昏睡王子







『ひと夏の思い出』の『予行演習』として、
黒尾、赤葦、月島、山口の4人は、メルヘンチックな森の中…
爽やかな『高原リゾート』へとやってきた…はずだった。

しかし、真夏でも涼しい高原は、初夏はまだ厳しい冷え込み。
無残にも『リゾート気分』は崩れ去り、寒さに震えながらのキャンプとなった。

2日目は付近を観光し、同じキャンプ場にもう一泊する予定だったが、
とてもじゃないが、この寒さには耐えられない…とのことで、
キャンプ場の管理人さんの紹介で、温泉宿へ泊ることになった。


「高原リゾートから、秘境の温泉旅行になりましたね。」
「このメンツでは、むしろ温泉宿の方が似合う…かも?」

次の目的地へと、車に乗り込もうとすると、
「すみません…後ろ、譲って頂けませんか?」と、月島に赤葦が言った。
月島が返事をする前に、赤葦は後部座席に座り、そのまま目を閉じてしまった。


「赤葦さん…体調が悪いんですか…?」
「いや、極度の寝不足らしい。とんでもない寒さだったからな。」

冷え込む森の中、アルコールの入ってなかった赤葦は、
一晩中その寒さに震えながら、夜明けを待っていたようだ。
だが、明け方にその我慢も限界を迎え、止むを得ず鞄の中の酒をあおり…

「案の定、『いつも通り』の昏睡状態だよ。
   だから…着くまで寝させといてやってくれないか。」

寝不足及び、アルコールによる眠気だ。
山口は隣で舟を漕ぐ赤葦の肩をそっと引き寄せると、
赤葦は無意識に体を横たえ、山口の腿に頭を乗せた。
譲り受けた毛布を体に掛けると、程なく穏やかな寝息が聞こえてきた。


「赤葦さんの寝顔…初めて見たかも。」

緩く波打つ髪を撫でると、眉間の皺も取れ、険のない表情になった。

「全てを見透かすような、あの鋭い『視線』が遮断されるだけで、
   かなり雰囲気が違うというか…実は結構、可愛らしい造作なんですね。」

助手席に座っていた月島は、後部座席を覗き込みながら、
実に『珍しいもの』を発見したかのように、まじまじと観察した。

「そういやぁ、俺も赤葦の『普通の寝顔』って…見た覚えがねぇな。
   微々たる酒が入った時の『昏睡』は、何度か見たことあるが…」
「『酒屋談義』の後、何度も一緒にウチに泊まってるのに?」
「布団敷いたら、俺はすぐに寝落ちしてしまうし、
   朝は大抵、俺は赤葦の浴びるシャワーの音で目が覚めるからな。」

後から寝て、先に起きる。さすがは『参謀』…と言いたい所だが、
どんな時でも『参謀』から抜け出せない赤葦が、山口は少し心配になった。

だからこそ、こうして自分の『ひざまくら』で寝息を立てる姿に、
山口は何だか、とても『あったかい気持ち』になった。

「不測の事態だったとはいえ、赤葦さんが俺達に寝顔を見せてくれた…
   何か、それだけで…ちょっと嬉しいよね。」
常に隙のない赤葦が、自分達に隙だらけの姿を見せたのだ。
自分達は『安心』できる人間だと…心を開いてもらえたように感じた。

母性すら滲ませる、山口の柔らかい声。
赤葦の無防備な寝顔と相まって、黒尾と月島は、
嬉しいやら照れ臭いやら…妙なくすぐったさに、後部座席から視線を逸らした。



「赤葦さんが起きるまで…僕達は、『眠り姫』の話でもしましょうか。」
「眠り姫…眠れる森の美女…いばら姫、だね。」
「どれも同じお姫様だが…赤葦には『いばら姫』が一番しっくりくるな。」

いばらは、バラの古称であり、ノイバラ等のバラ属の植物であるとともに、
『棘(とげ)』のある植物の総称でもある。

「アダムとイヴが、禁断の果実を食べた罰として作られた植物…ですね。」
「キリストが磔刑に処せられた時の冠もイバラ…『受難』の象徴だよね。」

姫の身に起こったことは、まさに『受難』と言える。
両親の不手際により、生まれて早々に魔女に呪いをかけられ、
16歳の誕生日に、糸車で指を刺し、百年の眠りについてしまうのだ。

「この『糸車』についてですが、これには指を刺して死ぬような部分はない…
   糸車の専門家達による議論が、大変紛糾したそうですよ。」

物語の中でも、国中の糸車が焼かれてしまい、糸車にとっても災難この上ない。
国の紡績・織物産業も、壊滅的なダメージを被ったはずだ。
専門家達が一体どのような議論を行ったのか、非常に気になるところだが、
その論文や会議の議事録等は、残念ながら見つけられませんでした…と、
月島は心苦しそうに言い、缶コーヒーを開けて喉を潤した。

「紡いだ糸を巻きつけておく『紡錘』の方が、摩耗して尖って、
   それが刺さったんじゃないのかっていう説も…聞いたことあるな。」

黒尾はそう言うと、左手を月島の方に差し出した。


「…何ですか?」
「何って…俺の分のコーヒーは?」

「え、僕のしかないですけど…」
「ツッキーよ…そりゃお前、気が利かなすぎじゃねぇか?」

運転席と助手席から漂う、芳しいコーヒーの香りと、不穏な空気。
ツッキーに赤葦さんと同じことを求めるのもどうかと思うし、
俺だって…コーヒー飲みたかったな。

俺は足元に置いてあった赤葦さんの持ち物…ビニール袋から、
ペットボトル入りのコーヒー飲料を出し、慌ててツッキーに手渡した。

「はい、どうぞ。運転手サン。オツカレサマです~」
「キャップを開けて貰えると、すっげぇ助かるんだけどな~」
「あ、赤葦さんが起きちゃうから…ケンカしないで下さいよっ!」

心の中の『メモ』に、『助手席の人選を間違えるべからず!』と、
大きな文字で記録しておいた。
4人のうち、たった一人がいないだけで…このバランスの悪さ。
改めて3人は、赤葦の存在の大きさを痛感した。


油の刺さってない糸車のように、ギスギスした雰囲気を緩めようと、
山口は声を落としながら、童話へと話題を戻した。

「ところで、いばら姫の呪いは、王子様の『目覚めのキス』で解けるけど、
   これってつまり、『キス』をしなかったら、『ナニ』しても起きない…?」

目の前には、美しいお姫様。昏睡状態で、静かに横たわっている。
一目惚れしてしまった王子様は、『運命の相手』だとして…キスをした。

「王子様は、文字通りの『据え膳』を目の前にして…
   いばら姫にキス『だけ』をしたのか、っていう疑問だな。」

いばら姫の類話である、『太陽と月のターリア』では、
姫のあまりの美しさに、王子は『我慢できなく』なってしまい、
『愛の果実を摘みました』…と、書かれているのだ。

幼い頃に読んだ時は、これが一体どういう意味なのかわからなかったが、
(この点を追求した時、兄が恐ろしく狼狽したことを覚えている)
要は、『据え膳食われちゃった』かもしれない…ということだろう。


「女性の昏睡状態に乗じて姦淫…準強姦罪ですね。」
「それもそうだけど…『白雪姫』の王子様と、同じ問題に当たるよね。」

王子は死体愛好家…ネクロフィリアという可能性である。
『眠っている相手との行為を体験』したことで、この性的嗜好が顕在化する…
という説を提唱している、心理学の学派も存在する。

「二日連続でキワモノなネタはやめとこうぜ。
   考察すべきは…『いばら姫が起きた直後』について、だな。」

白雪姫は、王子様の資質…『心の謎』によって、
目覚めた後の運命が大きく左右される立場にあった。
では、百年の眠りから覚めた直後の、いばら姫の状態は…?

「ごくごく単純に考えると…起きるの、大変そうだよな。」
「度を越した『寝過ぎ』で…起床障害を起こしそうですよね。」

めまい、立ちくらみ、全身倦怠感…それだけではない。

「いくら魔法が効いていたとはいえ、百年間も昏睡…仮死状態を保つには、
   循環血液量や心拍出量の減少、心機能の低下は避けられないよね。」
「体の隅々まで血が回らないし、脱水症状も起こしてるでしょうね。」
「脳にも血液が不足ってことは、イライラして不機嫌…
   状態としては、『朝に弱い』…低血圧の可能性が高いよな。」

いばら姫は、文字通りに『刺々しいお姫様』になっているかもしれない。


「長年に渡る『寝たきり』生活で、特に下半身の筋力が落ちちゃうから…
   運動器障害…いわゆる『ロコモティブシンドローム』の恐れもあるよ。」

ロコモとは、筋肉、骨、関節、軟骨、椎間板といった運動器に障害が起こり、
立ったり歩いたりするという機能が低下する状態である。
運動習慣のない生活や、活動量が低下すると、加齢と共に足腰が衰え…
日常生活の『移動』に関する機能が低下してくるのだ。

いばら姫は、起きた瞬間から、今度は意識がある『寝たきり』生活か、
もしくは『要介護認定』を受けなければならない可能性もあるのだ。


「これら全て解消する程の力が、王子様のキスには必要…ということですね。
   見ず知らずの男にキスされて目覚めるなんて…これもまた災難ですね。」

お姫様のためにも、この物語の王子様は…できればイケメンであってほしい。
贅沢を言うならば、キスもできるだけ上手で…

「つーか、そもそも論だけどよ、
   『目覚めのキス』って、そんなにイイもんなのか?
   俺にはまるで実感が湧かねぇんだが…」

黒尾の質問に、山口はコーヒーを飲むことで即答を避けた。
山口の葛藤を知ってか知らずか、月島は冷静に解説を始めた。

「それは、僕達が『日本人』だから…疑問に思うのかもしれません。」

この物語をアニメ映画にした会社が、各国の睡眠事情の実態について、
ヨーロッパ各国及び日本、オーストラリア、南米等の17か国を調査した所、
日本人は平均睡眠時間も、理想とする睡眠時間も17か国中最下位だった。

「日本人は『宵っ張りの早起き』で、一度眠るとなかなか目が覚めない…
   そのせいか、『キスで目覚めたことがある』人の割合も、最下位です。」

その割合は、日本以外では低くとも45%程度、
最高のアルゼンチンでは、82%にも上っている。
対する日本は…たったの18%である。

「こちらも『そもそも』ですが、『キスで目覚めたい』という人の割合も、
   日本はぶっちぎりの最下位…わずか6%ですね。」

これでは、『キスで目覚める』ということに、まるで実感が湧かないのも、
無理からぬこと…と言えなくもない。


「以前見た、デンタルケア用品の会社が行った意識調査によると…
   必ず『目覚めのキス』をすると答えたカップルの割合が一番多いのは、
   『交際期間5年以上』の、49%だったよ。」

この割合は、交際期間1年未満のホヤホヤカップルの47%を超える。
ちなみに、1年以上3年未満のカップルが、一番低い…V字グラフを描く。



「交際期間が1年を過ぎる頃…一番『マンネリ』が気になる頃だな。」
「『目覚めのキス』は、『長続き』と『マンネリ脱却』の秘訣…」

ルームミラーの中のツッキーが、チラリと意味深な視線を送ってくる。
その『やりとり』を、黒尾さんに気付かれないように、
俺は視線を真下の赤葦さんに向けて、話を逸らした。


「その調査の別の質問…『パートナーとのお泊りの翌朝、
   キスしたいと思う瞬間を教えてください』っていうのがあったんだ。」

黒尾さんとツッキーは、どんな時に『目覚めのキス』したい?
山口の質問に、二人は真剣に考え、それぞれ答えた。

「やま…、『相手と肌が触れ合った瞬間』…かな。」
「俺はそうだな…『ふと顔が近づいた時』…かもしれねぇな。」

ツッキーの答えは、第2位。黒尾さんのは第3位だよ。

車が右折する。どうやら、目的地に到着したようだ。
そのタイミングで、ボトルの蓋を落としてしまった。
蓋は赤葦の肩に当たり、足元に転がった。
…顔に当たらなくて、本当によかった。


「山口、第1位は…?」

バック駐車の後方確認をしながら、月島は山口に尋ねた。

足元の蓋を拾おうと身をかがめながら、山口は月島の問いに答えた。


「第1位は…『無防備な寝顔を見た瞬間』…なんだって。」


「えっ!!?」
「お、おいっ!!!」

山口が答えたと同時に、運転席と助手席から驚愕の絶叫。

「わっ!!?」
「…ん。。。」

その声と急ブレーキで、山口は飛び上がりそうになり、
その振動により、赤葦が目を薄く開いた。


「ちょ、ちょっと山口…いま、何をして…」
「ま、まさか、『目覚めのキス』したんじゃ…」

上擦り、震える月島と黒尾の声。
そのセリフに、山口は目を見開き、頬を染めて顔を横に振った。
「ち、違っ!!ししししてないよっ!!俺は、ただ…」


「…してくれても、俺は良かったですけど?」


我らが『いばら姫』の寝起きの一言に、3人は揃って言葉を失い、
まるで運動器障害を起こしたかのように…カチコチに硬直した。




***************





「美味い飯に、美味い酒…最高だな。」
「えぇ…その土地ならではの食材、それに完全マッチする地酒…
   これぞ、旅の醍醐味ですよね。」

温泉旅館に到着すると、すぐに4人は湯につかった。
こちらも季節柄閑散としており、ほとんど貸切状態という贅沢ぶり…
寒さ等で固まった体を、十分に解すことができた。

女将さんに頼んで、地酒の『瓶』を譲ってもらった赤葦は、
鞄から取り出したコレクターグッズ…
瓶のラベルを剥がし、保存できるシールを使い、
丁寧に地酒のラベルを採取した。
裏側には、日付と場所、そして4人の名前を記念に記した。


赤葦が心底嬉しそうにラベルを眺めていると、
全く違う種類の『嬉しさ』で、月島と山口は感激していた。

「おかずが…こんなにたくさん…!!」
「しかも、『上げ膳据え膳』…贅沢の極みだね…」

「そりゃそうだろ。旅館なんだからな。」
赤葦にお酌を催促しながら、黒尾は呆れた声で言った。
だが、そんな黒尾に、月島達は猛然と抗議した。

「座っていても、ご飯が出てくる…これがどんなに有り難いことか、
   実家暮らしのお二人には、理解できないかもしれませんね…」
「昨日のバーベキューも、自炊とは違って楽しかったですけど、
   『今日のおかずどうしよう?』とか、『後片付け面倒だな』とか…
   そういうのを考えなくてすむのが、すっごい嬉しいです!」

思いもよらなかった『主婦発言』に、黒尾と赤葦は顔を見合わせた。
まがりなりにも、月島と山口は自炊…日々『家事』をこなしているのだ。
お膳の準備をしてくれる女将に、いちいち恐縮する二人の姿に、
何とも言えない『いじらしさ』と『愛らしさ』を感じてしまった。

「またどっかに…美味いもん、食いに行こうぜ。」
「次の『酒屋談義』の際は…お酒以外の『肴』も持って行きますね。」

黒尾達の気遣いに、二人は満面の笑みでお礼を言った。



「俺、鯉料理は初めて食ったけど…クセがなくて美味いな。」
「この辺りは、鯉の名産地だそうですよ。洗いに鯉こく、甘露煮…
   どれもこれも、身も締って、かつ適度に脂が乗って…絶品ですね。」

数々の鯉料理に舌鼓を打ちながら、4人はいつも通り、
『目の前にある素材』に関する、雑学考察を始めた。

「鯉のことを『六六魚(りくりくぎょ)』ということがありますが、
   これは、鯉の側線を形成する鱗の枚数が、6の平方…36枚あるから、
   そう言われるようになったそうですよ。」

また、『36町=1里』という距離の単位から、36枚の鱗を持つこの魚を、
魚+里…『鯉』と書くようになったという説もある。

「コイの語源にも、いろいろあるんだってね。
   身が肥えているから『肥(コエ)』から派生したとか、
   味が勝っているから『越(コエ)』だとか…」
「エサを欲する様子から、『乞(コヒ)』…こい慕う気持ち、等ですね。」

コイはまさに『恋』…恋慕の魚ということになる。


「そう言えば、今日のテーマだったお姫様も…
   『まな板の上の鯉』でしたよね。」
「『据え膳』も、王子様から見た『お姫様の状態』だったよね。」
「相手の成すがまま…じっと待つ…据え膳のお姫様…?
   もしかして、『いばら姫』のお話ですか?」

見事に言い当てた赤葦に、寝ていた間に語った内容を、
月島はかいつまんで説明した。

「コトの最中に積極的行動を起こさない人を、『マグロ』と言いますが、
   フランスではそれを、『ヒトデ』と表現するそうですよ。」
「成程…『脚を開いたまま動かない』ってことだな。」

自ら進んで『昏睡状態』に陥ったわけではないお姫様は、
好んで『まな板の鯉』や『マグロ』、又は『ヒトデ』になったのではない。
やむにやまれず『据え膳』となってしまっただけであり、
それを『マグロ』だと誹られる言われはないだろう。


「それで、皆さんの結論はどうなったんです?
   『据え膳』は、美味しく頂くべきかどうか…」

赤葦の問いに、3人は口をつぐんだ。
車中では、その点については、考察しなかったということもあるが、
何よりも、それを問う赤葦の気迫に…声が出なかったのだ。

「魚に有って書いて『鮪』…マグロだよな。これは、『有』って漢字が、
   『周りをぐるりと取り囲む』って意味があるから…らしいぜ。」
「周りをぐるぐる包囲するように泳ぐ『回遊魚』には、相応しいですね。
   …あぁ、周りを『いばら』で包囲されているお姫様にもピッタリですか。」

あからさまに話題を逸らせようとした黒尾を、牽制するかのように、
赤葦は鋭い視線で…黒尾をまな板に固縛した。

黒尾はヒトデのように掌を開き、降参を表した。

「『据え膳だったから、つい』…ってのは、
   『食っちゃった奴』が必ず言う、一方的で身勝手な主張だ。」
「黒尾さんは、目の前に『据え膳』があっても…食べないと?」
「それは『俺の』お膳なのか…確実でないうちは、口にできねぇよ。」

何故か緊迫する黒尾と赤葦のやり取りに、
月島と山口は、鯉のように口を開閉して、見ていることしかできなかった。


「『据え膳食わぬは男の恥』…って言いますけど?」
「恥かこうが、ヘタレだと誹られようが…俺は構わねぇ。
   何も知らねぇお姫様を、傷付けるかもしれないよりは…ずっとマシだ。」
「っ!!!」

真正面から赤葦を見据え、きっぱりと言い切った黒尾。
その威風堂々たる態度は、まさに王者に相応しい高潔さだった。

「黒尾さん…カッコイイ…」
「こんな王子様なら…いばら姫も幸せに…」

山口だけでなく、月島までもが『尊敬の眼差し』で黒尾を仰ぎ見る。


張り詰めた空気と、キラキラの視線を振り払うように、
黒尾は一瞬で相好を崩し、いつも通りの『ニヤリ顔』をした。

「ま、結局のところ、『マグロ』を相手にしても面白くねぇだけだ。
   相手の『気持ちヨさそう』な反応を見てこそ…興奮するんだろ?」

「ぜ…前言、撤回です。」
「概ね賛成ですが…それを口に出さないで下さい。」
「あなたと言う人は…」

3人の呆れ顔を受け、黒尾は実に嬉しそうに笑ってみせた。



「マグロにヒトデにコイ…魚介類は『ステキ』な比喩によく使われますね。」

すっかり『元通り』な雰囲気の中、赤葦が切り出した。

「その中でもピカイチと言っていいのが…コレですね。」
月島は、酢の物の小鉢を手に取り、具材の一つを箸でつまんだ。

「ヒトデと同じ『棘』皮動物…ナマコだね。」

乾燥ナマコを利用しているとはいえ、日本で一番海岸線から遠い地域でも、
こうして海産物を食べられる…温泉旅館とは、本当に贅沢な場所である。

お猪口をあおると、黒尾はナマコを握る振りをしながら、
その『特徴的な生態』について、ごく簡単に説明した。

「ナマコは、こうムギュムギュっと擦ったり握ったりしてると、
   全身が硬~くなってきて…最後には『白い』ネバネバを、ピュっと…」

「間違ってませんが…それも口に出さないで下さいよ。」
「その手つきが…生々しいんですけど。」

げんなりとした表情で、月島と山口は突っ込んだ。
だが、その程度では怯むことなく、赤葦は淡々と解説を始めた。


「その生態も多少は関係するでしょうが、ナマコも優秀な『精力剤』ですね。
   効果たるや、『海参』…海の朝鮮人参と言われる程です。」

ビタミンB群、鉄や亜鉛等のミネラルがバランス良く含まれており、
抗酸化作用や血行促進で知られるサポニンも豊富。
さらにはコラーゲンとコンドロイチンも多く、美容にも最適…
朝鮮人参にも匹敵する、滋養強壮・健康効果を持っているのだ。

「肢体と筋肉の弛緩・脱力の治療にも、ナマコは有効です。」
「衰弱とロコモが心配ないばら姫にも、オススメですね!」

美しいお姫様が、グロテスクなナマコをムギュムギュと食す姿を想像し、
4人は一斉に吹き出してしまった。


「そういうわけで、ナマコは中国で『海男子』と呼ばれています。
   では…『海夫人』は、一体『ナニ』だと思いますか…山口君?」

赤葦に指名された山口は、一瞬考えるも、すぐに…赤面した。

「えっと…『アワビ』か…『イソギンチャク』ですか?」

山口のしどろもどろな解答に、赤葦はさも満足そうに微笑み、
ゆっくりと首を横に振った。

「残念ながら、不正解です。海夫人は…『バイ貝』だそうですよ。」

バイ貝は、漢字で『胎貝』って書くんですけどね。
おや、英語だと…『どっちもOK』な『bi…』かもしれませんね。


意地の悪い『オトナ』なクイズに、赤葦以外の3人は、
地酒を飲み干すことで、頬の赤さを誤魔化した。





***************





女将さんにお膳を下げてもらい、布団の敷き方等を教わると、
シラフの赤葦は、シラフ風の山口を伴って、再度風呂に入りに行った。

まだ酔いの抜けない黒尾と月島は、4組の布団を敷き終えると、
日本間の外側…窓辺の『板の間』である内縁(うちえん)に移動し、
そこにあった籐のテーブルセットに座り、チビチビと飲み直した。


「そう言やあ、お前さん方は、一緒に料理してんのか?」

ビーフジャーキーにしか見えない肴…筍のおつまみを咥えつつ、
黒尾は月島に『二人の日常生活』について聞いてみた。

「そうですね。大体の家事は、共同してやってますね。
   その方が断然、効率的ですから。」
月島は、こちらも名産・干しりんごを咀嚼しつつ答えた。

「俺の勝手なイメージだが、家事は山口が主にやってんのかと。
   あいつの方が器用そう…というよりは、ツッキーが料理する姿が、
   俺の想像を絶するというか…実際、できてんのか?」

失礼な…と月島は怒るかと思ったが、
黒尾の予想に反し、月島はやや頬を緩めながら、素直に答えた。

「熟練の主婦には、僕も山口も到底及びませんが…それなりに。
   二人とも『同じレベル』から同時にスタートなんで、まぁ…
   色々と『大騒ぎ』しながら、日々研鑽してるとこですね。」

高校を卒業し、いきなりの上京・自活なのだ。
さぞかし色々と苦労しただろうが…
月島の表情は、紛うことなく『毎日楽しいです』と語っていた。


「スタートが『同じレベル』ってのが、良かったのかもな。」

どれだけ『できる』か、『できないか』も未知数。
失敗しても、相手を責めることなく(責められようもなく)、
二人で手探りしつつ、アレやコレを試し、新たな世界を見出していく…

「もし片方の『主婦力』が高く、もう一方が下手に手を出して、
   『どうしてできないの!?』等と怒られてしまったら…」
「それ、よく聞く話だな。善かれと思って手伝っても怒られ…
   それがきっかけで、旦那は家事を手伝わなくなるって。」
「えぇ。ですから、僕は…僕らは『ゼロ』からスタートでしたが、
   その分、揉めることもなく、一緒に『研究』を満喫できました。」

何だ、ちゃんと二人で…『家庭』をやってんじゃねぇか。

酒が入ったせいか、いつもは絶対に語ろうとしない『二人の日常』を、
若干照れながらも、素直に話す…これぞ、『旅』の醍醐味かもしれない。
少しばかり月島の『内心』に触れた気がして、黒尾はまた嬉しくなった。


「この僕が言うのもアレなんですけど…『最初』が肝心だなぁと。
   『入口付近』を疎かにしては、後々困ってしまいます。」

シンデレラの話をした際、月島は『城への入場』の部分で突っ掛かり、
恋愛の『入口』…出会いについての考察を求めた。
だがその月島自身は、山口に対し、未だに『そういうカンケー』の、
『入口付近』で言うべき言葉を、口にしていないのだ。

「家事分担然り、家計然り、『目覚めのキス』の習慣も然り…
   『長い付き合い』になる相手とは、生活上のルールなど、
   大事な『習慣』については、『最初』に決めておくべきですね。」

これを疎かにしては、時間が経つ程に、双方の『溝』が広がり、
ゆくゆくは『価値観の違い』『性格の不一致』として顕在化していく。


「ツッキーは、そこまで先の『長い付き合い』を見据えてる…
   今の発言は、そう捉えても…いいんだな?」

幼馴染として『ずっと一緒』だった、その『延長』ではなく、
きちんと『将来』に渡って、『一緒に生活を送る相手』として…
山口との『今後』について、考えているのか?

…黒尾の質問の意図を、正確に汲み取った月島は、
意を決したようにお猪口を口に付け、飲み干した。


「自我が確立される前…思春期前にはもう、既に『一緒』が当たり前で、
   ずっと僕らは一緒なんだろうなぁ…と、理由なく確信していました。」
「ツッキーの排他的気質と、山口の内向的性格で…
   自分達以外の『その他』が、ほとんどなかったんだな。」

世界は『二人』で完結し…それが、異常に長く続いていたのだ。

「だから、『一緒にいて当たり前』『他人が割り込むなんて論外』という、
   尋常ではない独占欲が何を意味するのか…わからなかったんです。」
「お前さん方は、<好きだ><愛してる>という感情を知る前に、
   既に『不可分』な関係だった…ってことか。」

まさに、『カイロウドウケツ』の中に棲む、ドウケツエビではないか。
どこが『そういうカンケー』の『入口付近』だったかなど、
これでは…わかりようがない。

「僕が今までちゃんと山口に言えなかった理由の一つが、これです。
   ですが…いつまでも『今まで通り』のドウケツエビでは、いられません。」

僕達を守っていた『カイロウドウケツ』をぶち壊したのは、
間違いなく…黒尾さんと赤葦さんなんですけどね。

「『外の世界』を知ってなお、一緒に居たいと願うのならば…
   その時は、『今後』について…ちゃんと話そうと思っています。」

月島はそう言うと、無駄な力みのない表情で、静かに微笑んだ。



「なんつーか…ツッキーがちゃんと『将来』を考えてるとわかって、
   俺はすっげぇ嬉しくなっちまったよ。ま、えらい『遅い』がな。」
「僕自身も、もっと早く『入口付近』の言葉を言っておけばよかったと、
   今更ながら、後悔と焦燥の念にかられているところですよ。」

これだけ延々と待たせているのだ。しかも『多弁』な自分が。
一体どれだけ素敵なシチュエーションで、心揺さぶる言葉になるのか…
そう期待されていると思うと、余計に言えなくなってしまう。

「感情を自覚した時に、なり振り構わず『アッサリ』言っておけば、
   こんなに苦しまず…黒尾さん達にも弄られずにすんだはずです。」
「カッコつけすぎなんだよ、ツッキーは。」
「そんな『カッコいいツッキー』が良いと、言われ続けてますからね。」
「恋愛なんて、『カッコ悪い』の集大成じゃねぇか。」

含み笑いをしながら、手酌で地酒をあおる黒尾に、
月島は真剣な顔で、「その通りです」と首肯した。

「白雪姫も、いばら姫も…王子様はとても『カッコ良い』とは言えません。
   ですが、そんな『カッコ悪い』王子様だったからこそ、現状を打開でき、
   お姫様達は…救われたんじゃないでしょうか?」

誰もが思い描く『理想の王子様』では、物語は進まない…
なり振り構わない『カッこ悪さ』こそが、結ばれる秘訣なのかもしれない。


「僕は、目の前の『完璧な王子様』が、『お姫様』に翻弄される…
   そんな不格好な姿を、心から見てみたいと願っているんですけどねぇ?」

策士な王子様に対抗できる、狡猾なお姫様が居れば…の話ですけど。


月島の意味深な言葉に、黒尾は頭を抱えて自嘲した。

「ご忠告…痛み入るぜ。」





***************





夕方に一度入浴していたため、軽く湯流しをすると、
赤葦と山口は、揃って露天風呂にのんびりと浸かった。

「昨日は、このつん裂くような寒さに凍えてましたが…」
「今夜は、この冷気がすごく気持ち良いですね。」

二人以外には、誰もいない。
漆黒の森からは、小さな虫の声と、木の葉が風に擦れる音、
そして、満天の夜空から、いまにも星々が降ってきそうな音しかしない。


「黒尾さんと…何かあったんですか?」

夜空を見上げながら、静かに山口が問い掛けた。

「何も…ないですよ。」

赤葦も夜空を見つめたまま、静かに答えた。


「何も、ない…その方が、問題ですよね。」

酒が入った山口の脳内は、この星空のように…澄んでいるのだろう。
上手くはぐらかしたつもりだったが、無駄だった。

赤葦は、ふぅっと肩から力を息を抜くと、困ったような顔で笑った。


「俺も山口君も…『お酒』との相性は、あまり良くないですね。」
「お互いに、『適度に』お酒の力を借りられない…ですもんね。」

八岐大蛇も驚く程の酒豪・山口。舐める程度でも昏睡する赤葦。
全く酔えない。適度のほろ酔いすらない。
両極端とはいえ、お酒を『利用』できない点では…同じだ。

「俺、一度でいいから、酔って寝て…『据え膳』になってみたいです。」
「俺も、一度でいいですから、酔っても昏睡しない『据え膳』に…」


赤葦は 少し前に、『現状』を前進させてみようと肚を決め、
一か八かの賭け…酒を飲み、『王子様』の『据え膳』になってみた。

だが、自分の酒の弱さを甘く見積もりすぎていたせいもあり、
直後からの記憶は全くなく…『王子様』がその後どうしたのか、
自分では確認するすべがなかったのだ…今日までは。

「『据え膳』通り越して、『冷凍マグロ』では…
   『王子様』のお気に召さなかった、みたいですけどね。」
「予想を遥かに超える、紳士的な『王子様』…でしたもんね。」

昨夜も、そうだった。タイミングが悪かったせいもあるが、
『手助け』を申し出ても、『王子様』は『自力』でコトを解消してしまった。
「お姫様のお手を汚すわけにはいかねぇよ。」…と。


「俺は、あの『完璧な王子様』には…必要ないのかもしれませんね。」

セッターとして。参謀として。『助手席』に相応しい人間として。
誰かの陰で、誰かの支えとなることを、生き甲斐にしてきた。
それこそが、自分の生きる道で、自分が…生かされる道だと思っていた。

だから、その『誰か』に『据え膳』や『手助け』を遠慮されてしまったことで、
自分の存在価値そのものを、否定されたような気さえしてしまい、
その絶望感から逃れるために…酒をあおり、夢の世界へと逃避したのだ。


「王子様は…『お姫様』が不要だったわけじゃないと思います。
   さっき、言ってたじゃないですか…『俺の』お膳なのか?って。」

わかっている。全てはお姫様のことを第一に考えたが故に、
王子様が『据え膳』に手をつけなかったことは…わかっているのだ。

「では、俺や山口君みたいな人間は…
   どうやって『シラフ』で『据え膳』になればいいんですか…!」

振り絞るような、赤葦の慟哭。
やりきれない思いを弾き出すように、バシャンと湯を顔に掛けた。


項垂れ、肩を震わせる赤葦。
こんなに感情を露わにする姿を、山口は知らなかった。

だが、内に隠す激情を見せてくれたことに…得も言われぬ喜びを感じた。


「多分、赤葦さんも俺も…『据え膳』っていう手段は使えないんですよ。
   正々堂々と、正面切って…向かい合うしかないんです。」

王子様は、『自分の据え膳である』という確証が必要だと言った。
それは、『事前の合意』があるか…すなわち、
『お姫様の気持ち』を、はっきり知っておく必要がある、ということだ。

「正々堂々と向かい合わなければいけないのは、王子様も同じです。
   内心の読み辛い『お姫様』の場合は…特にそうですよね?」

柔らかい声と表情で、赤葦に微笑みかける山口。
赤葦もようやく顔を上げ、頬を少しだけ緩めた。

「駆け引きも…ほどほどにしないといけませんね。」
「度が過ぎると…策士策に溺れる、だと思います。」


山口は思い切り四肢を伸ばし、苦笑いしつつ言葉を続けた。

「赤葦さんに、偉そうなことを言っちゃいましたけど…
   俺自身は、シンデレラよりずっとズルいんですよね。」

ずっとずっと、ツッキーの後ろに隠れ、ツッキーを口実にして、
自分から動くことをしなかった。全てがツッキー任せなのだ。

「こんな俺が、今更自分からツッキーを急かすことなんて、できません。
   だから…ひたすら、『王子様』の出方を、信じて待ち続けます。」

「どんなに待たされても…?」
「偕老同穴…一緒に墓場に入るまで、待ちます。」

こんなに意志の強い『お姫様』が、居ただろうか…
ここまで徹底して、王子様を信じて『待ち続け』られるお姫様は、
全く…『ズルい』とは言えないのではないか。

「山口君は…本当に『強い』人ですね。
   そんな素敵な『お姫様』が幸せになれることを…心から祈っています。」

もしもという時は…俺が『王子様』の尻を叩いて差し上げます。

勢いよく湯面をバシャバシャと叩き、赤葦はニッコリと微笑んだ。



そろそろ上がりましょうと、赤葦は山口を誘って風呂から出た。

脱衣所でコーヒー牛乳を2本購入し、うち1本を山口に手渡すと、
山口は丁寧に頭を下げ、頂きます!とお礼を言い、
瓶に口を付けながら、おずおずと…赤葦に提案を持ち掛けた。

「赤葦さん…いつもいつも、『参謀』に徹してますけど…
   それ、ちょっと止めてみませんか?」

あ、あの、赤葦さんのサポートが要らないわけじゃなくて、
いつもすっごい助けてもらって、感謝しかないんですけど…

慌てて言い添える山口に、赤葦は「わかっている」と首肯し、
その発言の意図を視線で問うた。

「『王子様』と『お姫様』の関係…お互いに、その…」
「恋愛関係、ですか?」
「そうです、それです!そういう関係には…
   『お膳立て』って、あんまり要らないんじゃないかなって。」
「恋愛に…お膳立ては、不要?」

上手く言えないんですけど…と、言葉を選びながら、
山口は懸命に本意を伝えようとする。

「事前準備とか、予行演習とか…そういうのが通用しないのが、
   れ、恋愛の、本質なんじゃないかなって…」
「っ!!!?」

準備も、策略も、詳細シミュレートも…通用しない。
自分にとっては、全くの『未知の領域』…なのかもしれない。

「運良く王子様と恋愛できて、無事に結ばれてから…
   『据え膳』になるのは、それからの『お楽しみ』にしませんか?」

珍しく、小悪魔的な表情で、おどけてみせる山口。
そのチャーミングな笑顔に、赤葦も心からの笑みを返した。


「王子様が『化けの皮』を剥がさざるを得ないぐらい…
   実に美味しそうな『王子様専用据え膳』に…なれるといいのですが。」



***************





「長時間の運転、お疲れさまでした。」
「どういたしまして。忘れ物…気を付けろよ?」


2泊3日の『ひと夏の思い出』予行演習。
当初の予定とは随分違ったものの、総じて『楽しい』旅行だった。

『予定通りいかない』というのも、案外いいかもしれない…
万端だった準備の多くが『無駄』に終わったが、
このメンバーでは、その『予定外』すら楽しい誤算だと、
赤葦は密かに満足していた。


月島と山口を送り届けた後、運転手の黒尾は、赤葦の自宅に車を走らせた。
赤葦家に辿り着いた時には、もうすっかり暗くなっていた。

やたらと荷物の多い赤葦…後ろのトランクだけでなく、
後部座席にも、雑多なモノを色々と乗せていた。
玄関先に、山のような荷物を置くと、最後の一つ…
後部座席に置いていた、『何でも出てくる鞄』を赤葦は手に取った。


「あ…。」
「…どうした?」
「鞄の口が開いてて…中身を溢してしまいました。」

足元に散らばる、アレやらコレやら…正体不明のモノ達。
黒尾はそれらを拾うのを手伝おうと、車から降り、
赤葦とは反対側…運転席側のドアを開け、身をかがめて拾い始めた。

「すみません…お疲れのところ、ご面倒をお掛けしてしまって…」
「いや、大したことじゃねぇよ。それにしても…
   何でこんなにモノがいっぱい入ってんだ?四次元鞄かよ。」

ほとんど空になった、ハブ酒の瓶。林檎が入ったままの、カルヴァドス。

楽しい『旅』の思い出達に、黒尾は無意識のうちに微笑んでいた。


「それで、最後…か。」

後部座席の下、奥の方に転がっていた『小箱』を取る。
何故か封が切られていることに、気付かなかった振りをして、
黒尾はその『人生が変わる!』小箱を、鞄の中に突っ込んだ。


『気付かなかった振り』を、気付かなかった振りをしつつ、
赤葦は勢いよく、鞄のチャックを閉めた。

「ありがとうございました、黒尾さ…」

お礼を言いながら顔を上げると、驚く程の『至近距離』に、黒尾の顔…
黒尾の方も、思いがけない『接近』に、瞠目していた。


    (…え?)


暗い車内。それ以上の漆黒が、目の前を覆う。

そして、ほんの一瞬…何かが唇に触れた。


「旅行…いろいろ準備してくれて、サンキューな。助かったぜ。
   今日は早めに寝て…しっかり休めよ?」
「え、は、はい…黒尾さんも、お気を付けて…」

最後の鞄を玄関先に置くと、黒尾は早々と運転席に乗り込み、
呆然と立ち竦む赤葦に背を向けたまま…去って行った。


    (今の…、もしかして…)

震える指で、柔らかいモノが熱を残した場所を、確認する。


「とんでもない…旅の、『置き土産』…ですね…」



- 完 -



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※ナマコが出す白いアレ →キュビエ器官。攻撃を受けると肛門から吐出する糸状の組織。
   キュビエ器官を持たないマナマコ等は、腸管を放出します(数ヶ月で再生)

※崩壊する童話5題『3.低血圧の眠り姫』


2016/05/26(P)  :  2016/09/18 加筆修正

 

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