「さて、と…俺らもさっさと終わらせるか。」
黒尾はチラリと赤葦に視線を送ると、
瞬きだけで『万事了解』と、赤葦は応答した。
用具室からモップを取り出し、体育館の右前と左後…
対極から同時にスタートし、競うように掃除を開始する。
この方法が、一番早くモップ掛けを完了できる…
二人がこの2年間の『お片付け残業』で編み出した技だ。
できるだけ早く、雑務は終わらせてしまいたい。
自分達に許された時間は、ごく僅か…
一秒たりとも、疎かにできないのだ。
徐々に走るスピードを上げていく。
体育館のちょうど真ん中でモップがぶつかり合う。
「今日も『パーフェクト』なタイミング…ですね。」
互いにニヤリと笑い、ハイタッチ…用具室へと引き上げる。
面倒極まりない『押し付け残業』ですら、こうして楽しめる…
こんな些細なことでも、お互いの『相性の良さ』を感じ、
ちょっと嬉しくなってしまう…日常に溢れる、小さな幸せだ。
赤葦にモップを預けた黒尾は、体育館入口の扉を閉め直し、
館内の照明を全て落として用具室に戻った。
その用具室の扉は、少しだけ開けておき、跳箱に腰を預ける。
モップをスチール物入に収納し終えた赤葦は、
その跳箱の正面…平均台に腰を着け、向かい合わせに座った。
「黒尾さん…今日もお疲れさまでした。」
あ…今日というよりは、今回の合宿も…でしたね。
まだ明日もありますが、とりあえず『宿泊』は今夜で最後ですね。
「合宿最後の晩か…『お祭り』状態だ。」
今夜ばかりは無礼講と、指導者達も多少は目を瞑ってくれる。
…というより、一番無礼講なのは彼らオトナ達なのだが。
しかも、今回はいつもの『合宿最後の晩』とは、ちょっと違う。
今季最後の合宿…3年生にとっては、『高校最後』の晩だ。
今夜こそ、今季一番の山場…来るべき『重労働』の予感(確定)に、
黒尾と赤葦は、再び重~~~いため息を溢した。
「俺にとっても、今回が最後…今夜ぐらい、ゆっくりしてぇな。」
「最後まで『パーフェクト』に主将業務…心中お察ししますよ。」
俺も『お祭り騒ぎ』したいとは言わねぇ。
ただただ、静かに…『雑務』なしで、のんびり過ごしたいだけ。
「正直…ここから出たくねぇ気分だ。」
「それは…俺の方も、完全同意です。」
こんな狭くて暗いとこでしか、息を付く暇がないなんて…
お互い、損な役回りですよね。
狭く暗い用具室が、静かな沈黙に支配される。
呆けたように力みのない視線で、黒尾は正面の赤葦を眺めた。
そして、ふぅ…と腹から息を出し、ぽつぽつと喋り始めた。
「『パーフェクト』と言えば…この『向き』もだな。」
言っている意味が、よくわからない…赤葦が首を傾げると、
黒尾は両掌を目の前に広げ、赤葦との前に『境界』を張った。
「自主練も含めて、俺とお前はずっと『対面』…」
一度も『同じ方向』を向くことなく…相対するチームばかりだった。
出会って2年、何度も合宿し、共に自主練を続けてきたというのに、
最後の最後まで…パーフェクトに『対面』だった。
「一度だけでも、お前の『真横』に立って…
お前と『同じ方向』を向いて、バレーしてみたかったな。」
高校バレー…合宿の『心残り』があるとすれば、唯一これかもな。
「堂々とお前の『真横』に立てる日が、いつか…来るかな。」
不意にこぼれ落ちた、黒尾の弱音。
これも秋風がもたらした『何か』なのだろうか…
溢した黒尾自身が、自分の言葉に驚いていた。
「悪い…俺まで木兎のアンニュイが移っちまった。」
「いえ…今夜だけは、それも仕方ないと思います。」
部活に全てを捧げた3年間。
捧げたものが大きければ大きいほど、
それが消え行く儚さは…筆舌尽くしがたいだろう。
一年後の自分は、この虚無感に耐えられるだろうか?
いや、今の3年生達がいなくなることに、自分は…
用具室の冷気が、自分の中にまで入り込んで来そうになり、
赤葦は慌てて思考を遮断し、努めて『いつも通り』を演じた。
「俺は、この『対面』…気に入ってるんですよ。」
赤葦は俺がしたのと同じように、掌で『境界』…ネットを作った。
そして、試合中と同じ目で、こちらをじっと見据えてきた。
「いかに気持ち良く、スパイクを決めさせるか…
これが、俺の…セッターの仕事です。」
そのためには、相手ブロックを交わし、出し抜かないといけません。
どうすれば目の前に立ち塞がる、ブロッカーの裏をかけるか…
それをずっと観察し、考え続けています。
「つまり、音駒との試合中、俺が一番考えているのは、
黒尾さん…あなたのこと、ということになります。」
こんなに堂々と、黒尾さんのことを見つめ、考え続けられる…
ネット越しに『対面』しているからこそ、それが可能なんです。
「だから俺は…あなたと『対面』で、良かったなって…」
対戦相手…『セッター』と『ブロッカー』という立場でなければ、
こんなにあなたのことを、考え続けることはできなかった。
公然とあなたを想うことが許される、唯一の時間だったから…
赤葦の言葉は、俺にとってはまさに青天の霹靂だった。
どうして俺達は、違うチームなんだろうか?
赤葦の『真横』に立つことは、叶わないのか?
ずっと一緒に居たいと願うのは…許されないのか?
俺と赤葦の間を隔てる『境界』に、絶望にも似た諦めを抱いていた。
だが、赤葦はその『境界』を、まるで違うものと捉えていた。
この『境界』があったからこそ、俺を見続けていられたと…
「そんな考え方も…あったんだな。」
「セッターならではの…役得です。」
試合中とは全く違う、柔らかい微笑み。
その笑顔に、鬱積していたものが、ふわっと氷解していった。
「お前が見てると思うと…絶対に無様なマネはできねぇよな。」
「えぇ。ネットのこちら側から…鼻で笑って差し上げますよ。」
俺に『考察不要』と見放されないよう…せいぜい楽しませて下さい。
手強い『対戦相手』の挑戦に、俺も不敵に笑って返した。
「役得…か。それなら、主将ならではの役得も、かなりあったな。」
主将という激務に身を置いていたからこそ、
ほぼ同じ立場の赤葦と、最大の『理解者』でいられたのだ。
互いを労り、通じ合えたのも、そのおかげと言っても過言ではない。
「『お片付け残業』だって…見方を変えれば、かなりの役得だな。」
「堂々と二人きりになれる口実…実は俺、楽しみにしていました。」
そう言うと、赤葦は平均台から降り、俺の『真横』に座った。
そして、先程までとは違う目で、じっと見上げてきた。
「今だけは、こうして『隣』に居ても…いいですよね?」
「むしろ、今しかこうして居られない…今だけなんだ。」
俺も同じような目で、じっと赤葦を見つめ…
そして、その視線を逸らし…開いた入口扉へと送った。
これ以上は…駄目だ。
いつ誰が、入ってくるかもわからない。
ここで感情と欲に浸っては…駄目だ。
自らに言い聞かせるように、『真横』にも『境界』を作る。
掌一つ分…たったこれだけの距離だが、
この距離が、お互いの『役職』を思い出させ、自制の砦となる。
せっかくの『真横』でも、『対面』よりも…余程辛い。
「今日が『最後』なのに…駄目、なんですか?」
ギュっと握り締めた掌と、呟く声が、小さく震えている。
いつもの『お片付け残業』では、ほんの少し、触れる程度のキス…
それが、自分達の『秘密の楽しみ』だった。
誰かの足音に聞き耳を立てながら。開いた入口を横目で見ながら。
恐る恐る、慎ましく…これが合宿中、一番の楽しみだった。
だが…今日は、駄目だ。
もしいつも通り、赤葦に触れてしまったら…
これが『最後』だという事実と、この季節特有の『何か』が、
自分の『自制』を、簡単に消し飛ばしてしまいそうだった。
必死に自分を抑えていると、赤葦がそれを遮る様に、
絞り出すような声で、言葉を紡ぎ始めた。
「『最後』が辛いのは…黒尾さんだけじゃ、ありません。」
3年が引退してしまう…『下』だって、辛いんです。
これからどうすべきか、自分達が部を背負っていけるのか…
虚無感と不安から、目を逸らしたいのは…俺達だって同じです。
「置いて行かれる…取り残される俺は…」
職務や責任に押し潰されそうになった時、
黒尾さんが手を差し伸べてくれたり、声を掛けてくれたり…
二人きりの『お片付け』が、どれだけ俺を救ってくれたことか。
黒尾さんが居たから…この時間があったからこそ、
俺はこの重責に耐え、踏ん張って来れたんです。
「黒尾さんという『支え』を失う俺は、この先どうすれば…っ」
狂おしい程に俺を求める、赤葦の慟哭。
その言葉が、心の奥底を、激しく揺さぶる。
「馬鹿…これ以上、煽るな…」
振り切るように、固く目を閉じる。
ふっ…と、『真横』から赤葦が離れる気配がする。
目を開けると、赤葦が入口扉を静かに閉めている姿が見えた。
「お前、何して…」
慌てて問い掛けるも、赤葦はそれに答えず、
今度は外から開けられないよう、箒で『つっかえ棒』までした。
そして、大股で近付き、目の前に立つと、
両手で俺の二の腕をそっと掴み、額を胸元に付けた。
「今は未だ、合宿中…『職務』が残っています。
それを忘れてまで、幸せに浸ろうなんて…言いません。」
でも、今日が『最後』だというのも、事実なんです。
だから、今まで黒尾さんが頑張ったことへの『ご褒美』と、
これから黒尾さんなしで頑張る俺への『激励』として…
「キス…して下さい…」
「赤葦…ありがとな…」
黒尾は赤葦の懇願には返事をせず、
立ち竦む赤葦の体を柔らかく包み込み、髪を優しく撫でた。
「俺の方こそ、赤葦にどれだけ救われたか…」
合宿中に、やり場のない怒りを抱えてしまった時や、
全てを投げうって、逃げだしてしまいたくなった時。
すれ違いざまに、俺にだけわかるように…視線を送ってくれた。
苦しいのは、俺にはちゃんと、わかっています…
もうちょっとだけ、頑張りましょう…ね?
たった一人でも、内に抱える苦しみを理解してくれている人がいる…
そのことが、どれだけ俺の支えとなったことだろうか。
「赤葦が居てくれて、本当によかった。」
お前のお蔭で、俺はここまで『役職』を全うすることができた。
本当に…ありがとう。
髪を撫でていた手を顎に添え、傾ぐ頭を上げさせる。
おずおずと上目遣いに見上げてくる、少し潤んだ瞳を覗き込み、
黒尾は温かく微笑みながら、再度「ありがとう。」と言った。
こちらこそ…と頬を緩め、赤葦はゆっくりと瞳を閉じた。
ふわり…と、待ち望んだ温もりが、唇に触れる。
歓喜に身を震わせる…その寸前に、息が詰まる程強く抱き締められ、
噛み付かんばかりの勢いで、激しく口付けられた。
「んっ!!!?」
今度は驚きで身を震わせ、思わず体を引こうとしたが、
頭も体も完全に固定され、捕縛されてしまった。
角度を変え、唇を吸い上げ…貪るように、キスされる。
いくら扉を封じたとは言え、まさかこんな所で、
こんなに熱烈なキスをされるとは…全く予想していなかった。
「ちょっ、くろおっ、さん…っ」
キスの間を縫って、待ったの声を掛けてみるが、
その声さえ飲み込まれ、開けた唇の隙間から、舌を差し込まれる。
こんなキスは…数える程しか、したことがなかった。
片手で事足りるだけ…ほんの数回、職務『外』で逢った…
二人を自制させるものが、何もない時だけだった。
「こうなるって、わかってたから…駄目だって言ったんだ。」
『最後』だからって…らしくなく煽りやがって。
素直なキモチを伝えてくれたのは、物凄く嬉しかったが…
『最後の夜』『冷たい秋風』『人肌』って状況設定の上に、
『素直な赤葦からの懇願』なんて…致命的な破壊力だぞ。
「たっぷり『ご褒美』…頂いていくからな?」
「俺への『激励』も、忘れずに…下さいよ?」
赤葦は「してやったり」と言わんばかりに、満面の笑みを魅せた。
黒尾も全く同じ表情で、「上手くイったな」と、その目で語った。
「念のために確認致しますが…
引退後は堂々と、『真横』で俺を…支えて下さるんですよね?」
「ホントに『らしく』ねえな…
赤葦とは思えない…ビックリするような『愚問』じゃねぇか。」
- 完 -
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※狂震未浸(きょうしんみしん) →造語。
(『きょうみしんしん』のアナグラム。)
赤:
「気付いたら『ドカン!』…タチ悪いですね。」
黒:「お前が言うなって。この…『ムッツリ』が。」
2016/11/11UP