最甘上司







「お疲れさまです。今日はもう、上がりませんか?」


急激に深まる秋…朝夕、かなり冷え込むようになってきた。
日が差す日中は、外を歩いたりすると汗ばみ、半袖でもいい。
だが、陽が落ちるとジャケットでも肌寒く感じることがある。

激しい気温変化と、連日の接待による深夜帰宅。
風邪を引いたという程ではないが、今朝から体がだるく、
ほんの少しだけ、喉にひっかかりがある…
黒尾は、俗に言う『お疲れモード』だった。


急ぎではない仕事を、漫然とこなしていると、
「ここにサインと押印を…」と書類を差し出しながらも、
夕方よりも少し早い時間に、赤葦は『本日終業』を申し出た。

願ってもない提案に、黒尾はすぐに書類を受け取ると、
迅速に内容を確認し、署名押印を終えた。

「はぁぁ~、今日は何でこんなに、だるいんだろうな…」
「季節的要因もありますし…最近ハードでしたからね。」

書類を受け取った赤葦は、ポケットから何か取り出し、
黒尾の机にそっと置き、自分の机に戻った。


「何だこれ…?キレイな…飴?」

赤葦が置いて行ったのは、白く細い棒のついた、小さな飴だった。
500円玉ぐらいの薄い飴の中には、可愛らしい花が入っていた。

「『エディブル・フラワー』…食用花の入った飴です。」
中の花は『薄紅葵(うすべにあおい)』…ハーブティでも人気の、
マロウ・ブルーという花ですよ。
気管支炎や咽頭炎…喉の痛みにも効果があるそうです。



赤葦は受け取った書類を封筒に入れながら、淡々と解説した。
黒尾はそれを聞きながら、飴を光に翳して見上げ、微笑んだ。

「俺が疲れてるから、飴くれたのか…サンキューな。」
「いえいえ…そんな、大したことじゃないですから。」
ですが、喜んで頂けて…良かったです。

照れ臭さを隠すかのように、赤葦は大きな音を立てて引出しを閉め、
そろそろ帰宅しましょう…と、椅子から立ち上がった。


「せっかく貰ったんだが…食べるのが勿体無いな。」
「それなら、普通の…市販ののど飴もありますよ?」

自宅への階段を上がりながら、赤葦はポケットから別の飴を見せた。
「お前、いつも色んな飴を持ち歩いてんのか?
   大阪のおばちゃんみてぇな…見事な『社交術』だ。」

大阪の女性は、『飴ちゃん』を持ち歩き、友人知人どころか、
見知らぬ人にも「飴ちゃん食べる?」と、気さくに振る舞うのだ。
『飴をあげる』ことよりも、そこから生まれる会話がメイン…
相手への気遣いや、仲良くなりたい気持ちをさりげなく表す、
実に万能なコミュニケーション・ツールである。

黒尾はこの『飴ちゃん文化』を、非常に高く評価していた。
事実、こうして疲れた時に、さっと小さな飴を貰うだけで、
張り詰めていたものがふわっと緩み、会話して元気も出た。
何よりも、自分を労わってくれた…その心遣いが、嬉しかった。

「デキる部下を持って…俺は幸せな上司だな。」
「糖分とカロリー摂取…気分転換に最適です。」
これを与えとけば…煩い口を塞いでおくこともできますし、
実は『鞭』よりも利用価値の高い…『躾アイテム』ですから。

そうか…赤葦は大阪の『飴ちゃん人心掌握術』に学び、
鞭ではなく飴で、梟谷の『猛獣達』を操っていた…ということか。
本当に、見事な『操縦術』…恐ろしく『デキる』部下(?)である。

…はい、お帰りなさい。
玄関扉を大きく開け、黒尾を自宅中へと誘う。
なんだか…「ハウス。」と調教されている気分になりかけたが、
黒尾はお行儀よく「ただいま~」とご挨拶し、玄関に入った。


**********


今日の晩御飯は…
ご飯は昨日炊いたし、大根の煮付も残っている。
後は干物でも焼けば、十分だろう。
風呂も追い焚きだから…小一時間はごろごろできそうだ。

廊下を歩きながら『今後の予定』を朧げに立てた黒尾は、
居間との続き間になっている和室に、両手を広げて寝転がった。

自宅兼事務所は、通勤もなくて本当に楽なのだが、
『仕事』と『家庭』の間に『切り換え』となるものがなく、
結果的に休む間がない…という難点があった。
まぁ、極めて贅沢な悩みなのだが。
言い方を変えれば、仕事も家庭も、どちらもが『気分転換』になりうる…
やっぱり、贅沢である。

とは言え、今はまだ…家事をする気力はない。
少しだけ、ここでのんびり休憩しよう。

黒尾が脱力したまま天井を見上げていると、
横に座った赤葦が黒尾の顔を覗き込み…口に何かを突っ込んだ。

「っ!?これは…さっきの飴か。」
もったいねぇっ!と口から出そうとしたが、
飴の柄…白い棒を赤葦が握ったままだった。

「これは…ぜひ食べて頂きたくて。」
赤葦は黒尾に飴を食べさせながら、空いた手で虚空に『飴』と書いた。


「『飴』という字は…」

『食器に食べ物を盛り、それに蓋をした』象形の『食』と、
『農具のすき』の象形+『口』の象形で『台』…
『大地にすきを入れて柔らかくする』という意味から、
柔らかい食品の『あめ』を意味する『飴』という字が成立した。



「お菓子の飴だけでなく、甘味やおいしい食べ物、食糧、
   そして『食べさせる』『養う』という意味があるそうです。」
「だからお前が、俺に食べさせてくれてんのか。」

至れり尽くせりで、大変ありがたいのだが…
「やけに俺を甘やかすのは、他にも理由があるんだろ?」
この後、実は『鞭』が…だったりするとか?

半ば本気で身構えていると、赤葦はちょっとだけ眉間に皺を寄せ、
「そんなんじゃ…ありません。」と飴を引き抜き、
黒尾に覆い被さりながら、今度はキスをしてきた。


片方で飴を握っているせいで、黒尾の頭の横に着いた片手だけで、
上半身を支える赤葦…凄く辛そうな体勢だ。

黒尾はキスをしたままゆっくりと上体を起こし、
赤葦を後ろから抱え込むように座った。
首を後ろに捻りながらキスを続ける赤葦…
やっぱりこの体勢も、ちょっと辛そうに見える。

名残惜しそうに唇を放すと、赤葦は黒尾に持っていた飴を渡し、
そのまま寄り掛かり…背中を黒尾に預けた。

そして、ぽつりぽつりと話し始めた。


「ウチのトイレのカレンダー、輸入物ですよね?」
「そうみたいだな。祝日とかが英語表記だしな。」

見てもさっぱりわからない『~Day』…
馴染みがないどころか、読み方すらわからない祝日も多い。
トイレにいる間は、「出たら調べてみよう。」と思うのだが、
実際出たら、もうすっかり忘れ…『~Day』は謎のまま過ぎて行くのだ。

「10月第3土曜日…『Sweetest day』と書いてあったんです。」
「最も甘い日…?何だそりゃ。」
読めはするが、全く意味不明な『Day』である。

たまたま携帯端末を持ってたので、調べてみたのですが…
赤葦はそう言うと、「昔々…」と諳んじた。


    アメリカ・オハイオ州のキャンディメーカーの社員キングストン氏が、
    病人や孤児達に、キャンディ等の小さな贈り物を配り歩いていました。
    その行為に感銘を受けたお菓子業界は委員会を立ち上げ、
    恵まれない環境にある人々にキャンディを配布する活動を始めました。
    徐々にその行動が全米に広まり、感謝の気持ちを込めて、
    キャンディ等の小さな贈り物をする日として定着したそうです。


「『一人の男の優しさから始まった』という美談なのか…」
「はたまた、この男を含めて『キャンディ会社』の販促…」
スウィーテストデーの発祥の真偽は定かではないが、
『普段お世話になっている人に、気を遣われない程度の、
小さな贈り物をする』日…だということらしい。

「『キャンディを贈る』って面では、ホワイトデーに似てるな。」
「お菓子メーカーの発案という面でも、非常によく似てますね。」
だがホワイトデーは、バレンタインデーの『返礼』であるため、
『日頃の感謝をこめて』というスウィーテストデーとは、
かなり意味合いが異なるイベントであると言えるだろう。

「バレンタインより『恋愛』要素が少ない分、気軽に渡せるな。」
「告白するには至らなくとも、仲良くなる契機にはなりますね。」
イベントの効果としては、バレンタインデー等よりも、
むしろ大阪の『飴ちゃん文化』に近いかもしれない。

「日本じゃあ、バレンタインに男から贈るのは、難易度高いですが…」
「スウィーテストデーならば、性別関係ない…使える『ネタ』だな。」
入試や進級進学、転勤等、年度末の忙しい時期に、
2ヶ月連続でお祭り騒ぎ…というのも、気分転換には悪くないのだが、
折角上手くイっても、直後に学校や勤務地が離れる可能性もある。
それよりも、10月半ば…クリスマス前に上手くイっとく方が、
時間的ロスも少なく、有益なイベントになり得るのではなかろうか。

「俺がお菓子業界の人間なら…もっとこの日を世間に推すな。」
「『オトナのハロウィン』等と銘打つと…周知も早そうです。」

甘い雰囲気そっちのけで、拡販プロモーションを画策する二人。
これもかなり考察しがいがあるが…今日はそれが目的じゃない。
赤葦は小さくかぶりを振り、話を甘い方に引き戻した。


「実は、10月にはもう一つ、『Boss's day』というのもあるんです。」

毎年10月16日(この日が週末の場合は直近の就業日)は『ボスの日』。
この日だけは上司に対する不満を忘れ、ボスの労をねぎらい感謝する…
という、こちらもアメリカ発祥の記念日らしい。

「父親想いの娘が、この日を提案したのが発端だそうですよ。」
「その親父さんは、部下と揉めてる『経営者』だったんだな。」
もし雇われの身であったならば、『Staff's day』になったはずだ。

この日スタッフ達は、グリーティングカードを添えて、
エディブル・フラワーを飾り付けたパウンドケーキを贈るそうだ。
パウンドケーキは、小麦粉・バター・砂糖・卵を、
それぞれ1ポンド(約450g)ずつ使って作るケーキであり、
上司の『公平さ』を象徴するお菓子…ということらしい。

「それで、俺は…非常に難しい問題に気付いてしまったんです。
   『日頃の感謝を伝えたい相手が上司である場合』です。」

『普段お世話になっている、感謝したい身近な人』に当てはまるのは、
社会人の場合、その中に『上司』が含まれる場合も多々あるだろう。
この場合、『スウィーテストデー』と『ボスの日』のどちらに、
対象となる上司に贈り物をすべきなのか…?
しかも、年によっては2つのイベントが間をおかずにやって来るのだ。

「成程…しきたりや上下関係等に気を遣う日本人にとっては、
   かなり『悩ましい』イベントになっちまうってことか。」

黒尾は咥えていた飴を口から出そうとした。
だが、残りわずかだったため、小さく割れ…白い棒だけが出て来た。


「悩んだ挙句…赤葦は『エディブル・フラワー入りの飴』を、
   『上司』である俺のために、手作りしてくれた…ってわけだな。」
「気付いて…いらしたんですか。」

そりゃ…気付きますよね。
形も歪ですし、味もイマイチ…成分表示もバーコードもないですし。
できるだけバレないように、自分で包みを取ったり、
すぐに口に突っ込んで誤魔化したつもりだったんですけど。

不慣れなことは、しない方がいいですね…
恥かしそうに俯く赤葦を、黒尾は後ろから強く抱き締めた。

「最初は確証はなかったが…俺が『勿体無い』って言ったら、
   代わりに『市販の』のど飴を出したからな。」
その一言で、お前が俺のために作ってくれたって、確信した。
だから、勿体無さすぎて…自分じゃとても食べられなかった。

「赤葦が食べさせてくれて…正直助かった。」

頸筋に顔を埋めながら、耳元に甘く甘く囁く。
温かい呼気と共に、甘い花の香りが後ろから伝わってくる。
色々とくすぐったさを感じた赤葦は、身を捩って黒尾を仰ぎ、
自分からキスをねだった。

「この飴…とんでもなく甘いですね。失敗作です。」
「俺が今まで食った中では…『最も甘い』飴だな。」

そんでもって、最高に…美味い。
赤葦は本当に…俺には勿体無いぐらいの、デキた部下だよ。


「そんなデキる部下に、上司からの質問だ。
   この花…薄紅葵の『花言葉』は?」
「『穏やか』『柔和な心』『やさしさ』…でした。」
労わりと感謝を伝えるイベントには、最適な選択と言えるだろう。
数あるエディブル・フラワーの中から、この花を選んだ赤葦は、
間違いなく『デキる部下』である。

「じゃあ、今度は…『上司じゃない俺』からの質問だ。
   『部下じゃない赤葦』は、なぜこの『花』を選んだ?」
薄紅葵の『花言葉』は、他にもある…そうだろ?
黒尾の質問に、赤葦は頬を染め…小さな声で答えた。
「『勇気』と、『熱烈な恋』…っ」

赤葦が言い終わらない内に、黒尾は再び赤葦の唇を塞いだ。
最後に残った花の香りを分け合うように、深く深く口付ける。
そのまま赤葦を横たえ…覆い被さったまま、甘いキスを続ける。


「『勇気』を振り絞って『熱烈な恋』を伝えてくれたお前に、
   俺は、精一杯『お返し』をしてやりたいんだが…」

『飴』と言えば、やっぱり『鞭』になるか?
『飴と鞭』は、英語で『carrot and stick』…人参と棒、だな。
『人参』か『棒』か…好きな方を選んでいいぜ?

赤葦に圧し掛かりながら、黒尾は下肢を強く押し付け、選択を迫る。

「『人参』も『棒』も、実は同じモノ…ですよね?」
「まぁ、そういう説も、なきにしもあらず…だな。」

赤葦は、黒尾の『人参もしくは棒』に、自分のソレを擦り寄せ、
黒尾の手から白い棒を取り、これ見よがしにティッシュに包んだ。


「薄紅葵の花言葉…あと2つあるんです。
   一つは『魅力的』、もう一つは…」

赤葦は黒尾の首に腕を回し、強く引き寄せた。
鞭のように舌を撓らせ、飴を舐めるように、じっくりと味わう。

そして、飴よりもずっと甘い声と唇で、蠱惑的に微笑んで言った。


「『悩殺』…です。」




- 完 -



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※2016年は曜日の並びの都合上、10/15(土)が『Sweetest day』で、
   2日後の10/17(月)が、『Boss's day』になります。


2016/10/14UP

 

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