先日、何の前触れもなく帰省した兄。
ノックもせず僕の部屋に突入し、山口との『寛ぎタイム』をぶち壊し、
冷やさなくてもいい肝までヒヤヒヤさせていった。
(結果的に、別の形で『素敵タイム』を過ごせたため、不問とする。)
兄の要件は、取引先から頂いたカステラのお裾分け…
さすがに『贈答品』らしく、桐箱に入ったそのカステラは、
高級品というに相応しい繊細さとふんわり感だった。
就寝前の運動後(結局『就寝前』になる)、小腹が減っていた僕たちは、
二人でペロリと一斤…600g程を平らげてしまった。
そういえば、中身の『カステラ』として数えると『一斤』だが、
桐箱込みの『菓子折り』と考えると、手偏が付いて『一折』になる。
菓子折りとは、贈答用のお菓子を入れる『折り箱』のことで…と、
金色に輝く包装紙の如く、余剰なネタを披露していると、
その桐箱の二重底の下から、山口が『袖の下』を発見した。
封筒の中身は、『諭吉先生の肖像画入』の日本銀行券と、
地元球団のホームゲーム…2枚のプロ野球観戦券だった。
「いいのかな…こんないい席のチケットをもらっちゃって…」
「いいよ。どうせ取引先企業の『接待交際費・贈答品』だから。」
「そりゃあ、越後屋さんの賄賂…じゃなかった、経費計上だろうけど、
諭吉先生の方は、明光君のポケットマネー…だよね?」
「それこそ、山口が気にすることじゃないよ。
何なら、感謝の気持ちを込めて…『領収証』でも送っとく?」
さすがに、そこまで『可愛げのない』ことしたら、明光君が可哀想…
山口はそう言ったが、僕としては物足りないぐらいだった。
非常に悔しいが、この件での兄のユーモアセンスには…脱帽だ。
可愛くない弟としては、何としてでも『巧く』打ち返してやりたい。
あれやこれやと対策を練っているうちに、あっという間に試合当日となり…
何もできないまま、スタジアムに到着してしまった…というわけだ。実に悔しい。
「とりあえず、最大の悩みは…何を食べるか、だよね。」
「オリジナル弁当にするか、軽食を数種類にするか…
球場に到着早々、苦渋の選択を迫られてる気分だよ。」
僕と山口は、スタジアムの高揚した雰囲気の中、
普段では考えられないほど…『年相応』にはしゃいだ。
「なんか…ツッキーと、デートしてる…みたいだね。」
「それ…『炙り串焼き』に食い付きながら言うセリフ?」
そう言いながらも、僕は頬に付いたタレを拭ってやった。
どうやら僕も…相当機嫌が良いらしいな。
指に付いたタレを舐めると、なかなか美味しかった。
山口が食べている途中の牛串に、断りもなく食いついてやった。
…うん。間違いなく僕は、上機嫌だ。
指定された席に向かうと、今日2つ目の『選択』を迫られた。
運よく列の端っことその隣の席だったのだが、
通常なら僕が選ぶ『端っこ』は、若干投手の手元が見えにくい。
その隣は、奥に『見知らぬ誰か』が来るという面倒さがある。
「ツッキー、どっちがいい?折角のバックネット裏だから、投球がしっかり見えた方が…」
自分よりもまず、僕を優先してくれる山口。
こうした小さな気遣いこそが、『二人で外出時』の雰囲気を…
相手を慈しむ気持ちを高めてくれるのだろう。
僕は、できるだけ『外野』を意識しないで済むように、
通路側の端っこ…『横は山口だけ』を選択した。
ホームラン幕の内弁当を食べ始めると、
フィールド上では丁度マスコットキャラ達のダンスが始まった。
「あのマスコット、『クラッチ君』って言うらしいよ。
イヌワシだから、『荒鷲昇君』とかでも良さそうだけど…」
山口の『ぶっ飛んだ』命名センスに、僕は里芋をエラーしてしまった。
「クラッチ(clutch)は、英語で『ぎゅっと掴む』って意味…すなわち、『わし』づかみ、だよ。」
「あっ!なるほど!!てっきり、『俺っち』みたいなカンジで、『蔵っち』君だと思ってたよ。」
宮城と山形にまたがる蔵王連山の…『蔵』だろうか。
その命名へのツッコミも見逃し、僕は滔々と説明した。
「野球用語で『クラッチヒット』は、適時打…タイムリーだよ。
『クラッチヒッター』は、好機によくヒットを打つ…」
「つまり…『勝負強い打者』ってことだね!」
山口は僕の弁当から魚型の醤油さしを摘み上げると、
赤いキャップを捻り、卵焼きにほんの数滴垂らした。
箸で卵焼きを半分に切り、山口の口の中に突っ込んでやった。
「名前で思い出したけど…この『魚型醤油さし』の商品名、知ってる?」
「う~ん…『赤ヘル鯉』とか?」
某球団のファンならば、泣いて喜びそうなネーミングだが…
「知らないなら、無理に名前付けなくていいから。
『ランチャーム』っていうらしいよ。ランチ+チャームの造語。」
「確かに可愛いよね。集めたくなっちゃうよ。」
「魚…鯛型のものを『醤油鯛』として、蓋の形や鱗の配列なんかの、
『生態研究』に全力を注いでいる研究者もいるんだよ。」
「生態で言うと…『赤ヘル科ノボリコイ属カープ醤油鯛』かな。
この弁当には、『臙脂キャップ科クラッチ属イヌワシ醤油鯛』を、ぜひ入れて欲しいよね!!」
ネーミングはともかく…その発想は悪くない。
「こういう『意外な名前』ばっかりを集めて研究してる人もいる。その中で面白かったのは…」
山口が買ったアメリカンドック…『アメリカンドッ君』の横、
炭酸ペットボトル(球団ロゴシール付)を取り、ひょいとひっくり返した。
「炭酸ペットボトルの底…『ペタロイド』っていうんだって。
『petaloid』は、花弁状とか、花紋っていう意味だよ。」
「…これに関しても、研究者がいるの?」
「勿論だよ。結論だけ言うと、炭酸飲料の底がペタロイド形状だと、
それぞれの花弁に内圧が分散して、容器が変形しにくいんだ。」
「花びらの枚数とか、ボトルの素材による差は?」
「花弁は3枚以上が内圧分散には効果的で、
ボトルの『素材』よりも、やっぱり『形状』が重要みたいだよ。」
また、飲み口の部分は『白』いものと『透明』のものがあるが、
中身が高温のものや、熱殺菌するものには、
耐熱性の高い素材…飲み口が『白』いボトルになっている。
「身の回りの、ありふれた物でも、『ネーミング』の由来を調べると…それだけで楽しいね。」
「英語や物理、歴史の勉強になったりするしね。」
食べ終えた弁当をビニール袋に入れて縛り、とりあえず足元に置いた。
「『身近なものを研究する』のに、うってつけのスポーツ…それが、『プロ野球』だよ。」
カバンに手を入れ、『観戦必需品』を探る。
しかし…見当たらない。まさかの痛恨失策だ。
「探しものは…コレかな?」
通路側から、目の前に差し出された必需品…『選手名鑑』。
これを忘れてきた衝撃を、更に加速させる『声』…
イヌワシが獲物を狙って急降下するぐらいの速度で、僕の機嫌も急転直下していった。
「あ…明光君!!?」
***************
「よかったぁ~、試合開始に間に合ったよ!お店、すっごい混んでんだもん。参っちゃうよね。」
長い脚をわざと組んだまま、シカトするツッキー。
それを全く気にすることもなく、長い脚で乗り越え、明光君は俺の隣にどっかりと座った。
スーツの上着を脱ぐと、カバンから臙脂のユニフォームを出し、
それを羽織ってから弁当(ツッキーと同じ幕の内)を広げた。
ちなみに、帽子だけはスーツに合わせて?被って来ていた。
「明光君、今日はチケットとお小遣い…ありがとう!
明光君まで来るのは予想してなかったから、ビックリしたよ。」
「ここ、『ボックスシート5』の席なんだ。ウチがもらったのがそのうち3枚ってわけ。」
俺より奥の2名様は、お得意さんが別口で配った『お客さん』だよ…と、
明光君は小声で教えてくれた。
「それにしても…蛍から何の音沙汰もないのは、どういうこと?
お礼は忠からメールがきたからいいけど…お前は無視なの?
渾身の力作を無視されると、さすがの兄ちゃんも、ちょっと悲しいんだけど。
せめてせめてっ…『領収証』を送ってくるぐらいの、ユーモアが欲しいよ。」
「収入印紙も要らないような『少額』領収証なのに?」
「んなっ!?ねぇ忠…蛍のユーモア、『ブラック』がキツすぎない?」
領収証に収入印紙の貼付が必要となるのは、諭吉先生3名以上。
いくら社会人とはいえ、まだ『新人枠』の明光君にとって、それはさすがに…
「明光君の手取り考えたら、諭吉先生『おひとりさま』でも痛いね。」
「いや…忠の『ストレート』も、結構効いたんだけど。」
まぁいいや、と明光君は笑うと、弁当の卵焼きを全部、俺の口に突っ込んだ。
逆方向三塁側…ツッキーから、物凄い冷気が伝わってくる。
球審の『プレイボール』が、『戦闘開始』のゴングに聞こえた。
ビールが進むにつれ、明光君は熱く上機嫌になり、
俺が手に持っていた『アメリカンドッ君』に食い付き、半分食べてしまった。
温くなるビールに反比例して、ツッキーは冷たくなってくる。
俺は何とかこの寒暖差を解消しようと、フィールド上を指差した。
「あ…俺、あの選手のプレー、生で見たかったんだよっ!!
俊足・巧打・強肩…長打も打てるし、守備も巧い。まさに『スーパープレイヤー』だよね!」
俺の言葉に、選手名鑑を黙々と眺めていたツッキーが、ようやく会話に入ってきた。
「彼は、日本球界最強の『オールラウンダー』で、ほぼ間違いないだろうね。
つまり、日本人としては…『究極』の身体能力の保持者だよ。」
何かしらの運動部に所属している人間は、そこそこの運動神経があり、
どんなスポーツもそれなりにこなすことができる。
ただ、『畑違い』のスポーツでも、その『畑』の人間と遜色なく…
もしくは、平均以上の力を見せるのが、『野球部』の人間である。
「蛍と忠は、あんまり野球ってしたことない…よね?」
「そういう『大人数』に、入れてもらえたこと…あんまりないし。」
「教えてくれるはずの『兄』が、バレーしかできなかったからね。」
寂しいセリフと厳しいセリフを聞かなかったことにして、明光は改めて質問し直した。
「蛍と忠は、どうして体育の授業で野球をしないのか…わかる?」
「えっと…広いスペースと、たくさんの道具が必要だから?」
「ボールが来なかったら、ほとんどやることないから…授業として成立しないんじゃない?」
二人とも、概ね正解だよ。と、明光はビールを飲み干して言った。
「投手から打者までが18.44m…これをノーバウンドで投げるのも難しい。
さらに、『上から』投げてストライクにするとなると…クラスで1割できるかどうかってとこだよ。」
「投手やれる人が…いないってことだね。」
草野球でも、投手の調子が悪い場合等は、フォアボールだらけで試合が成立しない。
「逆に、ちゃんとストライクを取れる投手だと、
今度は打者が打てなくなって…こちらも試合が成立しない。」
そもそも、あの速度で飛んで来る小さな球を、
どうやってあの細いバットで打ち返しているのか…
その詳しい脳のメカニズムは、未だ完全には説明できていないらしい。
「運良く『適度にストライク』を投げられる投手がいて、
一方的じゃないぐらい…『適度に』打てたとしても、
守備で『フライ』を取る能力は、それらとは全く別だよ。」
野球未経験でも、バッティングセンターで気持ち良い汗はかける。
だが、バットで打ち返された『生きた球』を捕球するのは、
技術だけではなく、恐怖や緊張も克服せねばならず…
「俺だったら…『絶対ココに来るなっ!』って、拝んじゃうよ。」
球場などで、エラーに対してガンガン野次っていた人が、
草野球を経験して以降、それをキッパリ止めてしまったという。
「野球って、人間がしうるスポーツの『限界』かもしれないね。」
「解明できてない技術の塊だから、体育の授業には不向き…だね。」
売り子さんから新たな生ビールを受け取った明光は、
弟たちの感嘆を聞き、満足そうに頷いた。
「『畑違い』とはいえ、俺らも一応『スポーツマン』だろ?
だから余計に『凄さ』が解って…野球観戦が面白いんだよね。」
明光君の言葉に、ツッキーは少し異議を唱えた。
「確かに、『競技者』目線での観戦も面白いよ。でも、僕としては、傍観者…
『研究者』として観察する方が、ずっと楽しいね。」
ツッキーは手に持っていた選手名鑑を、俺の腿にポンと乗せた。
「蛍が言ってんのは、『セイバーメトリクス』…だな。」
聞き覚えのない言葉(しかも横文字)…俺は無言でツッキーに視線を送った。
「『セイバーメトリクス』とは、野球についての客観的な研究だよ。
どんな要素や能力が勝利に結び付いているかを統計的に解析して、
『勝利への貢献度』を、より公正に判断する手法だよ。」
マスコミ受けが良かったり、『華』があったり…
人気や知名度は、必ずしも『勝利』に比例するわけではない。
「『凄いプレー』と、『勝利に有効なプレー』は別物…ってこと。」
「語り出すと、あと3試合分ぐらい必要だから、ざっくり言うけど…
『セイバーメトリクス』の考えでいけば、好機によく打つ『クラッチヒッター』は…存在しない。」
「『好機』がどんな状態か、かっちりした定義付けも難しいしね。
結局、『良く打つ人』…打率と得点圏打率が高い人ってことになって…」
「わざわざ特別な『クラッチヒッター』っていうネーミングは不要…か。」
主観でしかない『華』など、勝利には必要ない。
地味で目立たなくとも、どれだけ勝利に貢献するか…それが、スポーツにとって最重要だよ。
ツッキーやセイバーメトリクスの考え方は、『競技』という面からは、
非常に公正であり、必要不可欠な視点だ。
目の前にある客観的な事実を重んじる姿勢は、
主観…思い込みでしかないものに振り回されることがなく、堅実かつ現実的なものだろう。
まさに『ツッキーっぽい』在り方と言える。
「蛍の考え方は、俺も一面では納得できるよ。でも…
大舞台ほど『限界突破』なプレーを魅せる選手がいるのも間違いない。
やっぱり『クラッチヒッター』は、存在するんじゃないかな。」
怪我も多く、打率もそんなに良いわけではない。
それなのに、球場でのスイングや佇まいを見ていると、
『この人はやってくれそう…』と、根拠のない『何か』を感じることも、また隠しようのない事実なのだ。
「俺は…ツッキーと明光君のどっちが正しいか…」
現段階で、俺にそれを判断できるほどの材料は…ない。
選択を躊躇っていると、痺れを切らしたかのように、ツッキーはガタンと音を立てて立ち上がった。
「ゴミ、捨ててくる。」
ツッキーはそれだけ言うと、自分の分と、俺の分…
乱暴に奪い取るようにそれを持つと、コンコースへと上がって行った。
***************
「蛍のやつ、めちゃくちゃ…機嫌悪い?」
「俺…なんかツッキーを怒らせちゃったかな…」
心当たりは…あるような、ないような。
混乱する頭に浮かんできたのは、割とどうでもいい疑問だった。
「そう言えば、『好機』も『機嫌』も、同じ『機』の字…
『機嫌』って…何でこんな字を書くんだろ?」
「『機嫌』って言葉は、仏教の戒律からきてるらしいよ。」
その辺の詳しい話は、蛍の方が得意だから、そっちに任せて…と、明光君は俺に別の質問をした。
「『機嫌』は、気分の状態だけど…どんなのがある?」
「まずは…良い・悪い。上機嫌の反対が、下じゃなくて不機嫌。
あとは、『ななめ』はあるけど『縦・横』はないよね。」
その『切り口』もなかなか面白いね。でも、今回はそっちの考察も蛍に丸投げして…
「じゃあ、『不機嫌』に限定すると、どういう状態?似た言葉の『不愉快』『不快』との違いは?」
「不機嫌は不愉快とほとんど同じで…頭で感じるもの、かな。不快は…足の裏でも感じるよね。
それと、『不機嫌』は『一時的に』気分を損ねている状態…
『イライラしている』っていうカンジかな。」
その通り。忠は賢いなぁ。
明光君は幼い頃と同じように、頭を撫でて誉めてくれた。
「ここからが本題。なぜ人は不機嫌になるのか…?」
先程までの質問から、答えを導き出してみる。
「それは、『愉快じゃない』と頭…心が感じる出来事があって、
尚且つ、それを抑えておけなくなるぐらい…何度もあったのかな?」
程度や個性にもよるだろうが、たった一度の『不愉快』だけでは、
周りにも分かるほど『不機嫌』にはならないだろう。
「心理学に、『自己消耗』っていう理論があるんだ。自制心や意志の力には限りがある…って。」
「つまり…『ガマンは有限』ってこと?」
そうだよ、と明光君は頷き、説明を続けた。
「何かを『選択』したり、『自制』すると、心を消耗する…分かりやすく言えば。『神経磨り減らす』んだ。
それが限界まで来ると、堪えられなくなって…ドカン、だよ。」
ダイエット中の人や、困難な課題を抱えてる人は、『ガマン』の連続で心と脳に無理をさせすぎたせいで、
『他のこと』を許容できる余地が少なくなっているため、イライラして…不機嫌になりやすいのだ。
そして、ガマンの限界が来て…ドカ食いしたりする。
「『ガマンできない人』は、『誰よりもガマンしてる人』…」
「ガマンは不機嫌を誘発する。でも、ガマンすること自体が、
『自由を奪われてる』と感じて…本質的に不機嫌になるんだな。」
今の話を、ツッキーにあてはめてみる。
球場に来てから、『何を食べるか』という困難な選択。
そして、通路側と隣の『どちらに座るか』という選択。
いや、球場に来る以前から、『どうやって明光君に切り返すか』を、
ツッキーは相当考え込み…脳が疲れていたはずだ。
「まさかの『兄登場』、しかも手痛い『忘れ物』の指摘。
自分が大好きなもの…セイバーメトリクスへの『反論』と、
それに対して忠が即時賛同しなかった…拒絶感。
…これらの積み重ねによって、蛍は不機嫌になった。」
以上、証明終わり~♪
強引に証明を終え、明光君は泡の消えたビールを飲みきった。
「『終わり~♪』じゃないよ!
証明されたのは、ツッキーにガマンの限界がきてるっぽいこと…明光君!どどどっ、どうしようっ!?」
ツッキーがゴミ捨てに行ってから、既に2回も攻守交代している。
これはかなりヤバいレベルの『不機嫌』ではないか。
「多分、蛍があぁなったのは、俺のせいだよ。忠にはホント申し訳ないことしたよな…」
明光君は遠い目をしながら、「何かデジャヴるわ。」と呟いた。
「忠には、秘技『男性の機嫌を直す方法』を伝授してやるから…蛍のこと、宜しく頼むわ。」
明光君はそう言うと、『秘技』をこっそり耳打ちしてくれた。
***************
人を探す時に、その相手が『イケメン』で『長身』というのは、非常に助かる『目印』になる。
コンコースを駆け上がり、キョロキョロと辺りを見回す。
女性たちの視線が交わる場所を辿っていくと…やっぱり、ツッキーがいた。
俺がツッキーに駆け寄ろうとすると、ツッキーも俺に気付いた。
そして、カツカツと早歩きでこちらに近づいてくると、
そのまま俺の手首を掴み…球場外へと出た。
半ば引き摺られるような恰好で、市街地へ向かう。
ツッキーが足を止めたのは、人気のない雑居ビルの、
地下駐車場へ降りる、非常階段の下だった。
廊下のダウンライトの灯りも届かない、暗い壁面。
少し乱暴に俺をその壁に押し付けると、すぐさま「ドンっ」と…顔の横にツッキーの両腕。
後ろは壁。前はツッキー。
俺は囚われたことに対する本能的な恐怖を感じ、
球場からずっと出せなかった声を、更に飲み込んだ。
ツッキーの頭上で、淡く光る緑色の灯り…
非常口に駆け込む『緑色の人』が、『逃げろ』と俺を誘う。
俺を捕らえて固まっていたツッキーが、項垂れていた頭を、少しだけ上げた。
ほんの少し見えたその顔は、まさに苦悶といった表情で…
俺は『恐怖』と『緊張』、そして『逃走』を捨てた。
俺から力が抜けたのを感じたツッキーは、
壁と両腕で俺を閉じ込めたまま…貪る様にキスをした。
足りなくなった何かを、精一杯補うように。
限界を突破した自分を、引き戻すかのように。
誰も居ない、暗い非常階段の下。
互いの息継ぎと、触れ合う唇の音だけが、その場を支配する。
いつもよりずっと激しい…何もかも吸い尽くされそうなキス。
酸欠で霞む視界の隅で、非常口の『緑色の人』が、
俺を置いて…遠くへと走り去って行くように見えた。
徐々に、ツッキーの拘束が緩くなってきた。
俺は静かに両腕を伸ばし、ツッキーの背をゆっくり撫でた。
ツッキーは漸く俺を唇を解放し、その頭を俺の肩口に埋めた。
俺は背中を撫でながら、小さな声で問いかけた。
「次は…『二人だけ』で観に来ようね。」
「…あぁ。」
「俺も、もっとじっくりプロ野球観戦を楽しみたいんだけど…
ツッキーのハマった『セイバーメトリクス』…俺にも教えて?」
「概要だけで一晩かかるけど、それでもいいなら…」
「ところで、ツッキーの『上』にいる、非常口の『緑色の人』…
『野平緑之助(のっぺらろくのすけ)』の研究者もいるの?」
「あ…あの人は、『ピクト』さん。研究者は世界中にいるし、学会まである。」
「それじゃあ、甘い物でも食べながら…『ピクトさん』の考察でもしよっか?」
「その食事代と次回のチケット代その他諸々を全部含めて…
『兄上様』に請求書を送っておこうかな。」
これで、ツッキーへの質問は…4つ。
明光君直伝の『男性の機嫌を直す方法』は、『5つのイエス』。
5回の『イエス』…肯定的な答えを繰り返させることで、
肯定的な雰囲気、すなわち『喜び』を自然と引き起こす方法だ。
半信半疑だったが、確かにツッキーの返答は字数も増え、『いつもの調子』を取り戻してきた。
纏う空気の温度も上がり、少し和んできた。
俺は、5つ目…最後の『イエス』を貰うべく、
撫でていた背を、ぎゅっと『わしづかみ』して訊いた。
「今日やっと訪れた『好機』だから…さっきの、もう一回…」
- 完 -
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※機嫌(譏嫌)→譏(そし)り・嫌(きら)うこと。
『人が不愉快に感じる言動は慎みなさい』という戒律。
のちに『機』が心の動きを表す意味を持つことから、機嫌・不機嫌という表現が派生したそうです。
※ピクトさん→
※ラブコメ20題『07.不機嫌な理由は教えられません』
2016/03/08(P)
: 2016/09/10 加筆修正