日中の体育館内は、まだかなり蒸し暑いけれど、陽が落ちるとその熱気は去り、
高く澄んだ秋空から、冷たい風…夜はかなりひんやりする日が増えてきた。
スポーツの秋というぐらいだから、この涼風は運動後には特にありがたい。
練習と片付けを終え、次の業務に取り掛かる前の寸刻だけでも、
暮れゆく空を眺め涼やかな風を感じていると、熱と疲れがスーっと抜けていく。
ハードな自主練後から、晩御飯タイムリミットまでの僅かな時間が、
合宿中に許された唯一の息抜きタイム…できれば、静かに過ごしたかった。
ちょっと忘れ物…と、人の輪を抜け、自主練をしていた体育館へ戻る振りをし、
そのまま体育館入口を通過し、ぐるりと裏手に歩を向け…そこで息が止まった。
(あっ…あしっ!!?)
体育館外壁の脇にあった、朽ちかけたスチールロッカーの、向こう側。
外灯も月明りもなく、闇に近い薄暗さ…そこに、脚だけが横たわっていた。
スラリとした長く白い脚…上半身はきっとロッカーに隠れているだけだろうが、
もしかして脚『だけ』だったり…という妄想と、秋の涼風が背筋を震わせた。
このまま回れ右をしたい気持ちが半分、このままだと余計に怖いのも半分。
少々迷った俺は、どうか『上半分』がありますように!と半ば本気で祈りつつ、
息と足音を殺し、そろりそろりとロッカーに近付き…安堵のため息を吐いた。
(よかった…ちゃんと、あった。)
外壁に背を預け、ロッカーに隠れていた『あし』に繋がる上半分は、『あか』…
さっきまでこの体育館で一緒に自主練をしていた赤葦が、そこに座っていた。
「おい、赤葦…?」
何となく小声で囁くように呼びかけてみたが、赤葦はピクリとも動かない。
周りが暗いせいもあるが、練習の熱が引いた顔が、やけに青白く見え…
俺はミステリ的恐怖妄想を振り払うように、ジャージの上着を脱いで近付いた。
「赤葦…」
一歩一歩、近付いて。
腿の傍に、膝を着く。
ジャージ越しにほんのちょっとだけ触れた肌の冷たさに、ドキリと心臓が跳ね…
慌てて脱いだ赤い上着を露わな脚に掛けながら、やや大きな声で呼びかけた。
「こんなとこで、寝てると…風邪引いちまうぞ?」
俺の声に反応するように、赤葦は僅かに微動し、グラリと身体を傾けた。
地面に横たわりそうになる寸前で、俺は咄嗟に腕を伸ばして受け止め…
赤葦の冷え切った身体に驚いたのに、俺の身体にはドクンと熱が駆け上った。
「おっと…危ねぇ…っ」
赤葦を支えるためだ…と言いながら、真横に移動し外壁に背を預けて、
ズルズルと寄り掛かる赤葦を、そっと腕の中に抱き留める。
逸る動悸を落ち着かせようと、ゆっくり呼吸をするが…浅く早くなる一方だ。
目を閉じ、努めて深呼吸。
リズムに合わない、鼓動。
あぁ…合わないはずだ。
触れた部分から伝わる、自分のものじゃない、もう一つの『リズム』…
(よかった…ちゃんと、生きてた。)
もう一度、安堵のため息を吐きながら、ずり落ちる赤葦を再度抱え直す。
今度は、赤葦をこれ以上冷やさないように…と言い訳し、支える腕を近付ける。
「お前も、毎日大変だよな…」
おそらく赤葦がここに居たのも、俺と同じ理由だろう。
こんな場所でしか、こっそり休むヒマがない、梟谷の屋台骨…『止り木』だ。
赤葦が支えるものの大きさと重さを知っている俺は、胸を強く締め付けられた。
どうか、今だけは。
赤葦が穏やかに、寝られるように。
たまには誰かに頼っても…赤葦自身の重さを、どこかへ預けたっていいんだぞ?
気付いてはいないだろうが、お前を支えてやりてぇって奴も、ここに居るから…
「…おつかれさん。」
赤葦の全体重を受け止めるように、両腕で全身をすっぽり包み込む。
このぐらいのことしか、俺が赤葦にしてやれることなんて、ないけれど…
それでも、赤葦の背負う『重さ』が少しでも軽くなるようにと願いながら、
頭、髪、肩、背…熱の籠る掌で、上から下へと撫で解していった。
「頼むから…がんばりすぎんなよ。」
自らにも言い聞かせるように、俺は優しく柔らかく、赤葦を撫で続けた。
そうこうしているうちに、触れ合う部分からじわじわと熱が昇ってきた。
この熱は、俺に密着して、赤葦に温もりが戻ったから…というだけじゃない。
静かな寝息に誘われて、赤葦の眠気が俺にも伝染した…それだけでもない。
もちろん、過酷な状況に置かれた、デキ過ぎる参謀に対する同情だけでもなく、
そんな赤葦を休ませてやりたいという、純粋な慰労の気持ちだけ…じゃない。
密かに想う相手が、腕の中で。
無防備な寝姿を、曝している。
近付きたくても、なかなか近付けない相手が、今、自分の間近に居る…
手が届かないはずの相手が、自分の腕の中で寝てるなんて、夢のような状況だ。
偶然と言い訳を重ねた結果とは言え、熱が上がって…当然だ。
もしかすると、がんばり過ぎる俺に、神様から御褒美が貰えたのかもしれない。
(なら、もうちょっとだけ…)
「日が落ちて…寒くなってきたよな〜」
密着と緊張から、熱いくらいに火照った掌で、冷えた赤葦の頬に触れる。
すると、冷たかったはずの頬はいつの間にか温まり、朱がさして見えた。
指先で前髪を整えると、おでこも幾分シットリ…汗ばんでいるようだった。
「もしかして…暑い、か?」
返事の代わりに…小さなクシャミ。
そして、ブルリと身体を縮こまらせて、暖を取るかのように身を寄せてきた。
赤葦の方からしがみ付かれ、急上昇する体温と…跳ね上がる鼓動。
これだけ引っ付いていたら、逸る拍動と感情が、赤葦にバレてしまうかも…
何とかそれを鎮めようと、さっきよりも大きく静かに深呼吸すると、
俺よりももっと早いリズムを打つ音が、触れ合った胸に直接響いてきた。
(赤葦も、凄ぇドキドキ、して…?)
それなのに、先程まではっきり聞こえていた穏やかな寝息は、
まるで息を潜めているかのように…全く聞こえなくなっていた。
(まさか…)
「生きてる…よな?」
おでこを擽っていた指を、鼻梁を辿りながら真っ直ぐ下ろし、鼻先へ。
だが、緊張でやや震える指先には、呼吸の風は微塵も当たらなかった。
風がわからないなら、音を確認しよう…
俺は唾を飲み込みながら、もう一度「…生きてるか?」と空々しく呟き、
呼吸の音に耳を傾けようと、少しずつ赤葦の鼻先に顔を近付けた。
吐息の音は、全く聞こえない。
聞こえたのは、喉を鳴らす音…
指をもう少しだけ下ろし、唇に触れる。
やや潤み、熱を持ったそこにも、呼吸の風は感じない。
「まだ、寝てる…よな?」
どうか起きないで、そのまま…
願いを込めるように、何度も指先で唇を行き来し、確認をする。
鼻に鼻を合わせて…もう一度。
起きないでくれと…強く願う。
「嫌だったら、今すぐ…起きるんだ。」
唇が触れ合う直前に、掠れ震える吐息だけで、小さく問い掛ける。
そのくすぐったさに身を捩るように、赤葦は俺にしがみ付く手に力を込め、
ギュっと固く瞳を閉じながら、小さく小さく…あくびをした。
「まだ、起きたくない…寝言、です。」
秋の涼風とは思えない、吐息。
身を焦らせる、互いへの想い。
完全に同調する、二人の鼓動。
それらを全て混ぜ合わせた…熱さ。
俺がはっきり覚えているのは、触れた唇から伝え合った、二人分の『熱』と、
「くろおさん…」と、俺の名を呼び続ける、赤葦の…『寝言』だけ。
- 終 -
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2018/09/25