空室襲着⑤







「お、はよう…山口…」
「おはよう、ツッキー。あのね、聞いて欲しいことが…いっぱいあるんだ。」


昨夜、黒尾さんちでお夜食を頂いた後、吹っ切れた俺は猛然と帰宅…
そのままの勢いで、ツッキーが眠る布団へと滑り込み、『おまじない』を敢行。

最初の内は、『お話し合い』の興奮冷めやらず、のぼせて寝られなかった。
朝起きたら、何からどう説明しようか…そのシミュレーションをしたり、
ツッキーがアッチ向いたりコッチ向いたり、寝返りをうってしまわないように、
ガッチリと全身で抱き着いて、キュっと小指を絡め続けていた。

でもしばらくツッキーに引っ付いていると、気持ちよさが勝ってしまい、
前回同様、いつの間にかうつらうつら…作戦を立てられないまま寝てしまった。


翌朝目が覚めた俺は、何も準備できていないことに焦りまくって…
ツッキーの『おはよう』が聞こえるやいなや、ひたすら喋り続けてしまった。

   あの晩のツッキーは無実であること。
   両親達と結んでいた『密約』のこと。
   猫と梟が事件を解決してくれたこと。

とにかく、状況説明が最優先だと思い、支離滅裂に言いたい放題…
そして、絶対に言わなければいけないことを言う前に、
ツッキーは…激怒してしまった。


「言いたいことは、それだけ?」
「えっ!?いや、ここからが本題…」

あぁそう。でも、今の山口の話は、しっちゃかめっちゃか…聞くに堪えない。
だから、関係者も含めて、改めて説明してもらうから…行くよ。

…しまった。
ツッキーの寝起き…特に飲み潰れた翌朝は、脳の活動が緩やかだ(控え目表現)。
そのせいで、一寸法師にアッサリ騙されパニックを起こし…逃亡したのだ。

今朝も苦い記憶が残るあの朝と同じように、俺が引っ付いて寝ていた上、
起き抜けにわけのわからない暴露話を、一方的に捲し立てられたのだ。
そんなもの、ツッキーが激怒して当然…完全に俺に落ち度がある。

俺が怒られるだけなら、まだマシ。
あろうことかツッキーは、『関係者』の所へ突撃してしまったのだ。
パジャマのまま、絡めた小指ごと俺の手も腕もガッチリ捕縛し、
玄関を飛び出し、超~長い脚で非常階段を2段飛ばしで駆け上がり…
黒尾さんちのインターホンを、ピピピピピンポーーーン!!と連打しまくった。


何事だっ!?と、大慌てで飛び出して来た黒尾さんは、
猛烈な勢いで 玄関に突っ込んだツッキーに圧され、侵入を許してしまい…
ツッキーはこの状況でも『すやすや♪』と寝ている赤葦さんの布団を、
俺達が止める間もなく、思いっきり剥がすという、信じ難い大暴挙に出た。

「ちょっ、ツッキーっ!!?」
「ん…?おはよう、ございます…?」

万が一のことを想定し、俺は咄嗟に大きく広げた掌で顔を覆っておいたが、
あいにく…じゃなかった、幸いなことに赤葦さんは、ジャージを着用していた。

寝ぼけ眼で『ぽわぽわ~』と揺れる赤葦さん(激可愛い!?)を容赦なく立たせ、
ツッキーは勝手に布団を除けて座卓を出し、赤葦さんを支えながら座り込んだ。


「山口も、そこに座って。黒尾さんはまずお茶と…鍋焼きうどん出して下さい。
   僕をヌきに、3人だけで『お夜食』食べるなんて…絶対に赦せませんっ!」

おにぎりの具は、梅干しと鮭で。もしなければ、山椒ちりめんがいいです。
うどんのネギは、クタクタになるまで煮て、卵はふわふわでお願いします!

「あ、俺も鮭と…昨日の…高菜明太…」
ツッキーに寄り掛かって舟を漕ぎながらも、リクエストをする赤葦さん。
頬をぷっくりと膨らませながら、早く!と不貞腐れるツッキー…
そんな二人に、黒尾さんは深~~~いため息を付き、俺に苦笑いを見せた。

「山口…恨んでもいいよな?」
「ホンットーーーに、すみませんっ!」

俺は自主的にお茶を入れるお手伝いを申し出ながら、おかかと梅を注文した。



「というわけで、山口が月島・山口両家と結んだ『密約』は…」
「月島君の同意があれば…破棄できることになりましたから。」

いや、あの『お話し合い』での赤葦の尋問っぷり…思い出しても震えるぜ?
テレビ電話越しでも、月島父兄がタジタジする姿…凄ぇスッキリしたしな!

いえいえ、山口君以上に『異質』な記憶力をお持ちの山口先生に向かって、
堂々と渡り合って交渉する黒尾さん…パパさんもウット~リしてましたよ♪

「これで、ツッキーの依頼も無事クリアできた…って、おい、聞いてんのか?」
「聞いてますよ。そんなことより、僕にも高菜明太下さい。」

結構スレスレで、五分五分以下の厳しい仕事を、何とか上手くまとめたのに、
一番感謝してもいいはずの月島は、一心にうどんを啜り、『そんなこと』扱い…
赤葦が目に見えて『イラっ!』とする寸前に、山口は慌てて口を挟んだ。

「つつつ、ツッキー!お二人が苦労して『密約』を片付けてくれたのに…」
「俺はともかく、黒尾さんのご尽力に対してその態度…面白くありませんね。」

憮然とした表情で、月島の箸を押し退けて、ふわふわ卵を奪った赤葦。
横取りに我慢の限界が来た月島は、たくわんをボリボリ…鬱憤を爆発させた。


「面白くないのは…僕の方ですよ!」

さっきから黙って聞いていれば、密約、密約って…知りませんよ、そんなこと!
さも人生を左右するかのような、大事な約束みたいに言ってますけどね、
僕だけをハブった口約束なんて、有効無効以前に…事実として存在不可です。
僕にとっては、密約なんて『事実』はない…超どうでもいい話ですから。

「山口は、僕とずっと一緒に居たいんでしょ!?」
「えっ!?う、うん…そうだけど…」
「じゃあ、居ればいいじゃん。僕もそれで構わない。何か問題あるっ!?」
「いっ、いや、ない…です。」

何でこんなカンタンなことを、10年も後生大事に延々悩んでんの?
記憶力良すぎだからって、しょーもない悩みまで持ち続けることないでしょ。
僕にたったひと言「一緒に居て♪」って言えばいいだけじゃん…馬鹿みたい!


「黒尾さんと赤葦さんだって、しょーもなさは同じですからねっ!?」

『密約』だなんて、ちょっとカッコイイ響きに乗せられちゃって…
そんなのをチラつかされて、ココで事務所やお店を持たせて貰ったんでしょ?
「君達が忠君を守ってやってくれ。」とか、適当な極秘任務にコロリと騙され…
それ、要するに僕と山口の『お守』をやらされてるだけですからね!?

世間から山口の『異質』さを隠して…な~んて言ってますけど、
単に「可愛い忠(君)を私の元へ♪」ってだけ…ただの過保護(溺愛)ですよ。
忠可愛さ+研究材料+有能な従業員+次男坊の放牧場+便利な手駒×2…
これが、僕達4人の現状を明け透けに表現した『実態』じゃないですか。


「僕達を取り巻く環境は、山口忠を中心に据えた…『忠LOVE』の世界です。」

山口の『異質』な才能を悪用されないため…確かにそれも、一理あります。
ですが、冷静に考えてみれば、『弁が立つ腹黒』やら『薫り立つ淫猥』の方が、
『桁外れの記憶力』よりずっと危険…悪用した時の被害は甚大じゃないですか。
山口単体で考えても、『全アルコールの天敵』の方が、罰当たりですよね。
それなのに、何やかんや尤もらしい理由をつけて山口を優遇…ただの溺愛です。


「散々言いたい放題言いましたが…どうか勘違いしないで下さい。」

僕はこの『山口優遇され過ぎ』な世界が悪いとは、全く思っていません。
両親達が山口を守ろうとしたことや、黒尾さん赤葦さんがご尽力下さったこと、
山口が『密約』を守り続けたことも、凄く大事…感謝の気持ちでいっぱいです。
僕一人がハブられたことより、皆が山口を大切にしてくれたのが…嬉しいです。

だけど、それらは僕の記憶には全くなかった…僕にとって『事実』じゃない。
そんなものに囚われて、僕の『大枠』を一方的に変えられてしまうなんて…
勝手な『思い込み』だけで、僕の世界から『山口』を喪失させることなんて、
たとえ山口本人がしたとしても、絶対許せないから。

記憶とか童貞とか、そんなものは喪失しても全然構わない。
僕のワガママだってこともわかってる。わかってるけど、でも…

「『山口喪失』だけは…絶対ダメ。」

勿論、黒尾さんと赤葦さんだって、既に大事な『僕の世界』の一部だから、
お二人だって、勝手にそこから居なくなるなんてのも…やめて下さい。


「もう二度と、僕の記憶に残らないとこで『お夜食』しないって、
   僕と『密約』…結んで下さい。」

月島はそう呟くと、ズズズーーー!と盛大な音を立てておつゆを啜り、
「寝起きだから…顔洗ってくる。」と、洗面所へ去って行った。



「俺…自分のことしか考えてなかった。
   ツッキーのキモチなんて、全然…っ」

あの『密約』に囚われて、自分のキモチを伝えることばっかり考え続けて…
ツッキー本人にキモチを直接聞かず、勝手に思い込んで…

「それは、俺も…山口と同じだよ。」
「俺も…自分のことばかりでした。」

事務所やお店を開き、探偵業もこなし、自分は誰かの役に立っている…
4人の仲は上手くいっていると、勝手に思い込み、悦に浸り、驕っていた。

だが実際は、4人それぞれが自分に都合の良い『世界』だけを見て空回りし、
一番身近で大切な人を、正面から見ようとしていなかった。
思い込みと記憶で無為に時を過ごし…傷付けてしまっていたのだ。


「ツッキー…本当に、ごめん…っ」

謝罪と後悔の言葉を繰り返す山口を、黒尾はしっかりと抱き留めながら、
こうべを垂れる赤葦の頭も同時に撫で、はっきりと二人に宣言した。


「もう二度と、ツッキーを泣かせるようなことはしない。
   俺達三人の…『密約』だ。」




********************




「皆さんおはようございます…って、まだ片付けてなかったんですか?」

さぁ、寝起きのグダグダは終わり…シャンとして下さいよ。
僕達には、今回の事件の超重要案件についての考察が、最後に一つ残ってます。
順番に顔を洗って…黒尾さんはお茶のお代わりと、何かデザート出して下さい。

「了解だ。ヨーグルトでいいよな?」
「俺は、コーヒーをお入れますね。」
「じゃあ、先に洗面所借りま~す!」

「さっきまでのことは、寝惚けていたので、よく覚えてませんね。」と、
『たった今、起きました』風を強引に装う月島…それがあまりに可愛くて、
三人はタオルやお椀で緩む顔を隠しながら、言われた通りに行動した。

3個パックのヨーグルトを、4つのガラスコップに等分して入れ、
メープルシロップの瓶と共に座卓へ…丁度コーヒーのドリップも完了。
先程とは席を替え、月島の隣に山口、その正面に赤葦、隣に黒尾が座った。

4人揃ってきちんと手を合わせ、黒尾の「頂きます。」でペコリと合掌。
まるでこれから『少なめ朝ごはん』かのようにスプーンやカップを手に取ると、
まだ手を合わせたままだった月島が、何の前振りもなく『考察』を開始した。


「では、『童貞喪失』の件ですが…」

『たった今、起きました』とは対極の、『おやすみなさい♪』な話題に、
月島以外は口にしていたものを思いっきり吹き出し、盛大に咽た。

「揃いも揃って…もう一回、顔洗ってきたら?」
「うううっ、うんっ!そうするっ!」

   ダッシュで洗面所に逃げ込む山口。
   布巾で粗相したものを拭く、黒尾。
   そして、おもむろに…脱いだ赤葦。

「ツッキーよ、いきなりナニ言い出し…って、赤葦もナニ脱いでんだっ!?」
「あっ、いえ、お借りしたジャージに、コーヒーのシミが…すみませんっ!」

三人がてんやわんやする中、月島だけは優雅にコーヒーを満喫…
場と身だしなみを整えた面々が再結集すると、悠然と考察を仕切り始めた。
どうやら今回は、完全に月島のペースのようだ。


「本件最後の最重要考察は、先程も言いましたが、童貞喪失についてです。」

はっきりと山口は断言してはいないものの、あの晩僕達はヤらなかった…
黒尾さんと赤葦さんも含め、未だに全員が純潔を保っているということです。

「念のために確認しておくけど、山口もそれで間違いないね?
   黒尾さん達の邪推の如く、『経験者採用』とかじゃ…ないよね?」
「えっ!?うん…あっ俺、これで『特別顧問』になったわけじゃないからっ!
   今のところ、俺も清く正しい『カエサル表彰コース』だよ~」

あらゆるケース…『山口経験者採用(特別顧問)疑惑』も想定していたが、
これは明確に本人が否定してくれて、三人はホっと肩の力を抜いた。

「なら、裁判の判例はともかく、山口も『童貞は大事』という…」
「もももっモチロン!それも、俺も同じ『共通認識』だからっ!」

月島は事実誤認がないよう、念入りに山口に確認を取り、満足そうに頷いた。
そして、全員の現状と認識が一致していることを前提に、話を進めた。


「『30歳まで童貞だと妖精になれる』という伝説を自分で検証しないのなら、
   そう遠くない時期に、全員が記念すべき『儀式』を経ることになりますね。」

ゴクリ…と、唾を飲み込む音で返事をする三人。
今日の月島は、何を言い出すか全く予測不能…いや、『↓方向』は確定だ。
下手にツッコミを入れ、話の腰を折って大暴走…なら、まだ被害は最小限だが、
最悪の場合、(穴は穴でも)墓穴を掘り、微妙なカンケーにある相手に嫌われ、
『儀式』のチャンスを喪失する恐れがある…非常にキワドイ場所にいるのだ。

三人は三者三様の(共通した)思惑から、言葉を発さずに月島の言葉を待った。


「『童貞喪失』という『一大事』において、ネックとなるのが『記憶』です。」

一大事というだけあって、この儀式の記憶は、延々『思ひ出』として残ります。
もしこの儀式が、素晴らしいモノになれば、通常2割増ぐらい『美化』され、
逆だった場合には…平均すると3割増程度の『黒歴史』となってしまいます。

「ですが、カエサル軍ならぬ妖精予備軍の僕達の場合、事態は深刻です。
   長年夢に見てきた儀式への憧れ…即ち『思い込み』という妄想の弊害です。」

これだけ大事に取っておいたんだから、さぞや幸せなものなんだろう。
一途に思い続け、片想いしてきた相手と繋がるんだから、絶対気持ちイイはず。

何でも器用にこなす優しい人だから、痛いとかヨくないなんて…まさか、ね?
普段から可愛くてエロいんだし、ソレの時はもっとイイ具合♪に…違いない!


「積もり積もって、若干こじらせ気味の相手への想いと…」
「妖精一歩手前まで『自主練』と妄想を積み重ねてきた…」
「もしその『思い込み』通りにイかなかったら…
   いや、相手の『思い込み』という期待に応えられなかったら…」

勝手な『思い込み』期間が長大な分、ヨかった時の美化率も大きくなるが、
逆の場合…マイナス方向への振れ幅も、同じだけ大きくなってしまうのだ。

「こんなの…ギャンブル性が高すぎて、迂闊に手ぇ出せねぇぞっ!?」
「かといって、時間が経てば経つほど妖精化…振れ幅が広がります!」

黒尾と赤葦は愕然…真横の顔は絶対に見ないようにしながら、頭を抱えた。
『思い込み』と『記憶』の関係が、こんなところで我が身に降りかかるとは…


「ソッチはまだマシな方ですよ。より深刻なのはコッチの方…
   ソッチは双方がイーブンの条件でも、コッチはそうじゃないんです。」

僕の方はキモチを自覚したのがつい最近なので、こじれてない風なんですが、
異常なまでの密着ぶりを『普通』だと思い込んでいた…結構痛い経歴アリです。

そして、ここにとてつもない記憶力の持主が、たった一人だけ居ます。
経験したことを正確に記憶する…『振れ幅』がなく、リスクはごく小さい。
パッと見では『ローリスク&ローリターン』で、やや安心な気もするんですが…

劣化しない『思い込み』がありつつの、『美化』という特典は一切ナシの上、
敗者救済措置ともいえる『忘却』ボーナスもない…まさに『白か黒か』です。

「これなら、酔った勢いで『童貞喪失の記憶喪失』の方が、よっぽど…」
「むしろその『トンデモ設定』でもなければ、手なんて出せませんよ…」

   良い想ひ出は、美化されないままで。
   悪い想ひ出も、ずっと忘れられない…

記憶力がありすぎるばかりに、ファジーな『グレー』が許されず、
万が一『黒』だった場合には、永遠に傷付くことになってしまうのだ。

「山口にとっても…高リスクだな。」
「何らかの対策が急務…ですよね。」


このままでは、月島は山口の積年の『思い込み(期待)』を背負った上で、
童貞が童貞相手に『上手いコト』ヤらなければ、ド下手を永遠に記憶され、
最悪、山口が一生『ヤりたくない』と思う傷を、負わせてしまうかもしれない。
それなのに、奇跡的に上手くヤれたとしても、美化ボーナスを付けて貰えない…
いくら月島がワガママで可愛げがなくても、この『超ハンデ』は可哀想すぎる。

「ごめんね、ツッキー…アソコの血管の位置まで覚えちゃう自分が…憎いよ。」
「えっ!?そんなとこまで…いやいや、そこまで観察しないでよっ!」

待って下さい。ソコをそれだけ『観察』できる状況はナニか?を考えると、
月島君にとって実にオイシイ…と言いかけたが、赤葦は別のことを口にした。


「この『ハンデ』を解消するには、月島君にプラスか、山口君からマイナス…」
「さすがに『初めて。』で目隠しプレイとかは…マイナスが大きすぎるよな。」

山口に記憶『させない』ためには、『よく見えない』状況を作り出せばいいが、
どちらかと言うと、見えないハンデは月島側…『眼鏡ナシ=全面モザイク』だ。
それに、『初めて。』が見えない状態というのは、余計に恐怖感を煽り、
白よりも黒な『想ひ出』になる可能性の方が、グンと高くなってしまうだろう。

「だとすると、ツッキーの記憶力をプラスする方向…って、まさか!?」
「記憶力を補う方法はいくらでもある…機械の方が、正確ですからね。」
「山口と僕を『イーブン』にするには、ハメ撮りぐらいしかないですよね。」

この方法なら、美化も忘却もナシという点で、非常にフェアな条件設定であり、
目的達成のために必要なコストも、比較的安価…今すぐヤれる対策だ。

だがこれには、山口がいつになく猛然と大反発…断固拒否を主張した。


「いっ…イヤだからねっ!!確かに俺は卑怯な『天然ハメ撮り機能』搭載…
   でも、俺の脳内記憶は流出の恐れがないけど、動画は危険がいっぱいだよ!」

もしその方法を使って、俺と記憶力をイーブンにするっていうんだったら、
同じように黒尾さん達の方もガッツリと記憶じゃなくて『記録』してもらって、
エロ動画流出のリスクも、イーブンに味わって貰う…それが筋ですからねっ!?

「待て待てっ!赤葦が1秒でも映ってたら…その時点で犯罪にならねぇか?」
「黒尾さんの言う通り…発禁御礼かつ実刑上等な猥褻物頒布・陳列罪ですね。」
「あっ!それなら…『ED対策用』として、治療目的に使っちゃうとか?」
「俺を『天然回春剤』扱い…二度と勃たなくなるまで強制視聴させますよ?」

どうやら『ハメ撮り』策は、記憶力を補うには役立ちそうだが、
永遠に『役立たず』にされる危険性が高いと言わざるを得ず…採用不可だ。


「目隠しもダメ、『記憶を記録』もダメとなると、他にできることは…」
「山口君の記憶を薄め、俺達の記憶を強化する…正攻法しかないです。」

だが、そんな悠長な努力をしていたら、あっという間に妖精化…どころか、
30を超えると、坂道を転がるように、記憶力は下降するのが…自然の摂理だ。

「精巧すぎず妙な性向もない正攻法で、童貞でも成功しやすい性交法…
   そんな都合も具合もイイ方法なんて、俺には全然思い付かないよ~」

黒尾・赤葦・山口が『お手上げ状態』だと、四肢を伸ばして歎息…
だがそれにも月島は「シャキっとして下さい!」と喝を入れた。


「その方法については、僕が逃亡中の3日間で…考えてきましたから。」

何だかんだ大騒ぎしたって、僕達は口達者な耳年増…性根はビビリの童貞です。
そんな『ザ☆堅実』な僕達に相応しい策を、これからご説明致します。

「利用するのはこのグラフ…『エビングハウス忘却曲線』です。」




********************




「エビングハウス…忘却曲線?」
「こちらのグラフをご覧ください。」




「これは、ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウスによる、
   人間の『忘れる仕組み』を表した研究データです。」

子音+母音+子音(qaz、hev、lox等)の無意味な文字列をまず記憶させ、
一定時間後の記憶の保持率(忘却率)を調査したもの…
時間経過と共に、どれだけ覚えていられるか(忘れるか)という研究である。

これによると、
   ・20分後→ 42%忘却(58%保持)
   ・1時間後→56%忘却(44%保持)
   ・1日後→   74%忘却(26%保持)
   ・1週間後→77%忘却(23%保持)
   ・1か月後→79%忘却(21%保持)

つまり、1時間後には半分以上忘れ、1日後には4分の3を、
1か月後には8割方キレイさっぱり忘れてしまうということになる。


「このグラフ見たことあるぜ。効率の良い暗記&復習タイミングってやつだ。」

ただ暗記するだけでは、記憶は定着しない。だが、復習し続ける余裕はない…
そこで、どのタイミングで復習すると効率的に記憶できるか?という方法論が、
このグラフを元にして各種編み出され、ビジネス系書籍等で紹介されているのだ。

「この忘却曲線が『ほぼ横ばい』というのが、山口君の異質なとこですよね。」
「一般人は、いかにこの下降を食い止めて記憶し続けるか…苦労してるんだ。」

とは言え、山口も100%を永遠に保持し続けるわけではない。
もしそうだとすると、とっくにその精神は崩壊している…
『忘却』機能がなければ、人間は生きていけないのだ。

山口の『ほぼ横ばい』を、少し下方向に修正し、他3名の記憶力を上げるには、
このエビングハウスの忘却曲線を前提とした、独自の策を練る必要がある。
それを4人同時に行いながら、記憶と認識の差を縮める方法はないだろうか?


「各種難関国家資格取得者の黒尾さん…記憶術のコツを教えて下さい。」
「さっきも言ったが、復習の回数とタイミングが重要だ。」

   ・暗記した10~30分後
   ・翌日
   ・1週間後
   ・1カ月後

「最初の暗記を含め、計5回同じ問題を解く…だな。
   2回目以降は、間違ったものだけを解けば、更に効率的だ。」

あとは、そうだな…
記憶は睡眠中に脳内で整理され、その情報も寝る直前のものが多いらしいから、
寝る前に暗記して、その後はゲームや読書せずに寝るってことぐらいだな。
学生のミニテストや定期試験程度なら、翌朝起きてもう一度見直せば十分だ。


黒尾は資格試験等の、『暗記』に特化した記憶術を惜しげもなく披露し、
これはあくまでも用語の暗記のみで、論文や考察などは全く別の話だと説明…
その途中でふと何かに思い当たったようで、山口に確認を取った。

「山口は、単純な暗記…実はそんなに得意じゃなかったんじゃねぇのか?」
「そうなんですよ!教科書を写真みたいに覚えるから、思い出す手間が…」

脳内の辞書…暗記写真のページを捲って答えを探す時間がかかっちゃうんです。
試験に便利な、言葉の意味や用語なんかの『意味記憶』よりは、
「ツッキーと見た図鑑に載ってた!」とか…『エピソード記憶』が得意です。
暗記モノより、やっぱり考察とか推理とか、そっちの方が好きですね~♪

「成程。エビングハウスの実験も、無意味な文字列の記憶…『意味記憶』だ。
   個人的な経験に基づく『エピソード記憶』は、これと少し違うってことか。」
「実体験が絡む記憶だと、更に記憶しやすく…忘れにくいですからね。
   ということは、エピソード記憶に忘却曲線を考慮した記憶術を使うと…」
「何度も反復して『体験』することで、より強固かつ長期的な記憶になる…
   カラダに覚え込ませる『手続的記憶』に、近づけてしまえばいいんですね。」

月島が出したグラフや黒尾の話から、自分達に必要そうな材料は見えてきた。
これらの情報を踏まえると、今後の指針は次のように導き出されるだろう。


「僕達の壮大な『童貞喪失』儀式に必要なポイントは、以下の通りです。」

   ・記憶力の差による認識差を減らす
   ・美化と黒歴史の振れ幅を小さくする

「山口の記憶力をマイナス、他3名の記憶力をプラスする…だったな。」
「そして、積年の『思い込み』の影響を極力小さくする…でしたよね。」

これを実現するために、エビングハウスの忘却曲線を考慮した記憶術を使用。
実施例を具体的に示すと…

   ・まずはヤってみよう(初回)
   ・30分以内にもう一発(2回目)
   ・翌日は必ずヤるべし(3回目)
   ・1週間以内に仲良く(4回目)
   ・1カ月後にじっくり(5回目)

「効率を重視すると、最低限このペースとタイミングを確保するべきです。」
「こうすると、意味ある子音+母音+子音…『sex』の記憶を定着できるね~」

意味のある文字列かつ、自身の体験に基づく『エピソード記憶』であるため、
一般人でも覚えやすく忘れにくい…山口以外には実に有効な方法である。

だが、山口は『エピソード記憶』の記憶力に長けているため、
これだけでは山口との差を埋めることはできない…もう一捻り工夫が必要だ。

視覚情報に頼りがちな点を逆手に取り、部屋を暗くし(月島は眼鏡着用)、
山口が『よく見えない』状況を作ることも、単純かつ有効な手段であるが、
それに加えて、もう少しテクニカルな部分…いやむしろ、力技が必須となる。


「そうか!いくら山口でも、あまりに多い記憶全てを覚えておくのは不可能…」
「確かに、脳内リプレイ検証すれば思い出せても…鮮明ではなかったですね!」

月島が猫&梟に相談していたのを、一寸先の闇から聞いていた時のことを、
「膨大な『記憶』の中に、ツッキーの戯言など、完全に埋没していた
」と証言…
多すぎる記憶は引き出すのが困難だと、山口自身が言っていた。

「つまり、俺が記憶できないほど、膨大な量の情報をイれちゃえばいい…
   どれが『童貞喪失』の記憶かどうか曖昧になるぐらい…ヤりまくるっ!?」
「この策だと、子音+母音+子音はあっという間にカラダが覚えていく…
   4人揃って『エピソード記憶』が『手続的記憶』にランクアップするんだ。」

   ・『最低限』以上のペースで。
   ・アタマよりカラダで覚える。

端的に言えば、アタマが覚えたり考えたりする以上に、カラダにイれてしまえ…
『ひたすらヤりまくろう♪』というだけの話なのだが、
そこは情報収集と解析のプロ・月島だ。グラフや心理学まで持ち出して、
ぐーの音が出ない程、完璧に論証…あとはゴーの音を待つだけに仕立て上げた。


「本日は金曜ですが、旗日…僕と黒尾さんの法務事務所は三連休の初日です。」
「…赤葦。」
「本日より3日間『chat et hibou』は臨時休業と致します。」
「4人全員が三連休ってことですね…」

これで最低限の『初回・2回目・翌日』分の時間は確保。
では、実行者側の準備は…?


「黒尾さんと赤葦さん、それに俺は、長年の『自主練』と『妄想』があるけど、
   ついこないだ『自覚』してくれたツッキーは…イけそう?」
「逃亡中の三日間、関連書籍やネットから『お勉強』…抜かりはないよ。」
「いつか来る日のため…ご自分を口八丁で納得させ、『お道具』完備ですね?」
「これも裏工作のウチ…文字通り『裏』の方も、『ご準備』完了してんだろ?」

無駄に純潔を保っていたわけではなく、妖精化阻止の準備はしていたようだ。
これなら、あとは実行あるのみ…


「俺達は『思い込み』は10年分ありますが、その分『思い切り』がなかった。
  そんなズルズル生活も、今日で終わりにしませんか?」

黒尾さん…お願いします。
赤葦が黒尾に決断を促すと、黒尾は目を閉じて深呼吸し、静かに口を開いた。


「10年…長かったな。」

この間に、それぞれがどんな想いを抱き続けたのかは、本人にしかわからない。
まずは、相手にそのキモチをちゃんと伝えること…これだけは絶対忘れるなよ。

そして、10年自分が抱いていた想いのうち、大半は勝手な『思い込み』だ。
それを基準にして期待し過ぎたり、逆に幻滅するなんてのは、もってのほか…
今、自分の側に居てくれる人の『そのままの姿』だけを、しっかり見るんだ。


「今日だけが記念すべき『童貞喪失の日』じゃなくて、
   今日から1カ月間の『童貞喪失月間』が、『儀式』の全体になる。」

だから、多少失敗したり上手くいかなくても、すぐに黒歴史にしなくていい。
1カ月間一緒に楽しんで、トータルで幸せな時間を過ごせたら…万々歳だろ?


この儀式を経る間に、お互いの関係性や自分の『世界』が大きく変わるだろう。
自分を曝したり、『大枠』が変化してしまいそうなのは、誰だって怖い。

だが、自分が惚れ込んだ相手と『世界』をもっと共有できるようになる…
この変化は凄ぇ幸せなことだし、喜んで受け入れたいと思わねぇか?

それに、『恋人と幸せな自分』という『大枠』が変わったとしても、
俺達4人の結束は変わらない…俺達は俺達のままだ。


「変化を恐れるな。4人でその変化を楽しみ…幸せな『記憶』を作ろう。」


それじゃあ…儀式開始だ。

黒尾の号令で4人は小指を立て、しっかり絡ませ合い…
互いの健闘と幸せな1カ月間を祈った。



********************




今晩はお赤飯炊いて、夕方届けてやるからな…と、黒尾は月島達を送り出した。
玄関の鍵を閉めると、真横にいた赤葦と顔を見合わせ…
安堵とも脱力とも言えない、力みのない微笑みを零し合った。


「10年…本当に、長かったです。」

たとえあなたが、心に決めた誰かを想っていたとしても、
仕事仲間の『猫と梟』として、ずっと一緒に居られるだけで十分だと、
自分を納得させるように…思い込み続けていました。

その『誰か』と上手くいかなくなった時を、虎視眈々と狙ってましたけど、
全くそんな素振りも見せず…もう諦めかけていたんですけどね。

「『心に決めた人』というのは『恋人』だと、ずっと思い込んでいました。
  まさか10年も『片想い中』の相手だったなんて…信じられませんよ。」


「お前の方こそ、『ずっと一緒に居たい人』がいるって公言してただろう?
  そう言って客達の誘いを断り続けてたから…俺も駄目だろうなって。」

今まさに大切な相手と一緒に居るから、どんな誘いも断ってる…
惚れ込んだ恋人がいるんだなと、俺もずっと思い込んでたよ。
しかも、したり顔で客達の恋愛相談に乗って…さも経験豊富そうに見えたしな。

恋人と一緒に居て、心身共に満たされてるからこその『色気』なんだろうと…
それがまさかのフリー、まさかの童貞とは、誰も信じねぇよ。

「思い込みって…怖いですね。」
「無駄に10年…経っちまった。」

勝手に思い込み、それを逃げの口実にして…自分のキモチを出さなかった。
今の関係が壊れるのが怖くて、一歩踏み出せなかったのだ。


赤葦は足元に視線を落としながら、つんつん…と小指で黒尾の小指をつついた。
黒尾は黙ってその小指を小指で捕まえ、きゅきゅ…と握り返した。

「昨夜だって、せっかくここにお泊りして、『おまじない』だってしたのに…」
「あまりに心地良くて、ソッコー寝落ちしちまったな…今朝は乱入されたし。」

山口には軽~く説明していたが、両家との『お話し合い』は実に厳しいもので、
自分達の仕事を賭してのギリギリ交渉…成功したのは奇跡的だった。
心身共に憔悴しきっていた上、月島の依頼完遂…自分達どころではなかった。

「月島君達のことが上手くいって…良かったです。イってます…よね?」
「恐らく…大丈夫だろ。俺達は十分尽くしてやれた…ことを願うのみ。」

そろそろ俺達自身の方で…いいよな。


黒尾はそう言うと、赤葦の頭を肩口に乗せて抱き込み、ポンポンと頭を撫でた。
意を察した赤葦は、顔を胸元に埋めて大あくび…目を瞬かせながら顔を上げた。

「…おはよう、ございます。」

黒尾も軽くあくびをして目を擦り、絡めた小指を引き上げた。

「おはよう…良い朝、だな。」


新たな約束をするかのように、黒尾は赤葦の小指に、そっとキスを落とした。



*****



来た時よりも、更に速いペースで非常階段を駆け降り、玄関へ飛び込む。
サンダルを脱いで、鍵を閉めるべく後ろを振り返ろうとした…瞬間。

俺より一瞬早くこちらに振り向いたツッキーに、視界が全て覆われてしまった。
驚いてパチクリと瞬きをすると、睫毛が眼鏡に当たって掠れる音が聞こえ、
その音に驚いて声を上げようとしたら、今度は開きかけた口が、
柔らかいものに触れ、包まれていることに…やっと気が付いた。

   (え、ツッキー、と…?)


不意打ちのキスに、思考も記憶も、全てが止まってしまった。
息を飲み込もうと唇を緩めると、その隙間からツッキーの舌が入り込んできて、
あの『おまじない』のように、舌と舌をしっかりと絡め取られた。

突然始まった濃厚な接触に、まるでアタマが追いつかない。
それなのに、カラダの方は自然と行動…いつの間にかしっかり抱き合っていた。

   (息、苦し…っ)

貪るようなキスで、酸素が足りなくなったのだろうか。
動きを止めた脳は、記憶することを放棄し、意識が微睡み始めてきた。

初めて味わう、静かで曖昧な…アタマの中。
思考も記憶もせず、ただカラダに任せることが、こんなに気持ちイイなんて…


「山口の記憶を封じる方法…見つかったね。」
「ん…、な、に?」

額を付け、上唇だけを触れさせたまま、ツッキーが嬉しそうに笑っている。
何かを喋る度に互いの唇を食む…その柔らかい感触が、更に脳を溶かしていく。

「山口は今、何を考えてる…?」
「何も、考え…られ、ない…?」

山口の記憶力を考慮して、色々策を練ったけど…全く必要なかったかもね。
不意打ちのキスだけで、こんなにカンタンに思考も記憶も止まっちゃうなんて…

それにしても、山口も黒尾さんも赤葦さんも、よく10年もガマンできたよね。
僕は自覚してからのたった数日間が、耐えられないぐらいの長さだったよ。

「早く山口と…こうしたかった。」
「つ、っきー…」

ツッキーは一人で、何か色々楽しそうに言っているけど…よく解らない。
今はただ、ずっとキスしていたい…そのキモチに応えるように、
俺を強く抱きながら、ツッキーは何度も何度もキスしてくれた。


今朝スルーしちゃった『僕に聞いて欲しいこと』だとかの細かい話は、
この1カ月間の『儀式』の間に、追い追い聞かせて貰うとして…

「とりあえず、何か忘れてない?」

ツッキーの質問に、俺は生まれて初めて必死に記憶を手繰り寄せ…
やっとのことで思い付いたのは、実にどうでもいいものだった。

「玄関…鍵、閉めずに、出てた。今も…まだ、開いたまんま…かな。」
「よりによって、それなの?それじゃあ僕も…後でゆっくり、伝えるから。」

ツッキーは柔らかく微笑みながら、鍵を閉めるようにもう一度キスしてくれた。


『おまじない』…効いたみたいだ。
ずっと欲しかったものが、二つも手に入ったんだから。

   ツッキーとキモチを重ね合うこと。
   それから…記憶を喪失できる方法。




- 完 -





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※意味記憶・エピソード記憶・手続的記憶
   →『億劫組織③


それは甘い20題 『05.不意打ち』

お題は『確かに恋だった』様よりお借り致しました。


2017/10/27   

 

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