最近、僕は少し変わりつつある…かもしれない。
梟谷グループの合宿に参加するようになった頃から、
体力や技術の面だけでなく、精神面においても、それを感じていた。
『たかが部活』…そう言いながら、斜に構えて。
皆よりも一歩離れ、頑なに前に進もうとしなかった自分。
まさか『真後ろ』から…ずっと自分の後ろに隠れてばかりいた幼馴染に、
半ば突き飛ばされる形で、大きく前に踏み出すことになるだなんて。
それが、僕自身を変化させた、一番大きなきっかけだったと思う。
あの時の、幼馴染の姿…山口の姿を、僕は一生忘れないだろう。
後ろに居たはずの山口が、いつの間にか前に居て、僕に檄を飛ばしたのだ。
大げさでも何でもなく、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
あの日から、山口に対する評価?認識?
いや…山口を『見る目』が、ほんの少しだけ、変化した気がする。
今までも別に、下に見たりしていたわけじゃないけれども、
あまりにずっと『近く』に居すぎて、特別意識して見ることはなかった。
こんな僕に引っ付いて来るなんて、変わった奴だな…とは思っていたが。
だけど、あの日から、何となく山口の動向を視界に入れることが増えた。
『真後ろ』から『前』に…『ごく近く』だったものが『やや近く』へと、
僕と山口の間に、少しだけ『距離』ができたことが、その理由だと思う。
近すぎて見えなかったものが、距離が開くことで見えるようになった。
これが良い事なのか、悪い事なのか…そもそも、これが何を意味するのか、
現段階では、僕にはいまいちよく解っていない。
解っているのは、山口を『一目置く』ようになった…ということだけだ。
『一目置く』ようになったのは、実は山口に対してだけではない。
合宿中、災害に遭うような形で巻き込まれた、第三体育館での自主練。
何となくそのままズルズル、いつも同じ面々で集まるようになり、
共に過ごす時間が多くなってきたのだ。
圧倒的な実力とセンス、そして天性のカリスマを備えた…木兎さん。
もう、この人に絡まれたのが運の尽き。抗うことなど、到底不可能だ。
世の中には、ここまで周囲を惹き付けてやまない人がいるのか…と、
ほとんど芸能人かアイドルみたいな、『別世界の人』にすら思える。
このレベルの人(かどうかも定かではない)には、嫉妬や羨望なんていう、
小さな庶民的感情など、微塵も持ちようがない。
それぐらい…『とてつもない(とんでもない?)』存在なのだ。
木兎さんは論外として…まだ『一般人』寄りの人の中にも、
僕が到底及ばないなと、密かに感じている人達が居る。
「ったく、また逃げられたな…」
「本当に、仕方のない人です…」
今日も子分達を従え、自主練後の片付けを放棄…脱走した、木兎さん。
面倒な雑用をいつも押し付けられるのは、黒尾さんと赤葦さんの二人だ。
毎度のことに、怒るわけでもなく、ただ少しだけ呆れるだけ…
特にこれと言って文句も言わず、淡々と片付けに勤しんでいるのだ。
この二人が、どれだけ多忙なのか…
一緒に自主練をし始めてそれを目の当たりにし、僕の方が眩暈がした。
通常業務だって膨大なのに、自主練でもそれ以外でも、雑務の山。
挙句、他校生の僕や日向の面倒を見たり、片付けまでこなしてしまい、
その器用さ故か、部員だけでなく、監督達すら彼らに頼っている始末…
とにかく、その業務処理能力と業務外キャパシティが尋常ではない。
「あーぁ、次から次から、仕事が減らねぇよな。」
「端から片付けてるはずなのに、不思議ですね。」
そう言いながらも、事も無げにあれもこれも捌いているのだ。
『主将』『副主将』という役割が、彼らをそういう人間にしたのか…
いや、それよりも、元々持っているの『資質』の方が大きいだろう。
僕が万が一そういう『役職』に就いたとしても、絶対にこなせない。
たった一年や二年後に、彼らのような人には…なれないだろう。
要するに、黒尾さんと赤葦さんの二人に対して、僕はおそらく、
一目を置く…まぁ相当大げさに一般的な表現を無理矢理使うとすれば、
ちょっとした『尊敬の念』に似たものを抱きつつある…かもしれない。
「ツッキーも疲れたろ?長々付き合わせて悪かったな。」
「ここは俺達がやっておくから、もう上がっていいよ。」
何とまぁ、世の中には奇特な人がいるもんだ。
他校生とは言え、生意気極まりない一年の片付けを免除するとは。
誰かに任せるより、自分でやった方がマシ…という、
地味だがデキる…会社で損をするタイプの人、みたいな発言である。
(この二人が会社勤めしたら、きっとそういう『苦労人』になる。)
そうやって何でも自分でやってしまうから、周りは甘え、頼り過ぎて、
僕や日向、リエーフみたいな『生意気な下』にも、いい様に使われる…
あまりに『デキすぎ』て、貧乏くじ人生まっしぐらの二人が、
僕は他人事のように心配になり、若干気の毒に思えてしまった。
「僕も…手伝いましょうか?」
だから、自分でも驚く程『らしくない』申し出をしてしまったぐらいだ。
僕のその一言に、黒尾さん達はピタリと動きを止め…顔を見合わせた。
そして、ずんずんとこちらに来ると、赤葦さんが額に手を当ててきた。
「熱は…ないみたいですね。」
「顔色も…特に悪くないな。」
ツッキーが『周りに気を遣う』なんて…らしくねぇぞ?やめとけって。
いつそんな『高級オプション』を身に付けたんですか?気味悪いです。
前言撤回だ。この人達に僕が『一目置く』理由、それは…
この僕ですら可愛く感じる程の、超毒舌家であるところだ。
頭の回転が速く、ボキャブラリーも豊富な点は、心底尊敬に値する。
だがその能力を『辛辣なツッコミ』として有効利用してしまうと、
とんでもない凶器となり…そのダメージたるや、半端ではない。
僕もぜひ見習いたいと思うが、それが自分に向けられるとなると…
分が悪いのは百も承知だが、大人しく黙ってはいられない。
己を奮い立たせながら、僕は二人に対抗した。
「失礼ですね…僕だって場に応じて、『空気を読む』ぐらいは…」
別に、面倒をあなた方に押し付けた日向やリエーフの分まで…とか、
そこまで殊勝な心掛けは持ち合わせていませんけれど、
ここに居るのに僕だけ手伝わないっていうのも、居心地悪いんで。
だから、暇つぶしがてら手伝いましょうか?と申し出ただけです。
この言葉に嘘はない。さすがに『一目置いて』いる先輩方を尻目に、
(しかも、一応は業務外でお世話になっている、余所の方だ。)
何もせずぼぅ~っとしているだけなのは、人として問題アリだ。
もしここにウチの主将がいれば、どつかれていることだろう。
だが、そんな僕の『常識的な申し出』に対して返ってきた言葉は、
全く予想だにしない…実に刺々しいモノだった。
「本当に読めているのなら…その『答え』は有り得ませんね。」
「読めた上でそう言ったんなら…良い度胸してんじゃねぇか。」
な…何故だろうか。二人の周りの温度が…下がった気がする。
刺すような視線で射貫かれ、腹の奥底がキュンとしてしまった。
両肩をそれぞれから捕まれ、ごくごく優し~く、問い掛けられる。
何と言う、冷たい目と…掌だろうか。
「何で俺達が黙って木兎達を見逃してやるか…わかるか?」
「何で木兎さん達がいつも脱走するか…その理由もです。」
何で…?そんなこと、考えもしなかった。
・木兎さん達がいない方が、実際問題として片付けが捗るから。
・木兎さんは二人の『お小言攻撃』よりも、片付けの方が嫌いだから。
それ以外に、理由など…さしあたって思い付かないが。
困惑顔で固まる僕の頭を、二人は身も凍るような笑顔で撫でながら、
懇切丁寧にその『理由』について、語り始めた。
「心優しいツッキーは、俺達がどんなに多忙か…よ~く知ってるよな?」
「一分一秒が惜しい…引退間近の黒尾さんは特に、時間がないんです。」
それは…そうだろう。
ならば、きっちり木兎さん達を捕獲し、片付けをさせるべきだし、
僕の貴重な申し出を、有り難く受けるべきではないのか。
誰かさんと違って、僕が親切なのは本当にレアなんだから。
この二人の『冷気』の意味が、全く理解不能…
それを表情に出すと、黒尾さんと赤葦さんは大げさに嘆息した。
「くそ面倒な片付けを引き受けてでも、俺らはここに残りたいんだ。」
「追加業務をこなしてもなお、それ以上にメリットがあるんですよ。」
ここまで言えば、さすがのツッキーでもわかるだろ?
だから、ほら…さっさとここから…ね?
退出を促すように、黒尾さんは僕の背をポンと押した。
だけど僕は、『片付けを引き受けてでも残りたい』という理由の方に、
俄然、興味が沸いてしまったのだ。
この二人が、貴重な時間を割いてでも、残りたいと思う…
そんな『ナニか』が、ここにあるというのなら…気になるじゃないか。
「僕は、もう少しここに居ます。」
手伝いは不要みたいなんで、ここで大人しくしてますから。
どうぞお二人は、片付けなり何なり、ご自由に…
そう言った瞬間、場の空気が完全にフリーズした。
***************
「好奇心は猫をも殺す…ツッキーにはその言葉を進呈しよう。」
黒尾さんは重々しくそう宣うと、一転して柔らかい笑顔に。
そして、「まぁ、ここに座れよ。」と肩を強く押し、僕を座らせた。
僕の目の前に座った黒尾さん…その横に、赤葦さんも行儀よく正座し、
同じように柔らかい笑顔を湛えながら、静かに口を開いた。
「月島君には、いくつかお聞きしたいことが…いいですよね?」
「っ…ど、どうぞ…」
先程までとは季節が反転したぐらいの、穏やかな空気。だが…
(こ…怖いっ!!!)
二人の醸す『ほわほわ』した小春日和の温もりが、僕の身体を震わせる。
本能的な恐怖に、『大人しくしている』以外、何もできなかった。
そんな僕に掛けられた言葉に、僕の『思考』は動きを緩めた。
「ツッキーがここに『居続けたい』理由…当ててやろう。」
「いつもの『お迎え』…『山口君』を待ってるんですよ。」
質問でも、確認でもなく…断定。
その一方的な『決めつけ』に、僕はほとんど反射的に反発していた。
「確かに、自主練後は毎日、山口が迎えに来ますけど…」
別にそれを待っているわけでもないし、山口が勝手に来るだけだ。
どうせこの後、一緒に食堂へ行くのだから、行き違いになるよりは、
ここで僕が動かない方が、効率的…ただそれだけじゃないか。
「それならば、絶対に山口君に会える場所へ…」
「烏野全員が集まる合宿部屋へ…行けばいい。」
その場所…カラスの巣へ戻っていれば、確実に会えるよな。
それなのに、わざわざここで待つ理由…別にあるはずです。
言われてみれば…そうかもしれない。
さっさとカラスの巣へ戻っていれば、木兎さん達に絡まれることもなく、
面倒な後片付けについて気を回す必要もなく、すれ違うこともない…
荷物も置いて身軽な状態で、食事することもでき、イイコトづくめだ。
それなのに、僕はいつも、山口がここへ来るのを…待っている?
その理由を考えようとするが、『ほわほわ』した空気…
二人の穏やかな笑顔に、脳の動きが更に緩慢になってくる。
何だ、この空気感…考えが、うまくまとまらない…
「山口君が来た後、月島君達は…どうしてるのか。」
「一緒に二人で、のんびりお喋り…憩いの時間だ。」
ツッキー達が苦手な『集団生活』…ストレス溜まるもんな。
二人きりでお喋りできる時間は…ここから巣に戻る間だけ。
全く以って、二人の言う通り。
僕達の日常だった『二人きり』は、ここでは通用しない。
兄に言わせれば、『お互い以外に友達がいない』状態かもしれないが、
僕も山口も、別にそれを何ら問題だと感じていなかった。
むしろ、『二人きり』の方が静かにのんびりできて、最高じゃないか。
だが合宿中の今は、それも叶わず…周りには人が溢れ、逃げ場もない…
僕が息を付けるのは、ここから巣に戻る間…
山口との『二人きり』の時間だけ、ということになる。
特に話したいことなどないけれど、それでも別に構わない。
ただただ、この合宿生活の閉塞感の中、ふわっと力を抜きたいだけ…
あぁ、早く…山口が迎えに来ないだろうか。
「心休まる人と、穏やかな時間を過ごしたい…」
「誰だってそう願ってる…月島君もそうです。」
じわじわと、脳内を侵食していくような…黒尾さんと赤葦さんの言葉。
二人の言葉は、間違ってない…『考えるまでもなく』…真理だ…
そう。僕は山口と『心休まる時間』を過ごしたい。
そのために…自主練後は、あえて動かずに…体育館に居続けて…
「僕はここで、山口を待っているんです。」
導き出された『当然の答え』に、黒尾さんたちは優しく微笑んだ。
「ツッキーはイイ子だな。」
「本当に賢い子ですよね。」
よしよしと頭を撫でられ、僕は心から嬉しくなり…微笑み返していた。
脳の片隅で、「何かがおかしい…」という声が、ごく微かに聞こえたが、
きっとそれは気のせい…『考える』必要は、ない…
ねぇ…月島君。
茫然と漂い、揺蕩う思考。その心地良さを邪魔しない、赤葦さんの声。
呼ばれるままに赤葦さんへと視線を動かすと、赤葦さんの視線は横へ…
そこには、本当に優しい目をした…黒尾さんの笑顔。
黒尾さんと赤葦さんは、この『ほわほわ』した世界の中で、
蕩けるような瞳で見つめ合い…赤葦さんは黒尾さんの首に腕を回した。
流れるような、自然の動作で。
二人はゆっくり、キスをした。
「これが…俺達が『ここに残りたい』理由だ。」
「俺達の気持ち…月島君ならわかりますよね。」
完全に思考を止めた、僕の脳。
もう…二人の声しか、聞こえない。
今日もお疲れさま。気を付けて帰れよ。
二人の言葉に黙って頷き、その声が導くまま、僕は体育館を後にした。
***************
「いやはや、恐るべし…赤葦。」
「黒尾さんこそ…怖い人です。」
月島が去り、ようやく『二人きり』になった体育館。
あの『ほわほわ感』はどこへやら、黒尾と赤葦はいつも通りの表情で、
猛然と片付けをしながら、他愛ないお喋りを始めた。
「全く、手間のかかる…大幅に時間をロスしました。」
「ツッキーがここまで鈍感だとは…計算外だったな。」
人外魔境の木兎は別として、あの日向とリエーフでさえも、
黒尾と赤葦が醸す『さっさと帰れ』という無言の圧力にすぐ気付き、
下手ながらも『木兎さんに引っ張られてしょうがなく』感を演出…
お互いの体面を保ちながら、この場から退出していたというのに。
彼らよりもずっと聡いはずの月島が、まさかの『鈍感』だったのだ。
周りに自分を合わせようとしない、傲岸不遜な奴…かと思いきや、
実態はただ単に、周りの空気が全く読めない、超鈍感なだけだった。
だが、こういう奴の方が…意外と手が掛かる。
『それとなく匂わせる』という手段が通用しないのは、本当に面倒である。
角が立たないように、尚且つ双方納得して、上手く収めるためには、
それ相応の『特殊な手段』が必要になってくるのだ。
「それにしても、さっきのあれ…まるで洗脳だな。」
あの口達者で頭の回るツッキーを、大人しくさせちまいやがった。
妙な『ほわほわ感』で、その思考と口を封じてしまったような…
「洗脳だなんてとんでもない…ただの催眠ですよ。」
催眠とは、意識の働きが落ちた状態である。
電車でぼ~っと『うたた寝』に近い…誰もが入ることができる状態だ。
この催眠状態の時、人は『しっかり考察』することができなくなり、
外部からの暗示を受けやすくなってしまう。
この状態を利用するのが、『催眠療法』だ。
顕在意識を排除し、普段は抑圧された潜在意識を引き出すことで、
心理的負担を軽減しようという、心理療法の一種である。
他愛ないこと(思い込み等)をきっかけにおこる『アガリ症』や、
『数学嫌い』等の治療には、有効な手段とされている。
「人に話を聞いて貰うだけで、心が軽くなる…これも催眠です。」
「法律家の仕事なんて、ほとんどが催眠療法…かもしれねぇな。」
対する洗脳は、物理的な方法で思考を変えてしまう手法で、
冷戦時代、捕らえた捕虜を自陣のスパイにするために行われた、
思想の変更…『ブレインウォッシュ』が、その最たる例だ。
この洗脳の効果は一時的で、時間が経てば戻ってしまうものだった。
似た言葉にマインドコントロールがあるが、こちらは効果が永続的…
完全に人格を変えてしまう手段である。
体育館にモップを掛け終え、集めたゴミをチリトリに入れながら、
赤葦は先程のこと…月島のことを思い出しながら、静かに語った。
「俺は別に、月島君を催眠状態にするつもりなんて、なかったんですが…」
黒尾さんの超威圧的・絶対零度のオーラで、固まっちゃったんですね。
可哀想に…さぞや怖い思いをしたでしょうね。
この俺ですら、黒尾さんの冷気に硬直しかけましたよ。
「その冷気を『ダブル』で喰らって…ツッキーの脳はフリーズしたのか。」
その後の『ほわほわ感』とのギャップ…俺も震えそうだったぞ。
黒尾はわざとらしく、自分の両腕を抱いてみせた。
だが、この程度の『寒暖差』では、催眠状態に陥ったりはしないはず。
もっと根源的な要因…それが、月島の動きを止めたのだろう。
「キーワードは…『山口』なんだろうな。」
最初はあんなに嫌がっていた自主練への参加を、ある時を境に、
自分からこちらへやって来て…文字通り『自主的に』加わるようになった。
日向にそれとなく聞いてみると、どうやら『ひと悶着』あったようだが、
その『ひと悶着』が、幼馴染だという山口との間で起こっただろうことは、
付き合いの短い自分達にも、すぐにわかった。
「最近、二人の距離感が…少し違います。」
きっと、不可分だったあの二人の間が、今まさに変わろうとしているのだ。
それは『ひと悶着』が直接的なきっかけだったかもしれないが、
もっと前から…『潜在意識』の中で、変化を感じ取っていたのだろう。
だからこそ、『山口』という言葉が、奇しくも催眠状態を引き起こしたのだ。
このことが意味するのは、つまり…
「ツッキーの方も、潜在的に…だな。」
「山口君とどうなるか…楽しみです。」
誰がどう見ても明らかな、月島に対する、山口の…淡い想い。
だが『近すぎる』距離と、鈍感さ故に、それに気付かない…月島。
偶然引き起こされた催眠状態が、この後月島にどう作用するのか、
現段階の黒尾と赤葦には、全くわからなかった。
体育館内の掃除を終え、用具室にそれを収納しに入る。
後ろ手に用具室の扉を閉めると、黒尾はやや上擦った声で赤葦に尋ねた。
「ところで、さっきのアレは…必要、だったのか?」
いくら鈍感なツッキーを動かすためとは言え、その…
他人様の前で、アレをお見せするのは…
全部言い終わる前に、ゴン!という鈍い音が用具室内に響き渡った。
驚きのあまり、黒尾は数センチ飛び上がって部屋の奥を見ると、
掃除用具を入れていたスチール物置に、赤葦が思いっきり頭をぶつけ、
その場にへろへろと座り込んでいた。
「お、おい、大丈夫かっ…!?」
慌てて駆け寄り、伏せた顔を上げさせると、赤く腫れ上がったおでこと…
それ以上に紅く染まった、頬が見えた。
「大丈夫じゃ…ありま、せん。」
蚊の鳴くような声で囁き、再び下を向いて目を逸らす。
これは、もしや…
「ばっ…馬鹿、今頃になって…照れんなよ!」
「だっ、だって、その…恥ずかしくなって…」
あんなとこで、とんでもないことを…すすすっ、すみません!
あの妙な雰囲気に、俺自身も、やられてしまったと言うか…
鈍い月島君にイライラして、その…過激な手段に走ってしまいました。
堪え性のない自分に、只今大絶賛含羞中です…
音がするほど『もじもじ』しながら、赤葦は精一杯目を伏せ、
黒尾から視線を外し…羞恥に震えていた。
おいおい、ちょっと待て。何だその、あの…それはっ!!
『やった方』の赤葦が、『思い出し恥ずかしがり』は…ずるくないか?
『やられた方』の俺は、どんな顔でこの場をやり過ごせばいいんだよ。
こっちまで恥かしさが伝染して、頬から火を吹きそうだ…
あぁ、
もう時間がないのに…一瞬でも目が合えば、羞恥心に負けてしまう。
ここはもう、『アレは恥ずかしくない』と思い込むしか…
そう自分達に『暗示』をかけるのが、一番手っ取り早い方法だろう。
やり方は…そう、試合前の緊張を解すのと、大体同じ。
黒尾は腹の底から大きく息を吐き、全身の力を抜いた。
「赤葦。俺がいいと言うまで…目、閉じてろよ?」
意を汲んだ赤葦はコクリと頷き、黙って黒尾の指示に従う。
黒尾は赤葦の頬を両手で挟んで上を向かせ、腫れた額に唇を落とす。
「アレは、ツッキーの催眠療法に必要な『プロセス』だった。」
いわば、『治療』の一環…
アレがないと、ツッキーはあの場から動かなかった。
ゆるゆると髪を撫でながら、今度は朱に染まった頬にキス。
徐々に赤葦の身体から力が抜け、黒尾に寄りかかってくる。
「アレがあったからこそ、今こうして…『二人きり』になれた。」
俺達にとって、本当に貴重な『二人きり』の時間のためには、
アレこそが、唯一の手段だったんだ。俺達は、間違ってないんだ。
すっげぇ恥かしいけど、アレで正解…時間のロスは、最低限で済んだ。
「それに、もう俺達には、そんなに時間は…残されていない。」
鼻と鼻をくっ付けたまま話す。
その動きと吐息が、微かに唇を掠めていく。
自分達に許された『残り時間』の少なさと、
触れそうで触れない…そのギリギリのもどかしさに、
赤葦は焦れたように黒尾のシャツをギュっと握り締める。
あぁ、もう、早く…恥ずかしがっている暇なんて、ないんだから…
「今、赤葦が一番『したいこと』…それは何だ?」
「今の一番は…黒尾さんと、キス、したいです。」
素直に告げられる、潜在的な欲求。
まるで催眠状態に入ったかのように、もう羞恥の色は見えなかった。
赤葦は掴んだシャツを少しだけ引き、黒尾の唇にそっと触れた。
その瞬間、黒尾は頭を撫でていた手に力を入れ、しっかりと唇を合わせた。
微睡むような『ほわほわ感』の中で、蕩けるようなキスを続ける。
この『うたた寝』から醒めてしまわないように、硬く目を閉じたまま。
互いを強く抱き締め、ただひたすらに、唇を重ね合う。
もう何も、考えられない…考えたく、ない。
今…赤葦が『したいこと』は?
先程と同じ質問を、キスの合間に尋ねる。
「今は気持ち良くて…眠たいですね。」
「それは催眠じゃなくて…睡眠だな。」
確かに、あまりに心地良くて、眠たくなってきた。
催眠(さいみん)と睡眠(すいみん)…似てるけど、ちょっとだけ違うな。
もう一度訊く…赤葦が『俺としたいこと』は?
「ねむたい、じゃなくて…ねたい?」
「それは…催淫(さいいん)だな。」
「それでは、二人で『スリープモード』に移行しますか?」
「いや、それはむしろ『サインイン』の方じゃねぇのか?」
ちょっとした『言葉遊び』で、脳がすっかり起きてしまった。
二人はおでこを付けたまま、クスクスと笑い合う。
できることなら、心地良い『うたた寝』に浸り、
催眠状態のまま、潜在的欲求に従ってしまいたかった。
だがもう…『現実』に戻らなければならない時間なのだ。
それがわかっていたからこそ、二人はわざと『笑い』の空気に変えた。
変えざるを…えなかったのだ。
「この目を、ずっと閉じていられるなら…」
いつかそんな日が来ると、いいですね。
赤葦はそう呟くと、ゆっくりと瞼を上げ、愁いを帯びた表情で微笑んだ。
二人は見つめ合ったまま、もう一度だけキス…
すぐに唇と共に身も離し、スっと立ち上がった。
「よし…仕事に戻るぞ。」
「はい…行きましょう。」
ガラリと大きく用具室の扉を開き、体育館に踏み出す。
何かを振り切るように、二人は早足で体育館からも出た。
「誰か俺達を…催眠状態にしてくんねぇかな。」
黒尾の呟きは、体育館を閉める鍵の音と共に、暗闇へと封じ込められた。
- 続 -
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黒魔術のひと5題
『1.洗脳なんてとんでもない……ただの催眠です。』
お題は『確かに恋だった』様よりお借り致しました。
2017/02/04