炊き立てのご飯。わかめとねぎのおみそ汁。
塩鯖に大根おろしを添え、あとは湯豆腐と糠漬け…
何の変哲もない、ごくごく普通の…むしろ質素な純和風の晩御飯。
だが、この『普通の晩御飯』が、『日常』への帰還を実感させてくれる。
黒尾と赤葦は、食事中にはほとんど会話をしない。
修羅場明けの疲れから…というわけではなく、大抵いつもそうだ。
『酒屋談義』での語りっぷりとは真逆な、静かな食卓である。
ただ黙々と箸を進め…最後に温かいお茶を入れ直し、ホっと息をつく。
はっさくの皮を剥くと、部屋中が爽やかな良い香りに包まれ、
更に体から余分な力を抜いてくれる。
急須にお湯を足した赤葦は、いつものポジション…対面ではなく、
黒尾の真横にちょこんと正座し、そのままじりじり距離を詰め…
ぴと、と黒尾の肩に頭を乗せた。
しばらくじっとして、互いの温もりを充電する。
緩やかな呼吸を繰り返し…その度に、疲れや力みが緩んでくる。
「幸せ、だな…」
「そうですね…」
簡単なものとはいえ、ちゃんと二人で料理をして、
温かいご飯をゆっくり食べ、食後のお茶を満喫できる。
しかもこの後、『夜の部』の仕事もしなくていいのだ。
自分達の『日常』が、いかに贅沢なものか…二人はそれを再確認した。
「俺は本当に、幸せ者だな。」
個人事業主は大変で、特に年度末修羅場は地獄…それは覚悟していた。
仕事量もさることながら、その仕事が全て『自分の責任』というのは、
精神的にかなりの重みがあった。
だが、優秀なスタッフや先達に助けられ、何とか乗り切ることができた。
そういった人達に囲まれ、自分は本当に幸せだなぁと思わずにはいられない。
『個人事業主に必要な不可欠なのは、家族が仲良しであること。』
月島父が言っていたことも、本当の意味でよくわかった。
公私ともに支えてくれる人がいなければ、全てが成立し得ないのだ。
修羅場を潜り抜け、自分にとって何が一番大切なものか…改めて痛感した。
そんな『大切な人』にも、同じ修羅場を歩ませてしまうのが、
避けがたいジレンマであり…心から申し訳なく思ってしまう。
苦労をかけてすまない…と黒尾は詫びようとしたが、
それを遮る様に、赤葦は同じセリフを呟いた。
「俺は本当に、幸せ者です。」
会社勤めに必須な通勤・人間関係・業務外雑務…それらが一切免除され、
ただただ、自分の好きな仕事だけをやって、それで食っていけるんです。
対外的な面倒は、黒尾さんが全部引き受けて下さいますし…
これほどまで恵まれた仕事環境なんて、考えられませんよ。
確かに、修羅場は本当にキツかったです。でも…充実していました。
元々が超体育会系というのもありますけど、皆で苦しみを分かち合って、
何かを達成した時の喜びは、筆舌尽くし難いものがあります。
黒尾さんは大事な『家族』ですけど、『戦友』でもある…
現役時代には叶わなかったものが、今ようやく現実になったんです。
だから…俺に詫びる必要なんてありません。
俺も黒尾さんと一緒に仕事をさせて貰えて…
黒尾さんの参謀にして下さり、ありがとうございます。
赤葦の言葉に、心の底から温もりが溢れてきた。
肩に腕を回して更に引き寄せ、黒尾も赤葦の髪に額を乗せた。
一つ仕事を終える毎に、自分がいかに素晴らしい相手と結ばれたか…
それを強く実感し、感謝と愛おしさに包まれるのだ。
個人事業主は家族が仲良しでなければならないのだが、
日々の生活の中に、相手を大切に想う出来事が『満載』だから、
必然的に『仲良し』になってくるのではないだろうか。
「赤葦で…ホントによかった。」
「俺も…黒尾さんでよかった。」
じんわりと込み上げる想いが、溜まった疲れを癒していく。
部屋中を満たす温もりに浸り、間近で微笑み…唇を合わせる。
ほんの少しの触れ合いなのに、とてつもない幸福感だ。
「唇、すっげぇ…柔らかいな…」
「それ…言わないで下さいよ…」
互いの唇の柔らかさを感じたのも、随分久しぶり…
こんなに柔らかくて、気持ちよかったか?という驚きすら感じ、
それを言葉に出したことで、何だか気恥ずかしくなってしまった。
妙な初々しさに照れ臭くなり、二人は頬を染め…静かに瞳を閉じた。
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終 -
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2017/03/23 (2017/03/19分 MEMO小咄より移設)