪』になるとは、全くの計算外だったぜ。
まさか研磨相手に、嫉妬する日が来ようとは…

「俺だって、まだ赤葦と…ツーショット撮ったことねぇのに。」
「撮りましょう!!今すぐここで…二人でツーショットっ!!」

ほら、そのスマホで『パシャリ』と…
黒尾さんと俺が『超~~~仲良し♪♪♪』な写真、撮りましょう…ね?

「それなら…折角だから、撮っとくか。」
黒尾さんは写真の孤爪以上に『してやったり』な満面の笑みを見せ、
写真の孤爪と同じように、俺の首をグイっと引き寄せ…パシャリ。
そのままの格好で、今撮ったばかりの写真を開いて、二人で確認…

「なっ!!?う、上手く、撮れた…のか?」
「あっ!!?たっ、多分、そう…ですね。」

勢い半分、策略半分で撮ってみた写真だったのに、
策を弄したはずの黒尾さん自らも絶句してしまう程…『超絶仲良し』ぶりだ。
こんな写真を第三者に見られてしまったら、『申し開き』など不可能だ。

    (それに…ち、近い…っ)

頬と頬が触れ合いそうな…『赤面』の放射熱すら伝わりそうな、密着。
恥かしさのあまり、思わず距離を取ろうと顔を横に向けると、
同じタイミングでこちらを向いた黒尾さんと、間近で目が合ってしまった。

    止まる呼吸。止まる思考。止まる…時間。
    伝わる鼓動。伝わる体温。伝わる…想い。


静かに瞼を下ろすと、温かく柔らかいものが、唇にそっと触れた。





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薄っすらと瞳を開きかけると、触れていた唇も、少し離れそうになった。
無意識のうちに瞳を固く閉じ直し、割烹着の裾を握り締めると、
コトリ…と、掲げていたスマホを置く小さな音、頬に添えられる手、
そして再び…しっかりと重なり合う唇。

    (あ…今、黒尾さんと…キス、して…)

恥ずかしさよりも、何か暖かいものが、全身を包み込むような…
内側から満たされていく、そんな不思議な感覚だ。


満たされる…か。まさに今日は、その一言に尽きる。
チームも代替わり。多忙を理由に、勇気を出せないまま没交渉。
空虚感と無力感で、ぽっかり…自暴自棄になる一歩手前だった。

そんな自分に『気にしすぎるな』『無理しすぎるな』『自分に素直になれ』
…そう言って監督や黒尾さん達が、俺をギリギリの所で救い上げてくれた。
悔しいけれども…きっかけを作ってくれたのは、孤爪だろう。
救い『上げる』というよりも、どつき落とされたような気もするが。

    (俺の周りには、手を差し伸べてくれる人が、たくさん…)

どうして『一人で』何とかしなきゃ…なんて、思い詰めていたんだろう。
辛いときには『辛い』と、素直に自分の弱さを曝す勇気さえあれば、
これに応えてくれる人が、どこかに必ず居たはずなのに。

    (きっと、自分の『弱さ』を認められることが、『強い』ってこと…)

ずっと『強い』と思っていた監督と黒尾さんにも、『弱い』一面があった。
その弱さを素直に認め、俺にそれを伝えてくれたことで、
逆に「やっぱりこの人達は、強い。」と、再確認する結果になった。

    (俺も、勇気を出して…言ってみよう。)


閉じていた瞳をゆっくりと開き、自分から唇を離した。
間近で瞬く、黒尾さんの優しい瞳…
その瞳を俺から逸らされてしまうかも…という恐怖が、一瞬頭を過ぎり、
割烹着の胸元を両手で握り、肩に顔を埋めてから、ようやく口を開けた。

「あの、黒尾さん。先程から、『ヒマだ』って…」
「あぁ。一昨日、各種手続が済んで…ヒマだな。」

これはまだ、誰にも言ってないんだが…と黒尾さんは前置きし、
俺の背中をゆっくり撫でながら、『近況』を教えてくれた。

「実は先月初旬に、来春以降の行先…決まってたんだ。」
「推薦入学、ですか?それは…おめでとうございます。」

都立高校の音駒には、内部エスカレーターもないし、
俺程度の実力じゃあ、バレーでの推薦は無理。
となると、多少は真面目にやってきた勉強の方で、推薦取るしかない…
高校入学直後に練った策の通りに、運よく上手いコトいったんだ。
『地味にコツコツ』やり続けた結果、教師受けも良くて…助かったぜ。

周りや部内には、今も必死に受験勉強してる奴もたくさんいるし、
俺一人が『決まったからもう自由!』みてぇな雰囲気はマズいから、
春高終わって、センター終わるまでは…って、黙ってたんだ。
だからもう…今の俺は、信じられないくらい『ヒマ人』だよ。

「それじゃあ、もし俺が黒尾さんに、あ、あの、逢い…」
「俺がお前に逢いたくなったら…逢いに行っていいか?」
先に…言われてしまった。
その優しい心遣いが嬉しくて、思いっきり頭をコクコクと上下させる。

ちなみに、差し出がましいことをお伺いしますが、『行先』はどちらで…?
興味本位で聞いてみたが、返ってきた答えに、文字通り絶句してしまった。
そこは大学バレーでもかなりの強豪校だが、普通に学問の府としても…

俺はバっと黒尾さんから身を離し、深々~~~と頭を下げた。

「黒尾さん!おヒマな時、俺に…英語と音楽、あと家庭科も教えて下さい!」
「英語は別に構わねぇが…音楽と家庭科は、俺も甚だアヤシイんだけどな。」
「そうなんですか?全然そんな風には見えませんけど…」
「それはただ単に、この『割烹着』が見せる…幻想だ。」

お前に家庭科は教えてやれねぇけど、家庭教師なら…喜んで引き受けるぞ。
それで、もし赤葦の成績が上がった場合には…報酬を貰ってもいいか?
そうだな、できれば赤葦の『得意科目』を、一緒に『実践』なんて…
…って、わわわっ、悪い!ちょっ、調子乗って…今のは聞き流してくれっ!

自らの失言を、慌てふためきながら『なかったこと』にしようと、
スマン!!…と手を合わせて頭を下げる黒尾さん。
俺はその手を引き、勇気を振り絞って…呟いた。

「俺の『得意科目』は、体育と…」
これから徐々に、『保健』の『実践』も…得意になる、予定です。


…ちょっと、熱くなってきましたね。
俺は横の赤外線ヒーターに手を伸ばし、電源を落とした。
部屋から燈色が消え、顔の火照りが目立ってしまいそう…

黒尾さんに顔を見られないように、俺は立ち上がって部室の入口に近づいた。
ドアの方に腕を伸ばしかけた瞬間、左右から真っ白な腕が、目の前の壁に…
俺は背後から、壁と黒尾さんの両腕の間に囚われてしまった。

振り返るべきか?と考える間も無く、今度は俺の肩に、黒尾さんの額が着地し、
体の中に直接、絞り出すような声が響き渡った。

「今、自分が何を言ったか…判ってんのか?」
そんなこと言われたら…帰らせたくなくなっちまうだろ。
冗談抜きで、お前に嫌われるかもしれないことを…止められなくなるぞ?

らしくなく震える声は、恐怖故か…はたまた期待からか。
同じように震える声で、俺は小さくコクリ…一度だけ頷いた。

「今日は、帰りたくないです…と言ったら?」
今ここで『帰れ』と言われたら…嫌いになってしまうかも、しれませんよ?

ハッと息を詰める音。
壁に着いた黒尾さんの両掌が、内心の葛藤を表すかのように、壁から少し離れ、
そしてギュと固く握り…何かに抗うように、再び壁に押し当てられた。

「いいのか…?その…お前はまだ『18歳未満』に該当するが…」
ごくごく真剣な声で、躊躇いの理由を述べる黒尾さん。
気にするトコは、ソコですか!?と、思わずツッコミを入れそうになったが、
そのボケのおかげで、ガチガチだった緊張の糸が、ふわっと緩んだ。


「確かに俺は『18歳未満』…でも、『17歳以上』…ですから…」
CEROの区分によると、『D(17歳以上対象)』までは、大丈夫なんです。

腕を壁に伸ばし…パチリと、部屋の電気を消す。
「『暗転』すればセーフ…みたいですよ?」

「全く…一体誰の『入れ知恵』なんだか。」
黒尾さんも大きく息を吐き、ふわりと緊張を解いた。

「CERO…つまりは『C、即ちERO』だろ?
   もう俺、猫被るのは止めるから…お前も隠してる爪、出してみせろよ?」


俺が振り向くのと同時に、暖かい腕に強く抱き締められる。
唇が触れ合うのと同時に、カチャリと鍵が閉まる音がした。



- 完 -



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※CERO →『Computer Entertainment Rating Organization』の略。
   (『C、即ちERO』の略ではありません。)


2017/01/23

 

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