茜射す夕暮。
山口家の玄関前に整列した、月島・山口両家は、互いに深々と頭を下げた。
「本日は、ご苦労様でございます。どうぞこちらへお上がり下さいませ。」
山口父の挨拶により、仲人の黒尾、月島父、母、蛍の順に玄関を上がる。
「床の間をお借りします。」…月島父が一礼すると、山口家は一旦席を外し、
結納品を持った蛍を中心に、床の間に結納品を飾った。
飾り付けを終えると、仲人の黒尾が、「お待たせ致しました。」と声を掛け、
控えの間にいた山口家が再度入場した。
床の間側から、月島父・母・蛍・黒尾。
その対面に、山口父・母・忠・赤葦。
座布団は敷かず、各々膝の前に末広(白無地の扇子)を置き、姿勢を正した。
月島家と山口家の結納。
様々な事情により、この儀式をもって、蛍と忠の婚姻とすることになった。
古来からの習わしにより、儀式は夕刻…黄昏時に開始された。
『婚姻』の『婚』は、女偏…両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性と、
『昏(くらい)』…人の足元に日が落ちた象形(日暮れ)から成る文字だ。
そして『姻』は同じ女偏と、『因』…しとね(布団)の上に人が寝ている象形。
どちらも、『夜』の儀式を表す文字で、『えんぐみ』を意味している。
婚姻の別の言い方は、『結婚』…こちらも『えんぐみ』を表す言葉だが、
『結』の文字は、糸偏…より糸の象形及び、『吉』…刃物+口の象形だ。
古くから、刃物の前で祈りを捧げていたことから、『祈りの言葉』を意味する。
つまり『結』とは、祈りの言葉で糸をしっかり繋ぎ合わせること…
おそらくその糸は、『赤い糸』のことを指すのであろう。
「本日はお日柄も良く、この度は月島家ご子息蛍様と、山口家ご子息忠様の、
ご良縁が相ととのいまして、誠におめでたく心よりお祝い申し上げます。
未熟ではありますが、我々が両家のご良縁の仲立ちをさせて頂きます。」
仲人の黒尾が儀式開始を宣言すると、月島父は黒尾に『目録』を差し出した。
黒尾はそれを受け取ると、もう一人の仲人・赤葦にそれを渡した。
「ご成婚の印として、月島家から結納の品を持参致しました。
幾久しくお納め下さい。」
赤葦が山口父に目録を渡し、父が内容を確認。母・忠の順にそれを回覧した。
「大変結構な品々をありがとうございます。幾久しくお受け致します。」
今度は山口父から赤葦へ、赤葦から黒尾へ、目録の『受書』を手渡し、
「山口様からの結納受書でございます。どうぞお改め下さい。」と月島父へ。
月島父は内容を確認…「相違ございません。」と述べた。
結納の品と受書の交換が終了。黒尾は再度姿勢を正し、結びの口上を述べた。
「これで滞りなく、両家のご縁組が整いました。おめでとうございます。」
「黒尾様、赤葦様、ありがとうございました。
山口様、幾久しく宜しくお願い申し上げます。」
「こちらこそ、幾久しくお願い致します。」
両家の父同士が挨拶し、一同礼。
これにて、月島・山口両家の、結納の儀式は、無事終了した。
なお儀式の最中は、決められた口上以外はほとんど口をきかない習わしのため、
現地からの中継及び実況解説は、私・月島明光がお送りいたしました。
「…はいオッケー!撮影終了だよ。みんなお疲れさま~♪」
明光の号令に、全員一斉にため息…緊張感から解放され、ホッとした表情だ。
「いやはや、無事に『結納の儀』が完了して何よりだな。さぁ飲むぞ!」
「山口家での最後の大イベントがこれだなんて…ステキよね~♪」
「っていうか、兄ちゃん…解説長すぎ。正座で足が痺れちゃったじゃん。」
「僕は緊張で、喉が痺れそうだったよ~セリフそんなになくて良かったぁ~」
「母さんは相変わらず無表情…微動だにしなかったね~」
「私も蛍君と同じだ。ただ単に…動けなかっただけだ。」
儀式(撮影)が終わった瞬間、両家揃ってこの緩みっぷりである。
あまりに緊張感のない面々に、仲人二人は脱力…赤葦が手を叩いて場を締めた。
「はいはい、次は月島家へと場所を移しての会食…『御食事会』ですよ。」
「全員整列!きちんと礼をして…順次車に乗り込め。忘れ物に注意だぞ?」
床の間に飾られた結納品等を黒尾が、未だ足元が覚束無い山口母を赤葦が抱え、
一同は山口家を出発…月島家へと車で向かった。
***************
「それでは、第98回月島・山口二家族会議を開催する。」
「待てっ!実質的にはソレでも、会合名称やら仕切りやら…全然違うだろっ!」
月島家の和室に場所を移した一行。
今度は床の間に一番近い上座に、仲人の黒尾と赤葦が座り、父・母・本人の順。
『とりあえずの一杯』片手に、普段通り月島父が仕切ろうとするのを、
仲人の黒尾が慌てて止め…少し首を傾げて思案し、隣の赤葦に確認した。
「これ…『結納膳』になるのか?」
「結納の後の御食事会ですから…」
本来であれば、無事に結納の儀を終えたことを祝う、おめでたいお膳だろうが、
イレギュラー極まりない両家の婚姻儀式…会合名称がよくわからない。
「蛍と忠のラブラブイベント…実は全部『逆』になってるんだよね~」
上京後なんちゃって同棲…本来はゴールであるべき『結婚生活』からスタート。
そして、正式同棲の前に、『婚姻届』を両家に提出して『婚約』した。
挙式直前に行うはずの『荷物送りの儀』を経て、『結納』によって『婚姻』…
ゴールからスタート地点に戻るようなカタチで、儀式を行っているのだ。
「あらあら、まるで『ヤることヤっときながら言うべきこと言ってない』…
最後の最後に、やっと『告白』して付き合い始めたカップルみたいね~」
月島母の『たとえ話』に、仲人二人と本人達は、盛大に吹き出した。
その意味は、笑いと焦り…かなり違うものではあったが。
「ってことは、結納『前』にヤるイベントは…『両家顔合わせ食事会』かな?」
「ヤるならば徹底的に。最後まで『逆』を貫こう。黒尾君…仕切りを頼む。」
山口母の要請に応え、黒尾は咳払いして盃を掲げた。
「それでは、只今より月島・山口両家の『顔合わせ食事会』を執り行います。」
乾杯!の音頭に合わせ、一同はグラスを静かに捧げた。
「両家の挨拶及び、自己紹介…省略。となると、あとは『歓談』のみですか。」
やっぱり、結局はただの飲み会…赤葦は心の中で苦笑いしながら、提案した。
「折角ですから、第98回二家族会議兼酒屋談義の議題は…これでしょうか?」
赤葦は後ろを振り返り、床の間に置かれた結納品の数々に視線を送った。
見慣れないモノ達に、皆が興味津々…赤葦の提案を全会一致で採択した。
結納品の品目は、地域によってかなり違いがある。
多くは5、7、9品目…月島家は宮城県の風習に則った7品目を用意した。
目録、長熨斗、金包(御結納料)、子生婦、末広、友白髪、そして貰受状だ。
・目録は、結納品の品目と個数を箇条書きにした書状…結納時に渡したもの。
・長熨斗(ながのし)は、平たく延ばした干しアワビ…不老長寿の象徴。
・金包は結納金。元々は婚礼衣装を作る帯…それが『御帯料(御袴料)』に。
・子生婦(こんぶ)は昆布。子孫繁栄と、『よろこぶ』に繋がる。
・末広(寿恵広・すえひろ)は白無地の扇子。純潔無垢と家運繁栄を願うもの。
・友白髪(友志良賀・ともしらが)は、麻糸で白髪を表す。
白髪になるまで、夫婦共に仲良く暮す…円満長寿を願うもの。
「最後の『貰受状(もらいうけじょう)』…これは、宮城独特のものらしい。」
都内のデパートにはなかったことで、私は初めて、宮城にしかないと知った。
あって『当たり前』だと思い込んでいたから…随分驚いたよ。
『貰受状』は、「嫁に貰います」という証文で、江戸時代の武家社会…
仙台藩で行われてきたしきたりが、現在まで続いているそうだ。
「そして、これが山口家からのお返し…『進参状(しんざんじょう)』だよ。」
山口父は、鞄から書状を取り出し、月島父に恭しく手渡した。
『進参状』は『貰受状』とは逆に、「嫁に参ります」という証文になる。
「昨日、僕と山口で『貰受/進参状』のセットを、駅前デパートで探したよ。」
ジーパンTシャツの僕と、山口研究室つなぎの山口…場違いこの上なかったね。
まさか自分達用とは思われず、『お使いご苦労様です』って言われちゃたよ。
恥かしそうに俯く山口。
結局『おデート』の衣装を買う時間はなく、結納衣装他で精一杯だったのか…
赤葦はそれに気付き、山口に視線で「ドンマイ!」と慰めておいた。
「あと、よく聞くのは『勝男節(鰹節)』とか『寿留女(スルメ)』かしら?」
月島母は、大皿に乗ったカツオのたたきと、スルメのおつまみを指差した。
御目出度い結納品にちなんだ料理(肴)を、母はちゃんと準備していた。
(床の間の『鶴亀の掛軸』と、松竹梅の生け花は、昨日黒尾と共に飾った。)
「残るは『家内喜多留(やなぎだる)』…黒尾さんと俺からのお祝いです。」
赤葦が持ち出したのは、角のような大きな柄のついた、朱塗りの酒樽だった。
この『角樽(つのだる)』は、大抵が一升入り…『一生』添い遂げる、の意味だ。
「そして、この角樽の中にお入れしたお酒が…こちらです。」
大きな紙袋から酒瓶を取り出し、皆に見えるように掲げ、赤葦は解説を始めた。
「縁結びと言えば出雲大社。その出雲の銘酒…『月山(がっさん)』です。」
月島家と山口家の縁組に、最も相応しいと思われる…『月山』のお酒です。
当初俺が用意していたのは、縁結び用ピンクラベル…特別純米の一升でしたが、
『扇(末広)』の銘を冠す、最高級の大吟醸も、祝杯に相応しいのでは?という、
黒尾さんの超絶アッパレ!なご提案により、こちらも特別にご用意致しました。
ここで三々九度をしてもよかったんですが…省略で。
赤葦はそう言うと、角樽を抱え、全員の盃に『ピンクの月山』を注いで回った。
「『ピンクの月山』で『婚』と『姻』…さっすが赤葦君、ヤるねぇ~♪」
「『寝酒』には最適なネーミングだ。」
「祝い酒ならぬ、卑猥酒だね~」
「むしろ、精力剤にしか聞こえんな。」
「これは『逆』じゃなくて…『山月』じゃなくて、良かったわね~♪」
赤葦の選んだ『逸品』を、見事に↓方向へ曲解し、大喜びする両家の面々。
美しい話だったはずが、デリカシーのないネタに変換されてしまい、
赤葦はガックリ項垂れ…慰めた黒尾のネクタイで、コッソリ涙を拭った。
「月山の酒で、両家を結んでくれた黒尾君と赤葦君…二人にはこれを贈るよ。」
明光が手渡したのは、熊手を持ったお爺さんと、箒を持ったお婆さんの人形。
主に九州地方で、友白髪に添えて贈られる、高砂人形である。
高砂や この浦舟に 帆を上げて 月もろともに出で汐の
波の淡路の島蔭や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住之江に 着きにけり
「結婚式で謡われる、定番中の定番…能の『高砂』の一節だよ。」
『高砂』は、『相生(あいおい)の松』という伝説を元にした、世阿弥作の能だ。
播磨国(兵庫)高砂の松と、摂津国(大阪)住之江の松は、『相生の松』と呼ばれ、
遠く離れていても、一本の木のような存在…『夫婦松』だという伝説だ。
高砂人形は、その夫婦松の精である、尉(じょう)と姥(うば)を表している。
「この『相生の松』は、夫婦和合と長寿の象徴なんだけど…
何と、雄松が『黒松』で、雌松が『赤松』っていう組み合わせなんだよ。」
「『黒』と『赤』の夫婦…これほど婚姻に相応しい『仲人』は、存在しない。」
「恐るべき偶然…だが、両家にとっては必然、又は運命としか思えない。」
「『黒と赤』が結ってくれた両家の縁…心から感謝致します。」
全員から深々と頭を下げられた黒尾と赤葦は、人形を手に茫然とした。
様々な偶然から、月島・山口と『酒屋談義』をする仲になり、
両家に巻き込まれる形で、共に開業し同じ家に住み、縁組まで手伝った。
どうしてこんなにも、両家に振り回され続ける人生なのか、謎だったが…
全ては偶然の積み重ねだが、自分達が『相生の松』というのであれば、
それは間違いなく、何かに強く結ばれた縁…運命と言えるのではないだろうか。
「『相生の松』は、理想の夫婦像…蛍君と忠も、黒尾君達を見習うといい。」
名よりも実を、体裁や世間体ではなく本質を見極め、幸せを希求する…
離婚専門家ならではの知識と経験を活かし、喧嘩&仲直りをする彼らは、
『何をヤったらアウト』かを熟知…貴重な『手本』となるはずだ。
特に、旦那の手痛い大失態を、大手柄に変えた赤葦君の手腕は、見事の一言だ。
まぁ、黒尾君の失態が失態には見えない…ただの盲目説もあるがな。
「『一升瓶』が『4合瓶×2』になったというのに…不足2合分はどうした?」
山口先生の質問に、黒尾(他3名)は目を泳がせたが、赤葦は笑顔で答えた。
「それは『誤差』です。些細なことには目を瞑る…仲良しの秘訣ですよ。」
不足の2合分の所在について、月島父兄弟を絞って吐かせるのもアリですけど、
黒尾さんからの、初の『ラブレター♪』に免じて、赦して差し上げました。
「まぁまぁ羨ましいわぁ~♪蛍と忠ちゃんも、これぐらいラブラブでね!」
僅かな時間でも大切に…隙あらばイチャイチャしまくるのよ?
例えば、お庭の松の木に隠れて、ネクタイ直したり、埃を掃うフリをしつつ、
チュウ♪しちゃえ!ってぐらい…夫婦間にはプライドも羞恥も不要だからね~
「というわけで、これ…『実録・愛追いの待つ~月もろともに~』だよ♪」
京治クンと黒尾くんの、超恥かし~い映像作品(於月島家中庭・松の下)…
京治クン、欲しがってたよね?記念にこのDVDをどうぞ~♪
「何だね、その…ピンク映画(ロマンポルノ)のような素敵タイトルはっ!?
是非私にも、見せてくれたまえ!我が家の庭で、君達は一体ナニを…っ!?」
「俺達が東京で走り回ってた間、黒尾君達だけイイ思い…ズルいじゃんっ!?」
「他所様の家の庭でイチャつくなんて…さすがに見習えませんね。
デリカシーのない黒尾さん達を反面教師に…僕達は隠れてイチャつきます。」
折角、美しい『相生の松』の話に感激していたというのに、結局この有り様…
黒尾と赤葦は、先程とは別の意味で絶句し、自らの運命に天を仰いだ。
「赤っ恥な黒歴史…オチが付いたところで、形式的な結納(婚姻)儀式は終了。」
ここからは、実務的な儀式をヤってしまおうね。
名付けて『証書の儀』…各種書類を仕上げて、名実ともに儀式を完成させよう。
呼ばれた関係者は、上座…黒尾君と赤葦君の所に来てね。
それ以外の人は、飲み食いしながら儀式を盛り上げる係でヨロシク!
明光の号令に、一同は再度杯を高く掲げて乾杯…次の儀式へと突入した。
***************
「まず一番最初は、月島父と忠の二人…『養子縁組の儀』だね。」
呼ばれた月島父は黒尾の傍へ、忠は赤葦の傍に座ると、
二人の前に、明光は『養子縁組届』を広げて置いた。
「左側の『養子になる人』に忠が、右側の『養親になる人』に、父さんね。」
指示された通りに、二人が署名捺印を済ませると、
明光はそれを黒尾と赤葦の前に出し、頭を下げた。
「証人として、君達に署名を頼みたいんだ。両家を代表して…お願いします。」
「了解致しました。仲人の我々が、縁組の証人として、署名させて頂きます。」
黒尾と赤葦は全員に向かって一礼し、丁寧に署名捺印後、明光に返した。
「これをもちまして、『養子縁組の儀』は無事に終了…
山口忠は月島家の養子として、月島忠となりました。」
明光の言葉を聞いた忠は、大きく息をつくと、月島家側にお辞儀をした。
「月島家の皆様、不束者ですが…どうぞ末永くよろしくお願い致します。」
そして今度は、山口家に一礼…
「山口姓ではなくなりましたが、今後も山口家の子として…お願い致します。」
穏やかな笑顔で、挨拶をした忠。
その柔らかな表情に、山口の両親は安堵の微笑みを返し、月島家に礼をした。
「ウチの忠を…どうかお願いします。」
「忠君のことは、月島家にお任せください。全身全霊で…溺愛致します。」
忠君を我が子に…その念願叶った月島父は、滂沱の涙を流し、山口家に誓った。
感動の儀式が、何だか鬱陶しい空気に包まれ始めた…
明光は「はい、おしまい!」と強引に切り上げ、次の儀式に進めた。
「じゃあ次は…『委任契約の儀』だね。山口父と月島父の二人だよ~」
呼ばれた二人は、互いに礼…
まずは、月島家と山口家それぞれの『家族書・親族書』を交換し合った。
「そして、こちらが私の財産目録と遺言書の案…昨日付けのものだ。」
「こちらも、僕と先生の分です。」
両家から預かった超重要書類を、明光は黒尾の前に差し出した。
「将来必ず、月島家にも山口家にも相続が発生する。その時のために…ね。」
利害関係者ではない黒尾君に、両家の相続の件を、予め依頼致します。
家族・親族書も、手続の時にあると超便利だから、あとでコピーを渡すから。
「黒尾先生への委任状…これにそれぞれが署名してね。」
「え、ちょっ、俺はそんな話、全然聞いてないんだが…」
「今回の『御祝儀』的な委任契約だ。ありがたく受け取っておきたまえ。」
「これで僕達も、安心して旅立てるね~色んな意味で♪」
絶対コレ、超絶面倒臭いだけだろ…
そう思いつつも、『No!』とは言えない空気感(及び、破格の契約料)に、
黒尾は渋々契約書にサイン…月島・山口の両親の死後も、
しばらくは両家に振り回され続けることが、ここに目出度く確定してしまった。
「次々いくね!今度は山口先生と月島父による…『売買契約の儀』ね。」
先生が『甲』の売主で、父さんが『乙』の買主…ここにサインと実印押してね。
「明光君。これが我が家の…土地と建物の登記だ。」
「お預かりしま〜す♪」
さっさと儀式を終え、次に進もうとする明光を、蛍と忠、赤葦が慌てて止めた。
「ストーーーップ!明光君、いっ、今の儀式…一体何っ!?」
「こんな儀式があるなんて、僕達…全然聞いてないんだけどっ!?」
「俺の勘違いでなければ、山口先生名義の土地建物を、月島のおじ様が…」
「あれ?言ってなかったっけ?
先生達の渡航を機に、山口家の土地建物を処分…売却するって。」
その売却先…買主が、ウチの父さんってだけの話だよ。
簡単に言うと、あそこは山口家の家じゃなくなるけど、月島家の家になる…
忠にとっては、実は『実家』のままなんだよね~♪めでたしめでたし!
愕然と固まる、知らなかった3人。
『全部なくなってしまう』という絶望と悲しみは、一体何だったのだろう…
「これについては、次の儀式…『仲直りの儀』で、わかるはずだよ。」
じゃあ、黒尾君…宜しくね~!
3人の恨みがましい視線を、黒尾に全部押し付けた明光は、そそくさと中座…
黒尾は3人と視線を合わせないようにしながら、月島父と母に集合を掛けた。
「『仲直りの儀』…始めるぞ。」
今回、俺が月島父から請けた仕事の一つは、月島夫妻の仲介…仲直りだった。
準備もせず大暴走する父。それに激怒した母が出した、一つ目の仲直り条件が、
『忠ちゃんの受け入れ態勢をちゃんと整えること』…こちらは完遂した。
そして俺は、夫婦喧嘩で一番オーソドックスな、仲直りのプロセスとして、
冷却期間を設けること…即ち、『一時的な別居』を進言した。
その提案に大喜びした母は、父に対し、二つ目の条件を提示した。
『喧嘩した時の避難場所…家出先として、別宅を買って欲しいわ♪』…と。
別宅の候補として、母がオネダリしたのが…売りに出されていた山口家である。
「母さんからのオネダリ…勿論私は快諾した。ヘソクリは吹っ飛んだがな。」
「お父さんのお小遣いで、忠ちゃんの実家を守ってあげられる…最高でしょ?」
我ながら、完璧な策だわ~♪と、嬉しそうに笑う月島母…
「月島母が黒幕だ。」という黒尾の言葉の意味を、赤葦は即座に理解した。
(同時に、『絶対に逆らってはいけない人リスト』に、即時殿堂入りさせた。)
「か、母さん…何でこのこと、僕達に言ってくれなかったの…っ!?」
「もし言ってたら、蛍達…マジにならなかったでしょう?」
それに、黙ってた方が…ネタ的に絶対面白いじゃない♪
無邪気に笑う月島母…蛍と忠は「完敗です。」と平伏するしかなかった。
「黙ってて悪かった。だが、これが一番山口のためになる…
俺はそう信じて、月島母の策に加担したんだ。許してくれ。」
ツラい想いをさせてすまなかった…そう謝罪する黒尾に、山口はお礼を言った。
「おばさん、黒尾さん…素敵な策を、ありがとうございます!」
凄いビックリだけど、あの家がなくならないこと…めちゃくちゃ嬉しいよ。
おじさんも、お小遣いはたいて買ってくれて、本当にありがとう!
目を潤ませながら、月島父に抱きつく山口…以上に、父は感涙した。
「そんでもって、三つ目の条件…月島父の返事は、当然『OK』だ。」
二人はこの『一般旅券申請書』にサインして、必要書類を出してくれ。
10日程でできあがるから…6月末頃には間に合うはずだ。
黒尾は月島母から父への手紙を、チラリと全員に見せた。
『新婚旅行に行きたいの。場所は北欧・スウェーデンね♪』
「でき婚だったから、まだ行ってないのよね~だから、これを機に…ね?」
「成程。第99回二家族会議は、スウェーデンで開催…というわけですか。」
こんなにも月島母の思い通りに、コトが運ぶとは…いっそ清々しいぐらいだ。
思う存分、俺達から遠~~~い北欧の地で、好き放題仲直りして下さい…
赤葦が遠くを見ながら呟くと、予想外の言葉が返って来た。
「やだなぁ〜京治クン。スウェーデンでは記念すべき第100回だよ?」
「羽田空港から出発…その前に、数日間東京で過ごす予定だ。」
「勿論、私達も一緒に行くから…賑やかになるわね~♪」
「第99回は、東京…お前達の家で開催が決定している。」
「せっかくだから、俺も一緒にお邪魔しちゃおっかな~♪」
6月最終週は、月島・山口両家が、我が家に全員集合する…
とんでもない計画(決定事項)を暴露され、黒尾と赤葦は文字通り卒倒した。
「ってなわけで、『証書の儀』もこれで終わり…あとは『結びの挨拶』だね。」
二人のラブラブイベント…もとい結婚の儀式も、これが最後だよ。
兄・明光の視線を受け、弟の蛍は居ずまいを正し、全員に向き直った。
「この度は、僕達のためにこのような場を設けて下さり、
本当にありがとうございました。」
ズルズルとぬるま湯に浸かったままだった僕達…ほとんど無理矢理だったけど、
前に進むべく、背中をどつき回して下さったことだけは、感謝しています。
特に、度を越したお人好しのせいで、両家に振り回され続けの人生が確定した、
黒尾さんと赤葦さんには、心から御愁傷様…じゃなくて、御礼申し上げます。
僕はまだまだ未熟ですが、黒尾さん達を含め、家族の手を散々煩わせながら、
月島父以上に、山口を…忠君を溺愛し、二人で幸せになると誓います。
「だから、山口のおじさんおばさん…いや、お義父さんお義母さん。
安心して渡欧し、わくわく研究ライフを満喫してきて下さい。」
それでは、最後になりましたが、『結びの言葉』を…
「山口、あのさ…」
「何、ツッキー?」
急に名前を呼ばれ、いつも通りの返答をした山口。
その目の前に、月島はずい!と小さな箱を捧げ、真っ赤な顔で叫んだ。
「ぼ、僕と…結婚して下さい!」
「は…はぁぁぁぁあっ!?」
二人のラブラブイベントは、全て『逆』だった…それを徹底するかのように、
婚姻関連イベントの、一番最初…『入口』で言うべきセリフを、
月島はようやく、公開の場で告げた。
***************
「ただいま~おかえり…?」
「おかえり。ただいま…?」
婚姻儀式を終えた翌日は、月島・山口両家揃って、お墓参りツアー。
渡航までの間、月島家にお世話になる、山口夫妻の居住部分確保のため、
掃除やら買い物やら…ちょっとした引越気分を引き続き味わった。
バタバタと慌ただしかったが、山口家にとっては、本体の引越よりはずっと楽…
親子3人水入らずの時間を、のんびり満喫できた。
結婚した翌日から、実の両親と水入らずで過ごすとは…
最後までとことん、順序が『逆』だ。
そして今日、ようやく月島と山口の二人は、東京の自宅へと帰って来た。
「何と…一週間ぶりの我が家だよ~」
「物凄く…久しぶりな感じ?だね。」
荷物をリビングの隅にどっかりと置き、そのままラグに寝転がる。
長年暮らした実家も、慣れ親しんだ環境で落ち着くのだが、
まだ一年住んでいないこの部屋の方が、既に『自分のウチ』という気がする。
こうしてごろごろした時の『抜け具合』…安心感?が、大きい気がするのだ。
9ヶ月も同棲していると、『家庭』が出来上がり、『実家』からは独立…
すっかり『自分のウチ』が確立されているのかもしれない。
一週間ぶりに、一番落ち着く我が家で、二人だけのまったりした時間。
そのはずなのに、何故だか今までと、ほんの少しだけ…景色が違って見える。
いつも二人で、こうしてリビングのラグに寝そべっていたのに…
奇妙な違和感だが、それは決して嫌なものではない。
この不思議な感覚の理由について考えていると、横から静かな声がした。
「今回の騒動初日の夜、独りでここに寝転がってたんだけど…」
この家に住むようになってから、初めて『独りきり』の我が家。
山口が居ないだけで、ぽっかりと穴が空いたような空虚感と、虚脱感。
天井もやけに高いし、冷蔵庫も時計の秒針もうるさく聞こえてきて…
この部屋の景色が、いつもとは全然違って見えたのだ。
そして今、ようやく山口と一緒に我が家に帰って来て、
今までと同じように、二人並んで天井を見ているというのに…
山口が居なかった時とも、それ以前とも…何故だか違って見えている。
「何もなくなった山口の部屋…その天井には、こんなこと思わなかった。」
むしろ、唯一変わらない天井の景色に、安堵していたぐらいなのだ。
二人揃って、同じ感想を抱いていたことに、お互い驚いた。
だとすると、この『見え方の違い』にはちゃんと理由があるはずだ。
「一週間前と、今との違いは…」
「『結婚』したこと、ぐらいかな?」
法的な婚姻をしたわけじゃない。法的に言えば、二人は『兄弟』になっただけ。
戸籍上、山口忠は月島忠に変わったけれど、周りからの呼び方は変わらないし、
『我が家』の状況も、一緒に暮らす日常だって、以前と何ら変わっていない。
変わったのは、近しい身内から、二人が『結婚』したと認めらた…
婚姻儀式という『通過儀礼』を終えた、という点だけだろう。
あの『結納の儀』自体は、時間にすると(明光解説入れても)ほんの5分程度で、
動画の長さだけで言うなら、『愛追いの待つ』よりも短い。
だが、その儀式のために費やした時間と労力は、『大仕事』と言うに相応しい。
当事者の二人だけでなく、両家の家族に仲人さん達を含め…一大事業だった。
「結婚は、二人だけでするもんじゃないって意味…やっとわかったよね。」
「仕事量を計算したら、僕達が一番少ないかもしれないよ。」
実際の儀式は大したことなくても、準備等を通して、
自分の内面…『心』が大きく変化・成長したのは、何となく実感している。
そういった心的区切りを付け、意識を変化させるものこそ、『通過儀礼』だ。
「俺達、ついに…結婚したんだ。」
「うん…名実共に、結ばれたんだね。」
何気ない『事実確認』のつもりで、口に出した言葉だったのに、
突き上げてきた熱い何かが、全身を震わせ…天井の景色をじわりと滲ませた。
たった5分の『通過儀礼』を経ただけなのに、こんなにも…違うのか。
「どうしよう、山口…凄い、幸せだ。」
「俺も…どうしていいかわかんないっ」
震える声で、素直な気持ち…絶叫したくなる程の幸せと、
その大きすぎる幸せに対する困惑を、ストレートに告げる。
その言葉がまた、二人の心を震わせ、視界を潤ませていく。
同じモノを見ていても、見え方は人によって違うし、捉え方も違う。
そして、見ている人自身が変われば、見えていた景色も変わるのだろう。
もしも今、自分がこの天井の写真を撮ったとしたら、
それはきっと、とてつもなく美しい写真が出来上がる…二人にとっては。
「黒尾さんが言ってたんだけど…結婚したら、世の中が綺麗に見えるって。」
「赤葦さんは、こう言ってたよ…結婚してから、涙脆くなりましたよって。」
それはただの盲目…デレデレの言い訳では?と、呆れつつスルーしていたが、
その言葉の真意も、今やっと…わかった気がする。
溢れ出る涙で、ぐちゃぐちゃに歪む天井の景色が…輝いて見えるのだから。
「今まで通りの、山口との生活が…楽しみで仕方ないよ。」
「今まで通り、ツッキーと一緒なのに…凄いわくわくするね。」
これからの『日常』は、今までと同じだろうけど、二人には違って見えるはず。
ほんの小さなことに感動し、幸せを感じる日々になる…確定的な予感がする。
「なるほどね。これがいわゆる…盲目の新婚期間だね。」
「俺達もついに、デレデレループに突入しちゃうんだね~」
散々ネタにしてきたけど、結婚後の黒尾&赤葦の激変っぷりとデレデレっぷり…
今なら「そうなって当然でしょ。」と、本心から全力で同意できる。
自分達があそこまで変わるとは思えないが…変わってもいいな、とも思う。
どうやらもう既に…目の上に『色眼鏡』を標準装備という、変化が現れている。
これから、一体どんな毎日になるのだろうか…期待に心踊らせていると、
「しまったっ!」とツッキーが声を上げ、上体を起こした。
「ちょっとした違和感のせいか、大事なことを忘れていたよ…っ!」
言うや否や、ツッキーは俺の腕をグイッと引き上げて起こし、
そのままリビングを出て…玄関に戻ってきた。
「やっと戻ってきた…やっと始まった僕らの『日常』だよ。」
ただいまとおかえりの、『コレ』を忘れちゃ…ダメだよね?
律儀に靴を履き直し、玄関扉に背を付けて、大きく両腕を広げるツッキー。
俺は思いっきり飛び付きながら、ギュっと首に腕を回した。
「ただいま、山口…おかえり。」
「おかえり、ツッキー…ただいま!」
涙に濡れ、ぐしゃぐしゃになった、ツッキーの笑顔。
近すぎてよく見えないはずなのに、今までで一番カッコ良く…輝いて見えた。
- 完 -
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※角樽→ 商家の場合は、半升の物も使われていたそうです。商売はんじょう(繁盛)。
2017/06/23