「すまない、随分待たせちまった…」
「いぇ…遅くまで、御苦労様です。」
息を荒げながら入ってきた黒尾は、先に来ていた赤葦に、
深夜まで待たせたことへの詫びを言った。
赤葦は立ち上がると、座っていた椅子を黒尾にすすめ、
外套と鞄を受け取り、簡素な木製机に置いた。
「久しぶり…だな。変わりないか?」
「えぇ、お陰様で。黒尾さんもお変わりなく…忙しそうですね。」
一番上の釦を外して襟を寛げると、
黒尾は疲れの籠った溜め息を吐き出した。
先程は「お変わりなく」…と言ったが、
暫く振り…二月程見ないうちに、少しやつれたのではなかろうか。
洋燈の揺らめく灯り…その陰影が、黒尾の疲労を浮かび上がらせる。
だがそれを指摘すると、黒尾はきっと『否』と言うだろう。
だから赤葦は、何も言わないでおくことにした。
じ…じじ…と、
壁際に置いた瓦斯燈が揺れる音だけが、部屋の中にこだまする。
椅子に体を預けた黒尾は、天井に映る影を、見るともなく見上げ、
寝台に腰掛た赤葦は、瓦斯燈の煤で傷んだ壁を、ただ茫然と眺めていた。
黒尾と赤葦が『暫く振り』にしか逢えないのは、
互いの職務が多忙を極めている…ということもあるのだが、
そう軽々しく…大手を振るって逢える間柄ではないのが、一番の理由だ。
二人がそれぞれ所属するのは、同業他社…つまり、『競合相手』なのだ。
本来ならば、敵対するはずなのだが、一体どんな神の悪戯なのか…
二人はその肩書に反し、憎からず想い合う仲だった。
だがそれ故に、こうして逢うためには、細心の注意を払う必要があった。
街外れの廃屋…その離れの土蔵を『秘密の寝屋』として、逢瀬を重ねていた。
人目を…特に身内の目を憚りながらの逢瀬は、それだけで罪悪感が伴う。
しかし、その罪悪感さえも、互いの身を焦がす糧となり…
灯りの届かない部屋の隅で蠢く闇のように、背徳的な想いが駆け上がる。
あぁ…こうして二人、静かに刻を過ごしたい反面、
ほんの一瞬でも勿体無い…と、焦れる部分も有る。
もっとお傍に、近付きたい…
近づいても、いいだろうか…
二つの想いに揺れながら、黒尾を呆然と見詰めていると、
部屋の暗さ故か、その視線の意味を取り違えた黒尾は、
ようやく赤葦の方に体を向け…心配そうに声を掛けた。
「お前も疲れてるみてぇだな。辛かったら…寝てもいいぞ?」
確か赤葦…こんな明々した部屋じゃあ、寝られなかったか。
洋燈…消すか?
「いぇ、俺は大丈夫です…お気遣いありがとうございます。」
赤葦はそう言ったが、赤葦は絶対に「辛い」等とは言わない…
それがわかっていた黒尾は、「無理すんなよ…」と仄かに微笑みながら、
洋燈に手を伸ばした。
…その手を、赤葦はそっと掴んだ。
「確かに、眠たいですけど…」
今ここで眠ってしまうのは…嫌です…
赤葦が台詞を全部言い終わらないうちに、
黒尾を掴んでいた手を逆に強く引かれ…
黒尾の腕の中に、閉じ込められていた。
久しぶりに触れ合う、互いの体温。
求めて止まなかった温もりに包まれ、
抑え込んでいた情動が、内から突き上げてきた。
背に腕を回し、互いをきつく掻き抱く。
激情に流されるまま、呼吸すら飲み込むように、
深く深く口付けを交わし、互いに貪り合う。
狭く暗い寝屋に響く、瓦斯燈の音と、互いの心音。
その火を更に煽るような、衣擦れ音と、荒い呼吸音。
そして、その火さえも消してしまいそうな、舌が絡む水音…
それらの音に焚き付けられながら、二人は己が求めるまま、
ただひたすらに…唇を合わせ、吐息を吸い合った。
どうして俺達は、敵対しなければならないのか。
どうして二人は、共に在ってはならないのだろうか。
このまま全てを投げ出し、ずっと傍に…居られたならば。
胸を焦がす互いへの恋慕と、己の肩に掛かるものの重さ。
そのせめぎ合いの中で、締め付けられるような情念が、
黒尾と赤葦を急き立て、互いの全てを求め合う。
ぎしり…と、二人分の想いを受け止めた寝台が、
二人の代わりに絶叫を放つ。
「黒尾さん…お逢いしたかった、です…」
「あぁ…本当に、お前に逢いたかった…」
寝台の悲鳴に掻き消されそうな、掠れた喘ぎ声だったが、
身を切るような想いと共に、互いの耳と体にはっきりと響いた。
惚けたように見詰め合う。
情欲の中にも、優しさを滲ませた目で、赤葦を見下ろす黒尾。
その温かい視線に、赤葦は熱い吐息を漏らした。
「やっぱり…灯り、消してもらっても…いいですか?」
部屋を包み込む暗闇。
だがそれ以上に、互いの熱と情で、互いの全てを覆い尽くした。
- 完 -
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※ガスで傷む寝屋へ。「確か赤葦、明々した部屋…」「眠たいですが…」
(がすでいたむねやへたしかあかあしあかあかしたへやねむたいですが)
2016/09/16UP